鯉の行く末(裏)
風が、仄かに秋の気配を乗せて木の葉を揺らし、背中を静かに通り過ぎていく。
水面が木洩れ日をキラキラと反射させていた。その水面下を鯉が何か大事な落とし物でもしたかのように、あちらこちらへと探し泳いでいる。
こんな大きい、泳いでる魚は初めて見た。
どうやってあんなに素早く初動、方向転換ができるんだろう。背骨かなぁ。人はどうしたって四肢で走ったり打ったりする。勿論「走る」動き一つとっても、全身が連動している。けれど、背骨が主で動いてはいない。うーん、にぃちゃんに今度、水族館に連れてってもらおうかなぁ。
ニコナは池のほとりにしゃがみこみ、泳ぐ鯉をじっと見ていた。
その横顔は年相応の幼さを残し、子供特有の好奇心に満ちた表情をしている。時折吹いてくる晩夏の風が後ろ髪や裾を静かに揺らすが、それ以外の動きはなく、ただ静かに、じっと見つめている。
幾ばかの時が過ぎ、ニコナは立ち上がる。
視線は鯉に残したまま、一度全身の筋肉を強張らせ再起動。そして緩やかに脱力。
と、初動を見せずに50cmほど横移動、古流武術「縮地」。
中国武術の場合は、半歩引き寄せた後ろ足で地を蹴って移動したりするけれど、それとはまた違った移動法。
うーん「抜き」かぁ。どうしても意識は移動しようと思ってしまう。その意識に身体が持ってかれる。鯉なんて視線を移動先に向けただけで完了してる感じなのに。
リュウジンは「移動するというより突き飛ばされる感じ」っていってたけど、こうかな?
ニコナが鯉の動きとリンクするように、自身も反応してみる。
「鯉が好きなのかね?」
「あ、じっちゃん。」
初老の男に声をかけられ、ニコナは反射的に応えた。
「あ……、ごめんなさい。間違えました。」
その柔らかな声質と、何より気配が中国武術道場の老師、じっちゃんに似ていた。
この人もじっちゃんと同じ匂いがする。本当は物凄く強いのにそんな雰囲気を一切、表には出さない。「もう隠居だから」ってじっちゃんは言ってたけれど、この人も同じなのかな? ここに来て初めて会う人だ。
「おはようございます。
鯉は、えっと、さっき好きになりました。」
「あぁ、おはよう。
そうか、でもこの鯉は食べない方がいいかもしれないね。」
「え! 鯉って食べられるの?!」
驚きと、初老の気さくな雰囲気、じっちゃんに似ているからか、ニコナの口調が自然とくだける。
「あぁ食べられるとも。
昔はね、割と食べていたんだよ。滋養強壮にいいってね。でも今じゃ食べられるお店は少ないかもしれないな。取り寄せを頼んでおくかい?」
「ううん、ここの魚料理はすごくおいしかったから大丈夫。
それに、あたしは今日帰るんだぁ。」
「料理がおいしかったか、それは良かった。イソジさんも喜ぶことだろう、伝えておこう。
いつでも遊びに来たらいい。
とは言っても私の家ではないんだがね。」
初老が柔らかく、そして無邪気さを含ませながら笑う。
「そうなの?」
「あぁ、親戚のおじさんさ。
いや、おじいさんかな?」
庭の奥から雄叫びと共に、水飛沫が高く上がるのが見える。
初老は目を細め、そちらを見つめる。その表情は何処か満足そうで、そして優しさをたたえていた。
「何か、悩んでいるのかな?」
初老は庭の奥に視線を残したまま、暫しの時を置き尋ねる。
「うーん、悩んでるっていうかね、みんなあたしのこと真っ直ぐすぎるっていうんだぁ。」
「君は実直な性格なんだねぇ。
私もどちらかと言うとそういう性分かな。いやはや、我を通す方だったよ。」
初老がニコナへと向きを変え、足元の小石を取ってニコナの方へと放る。
