第七十二筆:反撃
ゾルトがコレットと交渉をし始めていた頃、戦場から離れた場所で行われていたチャールズと智、無名の演者にされたボブとの戦いは、進展を迎えていた。それは無名の演者となった故の力の発現によるものであった。赤褐色の体毛に顔の横に発達したヒダを発現させた姿となったボブ。その特徴的な体毛とフランジからオラウータンと合成させられたと推察できた。その証明を少しでもするように、類人猿特有の圧倒的な怪力がボブ本来の怪力と合わさり、チャールズの銃剣の剣先部分をいともたやすく掴みながら即座に握りつぶしたのだ。それは同時にオラウータンという生物の力だけでなく、刃物を握りつぶしたにも関わらず血を流さない、切れるという感触を与えないことから身体が機械で補強されている以外に新人類として怪力による身体の強化が図られているのではとチャールズには推察できた。つまり、ボブは力という力を凝縮させられた無名の演者になっているとひとまず結論付けることができたのだ。
しかし、話はそれだけだった。チャールズはその怪力を意にも返していないように、紙くずのように握りつぶされている銃口をたやすく引き抜き、正確には一部をボブの手の中に残したまま引きちぎり、いびつな形となった銃口を鈍器にし、智を助けるために近づいてきたボブの顔面を殴打、吹き飛ばした。そしてその吹き飛ぶボブとほとんど並走していたチャールズはボブが地面に着地したのと同時に右手で後頭部を鷲掴みにし、壁があるところまで顔面を地面に擦るように引きずりながら走り、その勢いのまま全身をぶつけたのだった。その衝撃をボブは黒い粘液で和らげつつ、自身の背中を押し出すことで、即座の反撃に繋げる。ただ、それをわかっていたように置いてあったチャールズの左腕がボブの首をかっさらう。ドゴンッという音と共に地面を陥没させながら接した、左手の中にある頭部以外の、首より下が反動で宙を舞った。
そんな猛攻だからこそ背後をとったと思った智は静かに構えた刀を心臓に突き立てるように押し込む動作を取る。
「強いってのも考えものだよな」
後ろに目が付いてるのか、と言いたくなるような絶好のタイミングで残っていた銃剣と刀が交わる。
「強いからこそ、行動がわかってしまう」
理屈を述べているようだが、この高速で規格外の二人を相手にして言えてしまうチャールズのセリフに、自分たちとの圧倒的な実力の差を感じさせられる智。パンッと銃声が鳴る前に引き金にかけた指の動きを見て距離を取り直すという対応をみせた智の行動はまさに規格外の対応力だった。しかし、そうするとわかっていたように、起き上がろうとしたボブの顔に今度は先程の銃剣を、発砲せずに即座に突き立てていた。再度危機を感じてもがきチャールズの左腕を両手で掴み直し、その瞬間にミシッという音を立てさせる。だが、抵抗虚しくチャールズの左腕は折れることなく、そうその人体は、腕は折れることなくしっかりとボブを固定したまま安々と右手の銃剣を心臓部分へ貫通させていた。天性にして新人類となった肉体、骨、加えてラクランズという機械の外装を感じさせないほど呆気なく貫通させたのだ。
智はここでした足止めに意味はあったのだろうかと思えるほど足止めにすらなっていない力量差に驚きを隠せずにいた。仮にもアンダーソン・フォースのナンバーツーであり、無名の演者としてさらなる高みに至った存在を造作も無いようにためらいなく機能停止に追い込む。恐らく最初から狙いはボブであり智を守るためにフォローに入り距離を詰めてくる瞬間を狙っていたのだろう。その狙いが達成された瞬間に、成長、強化という概念を感じさせないまま相手を殺し切る。最初の標的がボブであったにしろ智との数的有利を蔑ろにして。
その理由の答え合わせが、化け物のさらなる力、【夢想の勝握】を解禁することでなされる。
「自分の意志があるうちに話してもらいたい。なぜ、ここへ来た?」
対話が可能、即ちその場で尋問できる対象であった、それが智を残した単純な理由だった。
