レーズンバター(幕間)
どれぐらいの時間が経ったのだろうか。
だが、ロックグラスの氷の解け具合からさほどの時間が経ってはいないことがわかる。体感時間では1時間近く沈黙が続いていると錯覚していた。それぐらいの重たい空気がその場を支配していた。
「失礼します。」
その沈黙を破るように、いや実際のところは正しいタイミングでこの部屋の扉が静かに開く。
店の従業員であろう黒服が一礼をして入室し、アイスペールを新しいものと交換し、そしてテーブルの空いたスペースに美しく装飾の施された器を、ゆっくりと置いた。
「先生。これね、うちの店のお勧め。
レーズンバター食べれる? 手作りなんだよ。これがまた結構、評判がいいんだ。」
壇之浦はクラッシュアイスの上に盛られたレーズンバターを勧めつつ、自らも一つ口にした。
正直なところこの重たい空気に遠慮したいところではあったが、ここに一種の友好的な糸口があるのではないかと、促されるままに手を伸ばした。
「いただきます。」
上品、というよりはどこか懐かしいような、人を安心させるような優しい味わいだった。
この緊迫した重さを、自分の置かれている状況を忘れさせるような甘く、冷たい味わいだった。
「うまい…、ですね。」
「だろ?」
壇之浦が柔和に微笑む。これがこの男のやり口なのだろうかと頭の片隅で思ったが、精神的に抗うことは出来なかった。
「島、あれ取って。」
おもむろに、それでいて自然な会話の流れのように壇之浦が呟く。
島と呼ばれた、壇之浦の後ろで寡黙に佇んでいた男が歩み、何かしらのインテリアのように飾ってあった盤をテーブルの上に置く。グラスを手に取り少し薄まったウィスキーを喉に流し込みながら、その一挙手一投足から目を離すことが出来なかった。
テーブルの上に置かれた「それ」は何なのか。木目の美しい台座に張り付けられた金属のプレートには、抽象的で幾何学的な模様が刻まれていた。普通にオブジェ、何かしらの文様が刻まれたレリーフにしか見えない。
だが壇之浦は「それ」には触れず、10円玉を取り出して器用に真上へと弾く。
微弱な金属音の後、再び手の内に収まった10円玉をテーブルの上に短い音を立て置いた。
「まず表の話から。」
そう言いながら、置いた10円玉を先程の6枚の横へと進める。
「先生の読み、間違っちゃいないよ。
一連の騒動と行方不明者多数の事件、にもかかわらず世の中にそれほど報道されていない不自然さ。
それにしたってまぁ関係者っていうか、親族だとか騒ぎだしそうなもんだよね、普通ならさ。
それ以外の誰か、気づく人もいるだろうしね。」
「そのうちの一人が自分、と言ったところでしょうか。」
「部外者、って意味で言えばそうだろうね。」
部外者。余計なところに首を突っ込む者、触れるべきではないところに触れる者、か。
「そういう漏れた人たちを相手する、それを請け負ってるわけだな。うちらは。
そこんとこはわかってもらえるでしょ?」
ほぼ水に等しいグラスの中に残ったものを口にする。
それが壇之浦には話の肯定と受け取ったのだろうか。自分の置いたグラスに氷とウィスキーを継ぎ足した。
「次、裏の話だけどね、先生。」
壇之浦は裏にした10円玉をテーブルの上に置く。8枚目の10円玉が足される。
「こんなやり取りはね、俺らが生まれる前から続いてんだよ。
時代が進めば進めほど情報化社会、オープンな社会に表向きはなっちゃいるが、隠蔽ってのはそれだけ厚くなっていく。表の陽が強くなるほどに落とした影は濃くなっていく。」
壇之浦がまたレーズンバターを一つ口に入れ、器ごとこちらへと勧める。
そして壇之浦は喉を潤うすかのようにグラスを傾け、一口、二口と飲む。
その姿を見ながら、勧められたレーズンバターを口にし次の言葉を待つ。
「つまりはだ。人は生まれて死んで世の中の関係者ってやつは変わっちゃいるが、変わらない不条理ってのもある、つう話だよ。
隠すとか隠さないとかじゃなく、知らない方が幸せな事実。知らなくても変わらない日常が表の目の前にはあって、知れば不幸になる裏の実情。
先生ならどっちを取るの。一般的には幸せを取るよね。」
その言葉に強制的な意味合いは含まれていないような気がした。
確かに目の前に幸せがぶら下がっているのならば、取らない者などいないだろう。でもそれが正しいのだろうか。それが真実ではないとしてもそれを取るべきなのだろうか。
それについてはわからなかった。
ただ真実を知りたい。それが身を亡ぼす好奇心だとしても好奇心に抗うことが出来ないのもまた、事実ではないだろうか。
「わかりません。
ただ、ここに来たことは間違ってなかったように思います。」
「ははっ。先生は正直者だねぇ。
確かにね、己の身一つってぇならそれで間違っちゃいないんだろうけどね。
