麦わら帽子は飛んでいく(虚)
天高く飛んだ麦わら帽子を上空の風が掴み、ビル群の谷間へと連れ去っていく。
その光景を見上げながら、佐藤ウズシオは自分自身が吹き飛ばされたのだと理解した。
目に映るのは星空と少しの雲だったが、風景が歪んでいるのがわかる。空間が歪んでいる。
五感は鋭敏だったが、時間が遅く感じる。
確かに対象は捉えたはず。だが手に、腕に伝わる感触はなかった。殺れていない。
意識を身体に向け負傷等の有無を確認する。吹き飛ばされた衝撃はあったがダメージは無い。問題ない。
ふと、先程の自分の中で弾けた「感情」を思う。あれはなんだったのか。初めての感覚。
あの人に刃が向いたと理解した途端、その「感情」に本能が従った。愛しいあの人、私の旦那さん。
そうだ。あの人は何処にいる?
吹き飛ばされた体勢から身をよじって、空中で体勢を反転させる。きっと飛んだ先には愛しいあの人がいる。私を待ってくれている。受け止めてくれる。
旋回し歪んだ世界の中で、佐藤ウズシオはその人を探す。
『大丈夫か、ウズウズ?』
ビャクヤの胸に飛び込み、佐藤ウズシオは優しく抱きとめられた。
あぁ、やっぱり。私を受け止めてくれた。私の愛しい人。抱かれた体勢から顔を上げ、見上げる。
心配そうな目で見つめられる。
うん、大丈夫。私は大丈夫。
でも殺れなかった。私には力が足りない。
どうか私に力を頂戴?
『うわぁ。
あのえっと、そのだなぁ。
こんな間近で口をあけられてもな……』
「あー、あ、あーーー。」
口に人差し指を添えておねだりしてみる。
愛しい人が優しく両肩を掴んで、少し距離を開ける。
『あー、うーんと。
黍団子とはいっても何というかだな、食べ物ではないんだよ、ウズウズ。
意思というか想いというか、あぁそう! 心だ、こころ!
だから口から取り込む必要は、う~ん、ないわけなんだけどなぁ……。』
そして手のひらに浮かべたボヤっと緑色に光る玉を、私の口に添えた。
光りが体内に流れ込む。
お腹、胸、顔、四肢、そして手指の先、つま先、髪の毛の細部に至るまで満たされる。書き換えられていくような感覚。心が、伝わる。
眩く輝きを増した若竹色の光が、輝度をそのままに収束し幾筋となって身体を走っていく。
『いけるか? ウズウズ?』
うん、大丈夫。私は大丈夫。
『僕が思うに、あいつは色の名前を言って認識させることで攻撃している。
つまり「認識」出来ないことは、そういう色の名前は言っても効果がないと思う。
いや、そもそも今のウズウズなら関係が無いのかもな。』
「問題……、ない。」
『頼んだぞ、ウズウズ。』
愛しい人が優しく、そして少し寂しそうに微笑む。
大丈夫。すぐ行くから。
「さっきの怒りはとてもよかったわよ? 貴女の中にもそんな激情があって嬉しいわ、まだ踊れるかしら?」
はらはらと漂っていた大量の紙吹雪が一際大きな竜巻となり、中心に集約していく。
その有様は小魚の魚群を思わせる。一つ一つが生命であるのにも関わらず、その集合体は一つの意思に統一された巨大な生命体だ。
やがて結びつき、重なり合いながら紙吹雪が人を形成していく。
尊大な態度を顕わにした山羊面をつけた女が再び舞台に現れる。
佐藤ウズシオはその問いに答える代わりに、左右の手にダガーナイフを逆手に構え、水銀が地を這うように接敵し、そして伸び上がるように下から切り上げた。
一刀目の攻撃を滑るように躱し、二刀目の攻撃に合わせるように山羊女は手を振り下ろす。
手には何も持っていなかったはず。だが佐藤ウズシオは瞬時にその振り下ろされた軌道に沿い、地を滑りながら山羊女の背後へと距離を置いた。
「私に武術の心得は無いのだけど? とは言え、剣を扱ったことが無いわけじゃないのよ?」
山羊女の左手には三日月を思わせるような、湾曲した剣が握られていた。
そして右手を上部へと掲げる。紙吹雪がその手に纏わりつくように螺旋し、その右手にも同様の剣を顕出していく。