智は、つばを飲み込むと覚悟を決める。
「これから死ぬかもしれない自分がそれを話す意味はあるのですか?」
「あったんだよ……話せ」
その命令は三次元勝握を実行したことを意味していた。
◇◆◇◆
パンッというゾルトの頭部への先制攻撃を当たり前のように交わす純。
「ジャンパオロ、あれと戦うには三億じゃ割に合わない。今すぐ撤退した方がいい」
声を大にして意思表示をしたのはマーキスだった。マーキスは幾度となくパーチャサブルピースの社員として実害を被らせられ続けた側であるからその脅威を骨身に刻まれているのだ。しかし、その言葉に反して突撃する人間が二人。一人は怖気づくよりも前に一発先制で攻撃を行ったゾルト。
そしてもう一人は。
「あの時はよくも」
ヒラリアである。
指先までピンと伸ばした手刀が純の心臓へ吸い込まれるように伸びていく。
「仇討ち? いや、生きてるから違うか。まぁ、その……残念、二の舞だよ」
ヒラリアの攻撃速度に対して余裕をもった、あまりに長い返事を聞かされる。
そして、ぐるりと視界が一回転したと気づいた時にはヒラリアの後頭部は地面に打ち付けられていた。
「そのままおやすみ」
ゴッと音がするぐらいに顔面を踏み抜かれ、その反動で身体が一瞬宙に浮くと、ヒラリアは白目を向いて気絶していた。圧倒、である。これに関してはヒラリアが弱かったというわけではない。
イザベラですら遅れをとった相手を目の前にした、ただそれだけの、当然の結果に過ぎないことだったのだ。
「ハハッ、あんた本当に強いんやな」
ヒラリアを気絶させるために片足立ちになった純の体勢を崩すために足払いを仕掛けたゾルト。一度、あの世界への宣戦布告の場に立ち会っていたにも関わらず、相対する間もなくその場から姿を消してしまった、人類最強と謳われる、チャールズに言わせる存在。それを目の前にしてチャールズを相手にした時以上に昂ぶり、本能が警戒しろと訴えかけてくるのを感じていた。相手は間違いなく規格外。その純はゾルトの追撃を跳ぶという選択でひょうひょうと交わす。宙に浮くという無防備な時間を躊躇なく生み出した相手に攻撃が当たるというのは当然のことである。だから、ゾルトはそれを故意にやった人間に安直に発砲はしなかった。やるならばゼロ距離で撃たなければきっとかわされる、防がれると信じて疑わなかったからだ。故に加速は出来ない宙に浮いたのを見てからゾルトは走り出した。それに合わせてゾルトの意図に気づいたジャンパオロがゾルトの後ろへ周ってで銃を構えた。そしてためらいなくこちらは撃った。ジャンパオロの銃から発射された銃弾はゾルトの右頬をかすめながら宙にいる純の心臓へ向かっていく。ジャンパオロのからすればゾルトが最善を行くならば、そこへたどり着くまでにやれる手段を試すだけだと判断して行動だった。誰もの想像通り空中で攻撃を、ましてや弾丸を避けるという行為が人間業でできることはほぼほぼないはずなのだ。つまりそれで決められれば、そこで万事解決なのだから試さない理由ではないのだ。
そして、ジャンパオロの放った銃弾は純が持っていた小型のナイフに当たり、いや純が当てながら意図的に跳弾として的確にゾルトがすでに手放し始めていた拳銃の銃口へと吸い込まれる。なぜならば、ここまではゾルトにとって想定の範囲内だからだ。味方のフォローが失敗する可能性はまさに今起こったこの通りで発生すると想像、いや純の実力を信頼していたのだ。そして、銃が内部で破裂する音を耳にしながら、ゾルトは急停止し、右脚の大腿部を腹につけるように上げ、下腿部を突き出すように、前蹴りを繰り出す。
地面に足がついていない、大きな力を前に大きな力を加え返すことが出来ない状況、純がこの一撃を受け流すすべはなく、必ずどこかで受け止める必要がある一撃。
「いい選択だ」
