滴る雫の心静かなり(裏)
少年が滑り台の下で泣いている。いや、正確には涙を流すことや泣きわめくことを拒み、じっと耐えていた。だが時折、抑えられた感情が嗚咽となり漏れ聞こえる。
哀しみや怒り、やりきれない喪失感のような感情が少年から流れてくる。自身の無力感に対する怒りなのだろうか、それとも何かしらの衝動を抑えようとするあまり、行き場を失った感情が地面を叩くのだろうか。
ゴスッ、ゴスッ。
少年が地面を殴り続ける。
それを見ている私は手も足も出ない。文字通り手も足も失ったようだ。そして少年にかける言葉も失ってしまったらしい。これではまるで「こけし」だ。自分がどんな表情をしているのかわからなかったが、きっと「こけし」同様、何ともいえない無味な表情であることだろう。
ただただ、そこに無音で佇み、少年が発する感情を傍観するだけの、ただの「こけし」。
そこで雫ミスミは目が覚めた。
無機質な天井を眺め、自分の今の状況を把握する。ここはどこなのか、自分は誰なのか。
そして脳が起動し初期設定を終え通常モードへと移行する。雫ミスミは起き上がりベッドの端に腰掛ける。
空調は働いていたが暑い。寝汗で全身が気持ち悪い。床に置いてあった飲みかけのミネラルウォーターを一気に飲み干す。
今回は「こけし」か。実体があるだけましか…。
雫ミスミは夢のことを頭の中から振り払い、立ち上がる。分割睡眠で一回に3時間程度の睡眠しかとらない雫ミスミだったが、そんな短時間でも時折、過去のことや何の脈略もないおかしな夢を見る。悪夢とまでは言わないが、そんな時は大体がひどく寝汗をかく。それが嫌だった。
汗で湿ったシャツを脱ぎ、ついでに上下の下着も全部脱いでベッドに放る。彼女は小柄で華奢ではあったが、運動系の部活生を思わせるような、健康的で活動的な肉体をしていた。
雫ミスミはふと、身体を胸から足にかけてゆっくりと見下ろす。思わず「こけしよりはましだ。」と内心で呟く。
雫ミスミは脱いだものをベッドのシーツにくるみ、シャワールームへと移動する。
シャワールームにある洗濯機を開け、前回洗ったものを取り出し隣の籠に置く。代わりに今持ってきた洗濯ものを放り込む。
シャワールームへと入り、蛇口をひねってすぐさまシャワーを浴びる。最初の冷たいシャワーはかえって頭を冴えさせるから好きだ。徐々に温度を上げ熱いシャワーに変わっていくのを肌が感じる。
そのころには、今日のスケジュールや全体の動きが脳内を駆け巡っていた。
軒島ニコナは終日、クラヴ・マガ(イスラエルの格闘術)の道場だ。対人格闘では鬼に対して限界はありそうだが、鬼とて身体構造は同じなのだから、基礎を学ぶことは有効な手段だろう。
佐藤ウズシオの行動はいまいち掴みどころがない。しかし笠子会(壇乃浦の所属する指定暴力団)の動きから推測するに、おそらく今日は姉の方の警護に重きを置いているはずだ。
幌谷くんの動きは…。
ここ数日の動きから、今日も朝から動くことはないだろう。いいところ行動しても10時ぐらいからだろうか。
雫ミスミは思考をやめ、今度は全身に向けて神経を集中させる。頭頂部からのシャワーが、頬や顎、首筋、肩、背中、やがて四肢を伝い流れていくのを全身で感じ取る。目をつむったままシャワーを止める。短めの髪の先から滴る雫が、身体に落ち滑っていく感触を味わう。
数秒の静止の後、スイッチが入ったのを示すかのように目を見開き、次の行動に移る。
洗いたてのバスタオルを広げ、無遠慮にガシガシと頭を拭く。そして手際よく全身を拭いた後、そのバスタオルを洗濯機の中に追加した。
扉を閉め、全自動洗濯のスタートボタンを押す。洗濯機上部に「W&C」のロゴが青く点灯する。便利なものだ。ボタン一つで、洗濯から乾燥まで全ての行程が行われる。
それでいて仕上りは上々なのだから文句のつけようがない。
雫ミスミは籠から下着を取り出して身につけ、新たなシーツを持って部屋を移動した。
シーツを無造作にベッドに放り投げ、クローゼットを開ける。
着慣れたカーキ色のつなぎの作業着を取り出し、身につける。
準備の整った肌に触れる、無骨な綿の感触が心地よい。
雫ミスミはヘルメットをかぶりスイッチを起動して、スマホと同期した。
バイザーに必要とするGPS情報や、天候、路面状況、その他の情報が表示される。
