握り飯(幕間)
小高い山の頂上付近。そにある公園に一人の老人が佇んでいた。
白髪を長く伸ばし後ろで束ねている。髭も髪と同様に白く、夕日を受けて朱に染まっていた。
「ふむ。」
白髪の老人が短く呟く。
その公園は街全体を一望出来た。今宵はこの街で行われる大きな花火大会がある。例年であればこの場所は、花火観覧の裏スポットとして地元の若者達で賑わう場所だ。がしかし、少々時間が早いとはいえ白髪の老人以外に人気は無い。
間もなく黄昏時、つまりは逢魔時。徐々に街のあちこちに明りが灯り、車のヘッドライトの明かりが瞬き始める。街が一つの生命体のようにその姿を現し始め、脈動し蠢く。
「ふむ。」
再び白髪の老人が短く呟く。
「今宵は荒れそうじゃな。」
朱より紫に染まり始めた空に一つ二つと星が輝きだす。老人が見上げた空は晴天。天候が荒れる様子はない。僅かに風が吹くのみ。
この刻を幾星霜、重ねてきたことか。
今更、侘しさを感じるような心は費えている。何度も何度も繰り返してきたことだ。
「御屋形様。」
壮年のスーツの男が現れ、静かに白髪の老人へと声をかける。
「県警に無闇に干渉せぬよう、日常業務を全うするよう要請を完了しました。また各所には山柴の者が指揮を執るよう手配済みです。」
「うむ。
県警本部長はなんと? 彼は素直に聞くようなタイプじゃなかったろう。」
「えぇ。「今こそ報恩する時、前線指揮を執る!」と息まいていましたが、全力で日常業務を執るよう指示いたしました。」
「日常、それも大事なことじゃからな。民間のことは我々民間が処理すべき、故に我等在りだ。
公には公の責務がある。それで、報道機関の方は?」
「すでに掌握済みです。」
「ふむ、ご苦労。」
白髪の老人の一言に、壮年は一礼しその場を後にする。
再び老人の周囲に静けさが戻る。涼しげな風が木の葉を揺らす。
山柴家の者はあらゆる公的機関の要職に籍を置く。末端に至っても親戚縁者が多い。そして政治にも深く関与している。だが山柴家はあくまで民間であり続ける。公的機関になれば大きく動くことも出来よう。だがその分、足枷が付く。対応速度が遅くなる。利権は利用こそすれど、利権に利用されるわけにはいかないのだ。
また報道やマスコミなど、世に対して情報公開はしない。これは一貫して昔からの決まり事である。何故ならば「鬼は人が成るもの」であることが理由として大きい。「人が鬼になり人に討たれる」という事実が公になれば、さらに人の心に闇を生むことになるだろう。そして闇に飲まれたものがまた、鬼となる。
鬼の存在は疫病に似ている。どこかしこで自然発生し、そして不定期に大鬼が顕れ爆発的に蔓延させる。鬼が悪意を生み、それが新たな鬼を生む。
裏を返せば鬼にならない者はいない、誰もが罹患する可能性を秘めているのだ。人に出来ることは早期に鬼を発見し鬼門を潰し人に還すこと。それが出来ぬ時は、それ以上の犠牲を出さぬように静かに屠ること。それ以外の道はない。
それ故に公に活動せず、公開せず。粛々と秘密裏に行われるのだ。
今この場も、ここへ通じる道も全て公的機関を利用し封鎖されていた。山柴の者以外にこの山頂、公園に近づく者はいない。いや、山柴以外にもう一つの影。
「ひげもじゃジジィが今更、哀愁とはなんとも。」
「儂だって少しぐらい、晩夏の風に物思いに耽ってもよかろうに。」
「今更。」
ふわりと現れた女が繰り返す。
神前に着く者の独特な和装。口元を扇で隠し感情の全部は明かされない。ただ朧気で儚い妖艶さが揺らぐ。
W&Cの実質的支配者にして日本財界の一角、千条家が筆頭、千条ヤチヨ。
代々女系で系譜を編み、筆頭は「千条ヤチヨ」を名乗る。表向きは。
「今宵は最近お気に入りの洋装じゃないんだねぇ。あれはあれで似合ってると思うのだけど?」
「なんじゃ、ヤチヨはあぁいうのが好みじゃったか?