ゾルトの前蹴りに合わせるように純は左手をゾルトの右足裏に突き出す。この行動が意味するのは、ゾルトの狙いが純に割れていたということである。この戦場ではまだ見せていない、ズボンの下、くるぶし辺りにセットしてあった拳銃を右脚ごと純の腹部に押し付け、押し倒しながら引き金に指をかけようとしていたことを、だ。別にこの意表をつく技を自身の必殺技のように宣伝した覚えはない。そういう意味では間違いなく初見のはず、そう思って少なからず一撃を確実に決められると思っていた技は右脚に触れて支えを手に入れた左手一本で押し返され、実現することはなかった。
ゾルトはそのまま後ろにいたジャンパオロを巻き込みながら数メートル後方へ吹っ飛ばされる。
「休んでる暇ないぞ」
ゾルトの腕よりも低い位置から両腕を巻き込み、万歳させるように純の右脚が蹴り上げられる。両腕がちぎれたのではないかと錯覚する感覚で上がるが、顔面への直撃はなんとかその勢いでのけぞりながら交わす。しかし、手元から銃がなくなり、後ろではゾルトに押しつぶされて身動きが取れずにいるジャンパオロがいるせいで即時攻めに転じる、迎撃するのが難しい状況にあった。だから、蹴り上げられ、次に落とされる純の右脚に合わせるようにゾルトは頭突きを決めた。勢いがついた攻撃の直撃を受けるよりも前に、何より片足立ちの状態の相手のバランスを崩すここでの最善手であった。問題は純の体幹がその程度でブレなかったということである。
そこから純は上げさせられていた足を下ろす勢いで身体をひねると、左脚をきれいにゾルトの左頬に決め真横に吹き飛ばす。
「残念」
その言葉はゾルトに対してではなく先程の位置から身体を捻ったことで少し移動した純が先程まで立っていた場所に背後から刀を振り下ろし、空を切らせていた泰平に対するものだった。一方、泰平はそんな煽りに一切反応を示さず、足を負傷したのか立つのを難儀にしつつも銃口を純に向けていたジャンパオロの方へ駆け出す。そして、タックルをかますような低い姿勢からなめらかに左肩でジャンパオロを担ぐ泰平。
逃げの一手、そう判断した純はジャンパオロの泰平への追撃に対する牽制の銃弾をかわしながら、ゾルトを吹き飛ばした方へ走り出す。そこには、ゾルトを抱え戦線を離脱しようとするマーキスの姿があった。
◇◆◇◆
「ジャンパオロ、あれと戦うには割に合わない。撤退だ」
マーキスは義理として警告だけして、この場を自分一人だけでも一目散に離脱するつもりだった。実際、この後、即座に背を向け、戦場の喧騒の中に紛れ込みかけていた。では、なぜ紛れ込まなかったのか。
こうしてゾルトを抱える役を担っていたのか。
「待ってください」
純へと飛びかかる面々がいる中、マーキスと同じく戦闘への参加を見送った泰平が肩に手をかけて止めたのだ。呼び止めた相手がマーキスと同じく純という男の実力の一端をこの場にいる人間の中では実際に知っている側な人間だっただけに、呼び止める意味を理解しかね眉をひそめる。
一方で特に泰平は雇われたわけでもないため、引き際があるとなった時に躊躇なく離脱できるはずなの立場で、何か止めるだけの意味があるのだろうと足を止める理由にはしたのである。
「なんだい。まさか、一緒にやりあおう、なんて言わないよな?」
最悪のケース、強大な悪に打ち勝つ、ここで親玉の一人でも取れればそれこそ戦争の集結が早まる、などといった早計な正義感を問われてはたまらないと、先手を打って誘われても断るという牽制の意思表示を言葉に混ぜておくマーキス。
「残念なことに、そこまでバカにはなれない。でも、彼らを見捨てる気にもなれない」
「……そこから先は報酬次第、だな」
加勢するわけでも、見捨てるわけでもない。そこから導き出される答えは全員が戦線を離脱することのフォローである。正確には戦闘不能となったジャンパオロたちを迅速に回収することだと理解する。つまり、逃げに徹する。
マーキスはそれならばやり遂げる可能性があると判断したのだ。
「ソフィーはアンダーソン・フォースに所属している。そう伝えればいいと言われてる」
泰平はそう言いながら一枚の写真を見せる。
「退路まで確保してたてわけか。さすが、情報戦を得意とすると豪語するだけのことはある」
