スコッチウイスキー(幕間)
短く流れていくクラクションの音。車の走行音。スマホで会話する人の声。
自動ドアの開閉音。店員の取ってつけたような明るい呼び声。街路樹を揺らす風の音。
どこからかBGMのように鳴る広告の曲と声。信号が変わったことを知らせるメロディ。
何か楽しいことでもあったのか、いやそれ自体が楽しいのか、自己中心的な若者の騒ぐ声。
一緒くたに耳に届く繁華街の喧騒が、タクシーのドアが開くと同時に飛び込む。
「忘れ物はありませんか。」
「はい。どうも。」
最小限の愛想で言うタクシー運転手の言葉に、最小限で応える。
昼間かと思うほど人々を明るく照らす広告の液晶画面。そしてそれに対抗するかのようなドラックストアから漏れる店内からの明かり。
見渡して確認するほどのことは無い。どこにでもある、ちょっとした繁華街の風景の一つ。
なんとなく癖のように襟元のネクタイの位置を調整する。その指先に伝わる布地の感触が、曖昧だった現実と自分を繋ぎとめる。
歩きながら目的の店舗名を頭の中で確認する。5メートルぐらい先に視線を落とし、誰とも視線を合わせないように歩く。初めて訪れる店だったが、繁華街で店を探すように歩いて得することは無い。それは何処の街でも同じことだ。
「先生! どこか楽しく飲める店をお探しですか?」
キャッチは嫌というほど聞いてきたが、今の時代「社長!」だとかいうのは無いにしろ、「おにいさん」というのがほとんどで「先生」などという呼びかけは珍しい。
とはいえこの手合いには視線を合わせず、手だけで断れば大抵は諦める。
「それとも、もっと楽しいところとか? 揉みたい気分だったり?」
声が近くなる。嫌でも横目に声をかけてきた男の顔が視線に入る。
ハンチング帽を被った優男は、有無を言わせない笑顔を浮かべ、まるで旧知の仲のように肩に手を回してきた。一般的にキャッチがこちらに触れることは無い。心の中で警告音が鳴る。
「それとも。
もっと刺激的なところが好みだったりしますかね? 先生?」
ハンチング帽を被った男の柔らかく肩に回してきた腕が腰の方へと下ろされる。手慣れた動き。
無駄な抵抗はせずその男の誘導に従う。ここで騒ぎ立てたところで良い結果に結びつくとは思えない。
『好奇心は我々を未来への衝動と掻き立てる。だが過ぎたる好奇心は身を亡ぼす。』
そんな言葉が頭の中をよぎる。
ハンチング帽を被った男に促されるまま向かった先は、当初の目的だった店だ。
あながち調査は間違ってはいなかったわけだが、それは誘導されたに過ぎなかったようだ。
綿密に偶然を装ってSNSで知り合った体で店の女性従業員とコンタクトを取ったつもりだったが、所詮は自ら罠に飛び込んだ形に終わった。
向かい入れる黒服にハンチングの男は目で応え、まるで我が家のように奥のVIPルームへと向かう。
それ相応の事務所だとか薄暗い路地裏ではなかっただけましか。一気に緊張感が高まる。
「お連れしました。社長。」
「おう、下がっていい田村。あとはいつも通りでいい。
あぁ、ミチコのママがお前最近来ねぇってぼやいてたぞ。今日あたり顔出してやれや。」
田村と呼ばれたハンチング帽の男が小さく返事をし、一礼すると部屋から出ていった。
残された部屋には自分とその「社長」と呼ばれた男、そして寡黙に微動だにしない、明らかにこの店の黒服ではない男がそばに立っているだけだった。女性従業員が横にいてサービスする店だったはずだが、この場に女性の姿はない。
「まぁまぁ、そう硬くならずに。座ってくださいよ作家先生。」
長いソファーの中央に座る男はそう言って、正面のソファーへと促した。
言葉は柔らかだったが、有無を言わせぬ重みがそこにはあった。
「先生などでは……」
そう言いながら正面に座る。ここまで来たのならば従うほかない。
いくつかの修羅場、危ない橋を渡ってきたつもりだったが、そんなものは何も意味をなさなず、一気に経験が吹き飛ぶ。室内は寒いぐらいの冷房が効いてはいたが、嫌な汗が背中を伝う。
「お名前で呼ぶことは望んでいないでしょ?