今日は荒野へと走るわけではないが、オフ車のバイクに跨り、住処である廃工場のコンテナボックスを後にする。
エンジンがかけられ目覚めたバイクは低く唸り声をあげた。そして彼女の期待に応えるべく、公道を獣のように疾走する。
幌谷くんはまだ寝ているようだ。スマホのGPSは動かず、室内の対人センサーも活動を知らせない。バイクを加速させ、いつもの定点へと走らせる。流れる風景とリンクするように思考も次から次へと流れていく。
雫ミスミはふと、直線道路の消失点を見つめながら考える。こうして走り続けている間の世界は一点透視だ。立ち止まって見るから二点透視で、そこに見上げたり見下げたりする感情が伴うと三点透視になるのではないだろうか。そうであれば自分はいつだって一点透視の世界が好きだ。自分は走り続けたい。
定点。いくつかあるうちの、一番多く使っている定点。そのビルの裏口にバイクを止める。裏口の暗証キーを手早く打ち込み、ビル内へと入る。目の前にある、普段は使われていない搬入用エレベータで最上階へと移動する。もはやこの一連の行為は流れ作業と化している。
エレベータを降り、屋上に上がるとそこで雫ミスミはヘルメットを脱ぎ、ヘルメットを置くのと入れ替えるように「非常用避難器具」と書かれたボックスからスナイパーライフルを取り出す。習慣的にマガジンを外し状態を確認し、再度装着する。
屋上の縁にスマホを立てかけ、地図上のGPSを確認してから双眼鏡代わりにスナイパーライフルのスコープで対象へと照準を合わせる。
対象とGPSの位置情報が一致していることに安心すると、今度は裸眼で周辺の状況を確認する。「雉」の特性なのだろうか。常人をはるかに凌ぐ視力と、「鬼」をサーチする能力で周辺がクリアであると判断する。
海水浴場の一件では、鬼の発生原因を追究するあまり、幌谷くんの警護をあの二人、犬と猿に後れを取った。しかも悔しいことに結果として、あの鬼の大量発生について原因究明するに至らなかった。
「今日は負けない」そう、誰と競うわけでもないのに雫ミスミは神経を集中し続けた。
『0834、起床しトイレに行くも、再度寝る。』
『0908、改めて起床。10分程度思案に耽ったのち、バスルームへ。』
『0941、着るTシャツに悩んでいる様子。ボクは赤いロゴの入ったやつの方がいいと思う。』
『傍らに積んであった小説を読み始める。今日も朝食を取っていない。』
『1254、パソコンを起動。調べものだろうか。』
『1326、外出。』
対象が商店街の一角にある中華屋に入ったのを見届けた後、再度周辺の状況を確認する。クリア。
気温の上昇がピークに達し、熱さが気分を圧迫する。携行食で水分と栄養を補給し、集中力に波を持たせながら持続する。ふと「ミカンが食べたい」と思う。
1時間弱の時間が経過し、対象がお店を出る。姿が視界に入ったことでなんだかちょっと安心する。
が、その直後に「鬼」の出現を、視覚を中心とした全感覚が警報のように知らせる。
鬼を索敵し、半鬼化した男を視野に捉える。幌谷くんとの距離は1km程あったが、今回も鬼は彼に照準を合わせ、一直線に距離を縮めてきている。辺りを素早く見渡すものの、鬼化させたであろう人物を特定することはできない。
雫ミスミはスマホを操作し、彼へコールする。
「ミスミです。」
「うん。
ところでさ、海水よ…」
「知ってます。90%ぐらいの内容は。」
「……。それでさ、」
幌谷くんも色々と話したいこともあるのだろうし、ボクだって色々と話したかったが、今はそれどころではない。素早く直近の「指定場所」へのルートを考える。幸いにも財団が押さえてある「指定場所」、工事が止まっている建築現場はそこから近い。
「12時へ全力で進んでください。」
「12時?」
「つまり、そのまま真っ直ぐ走っていただければ問題ありません。」
「なんですと?」
「とにかく、今すぐ、全力で走ってください。」
「どんだけ火急の事態だよ!」
しかし「指定場所」はここからだと死角、障害物が多すぎる。自分自身も移動しなければならない。
「イヤホンは。」
「も、持ってるけど、いえ、家にあるよ!」
「知ってます。」
「し、知ってるなら聞くな!」
「一応、5%ぐらいの可能性にかけました。持っていたらハンズフリーの方が楽ではないかと。
次の角を3時…右に曲がってください。できれば速度は落とさないで…。」
「これでも、全力だよ!
