そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)1.2
中央市内の路地裏、物陰に身を隠したロドニーは、ベイカーからの合図を待っていた。
今回の任務は危険生物の駆除。貴族の家で飼育されていた大型で獰猛な『魔獣ムック』が檻を破って脱走し、中央市内を逃げ回っているのだという。
飼い主の少年はその生き物を森で拾い、両親に隠れて無許可で飼育していた。そのため騎士団への正式な届け出が出せず、飼い主の少年から近衛兵、女王付きの女官、女王、特務部隊長へと助けを求める手紙が回ってきたのだが――。
「ロドニー、そっちに行った! 射殺許可は下りている! 遠慮なくぶちかませ!」
「はい! ……って駄目です隊長! 無理! 殺せません!」
「なぜだ!?」
「これ、魔獣とかキメラじゃありません! ただの犬です!」
「何っ!?」
「妙なコスプレグッズ着せられてるだけです! 命令変更お願いします!」
「ええと……で、では、生きたまま捕獲しろ!」
「了解!!」
ロドニーは犬を追う。
とはいえ、ごく普通の大型犬と人狼族とでは足の速さもスタミナも比較にならない。ましてやこの犬はコスプレグッズの角や耳、コウモリ風の翼などをくくり付けられていて、思うようには動けない。
そんな状態で、人狼の追跡を振り切れるはずもなかった。
「オラアアアァァァーッ! おとなしくしやがれえええぇぇぇーっ!」
パニック状態で逃げ回る犬に体当たりを食らわせ、倒れた犬を仰向けにして首を押さえる。
大人の肩ほどもある体高、百キロ近い重量。取り押さえるには少々手古摺る大型犬だが、犬は犬である。攻撃手段は牙以外になく、それを封じられれば素直に負けを認めて降伏の意を示してくれる。
情けない鳴き声で許しを求める犬をなだめ、ロドニーは『動かなければ攻撃はしない』と言い聞かせた。
「ったく、なんだよ。本当にただの犬じゃねえか。なんでこれが『魔獣』なんて話になるんだ……?」
駆けつけたベイカーとともに犬の身体をまさぐると、角、つけ耳、翼を固定していたゴム紐はすぐに発見できた。長く真っ黒な被毛で分かりづらかっただけで、よくよく見れば、首輪とネームプレートもちゃんと着けられている。
ベイカーはそれを外し、プレートに刻印された名前を読み上げる。
「……最強の魔獣、ムック……」
「あ、『最強の魔獣』の部分も含めてそういう名前ですか!?」
「そのようだ。なるほどな。確かに手紙には、『親に隠れて飼育していました、騎士団に通報すると親にバレます。誰かに噛みつくかもしれないので、何とかしてください』と書かれていたが……」
「手紙が次の人に渡されるたびに、伝言ゲームで話が大袈裟になっちゃったってことですかね……?」
「まさか手紙の現物がある状態でこのような伝達ミスが起こるとは……。王宮との連絡体制を見直さねばなるまいな……」
「それ以前に、このサイズの犬をこっそり飼うって無理がありすぎ……」
「ああ……男子小学生というやつは、なぜ根拠も無く『大丈夫!』と思ってしまうのか……」
ガックリと項垂れながらも、ベイカーは付近に待機させていた仲間に連絡する。
犬とともに迎えの馬車に乗り込み、ベイカーとロドニーは本部に帰投した。
王立騎士団特務部隊、それは貴族の起こした事件・事故を専門的に扱う『貴族案件専任チーム』である。貴族にまつわる案件であればどんな現場にも駆り出されてしまうため、ドロドロの遺産相続から脱走ペットの捜索、封印されていた超古代生物とのバトルや寸借詐欺師の摘発など、任務の内容は多岐にわたる。
そんな特務部隊に、二日連続で『似たような案件』が舞い込んできた。
「え? 『最恐の魔獣・モック』が逃げ出した?」
「ああ、昨日は『最強の魔獣・ムック』だったろう? どうせまた子供が勝手につけた名前だと思うが……」
「じゃ、とっとと現場行って、サクッと捕まえて来ましょう。治安維持部隊には通報できないヤツですよね?」