私のことは存じ上げているようですが、それはお互い様でしょうし。」
そうだ。目の前に座るこの男はこの辺りを治める笠仔組若頭、壇之浦ヨウコウ。
実質ここ一帯のトップであり、最近本家直参となった次期笠仔組々長と目される男だ。
威厳、とまでは言わないが、こうして目の前にすると何かしらの威圧のようなものを感じる。
「先生はテネシーの方が好みでいらっしゃるようですが、どうしますか。」
壇之浦が自らロックグラスを取り、アイスペールへと手を伸ばす。
横目で卓上に置かれたボトルを確認する。スコッチウィスキーのそこそこの銘柄。
ウィスキーの代名詞のようなわかりやすさと、それなりの価格で考えればこの店に沿ったものなのだろう。
「同じものを。」
ここで睡眠薬だとか、あるいは毒薬なんかを盛られる可能性は無いだろう。そんなことをするつもりであれば、すでにここに来る前に自分の命はなくなっているはずだ。余計な手間をかけさせても得することはない。本題への近道を選ぶ方がいい。
壇之浦は頷き、二つ目のグラスを取り、氷を入れてダブルで注ぐ。
ごく自然な動きで片方のグラスが目の前に勧めらる。溶け始めた氷が小さく鳴る。
お互い黙ってグラスを取る。壇之浦はこちらから視線を外すことは無い。
自信、あるいは意思。警戒とは違う重い視線にさらされる。
口の中に広がる、まだ冷えきっていないウィスキーの痺れと香りが、意識にノックする。
「先生の本、拝読しましたよ。」
「それは、どうも。」
「実名、実団体名を伏せられているのは、先生の配慮でしょうかね。
フィクションとして読む分には面白い。」
壇之浦が半分ほど空けたグラスを静かにテーブルに置く。
阿吽の呼吸というのだろうか。壇之浦が視線を変えずに手をあげると、傍らに黙していた男が数枚の紙束を手渡す。ここにきてやっと壇之浦が自分から視線を外す。
「D海水浴場での騒動、W&Cとの関係は
沈静化の速さと報道自粛に何が
T湖畔付近で行方不明者多数
F町の橋崩落事故、迅速すぎる処理と争いの後
旧岩狩病院の崩落事故、不自然な崩壊
頻発する行方不明者事件
一連の騒動と関係は?
鬼? 噂される民俗信仰の真偽
目撃者の曖昧な記憶、記憶操作?
F町の夏祭りでも何かの異変?
F町にいったいなにがあるのか
いずれの現場にも関係する男子大学生と女子中学生、なにか関係が?」
矢継ぎ早に読まれる資料。そこに感情の類は感じられない。だがその資料はまぎれもなく自分がまとめかけている資料だった。
細かいところを端折り題名だけ読み上げていたが、全てに目を通しているであろうことは伺える。冷静な壇之浦とは裏腹にこちらの心臓は早鐘を打つ。
この状況下で考えれば当然なことなのかもしれないが、内臓の奥まで手を突っ込まれたような気分だ。
壇之浦が考え深げに深い息を吐き、資料をテーブルに置いてこちらを見据える。
「流石は作家先生ですね。違った角度から物事を見るなら、人の視線を借りる方が面白い見え方がする。」
こちらの無言を気にすることなく、壇之浦は氷を足さずにウィスキーだけグラスに足す。
手元の持っていたグラスの氷が解け、また小さく音を鳴らす。
壇之浦は視線でグラスを置くように促した。置いたグラスにウィスキーが足される。
「先生は物事の裏側に興味がおありですか。」
「物事の裏側を知りたいと思うのは、人間の性かと。」
あえて『好奇心』という言葉は使わなかった。その言葉を使えば全て終わってしまうような気がした。
「なるほど。
昔はうちらも裏稼業なんて呼ばれ方しましたがね、今のご時世となっちゃあ表も裏も変わりはしない。これも情報化社会ってやつですか。」
壇之浦がおもむろにポケットに手を入れる。その仕草に思わず身構えてしまったが、取り出したのは10円玉。それを2枚テーブルに置く。
「ねぇ先生。硬貨の裏と表、どっちが裏だか知ってますか。」
「いや、わからないな。」
それを知っていても知らなくても会話の流れ上、大きく変わることはないだろう。
自分の漠然とした記憶を探って気を取られらるよりも、今の状況に集中する方が得策だ。
「算用数字が書いてある方が裏。まぁ5円玉にはないわけだが、ご縁に裏も表もないですからね。
正確に言えば年号が書いてある方が裏ですわ。
つまりこっちが表でこっちが裏。」
示された10円玉は一つが表で一つが裏になっていた。
表、裏、表、裏。
壇之浦はそう言いながら更に4枚の10円玉を足す。
「さっきも言いましたがね。今のご時世、表だの裏だの言ったって大した変わりはしない。
そんな事知らなくたって10円の価値は変わりゃしない。」
そう言い終わると、壇之浦はその6枚の10円玉をこちらの方へと押しやった。
テーブルの上を滑る10円玉の音が、妙に耳につく。
「ここまでがこれの価値。」
そう言って壇之浦は先程までの資料を10円玉の傍らに静かに寄せ、ソファの背もたれに身を預ける。
壇之浦は言葉を止め、ゆっくりとグラスのウィスキーを飲み干した。
堪え難い沈黙が流れたが、言葉を発する余地はなかった。
ただ次の言葉を待つより他なかった。




