虎をリロード(裏)
見上げた空は青空とは言い難かった。夏のこの暑い最中なのだから、せめて突き抜けるような青空を期待したいところなのに、あいにくの薄曇り空。
そして曇り空なのにもかかわらず、今日は1割ぐらい重力が増したように感じる。暑さが重たくのしかかる。
これで少しぐらい風が吹いていればまだましなのに。
草いきれ
最近、国語で出てきたような気がするけど、どういう意味だったっけ? 草むらのモワッとしたやつのことだったっけ? でも草むらじゃなくても空気がモアッとしてるんだけど。
軒島ニコナは電柱の上で、ふとそんなことを考えた。
ここ最近、にぃちゃんと会うようになってくらいからだろうか。微弱な視線、嗅ぎきれないほどの微弱な気配を複数、感じていた。それが今日、どういうわけか一瞬その気配の一つが、視線が強くなった。にぃちゃんんちでうどんを食べて終わったぐらいのタイミングだったか。おかげでその視線の発信源がわかった。たぶんあのビルの屋上からだ。
軒島ニコナはそのビルまでのルートに適当な目星を付けると、手近な一軒家の屋根に降り立ち、疾走しはじめた。途中、またもや視線を感じる。一度感じ取った視線は、微弱とは言え、相手が感情を殺してるとは言え感知できないわけではない。とはいえ、相手もこちらを捉えているってことでもあるのだけれど。
あの一瞬の感情の起伏はなんだろう。殺意や敵意とは違う。でも明らかに怒りのような、そう、なんだか今日の天気に似ている、モアッっとした重たい感情だった。
武術においては、闘争心のように相手に立ち向かう強い心は大切だと思う。でも過剰な敵意や怒りは自分を見失い、そして相手を見誤る。そういう意味では屋上にいる誰かは感情をうまくセーブしている気がする。
小学生の頃に通っていた中国武術の師範おじいちゃんを思い出す。
「この虎はいかんなぁ。」
師範おじいちゃんは玄関に飾る掛け軸を決めるのに、いくつかの掛け軸を見比べていた。
「なんで? 格好いいじゃん。」
「口を開けすぎじゃ。目一杯開いておる。」
「?」
「目一杯、威嚇しておる。つまりこいつの底が見える。これ以上、口は開かんとな。
たとえ強い奴でも底が見えたら怖くはない。対峙して怖いのは底が見えない奴じゃよ。」
「そんなものかなぁ。」
「底なし沼の方が怖いじゃないか。何が出てくるかわからん。かっかっかっ!」
師範おじいちゃんは軒島ニコナを優しく見つめながら目を細め、快活に笑う。
「虎は沼じゃないじゃん。」
「前三後一という言葉があるな。前に3歩進めば後ろに1歩下がる。
常に油断せず相手と対峙しろということじゃ。また自身を平常に置くということでもある。
感情の起伏に流されては勝てるものも勝てん。勢いに任せて前へ前へでは相手を見誤り、自身を失する。
たとえ相手が弱くともな。」
「感情?