ゾルトのフォローにまわって銃を構えているジャンパオロを見ながらマーキスはそのジャンパオロの用意周到さにため息をつく。
「じゃぁ、俺はそこで伸びてるヒラリアをとりあえず外まで運ぼう。後は様子を見て……ゾルトを俺が担当しよう」
ジャンパオロではなくゾルトを選んだのは保険であった。この場から仮に逃がすべきではない人間を考慮するならば、やはり戦闘力よりも情報戦に長けた人間であり、前者よりも後者のほうがこちら側に代えがいないのが現状である。つまり、敵からすればジャンパオロを潰せば大きく勝利に近づくのだ。
ならば金はすでに振り込まれているはずであるという判断が、危険に飛び込むような真似を、リスクを回避するように選択したのだ。
「そういえば、あんたが知ってもいい情報ってことは、あんたは知ってたのか? ソフィー・コラードについて」
「国と一企業では流石に差が出てもおかしくない、と考えてください」
「……なるほど、ね」
そう言ってヒラリアの回収に動こうとして、マーキスは一旦止まる。
「そういえば、あんたは善意でこれを引き受けたのか? それとも俺と同じく実hあジャンパオロに買われてたのか?」
「もちろん、善意ですよ。貸し一つってやつです」
「食えないやろうだ」
それは善意ではないのだから、泰平は強かな男であるとマーキスに印象付けられたのであった。
◇◆◇◆
どうしてこっちを優先した。それがマーキスの疑問だった。ゾルトとジャンパオロならば間違いなく後者を優先すべきなのである。なぜなら……と参戦を決めた時の自分の思考を脳内で復唱しようとしたマーキスは自分が致命的な思い違いをしていたことに気づいた。そう、なぜ自分たちがこんなことをしているのか、と。それは戦況が停滞しているからである。それが意図的である場合、双方、もしくは敵側に勝利の意思がない可能性があるということ、であった。つまり、ゾルトを追いかけてきた純は純粋にどちらと戦う方が有意義かでこちらを選んだだけなのだ、と。
そう、勝つならジャンパオロなのだ、だから保険はただの地獄直通チケットへと必然的に転換したのだった。
「置いてっても構わないんやぞ」
マーキスの考えを見透かすように、ふらつきながら立ち上がるゾルト。
「残念だが、撤退の依頼を受けた時点でそうしたくても……とりあえずはしない」
信用の問題だった。傭兵である以上、自らの命を投げ打つ様な殊勝な心構えはないが、同時に契約して、達成できる可能性がある限り、それをなさなければ今後の信用に、収入に関わるのである。逃げるだけならばできる、そう思ったからこそマーキスはここに立ったのだ。
ならば。
「立てたな。なら俺に背中を預けたまま行け」
マーキスはそう言うと牽制のために銃を構えた。はなから当たるわけがないのである。だから進行方向を変えさせる程度の機能が得られればそれで万々歳という考えで、純の行く手を撫でるように乱射した。しかし、相手は先程の時点でジャンパオロの銃弾に反応した男である。
手にしたナイフで的確に弾きながら最短で近づいてくる。
「ただ今回はカンが良かっただけなのか」
そして先程まで目の前にいた男のその声は下からやってくる。さっきまで銃撃をさばいていたのではないかと思わされるほどに理不尽な強さを痛感する。
そしてそのままマーキスは何をされたのかわからないまま意識を失う。
「……あんた、楽しんでる?」
微笑しながら目の前に立つ暴力の塊にゾルトが声をかける。
「続けな」
純がそう言うとゾルトはお気遣いどうもとニヤけてから続けた。
「あんたは強い。憧れるわぁ。俺はそんな強者と戦えることを楽しんでた。だけど……」
一呼吸。
「あんた強すぎて、初めて楽しい、じゃなくてどないせいっちゅうねんって思ったわ。そんな人間相手にあんたは楽しめてるんかなって」
「……いいこと言うな、お前」
