水ようかん(幕間)
猛る怒り。届かぬ悔しさ。至らぬ想い。
全てを飲み込む。心を鎮める。深く深くに沈める。
海が凪ぐ。静寂が水平線を走る。
リュウジンは感情を沈め、深く息を吐いた。
自然と身体が緩んでいく。遠くを見つめるようなその視線。その先に見えているのは何か。
兄が、尊敬する兄が第一線から退いた。その要因を作ったのは己が弱かったから。その弱い自分を制御することが出来なかったらから。心が囚われたから。
だがいくら心を鎮めようと、この憤りがなくなるわけではない。
リュウジンは兄が一線を退いてから、よく一人で海を見に行くようになった。一日として同じ海では無かった。荒れ狂う日もあれば、優しく撫でるように満ち引きを繰り返す日。世界に己しか居なくなったのではと、錯覚するほど静かな日。
だがそのいずれも海だった。海が海であることは変わらなかった。
「なぁリュウジン。
ちょっとお使い頼まれてくれないかな?」
「んだよ。」
あの討伐戦の後、兄が入院する病院へ行く度となく見舞いに訪れた。何度来ても落ち着かなかった。その白すぎる部屋が異世界のように感じた。
痛々しい姿でありながら、今までと変わらぬ朗らかな兄の微笑み。リュウジンは兄と視線を合わせることが出来なかった。それでも病院へと訪れる足が遠くことはなかった。
「水ようかんを買ってきてくれないかな?」
「はぁ?」
「久々に食べたくなったんだよ、駅前の和菓子屋の水ようかん。」
「……、ここの売店のじゃダメなのかよ。」
「うん、あの水ようかんが食べたいんだ。
流石にここの食事に飽きてしまったしね。」
「チッ。今度来る時な。」
眼前に鬼が迫ってくる。すでに満身創痍。ここまで来る過程で斬られ続け、削られ続けてきたのだろう。だが鬼は鬼。その狂気にとらわれた眼から闘争の炎が消え失われることはない。
ぎりぎりまで引き付ける。行く手に待ち伏せるリュウジンの頭上へ、叩き潰すように振り下ろされる鬼の両腕。その内側へとタイミング合わせて滑り込むように半歩進む。そして抜刀。
刀を振る流れに己を任せ、横へと流れ動く。
逆袈裟に鬼門一閃。鬼が沈む。最後の一体。
まるでこの状況を見ていたかのように、納刀したタイミングで携帯が鳴った。
確認しなくてもわかる。兄貴からだろう。
大方、ここの戦局は片が付いた。事後処理的なこの場の治安維持と万が一の鬼の再来に備える必要はあったが、それはこの場にいる僧兵達で対処ができよう。
つまり俺は本部へと戻れ、ということか。
「程よく冷えてるね。」
白いベッドの上に半身を起こした兄貴が、手にした水ようかんを眺めながら呟く。
「冷えてねぇと美味くねぇじゃん。」
片手じゃ封を切れないことに気がつき、渡した水ようかんのカップを再度手に取り封を開ける。
食事用のカウンターを引き寄せ、その上に水ようかんとスプーンを置いた。ついてきた紙製のスプーンは捨てた。
「リュウジンは抹茶味じゃなくて良かったのかい?」
「……、俺はこっちでいい。」
申し訳程度に傍らにあった椅子を寄せ座る。
一すくい口に運んだ水ようかんは甘かった。小豆のざらつきが喉へと滑り落ちていく。甘さの余韻だけが口に僅かに残る。
「リュウジン。」
兄貴の呼びかけに反応しそうになるのをこらえる。
「君は僕の自慢の弟だよ。
これからも色々と世話になりそうだね。頼んだよ。」
「ケッ。
……しゃらくせぇ。」
兄貴が柔らかい眼差しで俺を見つめる。
いつだってそうだ。今までだって、半身不随になった今だって。
一歩も二歩も、十歩も二十歩も進んだ先で振り返り、その柔らかい眼差しで俺を待つ。
「自慢の弟」と言いながら。俺よりも先へと行きながら。追い越せない、追いつけない距離を保ちながら。今までだって今だって。
過酷な修行に逃げ出した俺を連れ戻しに来た時だって、逃げ出したことについては何も言わなかった。何も責めなかった。
ただその柔らかい眼差しで「水ようかん食べないかい?」と問うただけだった。あの日も。
俺を責める事のないその柔らかい眼差し。それが俺を責めた。
なんで俺を責めないんだ、罵らないんだ。なんでそんな半身不随の身になって絶望しないんだ。なんでお前のせいだと、お前が至らないからだと俺を責めないんだ。
俺は強くなる。絶対に強くなる。兄貴以上になる。
兄貴が成し得なかった頂へと、兄貴が止まった今、乗り越える。
いや、兄貴が辿り着いたであろう頂を俺は越える。俺は強くなる。強くなって鬼を斬って、斬って斬って斬り伏せる。弱かった己を斬り捨てる。
「ようかんは甘すぎて好きじゃねぇ。」
「でも水ようかんは、ここの水ようかんは好きだろう? リュウジン。」
兄貴が柔らく微笑む。自分はまだ食べてないくせに。
「……しゃらくせぇ。
んじゃ、行くわ。午後の修練に間に合わねぇ。」
「無理はいけないよ?」という言葉が届く前に病室を後にする。
無理? 無茶? そんなものはとっくに海の彼方だ。俺は強くなるために此処に在る。
まだまだ先へ。その先の頂へ。
遠くを見据えていた視線を閉じ目をつぶる。
海が見える。凪いだ海が見える。深呼吸するように深く息を吐く。
静かに歩み寄ってきた僧兵、部下の一人に呟くように伝える。
「兄貴に、統制本部に伝えてくれ。
俺にはまだやることがある。そっちには戻らねぇ。」
前を見据え刮目する。
その先に見える光景と己の想いを重ね、前を睨みつける。