「そのようだ。まったく、貴族連中にだけ特別に飼育許可を下ろす仕組みはどうにかならんものか……」
「袖の下でお目こぼしじゃなくて、正式に飼育登録してくれないと困るんですよねー。何かあったときに駆り出されるのは俺たちなんだから……」
「『お目こぼし料』を徴収している下っ端役人がいる限りは、何も変わらんだろうな。ま、地道に頑張って変えていこう」
「ですね」
二人は揃って肩をすくめ、この話を終わらせた。
貴族階級のベイカーとロドニーでは、市民階級の『現場の役人』のすることに深く介入できない。上から一方的に是正命令を出せば反発されるし、手順を踏んで仕組みを変えようとすれば、役人と結託した別の貴族からの妨害を受ける。やろうとしていることは法の遵守と税金の適正使用を訴える活動なのだが、高等教育を受けていない市民はあまり賢くない。『貴族の子弟が何かやろうとしている』という事実だけで、中身を確かめもせず反対運動を起こす者も多いのだ。
「で、逃げ出した『魔獣モック』の捕獲作戦だが……」
「昨日と同じで良いんじゃないですか? 隊長がワッと驚かして、俺がキャッチする流れで」
「そうしたいのはやまやまだが、この後は何件か面会予定が入っていてな。ほかの隊員は出払っているし、王子に動物の捕獲をやらせるわけにも……」
「いやいや、隊長、できますって。な、マルコ。お前、支部じゃあイノシシの駆除とかやってたんだろ?」
話を振られたマルコは事務仕事の手を止め、大きく頷いてみせた。
「ライフルでの鳥獣駆除には自信があります!」
「ね? 麻酔銃撃ってケージに突っ込むだけなら、俺たち二人で大丈夫ですって」
「そうか? それなら二人で行ってくれ。場所は……」
そうして一通りの説明を終えると、ベイカーは拳を突き出して言った。
「健闘を」
ベイカーの拳に自分の拳を軽くぶつけ、ロドニーは応える。
「吉報を待たれよ」
手早く装備を整えてオフィスを後にする二人。
しかし二人は知らなかった。『魔獣モック』は、本当に『最恐』の存在であるということを。
現着した二人が目にしたのは、屋根の上で鳴き声を上げる巨大な爬虫類の姿であった。
「何だ、あれ。竜族じゃあなさそうだけども……?」
「麻酔銃……は、効かないかもしれませんね……?」
その爬虫類の体高は優に二メートルを超える。四つ足で腹這いに歩く姿は間違いなくトカゲの類なのだが、鎧のように硬い鱗も、鋭い爪も持ち合わせていない。つるりとしたフォルムとぷっくり膨らんだ指先、愛嬌のある大きな目は、ヤモリの仲間と推測される特徴である。
「ピエエエェェェーッ! ピエッ! ピエエエェェェーッ!」
どこか鳥の声に似た甲高い声を上げ、巨大ヤモリはこちらを威嚇している。興奮して逃げられては困るので、マルコとロドニーはゆっくりと後ろに下がり、屋敷から二十メートルほど離れた噴水の陰に身を隠した。
幸いなことに、あれはまだ家の敷地から出ていない。この貴族の邸宅は自然の森を生かした広大な庭園に囲まれているため、一般市民が利用する公道からは距離がある。この屋敷の関係者しか知らない今のうちにケリをつければ、『私有地内でのお散歩』として穏便に処理できる。
「どうします、ロドニーさん」
「この距離から狙えるか?」
「はい、十分射程内です。ですが、哺乳類用の麻酔銃が巨大爬虫類に有効かどうか……」
「効かなかった場合、あっさり逃げられそうだもんな。あいつの最高時速がどのくらいかもわからねえし……」
「見た目通りのヤモリなら、それなりの速さだと思います。垂直な壁も難なく歩くのでは?」
「つーことは、やっぱ、先に逃げ道を断とう。任せて良いか?」
「もちろんです」
マルコはこの家の執事から借りた屋敷の見取り図を広げる。
巨大ヤモリがいるのはコの字型の建物の中央付近。自分たちがいる噴水広場は建物に囲まれた中庭部分で、花壇伝いに身を低くして移動すれば、使用人たちが使う勝手口のほうに回り込める。