あれは他所行き、公的に活動するときだけじゃよ。どうもあれは肩が凝って仕方ない。」
老人は視線を、夜の帳が降り始めた街中へと戻す。
妙齢の女性、千条ヤチヨに指摘された老人の服装は対照的にラフ。所謂、着流しの浴衣姿だ。
「放浪宿無しジジィにしても、洋装老紳士ジジィにしても。よくジジィの姿で飽きないもんだねぇ。
えぇ? イチモンジ。」
「若くあっても力無きとなるとな。
じじぃであることが儂には自然なんじゃよ。歯がゆさを抑えられる。」
「いい加減、慣れたらどうだろうかねぇ。」
「慣れるもんか。」
白髪の老人、山柴イチモンジは目を細め、静かにそれでいてしっかりと意思を乗せて呟く。
「なにを今更。」
千条ヤチヨが窘めるように短く再び応え、イチモンジの横に並び街を見据える。
「表の首尾は。」
「上々。余計な横槍は入らんじゃろ。
何処に現れようとも自然を装って最小限に抑える手筈は整えておるよ。」
イチモンジが独り言のように応える。
視線の先は、闇と瞬きのコントラストがより強くなってくる街並み。毛細血管の様に光の粒が網の目に流れゆく。細胞の一つ一つが生命であり個を形成するならば、個の集合体となったこの街並みも一つの生物。今宵の不穏な空気に知らず震え往く。
「それにな、浦島の倅が良い働きをする。」
「千条家の方は気になる処に一箇所、局地的に展開させたよ。
それと裏稼業に情報を流している。「蛇の道は蛇なり」さね。」
「人の世を護るは人か。」
二人の前を横切るように一つ、大きな風が通り過ぎた。両人の裾がはためく。
「……、動いたか。
それにしてもヤチヨ、この度はちと性急な動きではないかのぅ?」
「四十九日、早すぎることはあるまいよ。前回が長すぎたぐらいさ。
それにね、今生の桃太郎が覚醒封印した日から数えれば、月日は妥当だろうよ。」
「そういう意味では今生は異質じゃな。」
「それも我々が望んで導いたことだろう? 悩み多きは、人として成長している証だよ。」
「ふむ。それに伴って一つ気になることがあるんじゃが。
大鬼の動きが桃太郎に合わせているように感じる。大鬼も変化するか。」
「さぁ、どうだろうかね。
万物流転の理から離れるものはいないのかもしれないねぇ。」
「離れた身としてはどうとらえればよいものかのぅ……。」
「我々とて変化はしているんじゃないのかい?」
「流れる川のようじゃな。
同じに見えて同じ水に非ず。見る儂らが変わらぬと思うとるだけか。」
「ふふ。一緒にするんじゃないよ、イチモンジ。」
「なんじゃ? 儂だけか、想いが変わらぬは?」
イチモンジが嗤う。
「あぁ、戦の前にヤチヨの握り飯が食べたいのぅ。」
「味もわからぬ身になりながら毎回言うね、このいやしんぼジジィは。」
「味がわからぬとも、作り手の心はわかるつもりじゃよ。」
ヤチヨが持っていた包みをイチモンジに渡す。
イチモンジが視線を包みへと落とし、慈しむようにそれを開く。
「さて、今回は何を漬けたか。」
「大根の葉だよ、漬物は。」
「必ず漬物を添えるのは変わらんな。」
「茶化すんじゃないよ。」
ヤチヨが視線を街中の一点に定める。
変わる浮世に在って変わらぬ想い。今宵もまた全てが終わり全てが始まる。変わらずに。