そ、それで、どこまで…」
「右手に見える建築現場に。」
「入れと?」
「入れますので。」
「鬼かよ!」
幌谷くんが「指定場所」への道、角を曲がったところを見届け、ライフルを担ぎ急いで移動を開始する。狙撃地点まで時間にして5分弱か。
「奥のほうまで行っていただければ。」
「行きましたともさ!
ミスミちゃんか…」
その言葉の最後は通信状態の不安定さから途切れ、そして通信が遮断される。ビル内部の電波の弱さがここの欠点か。
雫ミスミは不安を振り払い、下界に出てすぐにバイクを走らせ路地裏を急ぐ。「道」とは言えないルートだったが、オフ車であったことが幸いだ。民家の間をすり抜け、塀の上を走り、用水路を飛び越え、建築現場に隣接する廃ビルへと向かう。その様子はまるで野を駆ける一体の野獣のようだった。
廃ビルに着くと、躊躇することなくそのままバイクで突入し、階段を駆け上がる。3階の一室に飛び込み、すぐさま窓ガラスの無い窓辺にライフルをセットし、状況確認しながら再びコールする。
しかし、コールに応答は無い。幌谷くんはなぜこの状況下で他人と電話しているのだろうか。誰と通話してるのだ。スコープ越しに電話をしながら逃げる彼を確認する。鬼との距離が短い。このままではコンクリートブロックが邪魔で援護出来ない。少なくとも効果的な狙撃が難しい。
3度目のコールをするも、通話中の電子音だけが耳元に響く。いら立ちがつのる。
彼が板へと飛び移り、その後を追い鬼も板に飛び移るところが見える。一か八か狙撃を試みようとしたが、鬼が板を踏み抜き穴へと落下するのを確認する。
今か。
再びコールしようとしたその直後、立ち止まって振り返った彼に向け、鬼が穴の底から跳躍し体当りする。数メートル吹き飛ばされた彼がコンクリートブロックに激突する。
「幌谷くんッ!!」
思わず雫ミスミは声を上げる。目を伏せそうになるのを堪える。かなりのダメージを受けたはずだ。
その現状を目の当たりにし雫ミスミは歯ぎしりする。鬼が追撃の体勢に入るのがわかる。だが相変わらず障害物と角度のせいで狙撃できない。反射的にリダイアルを押しコールする。
鬼が彼に向けて跳躍する。間一髪のところで彼が身をよじり追撃をかわしたのが見えた。通話がつながる。
そして彼がいたところのコンクリートブロックを砕いた鬼が、瓦礫をどけて立ち上がるのを確認する。
「今のうちに距離を。」
「わかってるよ、ミスミちゃんっ!!」
鬼が視界に入る。再び突撃体勢へと移行する鬼をスコープ内に捉える。
通信が再開され彼の声が耳元に届いたことと、ダメージが少ないことの安心感が、自分の任務を思い出させる。
タンッ!
鬼の左肩にヒット。
初弾をヒットさせたことにより、雫ミスミの精神は更に安定し平常心を取り戻す。
もう大丈夫。ここからはボクが幌谷くんを守る。絶対に。
頭の中が澄み渡り、全神経が集中していることが自分自身でもわかる。そして心が静かだ。
照準の中から鬼が逃れることはもうない。
そうだ。ボクは誰だ。何のためにここにいる?
ボクは雫ミスミだ。幌谷くんを守るためにここにいる。それがボクの任務だ。