二人は作戦の大枠を組み立てていく。
「俺が二階のバルコニーから屋根に飛び移って、そっちに追い込む」
「私は中庭に結界の下半分だけを構築しつつ待ち構えて……」
「俺とヤモさんが中庭に入ったら、結界を完全発動させる、と。問題は、あの魔獣が『何系の魔獣』なのかってところだけど……」
「こちらの執事の説明では、『気持ちを共有する能力』を持つ魔獣とのことでしたが……」
執事が言うには、能力の詳細は飼い主である『セリカお嬢様』しか把握しておらず、そのお嬢様は四月から全寮制の女学院に進学してしまい、この場にはいない。なぜ突然凶暴化したのか、なぜ檻を破って逃げ出さねばならなかったのか、なぜ家の敷地から出ることなく屋根の上で威嚇を続けているのか、すべての理由は謎である。
「聞いたことがねえよな、こんな魔獣。普通の魔獣って、攻撃魔法使ってくるもんだよな?」
「一部の魔獣は幻覚魔法で人を惑わせて、食べてしまうと聞き及びますが……」
「それにしても、捕食か縄張り争い用の能力だろ? 『気持ちを共有』って、なんだ?」
「うぅ~ん……見当もつきませんね……?」
魔獣と動物の違いは、魔法を使うかどうかである。普通の動物は火を吐いたりしないが、魔獣は《火炎弾》や《冷凍弾》を使って攻撃を仕掛けてくる。しかし、知能は低い。人狼族をはじめとする動物系種族ならば人間と同等かそれ以上の知性を備えているが、魔獣はどれだけ大きな体をしていても、言葉を話すことも道具を使うこともできない。
体高二メートルを超える巨大なヤモリは、屋根の上からあたりかまわず威嚇を続けている。誰もいない方向に吼える行動も見られることから、これは通常の習性から逸脱した異常行動の類だろう。
「ま、いいや。とりあえずやってみて、駄目だったら別の手を試そう」
「そうですね」
二人は互いの拳をコツンとぶつけあい、それからそれぞれの行動を開始した。
ロドニーは花壇の陰伝いに建物の中に入り、気配を殺して屋上へ上がった。
巨大ヤモリはロドニーの接近に気付いていない。相変わらず、何もない場所に向かって吼えている。
そっと近づき、至近距離から《衝撃波》を放つ。
「ピッ!?」
巨大ヤモリは突然の攻撃に驚き、屋根の端でバランスを崩した。そこにすかさず、助走をつけたドロップキックをお見舞いする。
「オラアアアァァァーッ! 落ちやがれえええぇぇぇーっ!」
「ピエエエェェェーッ!?」
中庭に落ちるヤモリとロドニー。
マルコは結界を完全発動させ、ヤモリの脱出経路を断つ。
あとはロドニーがヤモリを取り押さえれば任務終了なのだが――。
「う……なんだ、これ……」
よろめくロドニー。
異変に気付き、大丈夫かと声をかけようとしたマルコ。
だが、その声を発したのはロドニーのほうだった。
「大丈夫ですか!? ……って、あれ!? なんだ!?」
「俺の口が勝手にしゃべった!? ……えっ!? わ、私、今、何を? 俺って?? いったいこれは」
「何がどうなっているのでしょう!? ……ってオイ! なんだこれ! もしかして俺、お前の考えてることしゃべ」
「ってるんじゃねえの!? ……はい、そうですね。そのようです……」
「マジかよ! 気持ちを共有って、こんな」
「ワケ分かんねーアレだったのかよ! ……というより、これは言葉を司る脳領域に何らかの干渉をおこなって、双ほ」
「うの発話に関する神経伝達信号を入れ替えることにより混乱を生じさせる能力ではないかと……って何だよこれぇぇぇーっ! マジで頭が」
「おかしくなりそうだっつーの! ……私、今人生で初めて『だっつーの』と言った気がします!!」
「え? マジで? わりと普通に言わない?」
「言いませんよ、普通には」
「そうなの!? ……って、あれ? 今は普通に喋れてるな?」
「はい……あの、ところで、ヤモリはどこに……?」