あたしは戦うのが楽しいよ?」
「そうじゃな。それでいい。
ま、前三後一は獅子の言葉で、これも虎じゃないがな! かっかっかっ!」
軒島ニコナは走りながらも大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと息を吐く。心拍数は適度に上昇してるものの、呼吸は乱れず、そして感情も平常だ。
目的のビルの側面を駆けあがるように一気に上り詰める。軒島ニコナは屋上に突き出た一角、階段室のてっぺんにしゃがみこんだ。
屋上の端に視線の発信源、目的の人物がうつ伏せ状態で背中を見せている。間違いなくあたしがここに来ることはわかっていたはずなのに振り返ることすらしない。これは油断なのか、それとも敵意がないことのアピールなのか。
想像していたよりは小柄だ。少年? いや骨格から察するに女か。つなぎの作業着の上を脱ぎ腰で縛っている。その白地のタンクトップが眩しい。無骨ないでたちに、妙なところで軒島ニコナは好感をもってしまう。
「雉…か?」
「軒島ニコナさん。犬ですね。
初めまして。雉を務める雫ミスミです。」
軒島ニコナの短い質問に、雫ミスミは相変わらず振り返ることなく返答した。
言葉は事務的な無感情なものだったが、想像していたよりも柔らかい声質に、軒島ニコナは相手の強さ、「雉」であると名乗ったことに疑問を感じてしまう。
相手を見くびっているわけではない。ただ疑問に思っただけ。推し量るほかないか。
「すでに名前を知られていることも、振り返らないことも気に喰わないんだけど。」
軒島ニコナはしゃがんだ姿勢のまま身構え、闘気を雫ミスミに対して放つ。
「それは失礼しました。」
雫ミスミは振り向きざまにスナイパーライフルを軒島ニコナに向け、更に瞬時に照準を合わせて銃弾を放つ。軒島ニコナはサイドに飛びのき、初弾を紙一重で躱した。
「いいね。」
軒島ニコナはそう呟くと、階段室の上から駆け降りる。飛び道具相手に空中に身を置くのは得策とは言えない。低い姿勢のまま距離を詰めずに左へと回り込む。銃器を構える者にとっては死角に近い。
雫ミスミは照準を合わせ続けながら手早くリロードする。金属音と共に薬莢がはじかれる。
リロードが想像以上に速い、残りの弾数はいくつあるのだろうか。軒島ニコナはそう考えながらいったん左右へと体を振りつつも、左方向へと進む。
タンッ
二発目。頬の横をかすめるように銃弾が通過する。
リロードのわずかな隙に、軒島ニコナは屋上から落ちるのではないか、というような勢いで跳躍する。
しかしその跳躍はスライディングするように低い姿勢を維持し、そして屋上の縁を蹴って急角度に軌道を変えると、雫ミスミへ一気に距離を詰める。
タンッ
直線的に突進してくる相手に対し、雫ミスミは動じることなく三発目を放つ。が、身を翻しながら軒島ニコナは、低い姿勢から勢いを殺すことなく上方へと跳躍し、至近距離の銃弾をかわす。そのままソバットでスナイパーライフルを蹴り飛ばした。
いや、その蹴りに雫ミスミが合わせたといっても良いのかもしれない。蹴りいれたスナイパーライフルに手応えがなかった。
スナイパーライフルを手放しながら雫ミスミは素早く太腿からハンドガンを取り、軒島ニコナを撃つ。
軒島ニコナはうつ伏せ状態から両手で着地し、その咄嗟の銃撃を躱し、蹴りいれた円運動の軌道のまま、追撃の足払いへと移行する。
雫ミスミは脛に足払いを受けつつも、逆らうことなく横へと転がりながら蹴りの力を殺し、二発、三発と打ち続ける。だが軒島ニコナにとって、相手が銃撃といえども至近距離、自分の射程内であればリーチの長い攻撃に過ぎない。弾丸を紙一重で躱し、間合を保つ。
雫ミスミが倒れこむように仰向けになったところを、軒島ニコナは覆いかぶさるように重なり、こめかみへ向けて一本拳を放つ。
が、そこで寸止めする。
雫ミスミは銃口を軒島ニコナの腹部から心臓へと向けて突き付けている。
向かいあったまま、お互いが動きが止まる。
「はじめまして、の挨拶はこれぐらいでよろしいですか?」
「よく言うよ、全て眉間を狙ってたくせに。」
「当たっても死なないと思いますけどね。軒島ニコナさんなら。」
「ニコナでいいよ。ミスミさん。」
軒島ニコナは立ち上がり、大きく伸びをする。
雫ミスミはハンドガンを太腿に装着し、幌谷の住むマンションへと視線を向ける。
猿といい雉といい、それなりの手練れってことか。そりゃそうか。
軒島ニコナは頼もしいと思う反面、何となく寂しいような悔しいような気持になった。
頭を振り、その気持ちを振り払う。そういう考えはあたしらしくない。あたしはあたしらしく突き進むだけだ。
「ところでさ、頼みがあんだけど。」
「共闘ってことですね。ボクもお願いしたいところです。接近戦ではニコナの方が上ですから。
でも…。
いえ、なんでもありません。」
「?」
軒島ニコナはふと、雫ミスミもあたしと同じ気持ちなのかも、と思った。
空を見上げてみたものの、相変わらずの曇り空だ。でもその上には青空が広がっている。
軒島ニコナは雲の上に広がる青空を想像した。雫ミスミもつられるように空を見上げる。
しばらくの静寂が、二人の上に流れていった。




