光無きの道(鬼)
試合終了を告げるゴングが響く。
勝者を告げるアナウンス。湧き上がる歓声。慌ただしくリングに上がる医療スタッフ。闘う者のみが上がれるはずの不可侵の領域が汚される。
あらゆる感情が渦巻き、奏でられる騒音。だが俺の耳には届かなかった。まるで遠くで鳴っている雷のようだ。セコンドの一人がタオルを俺にかけ、リングから降りるように誘導する。
「会長、どういうことすか。」
「これからの若ぇ奴に花持たせてやってくんねぇかって。
お前の夢のための根回しの一つだって。なにも負けてくれって言ってるわけじゃねぇんだよ。」
所属ジムの会長から持ち掛けられたのは八百長だ。次の防衛戦、負けろとは言わない、だが手を抜け。
交換条件は総合格闘技の世界への切符。その世界へ行くのならばキックボクシング界に未練はないだろうと。であるならば後輩に土産を置いて行けと。
「……無理すね。そういうの得意じゃないす。」
「お前なぁ、だから強ぇのにファンが付かねぇんだよ。
ファンサービスも仕事の内だ。そして試合を湧かせることもな!」
兵跡レイ。キックボクシング4階級制覇。前人未到の強さを誇りながら試合運びに派手さはなく、淡々と戦うアウトファイター型。ほとんどの試合がTKO勝ち。人気が出そうなものだが、試合内外でもほとんど喋ることは無く、笑うこともない。
寡黙なその男についたあだ名は「沈黙の兵士」。面白みのない男。ただ闘うこと、勝つことにしか興味を示さない男。
その試合は第一ラウンド、開始から数秒、まさに瞬殺で終わった。
相手は人気急上昇中の男。弱いわけではないが派手に立ち回り「魅せる」技を好む若き闘士。格闘家に似合わぬ甘いマスク、そしてショービジネスを心得ているその男はキックボクシング界のホープだった。
通常なら第一ラウンドは探り合いのように相手を見定め、ポイントを稼ぎ、そして自身の身体を温める。
だが若き闘士は、兵跡が八百長の話に乗らなかったことが面白くなかった。「オワコンなんだから、さっさと若いやつに道を開けろよ! そっちがその気なら」と、開始のゴング早々に初手から仕掛けた。ストレートパンチに見せかけ親指で兵跡の眼を狙う。明らかな反則行為。だが見え見えの攻撃。視線も動きも気も、すべてが見え見え。ブラフもフェイントも何もない。しいて言うなら一手目から突撃ということだけ。
ゴングが鳴った瞬間から兵跡に油断はない。僅かに頭部をずらしそのままインに入る。掠めた親指で目尻が切れ鮮血が飛ぶ。がら空きの脇腹にフックを捻じり込む。
もろに入った。しかも打たれる覚悟のない状態。一発で若い闘士はリングに沈んだ。
内臓破裂。搬送先の病院にてその男は死亡した。
兵跡はその試合の夜に、キックボクシング界からの引退を表明する。
そこまではいい。相手を死なせてしまった償い、試合にならない強き者が強きままに去る引退劇。だが兵跡はそのまま総合格闘技への転向を口にした。
当然に世間の反応は否定的だった。人一人が死んでいるのだ。マスコミはここぞとばかりに兵跡をヒールへと書き立てる。流れに乗った週刊誌が兵跡が所属していたジムの裏へと執拗に攻める。八百長とまで言わなくとも、興行を盛り上げるためなら多少のことはある。
痛くもない腹を探られぬために、ジム存続のために会長は兵跡を売った。
ここまでくると引退後の兵跡を囲おうとする新たな団体もなく、そしてスポンサーも付かなかった。
所詮は金と政治の世界。強かろうと格好良かろうと、金にならなければ意味がない。縦横に利潤が無ければ協力も得られない。
無所属で総合格闘技界へと挑戦を始めた兵跡。そこへ奇跡的に、いや物好きな一つの企業がスポンサーについた。とはいえ兵跡と試合を組もうとする者は少ない。相手にするには世間体が悪い。中には売名行為で挑んだ者もいたが、ことごとく返り討ちにあった。
グラウンド(寝技)に持ち込めば勝てる。腕を取れば、投げれば、極めれば勝てる。タックルで倒しマウントを取れば勝てる。だが兵跡はそういった者を寄せ付けず全て撃ち落とした。
兵跡のファイティングスタイルは、キックボクシングから変わらなかったが、KOで終わらせることが多くなっていった。兵跡の蹴りは「死神の鎌」と畏怖されるまでになった。
あいつと闘えば命すら刈られかねないと。
強さを求め、闘うことを目的として進んできた結果、闘うことができなくなった。