二人が動揺している間に、ヤモリはどこかに身を隠してしまった。中庭には結界が張られているので、外に出ていないことは確かなのだが――。
「……なるほど、そういう能力か……」
「敵を混乱させて、その隙に身を隠すというわけですか……」
生物には捕食、縄張り争いのほかに、もう一つ絶対に外せない行動がある。
それは天敵から逃げることだ。
どんな生物にも、努力や工夫では絶対に適わない相手はいる。そんな相手とまともにやり合っていたら命がいくつあっても足りない。全力で逃げ、生き延びることこそ、次世代へと命をつなぐ第一歩なのである。
マルコとロドニーは顔を見合わせ、それから各々私見を述べる。
「『最恐の魔獣』という名称に引っかかっておりましたが、もしや、『最も恐ろしい魔獣』ではなく、『最も恐がりな魔獣』なのでは……?」
「ああ。俺も、なんか動きがおかしいとは思ってたんだけど……さっきまでのあれ、威嚇じゃなくて怯えて鳴いてたのかな? あんまり威嚇音っぽくなかったんだよな……」
「執事もメイドも能力の詳細を知らないということは、あのサイズの爬虫類を、貴族のご令嬢が一人で世話していたということになりますよね?」
「おう、そうなるよな? でも、普通のトカゲと同じ性格だったらぜってえ無理だと思うぜ。俺、トカゲに噛まれたことあるもん」
「あ、私もあります。小さくても、意外と凶暴なんですよね……」
二人は爬虫類の行動パターンについて考える。
肉食の大型爬虫類ならば完全アウト。昆虫食の小型・中型種でも、動く物を反射的に襲うものである。たとえあの魔獣が草食爬虫類に近い性質の生き物だとしても、体の大きさに見合ったパワーはあるはずだ。未成年の女性一人の手に負える超大型爬虫類がいるとは思えない。
魔獣は動物と違い、本能レベルで魔法を使う。
この大前提を念頭に考え直すと、逃げるためだけに魔法を使い、全く戦うことなく、身を隠し続けることで生き延びてきた種がいてもおかしくはない。
見た目の印象だけで『危険な肉食動物』と思いこんでしまったが、どうやら今回の捕獲対象は、第一印象とは合致しない生物だったようだ。
「ロドニーさん、匂いで探せますか?」
「探せるけど、どうする? 力尽くでいくか?」
「いえ、場所さえわかれば、ヤモリを閉じ込めたまま、こう、結界を縮小して……」
マルコのジェスチャーに、ロドニーはパッと顔を輝かせる。
「ああ、なるほど! どこにも動けなくしてから、目の前に檻を置けばいいのか!」
「はい。攻撃することも麻酔を打つことも無く、安全に檻に戻せます」
無抵抗の生き物を一方的に攻撃するのは気が引ける。マルコとロドニーは現時点で最も平和的な手段を選択し、『最恐の魔獣・モック』の捕獲作戦を続行した。
それから三十分後、『とっても怖がりなモックちゃん』は無事に捕獲され、檻はもともと設置されていた『お嬢様のお部屋』に戻された。
そして使用人たちからの聞き取りで、魔獣モックが暴れ出した原因がおぼろげながらも分かってくる。
「掃除機の音に驚いたのかもしれない??」
「はい。お嬢様は私共に、掃除機は使わないようお申し付けになられました。ですが今はお嬢様がこちらにおられません。ですので、私共は掃除機を使ってお屋敷の大掃除をしておりまして……」
「なぜ掃除機を使ってはいけないのか、理由がよくわからなかったんです。てっきり、お嬢様がお嫌いなのだとばかり……お嬢様は静かな環境を好まれる方ですので……」
「お嬢様のお部屋を掃除し始めたら急に暴れ出したので、びっくりして、そのまま……」
巨大な爬虫類が暴れ出したので、使用人たちは怖くなって逃げ出してしまった。その時、掃除機のスイッチはONのままだったという。
魔獣モックの檻の前には、モックが大嫌いな『怖い音の出る機械』が置き去りにされている。モックは必死の思いで檻をこじ開け、『怖い音』から逃れるために屋根の上まで這い上がった、ということのようだ。
