焼きそば(幕間)
バーカウンターを照らす光の筋が際立たせるように、手元からゆっくりと紫煙が昇る。
一口、特に吸いたいと思って着けたわけじゃない煙草の香りを肺に入れる。溜息の代わりに煙を吐く。
ロックグラスを傾け、琥珀色に口をつける。熟成された香りがその色を裏切らず静かに主張し、香りが入れ替わる。煙草を消し瞑目し、暫しその琥珀の香りの、余韻に身を預ける。
俺はなんで強くなりたかったんだっけか。
絡んでくる奴がウザかったからか。うるせぇ先公や大人達に抗いたかったからか。ただ自分の我を通したかっただけか。俺が世間を知らねぇガキだったからか。
そんな俺でも慕うダチや後輩ができてきた。居心地のいい場所が出来てきた。
守りてぇ仲間がいる。守りてぇ場所がある。
守りてぇから強くなった。強さで勝てなかったら数を増やした。それでも駄目なら非道なこともした。
本当に守りたかったものは何だったか。
ヒビカの笑顔が脳裏にちらつく。ヒビカが俺を呼ぶ声が脳裏に木霊する。
最初は自分の見える範囲だけ守ってればよかった。ヒビカの笑顔を曇らすような奴だけ退ければよかった。ただ数に頼るうちにその範囲が広がった。守らなきゃいけねぇ場所が増えてった。守らなきゃいけねぇ仲間が増えてった。
増えれば増えるほどやり返された。やられたからやる。やられる前にやる。やったからやり返される。堂々巡りを繰り返してまた守りてぇものが増えていく。
繰り返し繰り返しの螺旋の世界だ。
やるのが目的なのか守るのが目的なのか有耶無耶になった頃に、一番守りてぇヒビカに害が及んだ。
ブチ切れた俺はやったそいつらを半殺しにした。最早、俺の出来る範囲、守れる範囲を超えていた。それを認めたくねぇからやり続けた。
「ヨウちゃん別れよっか。」
ズタボロの俺を見てヒビカは言った。
「私は大丈夫。この子たちは私が守るから。」
自分の女に言わせたくねぇ言葉を、なんで俺から言わなかったのか。
「自分を捨ててまで私を守らないで? 私はそんなに弱くないんだよ?」
簡単な話だ。本当に守りたかったら、この螺旋の世界から降りればいいだけの話だ。
俺は今更引けねぇ螺旋の世界に残る選択をした。やった代償を支払わなきゃ治まるわけが無かった。
それだけ無茶苦茶にしてた。俺の命一つで治まるような話じゃなくなってた。
それからの俺は守れる範囲、自分の手の届くところだけで生きてきた。
幸か不幸か、それまで俺がやってきたことが抑止力となっていた。早々俺のいる場所に手を出そうって奴はいなくなった。
それでもま、オヤジが隠居だの若造がしゃしゃり出るのが面白くねぇだのと、茶々入れてくる奴がいるわけだが。それはこの螺旋の世界にいる以上、避けられるわけがねぇってだけの話だ。
そんな螺旋の世界にヒビカが残したものを、命がけで残したものを再び乗せるつもりは無かった。
因果なもんだ。
俺が進んできた道が正しくねぇってことぐらいわかっちゃいる。
今更引き返す道、降りる道がねぇってことも。
この螺旋の世界を「必要としてる」バカな奴らがいるってことも。
そしてその世界でしか生きられねぇ、もっとバカな奴がいるってことも。
「遅かったかしら?」
「いえ。早めに着いたから先に一杯やってただけです。
お久しぶりですね、千条さん。」
千条が流れるような仕草を緩やかに停止させ、隣に座る。
まるで枯れ葉が自然の理に合わせてゆっくりと地面に落ちるように、バーテンダーがカウンター越しにコースターを静かに置く。
「彼と同じものを。」
バーテンダーが無言で応じる。千条の前に置かれたロックグラスに琥珀色の酒を注ぎ、一礼してその場をごく自然に離れる。
「相変わらず美しいですね。」
「誉め言葉としてではなく、忠告として聞いておくわ。
貴方は、変わったかしら?」
「どうですかね。
幾分かはガキ臭さが減ったとは思っちゃいますが。」