佐藤ウズシオは半円を描きながら接近し、0距離で身体を反回転させ相手の背後を二刀で横薙ぎにする。
山羊女が合わせるように体を捻り、ウズシオの斬撃を一刀で受け流す。そのまま勢いを殺さず体を沈めると、足元を掠めるようにもう一刀を振るう。
佐藤ウズシオは受け流されつつある相手の剣を軸とするように、二刀のダガーナイフを起点に身体の横回転を制御し、上体を傾けながら飛び上り下方の横薙ぎを躱す。振り抜かれた相手の剣の力を利用し飛びのくも、着地と同時に再び死角へと接近する。
接近しながら左右のダガーナイフを振るう。まるでそのダガーナイフの余波のように、数本の鉄杭が軌道上を走る。
袖先に延びた長い布が舞踊で流れゆくように山羊女の剣が振るわれ、放たれた鉄杭を弾き、そして追撃のナイフを受け流す。
情熱、妖艶、美しさ。それらを追求した剣舞の極み。
殺傷、的確、無慈悲。それらを追求した果てにある暗殺術。
二人の技術が奇しくもリンクし、複数の動きがまるで溶け合うように、複数の動きが歯車の正確さを体現しているかのように、滑らかに流れゆく。
やがて舞台の演目が終わり、互いが離れ立つ。
山羊女は右手の剣を天に掲げ、左手の剣は地を示し、尊大にフィナーレのポーズを。
佐藤ウズシオは静寂する獣の如く、地に伏すほどの体勢で構える。
「さて、余興はこれぐらいにしておきましょうか? 楽しい時間にも終わりは来るのよ?
舞台には終わりがあるから未来永劫、美しく在れるのよ?」
山羊女の短い二つ角が妖艶な光を帯びる。それと同時に、紙吹雪がゆっくりと舞い上がり、霧状の瘴気が女を包む。離れてはいても「怒り」の感情を纏ったその瘴気が佐藤ウズシオへと伝わる。
過去に触れてきた殺意や怒りとは似て非なる感情。その感情は誰に向けたものなのか。
「……。
色を見ず、光を見ず。……虚飾を不見る。」
佐藤ウズシオの顔に若竹色のラインに彩られた面が被せられ、そして背後から伸びた同じく若竹色の手が両目を塞ぐ。
「いったい何の真似かしら? 私を、この美しい私を見ないで戦うというのかしら?
それともその有様が心眼を開いた、とでも言いたいの?
むかつくわね? 無様に赤い血でまみれたらいいわ!
赤! 赤! 赤! 赤っ!!」
山羊女の纏っていた瘴気の霧が紙吹雪と共に集約し、大型獣が牙をむいたように上下から無数に佐藤ウズシオへと襲い掛かる。同時に山羊女が二本の剣を振るいながら舞い迫る。
佐藤ウズシオは漆黒の闇の中にいた。
そこは佐藤ウズシオにとっては慣れ親しんだ世界だった。
世の中は彩りに満ちているのかもしれない。世の中は光に溢れているのかもしれない。
だが私を包んでいたのは黒い世界だった。時折、その「黒」が色薄く明滅する程度だった。黒色と灰色だけで構成されていた。
その世界の中で、人々は赤、青、黄色。様々な色を滲ませていた。
それは怒り、悲しみ、そして喜びという感情だったのかもしれない。
私にはなかった世界の色。
上下から赤い閃光が多数、襲い掛かってくる。両手から鉄杭を放ち迎撃する。
更に襲い来る赤い閃光。紙一重に躱しながら正面に来たものは両手のナイフで弾き飛ばす。
無数の赤い閃光の全てを身躱す。
その閃光の後方から赤く燃え上がるような炎が迫ってくる。
熱く眩く、「怒り」という感情を体現した灼熱の炎。
炎の塊から二本の柱が、太陽の紅炎のように弧を描きながら挟み込むように振るわれる。
左右のナイフで受け流し、地に溶け込んだかのように体を沈め射程範囲から離脱する。
「なかなかやるじゃないのよ? でも防ぐのでいっぱいいっぱいなのかしら?
それでいつまでもつのかしらね?」
山羊女はそう口走りながらも攻撃の手は緩めない。
いや、いっそう激しさを増していく。
佐藤ウズシオは赤々と燃え盛る激情に晒される。
だが彼女の中にあったのは「静寂」だった。