「えぇ~と? つまり、モックちゃんは何も悪くない、これは偶発的な事故……ということで、報告書をまとめても大丈夫なんでしょうか……??」
ロドニーの問いに、執事もメイドも、これ以上ないほど大きく頷く。
「どうか、そのようにご記載いただけましたら……!」
「もしモックちゃんが危険生物として殺処分でもされたら、お嬢様が悲しまれます!!」
「私が悪いんです! 私が掃除機なんて持ち込んだから……っ!」
ロドニーは聞いたままを報告書に書き記し、記載事項に間違いがないことを証明するため、使用人たち全員にサインを求めた。
マルコはこの間本部に連絡を入れ、魔獣モックに関する学術記録の有無について問い合わせていた。すると面白いことが分かった。
「以前にも目撃例がある?」
「ああ。本部のデータベースを検索したところ、外見的特徴から、それらしい発見例が一件だけヒットした。約百五十年前の記録だ」
「百五十年!?」
「定時巡回中の騎士団員が遭遇、危険な生き物と思って攻撃したら、無抵抗のまま死んでしまったそうだ。発見場所もその屋敷の近くだ。前例があるということは、突然変異体ではなく、そういう種なのだろうな」
「しかし、この付近が魔獣モックの生息域だとしたら、百五十年間、誰にも目撃されずに繁殖していたことになりますが……」
「な? 面白いだろう? 誰にも発見されない能力の魔獣なんて」
「ええ、大変興味深い生態です。ですが、そこまで希少な生物であれば、王立大学か王立動物園で飼育すべきでは? 法的にも、個人飼育の許可は下りないと思いますが……?」
「いや、そうでもないぞ。魔獣モックには種名も学名も確定していない。よって、現行のどの法律でも規制できない状態にある。魔獣モックの飼育は適法、正式な飼育登録書を提出することも可能だ。王立大学の魔獣研究室にも問い合わせてみたが、生体の捕獲と飼育に成功しているのなら、学術研究のためにもそのまま飼育を続けてほしいとのことだ。研究個体としての飼育であれば、国から補助金も交付される。正式登録する意思があるかどうか、その家の主人に確認してくれないか?」
「了解いたしました」
マルコは通話を保留にし、家の主人にその旨を伝えた。すると主人は一も二も無く了承し、王立大学の研究に全面協力することを約束してくれた。
これにて一件落着。
一人の負傷者も出すことなく、無事に解決できた。
マルコとロドニーは意気揚々と馬車に乗り込み、現場を後にする。
だが、走り始めて五分も経たない頃だ。ロドニーがモコモコの犬耳をピコピコさせ、首をかしげた。
「なあ、マルコ? お前の通信機、鳴ってないか?」
「え? あ、はい! すみません、気付きませんでした!」
マルコは隣の座席に置いたカバンから通信機を取り出し、通話ボタンを押す。
発信元は、ついさっき話を終えたばかりのベイカーだった。
「マルコ、急がせて申し訳ないが、すぐ本部に戻ってくれ。中央市内に『最速の淫獣・早撃ちマック』が出現した」
「最速の……なんですって? それは魔獣の類ですか??」
「いや、ただの変質者だ。すれ違いざまに女性の顔に体液をぶっかけるタイプの」
「え……」
「何年か前からそれらしい事案はあったのだが、被害女性がすぐに顔を洗ってしまうせいで証拠が保全できずにいた。今回は同伴者が適切な対処を選択してくれたおかげで、犯人に繋がる証拠も現場の保全も完璧だ。速攻でケリをつけるぞ」
「ええと……その手の事件の捜査は治安維持部隊の担当ですよね? ただの変質者の一報が特務にまで上げられるということは、まさか……」
「そのまさかだ。被害女性はさる貴族のご令嬢。お父上が大変お怒りのご様子で、このままでは私兵隊による『無差別不審者狩り』が行われてしまう。王家の威光を振りかざしまくって、どうにか事を収めてほしい。もう俺や団長では止められそうにない」
「ふ、振りかざしまくって……ですか……?」
ベイカーの声の後ろでは、ヒステリックに怒鳴り散らす男性の声と、それをなだめる複数名の声がする。今まさに、騎士団関係者による必死の説得が行われている最中であるらしい。