そう言って純は礼だと言わんばかり力を腕に込めるのがわかる。対するゾルトもこれに対する解答がないと悟っていた。だから、せめて見ようと脚に力を入れる。しかし、攻撃は一向に飛んでこない。逆に構えた拳を固めたまま徐々に顔色が変わっていく純がいた。その顔は理解できないことが起こっているという困惑がありありと浮かんでいた。しかし、この出来事は突如として生まれた大量のラクランズを媒体とした無名の演者の行進の喧騒に飲まれているのだった。
◇◆◇◆
「俺……は」
意識が戻ったとわかった智は壁によりかかりながら座っていることを認識し、背を向けて立っているチャールズの姿を捉えた。
「終わりだ。俺と君がこれ以上戦う必要はなくなった」
「……しゃべったんですか、俺は」
「君がなぜこんなことをしているのかを知れただけで、俺の知りたいことは何も知らなかったようだ……ただ」
「ただ?」
「結局、俺は時が来るまでこの場から動けないようだ」
「そうですか」
それだけだった。つまり、智の目的は奇しくも達成することが出来る、ということである。
世界の命運を分けるであろう戦争の中、ただそれだけで彼らはその場に留まり続けるのだった。
「バチでも当たらないかな」
その罪悪感から来る謝罪の言葉が届くことをチャールズは知らないのだった。
◇◆◇◆
なぜ、自分は今痛みを覚えているのか。純は理由を考える。痛みを知らないわけではない。成りすましによる自分との戦闘によって意識を途切れさせたこともあれば、【雨喜びの幻覚】による不可視の刺突で致命傷を受けたこともある。命に関わらずとも、紘和を始め様々な熟練者との、強者との戦闘を経験し、そこで攻撃を受けてきた。だから痛みは知っている。納得いかないのはどうしてこの痛みを自分は今覚えなければならないのか、ということである。日頃の行いが災いしただの、そんなくだらない迷信の様な判断力は必要ない。純粋になぜ、自分がこんな単純な攻撃で負傷したのかが問題なのである。
純はゆっくりと痛みのする左背面の腰を確認するためにゆっくりと振り返る。そこには確かに短いナイフが乱暴に突き刺さりじわりと服に血をにじませていた。一体誰がこの状況で、そう考えてナイフが投擲されたであろう軌道上の人間に目をやる。そこには、純の目と鼻の先に男が一人、攻撃を当ててしまえたことにそのものに驚き、身体を震わせながらゆっくりと後退している姿があった。今にも泡を吹いて倒れてしまいそうなビクビクした男は、自身が達成した偉業を偉業と認識せず、むしろ敵意の対象をとってしまったことを後悔しているようにも見える。
とにかく、純に一撃を当てた男はただただ震えていた。
「誰だ……お前?」
純の知らない男。この場で唯一特筆すべき要素のないただの一般兵。それは強くないが故にわからなかった、強者に紛れてしまった存在。純だって目の前の蟻が襲いかかってくるとわかっていれば身構えるだろう。自身の三百倍もの重さを持ち上げてしまうその一噛みは、容易に人の皮膚すら傷つける。しかし、普段からそんな存在に気を配っているかと問われれば、そんなことはない。あまりにも小さく、人間という立場から見ればどれだけ弱い、容易にひねりつぶせるかは、想像に難くないだろう。そんな力を持ち、ある程度強いが弱い存在、純にとってそうカテゴリーされる人間の攻撃だからこそ警戒網を掻い潜り届いた、届いてしまったのである。刺さった位置から殺す気はなく、意識を反らせればいいだけという感覚で投げたことは伝わる。そして、銃を撃つわけではなくナイフを投げるという非合理的で、確実性を伴わない一撃。純とこの男の距離ならば発砲音など関係なく、致命傷を与えられたはずだからだ。だが、しなかった。
その行動がこの男の悪手であり最善手となったのだ。
「ニック・バンス……です」
「ニック・バンス」
ガチガチと顔の震えで鳴る歯の衝突音から聞いたことのない名前が返って来る。それを覚えるように純は復唱する。この怪我は生命維持が出来ないほどではない。
しかし、現状で戦闘を継続するには、ましてやこの後控える連続の大舞台を考えると余裕がなくなったのは事実だった。