その動きがあまりにも自然で一切の邪気が無かったせいか、ニコナは反射的に、そして無意識下で反応し二本指の拳でその小石を粉砕する。認識が遅れてやってくる。
「びっくりしたー!」
「問題ないじゃないか。」
初老は実に愉快そうに笑った。
「君は十分に鍛錬している。それをちゃんと身体が応えてくれている。
もちろん何も粉砕せずとも、そうだね、掴むこともできたと思うのだがね。」
小石は一つではなく二つ取っていたのだろうか。今度は拾う動作無しに小石を放る。
ニコナはキャッチし、そして手のひらに収まる小石を見つめた。
「今度は意識したね。」
「うん……。
えっと、無意識に掴むこともできるってこと?」
「最初は粉砕することが最適解だと身体が反応したんだろう。
でも答えはいくつもある。掴む以外にも躱す、いなす、打ち返すとかね。」
二人の間に緩やかな、そして柔らかな一時の時間が風と共に流れる。
「あのね、氷使ってくる奴がいてさぁ、掴んだり触れたりされたら厄介なやつ。
そいつがね、単調だって言うんだよね、あたしの攻撃。」
まるで独り言のように呟く。初対面故の独白。
「氷鬼か。ふむ、確かに君は空拳だからね。我々と違って刀を使わない君は幾分、不利かもしれないね。
氷鬼の能力は理解してるかな?」
初老は唐突な質問でもあったのにもかかわらず、ごく自然に応える。
「氷使うよ?」
「正確にはね、熱を奪って凍らすんだよ。触れたところからね。」
「脚も氷に包まれてた。」
「それは問題ではない。意外と大事なのはね、氷が凍らすわけじゃないんだよ。
だから氷に触れることは脅威じゃない。逆に、ふむ……、
そうだな、手に松明を持った敵だと思えばいい。」
「氷なのに?」
「氷だけどね。」
再び庭の奥から雄叫びと衝撃音、水飛沫がが見える。
二人はそろってそちらへと視線を向ける。向こうでは容赦のない特訓が繰り広げられているのだろう。
「無意識の奥には無限が広がっている。本能の選択肢を増やしてやれば動きに幅も出るだろう。
色々と修得することは無駄なことではないよ。安心しなさい、その積み重ねが君の深みになる。」
暫し思案の後、ニコナが不安をぬぐえずに問い尋ねる。
「でもさ、それが通用しなかったら?」
「その時は一刀両断。」
初老が人差し指を立て、上段から空を切る。
「いや、君の場合は一撃粉砕、かな?
そういう喧しい鬼は打ち砕いてしまえばいい。」
あぁ、この人も獣だ。
柔和な笑顔だけれど、目の奥に宿るのは野獣のそれだ。
「そのようにね。」
おじいちゃんがそのまま人差し指であたしの左手を示す。
いつの間に握ってたんだろう。手の平の中にあった小石が砕けていた。
一際、快活に笑うその声につられ、あたしも笑う。
「さて、楽しい話も出来たし、私も帰るとするかな。」
「帰るの? 向こうを見てたから、そっちに用事があるのかと思ってた。」
「少し様子を見にきただけだからね。
君とリュウジンが彼をしっかりと調整したようだし、安心したよ。」
初老は挨拶の代わりのように、被っていた中折れハットを被り直し微笑む。
「ありがとう!
あたしもなんか「それで間違いじゃない」って背中押してもらった感じ!
もっともっと頑張る! もっともっと駆ける!」
そう言いながらニコナは本当に駆けていった。
「縮地」「箭疾歩」、その他あらゆる歩法を織り交ぜ、まさに縦横無尽に駆けていく。
「戌神。未だ君に会うと思いだすな、鬼を狩り野を駆けまわった日々を。」
初老の男は、誰もいなくなったその場に微笑を残し、自らも立ち去る。
秋の香りを含んだ風と、鯉の跳ねる水音だけを残して。