事情はどうあれ、王宮のお膝元・中央市で私兵隊を動かせば反逆罪に問われかねない。そんなことになったら、被害を受けて傷付いている令嬢をさらに悲しませることになる。
この事態には一刻の猶予も無い。マルコはそう判断し、返答する。
「分かりました。急ぎ、帰投いたします!」
真剣な面持ちで通話を終えるマルコ。そんな同僚に、ロドニーは通話内容を問うたりしない。人狼の聴覚なら、電話の向こうの声もしっかり聞こえているのだ。
ロドニーはとても嫌そうな顔をして言った。
「ムックとモックの次はマックかよぉ~。あー、もぉー、今日はこれで……」
「ハッピーエンドだと思ったのによぉ、ですか?」
「えっ!? なんで分かったんだ!? もしかして、まだモックの魔法の影響が!?」
「いえ、なんとなく、ロドニーさんならこう言いそうだと思いまして」
「マジかよ! お前すげえな! 超能力とかあるんじゃねえか!?」
「ありませんよ!? 何日か一緒にいれば、だいたい誰にでも分かると思いますが!?」
「え、俺、そんなに分かりやすい……?」
「はい、とっても!」
「そう……なの?? マジで??」
本気で驚いた様子のロドニーを見て、マルコはふと、妙なことが気になった。
執事もメイドも、あの家の主人も妻も、魔獣モックの『気持ちを共有する能力』を実際に見たことは無かった。なのに、『そういう能力がある』と知っていた。お嬢様から聞いたと思うのが自然なのだろうが、それにしてはおかしなことがある。
そのお嬢様は、自分のペットの『苦手なモノ』すらキチンと説明していなかったのだ。非常に特殊な魔獣の能力について、誰かに話すことがあっただろうか。
なにか、根本的なところから間違っている気がする。
少し考えてから、マルコは声を落として言う。
「……ロドニーさん。私は今、非常に恐ろしい可能性に思い至っているのですが……」
「なんだ?」
「この春から全寮制の女学院に進学した『セリカお嬢様』は、本当に存在するのでしょうか?」
「え? なに? どういうことだ?」
「中央市に戸籍の照会をしても構いませんか? 私の想像が正しければ、あの魔獣はまったくの無害ではないかもしれません」
「……ん? あれ? ちょっと待てよ? 確かに、この四月からって言ってたよな? それにしては、あの家……」
ロドニーはマルコの言いたいことに気付き、顔色を変える。
二階のバルコニーに上がるため、家の中に入った。そのときロドニーが見たのは、家中に飾られた古びた家族写真だった。
そこには確かに幼い女の子が映っていたが、よくよく思い出してみると、何かがおかしい。
あの屋敷の主人と妻は六十代で、子供は一人しかいないと聞いている。
しかし、写真の中で赤ん坊を抱く姿はどう見ても二十代前半だった。
この春に進学した『セリカお嬢様』と写真の中の赤ん坊とでは、年齢が合わない。
ロドニーは魔導式短銃を抜き、魔弾のチャージを開始する。
「マルコ、お前は本部へ。『早撃ちマック』のほうは任せたぜ」
「はい。ですがロドニーさん、一応、きちんと確認してからのほうが……」
「いや、急いだほうがいい。よく思い出せ。檻を破って逃げ出したと説明されたよな? けどあの檻、どこか壊れていたか?」
「いいえ。扉の蝶番も南京錠も、新しいものに交換したようには見えませんでした」
「あれは人間を操って、自分にエサを運ばせ続けるタイプの魔獣なんじゃないか?」
「やはりそう思われますか?」
「戦闘能力が低いのは間違いねえと思うけど……急がないと、逃げられるかもしれねえ」
「ロドニーさん、どうぞお気をつけて」
「そっちもな」
走行中の馬車からひらりと飛び降り、ロドニーは来た道を引き返す。
マルコには『エサを運ばせ続けるタイプ』と言ったが、思い浮かべているのはさらに最悪な可能性である。
既に何人か、食われているのだとしたら――?