「キィァアアア」
突然轟く声が空から降ってくる。純が傷ついたのを見て、待機していた上空から降りてきたのだろう。純の身を守るように右翼で身体を包み込む無名の演者。
つまり純の動きが完全に封じられたのを見て、今まで動かなかったもう一人が動く。
「逃げてください」
コレットの声と共に辺り一帯の地面が氷床に亀裂が入るように隆起し、無差別に足場を悪くする。その行動に、最適解を出せるのはただ一人、純を助けるべく降りてきた無名の演者だけであり、純を護るために抱えるとそのまま空へと逃げていく。降りてくる気配はなく、そのスキを見計らって全員が足場の悪くなった地面を、負傷者を抱え撤退していた。
まんまとこちらが逃がしてあげた、そう取れる形を無名の演者の防衛本能により不本意に生み出してしまったのである。
「くくっ、最悪が上振れした。戻るぞ」
純は陸の元へ戻るよう、無名の演者に指示する。
「最悪だが、いい暇つぶし……で片付けるにはちとイラッとしたな」
そう言ってゾルトが尋ねてきた言葉を思い出していた。
「確かに、俺が勝てない勝負はつまらないな」
そう言って、無名の演者の背中へ移動して乗っていた純は首を右に軽く傾ける。何かが通ったようには見えないが、その後ブワッと風が巻き起こり純の髪が揺れる。それはつまり純が見えない何かを避けたということである。
遥か向こうの戦場に目を向けて、点にしか見えない当人を見て、これには気づけるんだと純は笑う。
「やっぱ、お前とやり合うのが一番楽しいよ……紘和」
無名の演者は高度を上げ、追撃の射程外へと逃げるのだった。
◇◆◇◆
「助けてもらえるとは思ってなかったよ」
泰平の肩から降りてゆっくりと後退している中、隣へ近づいてきたコレットにそう言った。
「途中までは、あの男に全員殺されてしまえばいい、そう思っていました」
「まぁ、君の置かれた立場を考えれば意趣返しとしては完璧だな。でも助けた、ということは俺たちを失うことのデメリットが機械的に算出できたということかな?」
コレットは顔を左右へ振る。
「いえ、これから起こるであろう最悪を予測できたからです」
「皮肉だね……このままで終わるのが最良だったのに、最悪に救われたってことか」
もちろん、あの状況で純が無理に追撃をしてくる可能性はゼロではなかった。
そして、その状況をゼロに近づけたのが、上空へ飛ばさせるに至ったコレットの行動だった。
「それで、どうなんだい?」
「無名の演者となった大量のラクランズが人を求めるように人々を食らってます」
「そっか」
「そこにいるのは皆プロタガネス王国、もしくはそこから派遣された、つまりあなた方が指揮するアメリカ軍が大量にいました」
その言葉に反応を示したのは泰平とゾルトだった。
泰平は眉間にシワを寄せ下唇をキュッと上げる、なんて正しい残忍さなんだとでもいいたげな悲しげな表情を。
「それで許されるほど甘くはないぞ、ジャンパオロ」
と神妙な面持ちで語る。
「責任感じてる間は、同罪のよしみで俺が護ってやんよ」
しかし、次の瞬間、カッと笑顔で先の言葉をゾルトは告げるのだった。
「フッ。まぁ、後は動いてくれれば、そんな責任も軽微なもんになるんだけどな」
直後、空気を地面を震わせるほどの、クジラが歌うような深く響く音が伝播する。見渡すと戦場にいる無名の演者が一斉にただ雄叫びをあげているのがわかった。そして、それは同時に合図なのだと、この独断行動を憶測だけで行って来た者たちは悟る。戦場にいる人類側は皆等しく耳を防ぎ、突然の異常事態に攻撃の手をほとんどが止めている。そんな状況が三十秒ほど続いて止んだ後に事態は明らかに悪いとわかる方へ転がり始めた。
