無の世界よりあなたに情熱を(裏)
「いつまで踊り続けられるかしらね?
人にはそれぞれ固有のリズムというものがあるのよ? 貴女は無軌道、無則、無調に見せかけてはいても、私にはちゃんとリズム、鼓動が伝わってくるわ? だって貴女、心臓は止められないでしょう?」
佐藤ウズシオの水の様に掴みどころのない、相手の型に合わせて染み込んでいくような攻防に、山羊女は対応していた。いや、攻撃の正確さが事実、上回っていった。
山羊女の放つ全方位からの攻撃に、佐藤ウズシオの衣服、皮膚が徐々に切り付けられていく。
確かに紙一重のレベルで躱し、佐藤ウズシオは重傷を負ってはいなかった。だがそれも徐々に覆されていく。無数の浅い傷が増えていく。
さらに言えば攻撃の主は山羊女であり、佐藤ウズシオのは反撃というより「相手の攻撃を逸らすための迎撃」に過ぎなかった。ほぼ防御防衛に努めていると言っても過言ではない。
佐藤ウズシオは、囲んでいる攻撃の「殻」を打ち破るように、ひな鳥が全身全霊を込めてそのか弱い嘴に全てを集中させ、内から打ち破って外界へと躍り出るように、身体を切り付ける「殻」による擦過傷を無視して、山羊女の全方位攻撃を一点から突き破り離脱する。
暫しの沈黙と静寂。
中断された攻防にインターバルを置き、二人が距離を取って相対する。
まるで多くの観衆の大喝采を受け止めながら、余裕と優雅を滲ませ、誇るようなポージングを取り佇む山羊女。
対して佐藤ウズシオは、厳しい風雪の中に立つ一本の木のように、体中に無数の傷を付けながら一人静かに立つ。
おもむろに、か細き声で佐藤ウズシオが呟く。
「音を聞かず、声を聞かず。……虚構を不聞る。」
佐藤ウズシオの背部から1対の手が伸び両耳を覆う。大きなヘッドフォンでも付けたかのように。
静寂、いや無音が佐藤ウズシオを包み込む。
無音。
一流のアスリートでなくても体験したことがあるのではないか。人は極限まで何かに集中した時に音が消える。例えば試合中の選手に歓声が聞こえなくなるように。
だが佐藤ウズシオのそれは、その「音が無くなる」のとは違っていた。いくら集中力が高まり、いわゆる雑音が聞こえなくなったとて、必要な音は拾う。選手が仲間の声や相手の音を聞き漏らすことが無いように。
そう、佐藤ウズシオの「無音」とは、真に無音だった。無明と無音。
完全に外界からの、視覚と聴覚による情報が遮断された世界。完全なる闇。
その世界の中で、常人であれば気が狂いそうになるほどの闇の世界で、佐藤ウズシオは山羊女を見ていた、聞いていた。それは武を極めた者が啓く心眼に似た境地だった。
前後左右から飛び襲い掛かる山羊女の遠距離攻撃を、ゆらりゆらりと佐藤ウズシオは流れに沿うように躱し続ける。このまま躱し続け、接近すれば山羊女の命を狩れるだろうか。
否、それは無い。
山羊女はこちらの攻撃、動きを正確に読んでいる。
よしんばナイフを振るったとて剣で受け流されるか。
そう。刺せたとて、紙吹雪になって躱すことだろう。
対して山羊女はどうか。
舞踊を極めたとはいえ、この鬼は武術を極めたわけではない。典型的なカウンター型。紙吹雪による遠距離攻撃、複数攻撃で相手を翻弄し、接近戦では類まれな自身の「リズム感」と相手のリズムを把握する「対応力」でカウンターに転じているに過ぎない。
故に山羊女は、自ら接近戦を試みるほどの力量は無い。
佐藤ウズシオはつかず離れず、そして無明無音の世界にいることで紙吹雪による攻撃対象から外れていった。だが近づくことはしない。
「そうくるわけね?