雉も鳴かずばってさ。あれ、撃たれるのって鳴いた雉だけなのかね、先生。
周りの鳥はどうなんだろう。」
おもむろに壇之浦が柏手を一つ打つ。
その音に心臓が跳ね上がる。
「一発目の銃声で飛び上がった鳥どもは、どうなるんだろうね。」
一気に背筋が凍り付いた。
場違いにもほどがある。ここに来たことは間違いじゃない、そう言い切れるのだろうか。「こんな結末になるなんて知らなかった。」そんな言い訳が通用するのだろうか。
無意識に目の前のウィスキーを喉に流し込む。焼けるような刺激に救いを求める。
そんなこちらの心情を見透かしたかのように、空いたグラスにウィスキーが足される。ご丁寧にもチェイサーまでがその隣に置かれる。壇之浦のその動きはまるで、自宅で一人酒を傾けているかのような自然な流れだった。
壇之浦がテーブルの上に10円玉を立て、指で弾く。勢いよく独楽のように10円玉が廻る。
「表、裏、表、裏。
表だの裏だの言ったってね先生。所詮は表裏一体。廻り続けているだけで大した変わりはないですよ。
車のボンネット開けるじゃないですか。そしたらね、色々とごちゃごちゃ入ってる。エンジン、バッテリー、ウォッシャー液のタンク。そこまでならまぁ、大体わかる。
でもね先生。一つケーブルをつまみ上げてみてさ、それが何なのかわかりゃしないわけだよ。どこにつながってんだか、どんだけ大事なのかさ。でもそんなの分からなくたって車は走るんだよね。」
音を立てて壇之浦が廻っていた10円玉を叩き伏せる。乾いた音が効きすぎる冷房に冷やされた室内に響く。
「裏を覗いたところでね、先生。そいつはシステムに過ぎないんだよ。世の中が廻るためのね。
あぁこれ、表の話ね。」
そう言いながら壇之浦は止めた10円玉を、表になっている10円玉を押し進めた。
間をおいて壇之浦が抽象的なレリーフの施された、インテリアとして飾ってあった盤を手元に寄せる。
先程、壇之浦の背後で黙して立つ、島と呼ばれた男が置いたものだ。
「これ、いいでしょう。特注品なんだ。」
壇之浦はまるでおもちゃを自慢する子供のように、それでいて独り言かのように呟く。
壇之浦はその盤の上に、裏になった10円玉を文様の刻まれた金属プレートの上に置いた。
壇之浦は視線をその10円玉に置きながら話を続ける。
「表、裏、表、裏。
じゃぁさ先生、裏の裏って何だと思う?」
答えることが出来ない。答えなど最初から期待されていない。独り言の延長線上のように壇之浦は話を進める。10円玉の上に指が置かれ、前後に動かし始める。
「裏の裏ってのはさぁ、先生。身を削って見る場所だよ。」
あぁ、この金属プレートの文様はヤスリの刻みだったのか。
削られた10円玉の粉が、赤銅の光が鈍く広がってゆく。ゆっくりと削られていく重苦しい音が空間を支配する。ゆっくりゆっくりと、身体が削られていく。
壇之浦の指先に伝わっているだろう摩擦熱を自身の身に感じ、顔が歪む。
「そこに映し出されるのはさ、何だろうね?」
壇之浦が削られた10円玉を取り上げ、削られ磨かれた赤銅色の鏡面をこちらに向けた。
そこに映っているのは、恐怖に歪んだ顔だ。
壇之浦は静かにその10円玉をテーブルに伏せ、最後の、10枚目の10円玉を押し進めて並べる。
もうその並んだ10円玉から視線を外すことは出来なかった。
「いくら10円並べたって、これまでの時間から考えたら割に合わないよね。」
壇之浦が静かに手をあげる。音もなく声もなく後ろに立っていた男から帯のついた札束を受け取り、今迄調べてきた資料の上に置かれる。確認するまでもなく100万円の束だとわかる。
「これね、ここまでの駄賃。10円玉が10枚分。
ああ、最後のやつは半分になったろうけどさ、それはま、心付けってやつだね。」
壇之浦が立ち上がり扉へと向かう。先回りするように終始黙していた男が先に出て扉を開けて待つ。
「先生、飲んでいくかい? 会計は気にしないでいいよ。
指名したかった子は残念ながら今日から休みなんだ。今回のボーナスでどっか旅行でも行ってこいっていったらよ、サラサスーンだかどこだかわかんねぇけど、最近読んだ小説が面白かったとかでペルーに行くんだとさ。最近の若い子はわかんないよねぇ、ハワイだとかグアムだとかじゃないんだよね。
ま、他にもいい子たくさんいるからさ、好きな子つけてよ。」
「いや……、
これ飲んだら帰ります。」
金属プレートの上に広がった、赤銅色の粉から目を離すことが出来なかった。
「あ、そうそう。」
壇之浦が出ていく直前で、思い出したように付け足す。
「先生ね、事務所に飾ってある娘さんの写真。
裏に名前だとか連絡先書いてあるの。あれ駄目だよ。物事の裏側まで見ちゃう連中がいるわけだからさ。」