『セリカお嬢様』が存命中だとすれば、とっくの昔に家を出て、どこかに嫁いでいる年齢だ。家族や使用人の脳内から、彼女の思春期以降の記憶が消去されていることになる。
また、彼女が幼少期に他界しているのだとすれば、死亡した人間が『普通に成長して進学した』という偽の記憶が植え付けられている。
人間の記憶を操作することが可能なら、どこで誰が行方不明になっていても、騎士団に行方不明者の捜索願は提出されない。魔獣にとって不都合な人間をパクパク食べて、何食わぬ顔で『無害なペット』を演じ続けているのかもしれない。
できることなら考えすぎであってほしい。
祈るような気持ちで駆け戻ったロドニーが耳にしたのは、恐怖におののく女の悲鳴だった。
「クッソ!!」
悠長に扉をノックしている時間は無い。
鍵の掛けられた扉を蹴破ると、その瞬間、真新しい血の臭いが鼻を突いた。
「遅かったか!? どこだ!?」
ロドニーは人狼の姿に変じ、鼻を利かせてにおいのもとを探す。
「……っ! 上だな!?」
階段を駆け上がるより、玄関ホールの吹き抜けを垂直移動したほうが早い。ロドニーは人狼族のパワーに物を言わせて、柱や壁を蹴りつけて三角跳びを繰り返す。
三階の廊下に着地した瞬間、真っ先にそれが見えた。
血の匂いの発生源を探すまでも無い。廊下の先に、口の周りを赤くした魔獣がいる。
魔獣はロドニーの姿を見るなり、慌てた様子で背を向けた。
「逃がすかよ!!」
自分に対して無抵抗であることには変わりないが、もう攻撃を躊躇する理由は無かった。ロドニーは魔導式短銃を構え、魔獣の背中に魔弾を撃ち込む。
「ピッ……!?」
撃った魔弾は《ティガーファング》。虎牙の名の通り、これは貫通力を高めた弾である。四つ足・腹這いのヤモリは、尾の付け根付近から鼻先までを一直線に撃ち抜かれて即死した。
「……死んだ……よな?」
確実に死んではいるのだが、全身の筋肉はまだピクピクと痙攣している。ロドニーは慎重に近づき、魔獣の死を念入りに確認してから、ヤモリが威嚇していた部屋を覗き込む。
するとそこには、血まみれになったこの家の主人と、掃除機を握り締めたメイドがいた。
「あっ! おい! 大丈夫か!?」
主人は肩のあたりを噛まれてはいるが、あのヤモリに牙は無い。熊や野犬につけられる咬傷のように深くえぐられることは無く、命にかかわるようなダメージは負っていなかった。
「ギリギリ間に合ったみてえだな! 魔獣はぶっ殺した! もう安全だぜ!」
ロドニーの言葉で、二人の緊張の糸はプツリと切れたらしい。主人とメイドは抱き合うようにヘナヘナと座り込み、涙声で言う。
「ありがとうございます! 戻って来てくださったのですね!」
「来てくださらなかったら、私たち、ヤモリの餌になっていたかもしれません!! 本当にありがとうございます!!」
「いやはや、なんであんなものをペットにしていたのか……まったく訳が分かりません!」
「ええ、本当に! お嬢様はもう、何年も前にお嫁に行かれたというのに!!」
二人の声を聞き、奥の小部屋に隠れていた妻と執事、そのほかのメイドたちが転げそうな勢いで飛び出してきた。
「あなた! ああ、良かった! 食べられてしまったかと……っ!」
「ご主人様! 今手当いたします!!」
魔法の心得のあるメイドが治癒魔法を施し、主人の怪我は見る間に治っていく。
主人は治療する時間すらもどかしいといった様子で、ロドニーに、これまでのことを語りだした。
あれがいつから家にいるのか、今となってはよくわかりません。確かに娘のペットでありましたが、どこかで拾った小さなヤモリをクッキー缶の中で飼い始め、それが手狭になったころ、私に飼育用のガラスケースを買ってほしいとせがんできました。
娘がヤモリを飼っていることを知ったのはその時で、大きさと見た目から、ごく普通の動物と思って飼育を認めてしまいました。
そのあとのことは覚えておりますが、なぜ誰も疑問に思わなかったのか、今となっては不思議でなりません。ヤモリは際限なく大きくなり続け、娘が嫁いでいった後も、娘の部屋で飼育されていました。ヤモリとしてあり得ない大きさになっているのに、誰一人、あれがヤモリであることを疑おうとしなかったのです。
そしてもっと不思議なことに、あのヤモリにエサをやっていると、いつの間にか娘が小学校に通っていて、あの頃の姿で、元気よく「ただいま!」と帰ってくるような気になってしまうのです。
けれど、夕方になっても娘は帰ってきません。
なぜだろうと考えて、そこで気付くのです。
もう娘は、小学生ではないのだと。