いいのよ? 時間は私に味方するのよ? 足止めされているのは貴方の方じゃないのかしら!!」
やがて紙吹雪による攻撃はなりを潜め、佐藤ウズシオは動きを止めた。
すでに「色を指定する」という音は、佐藤ウズシオには届かない。つまり山羊女の紙吹雪攻撃が届くことはない。
佐藤ウズシオがうな垂れるように佇む。山羊女との間に「静寂」の風が抜けていく。
「語ることなく、示すことなく、存在することなく……。
己を不云る。」
背部から新たに1対の手が伸びる。猿面に施された若竹色のラインが朧気に光る。
「次元干渉・隠密……、睡蓮」
その一言の直後、伸びた両手が佐藤ウズシオの口を塞ぐ。
朧げな光が靄のように漂い、空間を歪ませる。佐藤ウズシオが次元の間に消えていく。
存在が消失する。
「なに? どういうこと? 何処に消えたというの?」
山羊女、雨早川は困惑していた。
自分の目はこのカラフルな世界を認識している。自分の耳は風の音、僅かに聞こえる下界の喧騒を拾っている。そして五感以外にも「気配」というものを認識している。見失うはずがない。
舞踊に関して言えば空間把握、相手の気配を認識する能力は他人よりも秀でている自信があった。
そんな常人以上に「世界」を認識しているはずなのに、確かに「世界」はそこに在るはずなのに。なぜ自分は光も音も、全てから切り離された漆黒の闇、「無」の中にいると感じるのか。
雨早川は周囲を見渡す。自分の目は確かに光を得ている、物がそこに在ること、色がそこに在ることを認識している。自分の耳はあらゆる音を拾っている。だのに自分は「無」の世界にいる。
佐藤ウズシオは真に無の世界の中で、自身も無になり溶け込みながら、それでいて自己を維持していた。何のことはない。今まで自分がいた世界と変わらない。
ただ、あの人の暖かな眼差しで、あの人の暖かな声で、その世界を忘れていただけだ。
佐藤ウズシオは無の世界で「炎」を見る。激情、怒りに燃えた炎。
ゆっくりとその炎に向かって歩む。近づきながら、試しにその炎に向って手持ち最後となった鉄心を投擲してみる。炎が揺らぐ。
雨早川は突如、空間から投げつけられた「何か」を剣で弾く。
色と音のある無の世界にいながらも全神経を研ぎ澄まし、警戒していたおかげで僅かに聞こえた風切り音に反応した。むしろ身体が反応した。これまで培ってきた感覚が反応した。
確かにいる。相手は確かにいる。
例え気配が無くなろうとも攻撃に対応できる。
そう思った瞬間に、首筋に冷たい金属が当てられたのがわかった。
「……あなたの。」
瞬時に自身を紙吹雪に転じ、数メートル先に移動する。
そうだ、私は「これ」があるのだから、やられることはない。やられるはずがない。
「その……、情熱は……。」
移動した先で、実体化した直後に利き腕を極められ、先程と同じように首筋に何かを、
あぁ、これはナイフか
再度、転移を試みる。
次はもう少し遠くへ。
「確かに……」
なんだというのだ? どうして私がわかるというのだ? 私にはわからないというのに!
雨早川は考えた。いや、瞬時に理解し行動した。
今いた位置に攻撃してきたのだから、その後ろに行けば殺せるはず!
理解するよりも早く! この直感、感覚に従って切り落とす!
見えなくてもこの暗闇ごと切り付ける!!
「伝わりました。」
雨早川は首筋にダガーナイフを当てられ、
どういうふうにしたらそうなるのだろうか? 利き腕が背中に極められ、
極められたことにより動くことが封じられ、
極められたとはいえ、紙吹雪になれば逃れられるはずなのに、
そう思うと同時に、背中からナイフが
鬼門を貫かれていた。
「……、その熱い情熱が……、伝わりました。」
雨早川は自分が終わったのだと知った。
自分の舞台が終わったのだと、出番が終わったのだと知った。
でもいい。
私の情熱は、
伝わったのだから。