千条がグラスを傾け、口に付けることなく仄かに立ち上る香りに耳を傾ける。
「彼から連絡が来たわ。連絡先、渡してくれたのね。」
「そっちの事情に関しちゃ専門外ですからね、」
グラスに手を伸ばし一口つける。
「倅預けて見返りに仕事貰ってる身としちゃあ、本人の選択に委ねるしかありませんよ。」
「彼はそういう天命なのだから、貴方が責を感じる必要はないわ。」
「天命、ですか。」
「人は誰もが役割を持って生まれるわ。それが天命。
それを自覚するしないに関わらずね。
そしてその役割を演じる演じないのはその人の選択。
それを周りが阻むのも勧めるのもまた、ね。」
自分が螺旋の世界に身を置くことが天命だとは思っちゃいない。
ただ、「役割を演じる」という言葉はしっくりくるものがあった。
俺は演じている。
演じ続けることを選択している。自分の意思で。
「倅は上手く演じられますか。」
「それを導くのがわたしの役割よ。」
千条が手にしていたグラスをコースターに置き、虚空を見つめる。
「そういやぁ、あの射的の上手い子。
あの子は千条さんとこの子ですか。」
「誤魔化すつもりは無いけど、旧組織の方の所属ね。
管轄外というわけではないから支援は行っているけれど、直接の指揮下にはいないわ。」
「いい腕してる。
あの子が倅のそばにいるってなら安心だ。
まぁ、矢文には流石にうちのもんが騒がしくなりましたがね。」
「仕事熱心な子なんだけどね。少しずれてるのよ、あの子は。」
千条がこの横に来て初めて笑った気がした。
「話のついでというわけじゃないのだけど、『豆』の販路はあるかしら?」
「豆、ですか。
いいですよ。千条さんから頂ける話ですから。」
販路がある、ないではない。出来る、出来ないではない。やるかやらないかだ。
「これからの支払いの関係上、受けてくれるのは助かるわ。
もちろん豆をさばきたいというのもあるのだけれど。」
つまり今迄の仕事が増える見込みがあるつぅ話だ。
俺らの仕事が増えるってぇことは、鬼絡みのことが増えるってことなんだろうが。
まったく、因果なもんだ。
「じゃあ、行くわ。」
千条が短く断りを告げて立ち上がる。口を付けなかったグラスの氷が静かに音を鳴らす。
「彼に同じものを。
それと、あそこのあの方にはビールかしら?
先程の仕事の件に関しては後日、連絡するわ。」
「連絡は矢文とか、厳つい外国人にポケットティッシュを持ってこさせたりはしないでくださいよ。」
「考えておくわ。」
千条が静かな微笑みを残してその場を後にした。
千条が立ち去ってからややして、同じ席にビールが置かれ、島が腰掛けた。
「若頭、あの人は何者ですか。」
普段寡黙で動じない島が焦りの表情を浮かべている。職業柄、やべぇ存在は肌で感じる。
そりゃそうだろう。俺が初めて千条に会った日、ヒビカの葬儀の日はそうだった。
葬儀場に入らなかった俺を呼び止めて「遠い親戚筋」だっていう話も、今となっちゃ語ってただけだってのがわかるわけだが。あれは「人」じゃねぇ。人のなりをした何かだ。
煙草に火をつけ、深く仕込む。
「ありゃ人じゃねぇよ島。魔女だよ魔女。
祭りの次の日に境内の切られた木の後始末とかあったろ。あれも千条さんからの依頼だ。」
「すみません。動けませんでした。」
「気にすんな、島。別に取って食われるわけじゃねぇ。
お前にそろそろ俺が抱えてる仕事を振ろうかと思ってな。今日は顔合わせってとこだ。
差し詰め、豆の販路だな。量も種類もわからんからあれだが、いくつか当たっとけ。」
「はい。」
島が目の前のビールを一気に飲み干す。
「焼きそば、が食いてぇな。
今日は上がっていいぞ、島。」
「では若いやつに車の方を……
いや、すみません。お先に失礼します。」
「おう。」
一礼し無言で島が席を立つ。
ロックグラスに残った琥珀色の香りを喉に流し込む。
螺旋する世界がまた、ゆっくりと回りだす。