そんなことを繰り返すたび、いつのころからか私たちは、『娘は全寮制の中学校に進学した。だから家に帰ってこないのだ』という、奇妙な設定に則って生活するようになっておりました。
思い返してみれば、あのヤモリは、娘が中学校に上がってからの姿をほとんど見ていません。娘は全寮制の中学を出ると、家に戻ることなく、そのまま許嫁のところへ嫁いでしまったのです。
ですからあのヤモリが……いえ、あの魔獣が私たちを操るために使った魔法では、それが限界だったのでしょう。実際に見ていないもの、知らないものの情報を共有することはできなかったに違いありません。
私たちはハドソン様とマルコ様がお帰りになられてから、ヤモリが暴れたことを娘に知らせようとしました。そして執事が電話番号簿を開き、女学院の宿舎の番号が、二十年も前に記帳されたものであると気付いたのです。
それからはあっという間でした。
私たちは全員正気に戻り、あれが危険な魔獣であると理解しました。
魔獣を退けるのに役立つのではないかと、掃除機やドライヤー、コーヒーミルなど、騒々しい音のする家電品を手に娘の部屋に向かいました。すると洗脳が解けたことを悟ったのか、突然凶暴化し、襲い掛かってきて――。
報告書を読み終えると、ベイカーは大げさな溜息を吐いてみせた。
「なんと、まあ、そういうオチになるとはな」
「誰も怪我せずハッピーエンドなら良かったんですけど……俺の判断ミスです」
「いや、あの時点で危険を予知しろというのが無理な話だ。気にするなよ」
「はい……すみません……」
ペコリと下げられたロドニーの頭をポンポンと叩き、ベイカーはフッと表情を緩める。
「お前が駆け戻ってくれたおかげで一人の死者も出さずに済んだのだ。十分な結果は出ていると思うが?」
「いえ、それもマルコが違和感に気付いてくれたおかげです。馬車の中で『戸籍の照会を』って言ってくれなかったら、俺、絶対に気付きませんでした。手遅れになっていたはずです」
ロドニーがそう言うと、隣のマルコはブンブンと首を横に振り、真面目な顔で反論する。
「私はただ、漠然と疑問を抱いていたにすぎません。家族写真の子供と話題に上る『セリカお嬢様』の年齢の不一致に気付いたのはロドニーさんだけですし、急いだほうがいいと言われたのもロドニーさんです。私はまるでお役に立てず仕舞いで……」
「んなことねえって! マルコのおかげだ!」
「いいえ! この事件を解決したのはロドニーさんです!」
「っんだよこの石頭! お前のおかげだっつってんの! 素直に認めろよ!」
「それはこちらのセリフですよ! 活躍の度合いはそちらのほうが断然上なんですから!」
「分からず屋!」
「貴方こそ!!」
互いに手柄を譲り合う喧嘩なんて、そうそう見られるものではない。
ベイカーは笑いながら手を挙げ、二人の言い合いを止める。
「分かったから、そこまでにしておけ。手柄は仲良く半分ずつ。ということは、ご褒美のクッキーも半分こだな」
そう言いながら、ベイカーは執務机の引き出しからクッキーの缶を取り出し、席を立つ。
「頭の使い過ぎで腹が減った。オフィスのほうでお茶にしよう。付き合ってくれるか?」
「もちろん!」
「喜んで!」
数秒前までの喧嘩はどこへやら。三人は仲良く連れ立って隊長室を出て行く。
「ところで隊長、そのクッキーどうしたんですか? 隊長にしては珍しく……その、なんというか……」
「安物だろう?」
「あ、はい、それそれ。隊長、そんな量販品食べましたっけ?」
「これは貰い物だ。昨日の『最強の魔獣・ムック』の飼い主からもらった。子供の小遣いで買える一番高い菓子を選んでくれたらしいぞ?」
「ホントですか? 犬が戻って来て、よっぽど嬉しかったんですね」
「ある意味では、どんなお菓子よりも高級品かもしれませんね」
「ああ、ちゃんと味わわないと罰が当たるぞ?」
そう言ってから、ベイカーは思いついたように言った。
「全部食べ終わったら、空き缶の中でヤモリでも飼おうか?」
突然何を言い出すのかと思い、ベイカーの目を見るマルコとロドニー。
そして二人は気付く。
これは勝負だ。
「ええ、良いですよ? ただのヤモリならね?」
「はい、ただのヤモリでしたら、私も大歓迎ですが?」
三人は真顔でそう言い合ってから、しばらくそのまま見つめ合った。
ベイカーの眉も、ロドニーの頬も、マルコの目元も、いずれもピクピクと震えている。
しかし誰一人その場を動こうとせず、そのままの表情で耐え続ける。
最初に吹き出した者がお茶汲み係。
暗黙の了解に則り、大人たちの『にらめっこ』は続く。