誰も兵跡と闘いたがらない。大会に出るには金も政治力も足りない。強さだけでは、闘争心だけでは進めなくなった。
まるで夜の砂漠のようだ。何もない。光もない。熱もない。音も何もかも、生きているものがそこにはいない。進んだ先には闘いがない。
総合格闘技に転向してから4年後。兵跡は忽然と姿を消す。だがマスコミはおろか誰もそれに気を止める者はいなかった。
元々は孤児院の出身。天涯孤独な兵跡の行方を追う者は、身内すらいない。
名誉や地位は必要ない。金も食ってく分だけあればそれでいい。ファンも歓声も何もいらない。闘えればそれでいい。対外評価などどうでもいい。純粋に己の身一つを極めればいい。
そんな兵跡が行きついた先は闇格闘技の世界だった。
あてもなく渡米した先でトラブルに巻き込まれた。正当防衛にしては行き過ぎた行為だったかもしれない。数人のごろつきを倒した直後に地元のマフィアに見初められた。純然たる闘争心。
ボディーガードの話もあったが断った。純粋に闘える格闘家の道へと、新たな世界へと進む方を選んだ。
ルールはいたってシンプル。
相手を戦意喪失させるか戦闘不能にすれば勝ち。そこには当然、死も含まれる。
武器等の使用は不可だが急所への攻撃等の禁じ手はない。体重等による階級もない。戦歴でランク付けはされているが、それはあくまで強さの目安。目の前の相手と闘って勝てばいい。勝った方が強い。ただそれだけのこと。
闇格闘家としてのデビュー当時は当たり前に無名。周囲の格闘家から見れば小柄な東洋人、見世物のような存在。故に見た目で格下扱いされオッズが高かった。が、戦歴を積み上げる中で瞬く間に上位ランキングへと上がっていく。
上位ランキングになることによって囲っていたマフィアには掛け金によるうまみは減っていった。たがそれまでに十分すぎるほどの儲けを与えた。それに兵跡は無欲だった。マフィアとしては扱いやすい。ただ試合を組んでやればいいのだ、この男には。
この世界には表社会のように「闘う相手がいなくなる」ということは無かった。賭け格闘技とは言っても所詮はそれも表のこと。マフィア同士で賭けをすればいいだけの話なのだ。「うちの兵跡を倒せたなら麻薬ルートの一つを嚙ましてやる」、餌をまけば欲につかれた連中がやってくる。仮に負けたとしても余興に過ぎない。そんな世界。
ありとあらゆる格闘家と闘い、そして勝ってきた。経験値が積みあがってきた。
時には熊と闘わされるようなこともあったが、闘争本能が素直なだけに苦戦するようなことは無かった。
闘って闘って、飽くなく闘って満たされるはずが、満たされることはなかった。
兵跡は常に乾いていた。ここは夜の砂漠か。
「やっと見つけたよ、兵跡君。」
「……、
Who 誰だ。」
久々に聞く日本語だった。馴れ馴れしい男。好奇心の塊のような表情。記者だろうか。
スラム街のこんな場末の食堂には似合わない男だ。平和的すぎる。
「日本ではスポンサーだったんだけどね。会うのは初めてか。
何度か食事に誘ったはずなんだけども。」
向かいの席に座り、名刺をテーブルに置く男。確かに日本でのスポンサーだった会社だ。
男の言う通り、何度か連絡係のような男を通じて食事に誘われていたように記憶している。そういう場は苦手だからと断っていたのを思い出す。
「……。」
「日本に戻る気はないかな?」
「今更あの地に用はない。満たすものがあるとは思えない。」
「そうかな? 現に今もここで満たされているわけではないのだろう?」
「……。」
「断るとは思っていたけれどもね。
でも君はもう断ることができない。」
「……、どういう意味だ。」
「明日の試合、対戦相手を出すのは私なんだ。
君のいる組織に話を持ち掛けた。私の方が勝ったら君を売ってくれとね。」
「大した自身だな。」
男が覗き込むように身を乗り出し、真っ直ぐ見つめてくる。
「私はね、君のこの世の絶望を凌駕するその闘争心が欲しいんだ。
明日、君は知ることになる。その絶望の先にまだ道があることを。」
そう言い切った男、枯野と名乗る男の眼。
そこにあったのは絶望よりも深い闇だった。その先にあるもの。それは何なのか。
次の日の試合で俺は、人外な圧倒的狂気に骨を砕かれ肉を切られた。
もう修羅の道以外に進む先がないことを知った。