黒い雨が降り始めたのである。それが誰の目から見ても黒い粉を用いて作られたラクランズを、そして人を取り込むあの黒い粘液だということはわかった。新人類の異能である転移による攻撃なのかはわからないが、必要数の転移が確保できたからこそ行われた荒業と捉えたほうが納得がいった。これを浴びた機械はすぐに人間側の制御下を離れる。一方,人体に付着した黒い粘液はうにょうにょと動くだけだった。しかし、それが大量に降り注ぎ大量に付着した人間は皆無名の演者の様になってしまうと経緯を想像し錯乱状態に陥り、戦場をパニックで染め上げる。それは同士討ちを引き起こし、負傷した人間はやすやすと黒い粘液に取り込まれることとなる。それがラクランズだけの無名の演者と混じり合う。負の連鎖が、無名の演者の自給自足が成立した瞬間だった。
そんな中、一通の連絡が、待ちに待った連絡がカウンターのようにジャンパオロに届くのだった。
◇◆◇◆
「すごい咆哮、いや泣き声だな」
チャールズが立つ位置からでも遥か遠くの戦場で一斉に鳴いた無名の演者の声は聞こえていた。
「これは一体」
「無名の演者が泣いてるのさ」
「いや、鳴いてるのはわかってるんですけど」
そう言って智はカクカクと音に引かれるように意識がなくなっていたはずのボブの無名の演者が動いていることに気づく。
つまり、集団で強制的に何かを行う前触れなのだと理解した。
「その時が来ればわかる……か。本当にわかるもんだな、その時ってのは」
何かの思惑を意味深にぼやくチャールズに目をやる智。
当の本人は智には目もくれずどこかへ連絡していた。
「リディアか。状況は……なるほど、それは……お前には残念と言うべきか良かったと言うべきか悩むな。ただ、これはお前が築き上げてきたからこそなせることだ。俺からはありがとう、と言わせてくれ……それじゃぁ、準備は始めてくれ」
そしてまた別のところへ連絡する。
「……声を聞けて本当に無事と確認できて一安心です、バシレスクさん。……えぇ、彼なら今ここに……はい、生かしてますよ。それで、ですね……ははっ、流石は年の功、あなたにもこの時、というのはわかるんですね。それでは現場に……はい、お願いします」
「この時?」
通信を終えたチャールズに問う智。しかし、その問いにチャールズが応えることはなかった。
自身が感じたこの時と、バシレスクたちが感じたであろうこの時はまるで別のものだからだ。
「それじゃぁ、仕事に戻ってもらおうか、智」
はぐらかされたと思いながら自分に課せられた、チャールズの足止めは今終わったという悟りから智は頷きながら立ち上がるのだった。
◇◆◇◆
「またせたな、対【想造の観測】作戦開始だ。やれ、バルボ」
「委細承知」
バシレスクの命令にジャンパオロは懐から一つのスイッチを取り出す。
「やっちまえ、化け物共」
カチッという音と共に、周囲の電気という電気による明かりやそれで稼働していたものが停まるのが、昼間でありながら明かりを灯す、信号機や倒壊しかけたビル群からも一目瞭然でわかった。そして次の瞬間、一番に目に止まったのは無名の演者が電池が切れたようにピタッと動かなくなったこと。
それに続くように、ラクランズが、戦車が、ありとあらゆる電子機器を用いられたものが、ピタッと止まり、結果戦闘機に至ってはミサイルのようにそのものが戦場へと墜落していた。
「これ……ほんまか」
ゾルトの声はこうなる予感はあったもののまさか本当にこの手ができたのかという純粋な驚きからくるものだった。
「リディア・ロビンソン。機械兵器の生みの親が作った機械を殺すためだけに作った電磁パルスの完成形、その結果がこれだ」
ラクランズとは限らなかったが、【想造の観測】による何らかの見られる行為が直接でない限り機械を通すと予想できていたからこそ進められていた研究。それが実ったことにより、蝋欲物を始め、様々な異能が人間側で解禁されることとなる。
本来の人間としてのスペックをラクランズにより均一化していたという点から無名の演者の弱体化も必至であり、大きく戦局が傾くのは必至だった。
「そして、その対抗策がやっぱり君だったわけだ」
そういってジャンパオロが見つめる方には未だ稼働を続けるラクランズ、バーストシリーズが一基、コレットの姿がそこにあった。




