第百五十七筆:志すは麗しの修羅
「聞き流してくれても構わないんだけど」
ヨナーシュは紘和の実体のある、目視できる刀による一撃を適宜、金属製のプレートを流動的に手足へ纏わせ受けていた。軽い損傷の連続ならば想造ですぐさま補強、修正が行えるため、ただの剣戟に対しては有効な対策であった。相手が紘和だからこそ、想造による対処の回数は多いが、それでもこの状況ならなんとか賄える、故に防御手段として継続を続けていた。
先程のセリフはそんな右腕で刀を受け止めた時の紘和のセリフだった。
「あれ、変異種って言うんだって? 共闘してるの? それとも隷属させてる消耗品なの?」
「答える義理があるとでも?」
右手で弾くことで距離を取るヨナーシュ。
そんな姿に首を鳴らしながら純は雑談を続ける。
「俺も質問の仕方も悪かったかな。あれ、意思疎通が出来る状態?」
「出来なくはないんじゃない。意思疎通の是非で何か変わるの?」
「ってことは俺の知らない陸のガラクタ、の線は考えなくてもいいわけか。でも何か既視感があるんだよなぁ。今日に間に合わせてゴーサインが出せるようになったってのは考えすぎか?」
その言葉はヨナーシュに向けられた言葉ではなく、あくまで状況を整理した言葉がポロッと出たように小声、だった。紘和の思惑は一切わからないが、ヨナーシュはその整理の時間を隙と見て出来る限りの後退を始める。理由は単純、二界之頂たちが真上に到着したからである。それは先程よりも至近距離から威力減衰を最小限にした一撃を四方囲んで放射できる状況であることを意味する。事前の取り決めで、味方の人的被害は対紘和の時のみ適応しない、としていたため、状況から結果的に意表を突くことも可能だろう。戦闘中に考察などしている余裕を見せるからだ、そんな捨て台詞を胸にそれなりに距離を取ったヨナーシュは目の前に二界之頂を見た。
そう、紘和とヨナーシュの対角線上に二界之頂がいたのだ。
「……は?」
撃墜された、そう形容するには攻撃を食らった形跡が、外的損傷も、攻撃が行使された音、振動、匂い、何もかもがなかった。わざわざ制空権を手放す理由はないため勝手に降りてきた訳でもない。勝手に降りてきたなら、そもそもカエルが踏み潰されたように拉げて地面にめり込んでいるような状態であるはずがないのだ。そう、落下によるダメージに二界之頂は悲痛を訴える声を上げている。だから、何かはされたのである。
この世界の常識で考えるなら、外的損傷がない上での撃墜、それを可能にするのは恐らく想造により対象の周囲の空気中の物質の含有率を操作し酩酊状態を誘発する、ということだろう。それは酸欠でも一酸化、二酸化炭素中毒でも可能なことだ。しかし、問題はそんな常套手段、少しでも異変を感じれば想造を駆使して解除することが出来る、少なくともここは密閉された空間ではなく、何より二界之頂はそのぐらいの想造は難なくこなせるスペックを有している。対策できないはずがないのである。仮に密閉空間が出来ていたとしても容態を確認するために近づいたヨナーシュに何一つ影響がないということは、空間の密閉が行われていないことを逆説的に証明することになるのだ。そして何より、二界之頂は未だ痛さに意識を持ち、即座に起き上がっているのである。つまり、意識は明瞭である、ということである。
だから、ヨナーシュはこれが蝋翼物【最果ての無剣】による何らかの攻撃であることをワンクッション挟んでようやくたどり着いた、ということである。厄介なのは、元凶がわかっても原因がわからないことにある。まさに未知という恐怖をヨナーシュたちは押し付けられているということである。だからこそ、観察が必要となる。
すでに展開されているであろう無色透明の剣の脅威を再認識させられた上で、である。
「チート野郎が」
「……何だか新鮮な物言いだ」
紘和のキョトンとした顔が、本当に今までそんなことをあまり言われたことがないのだろう、そう物語っていた。それは授かった力であれ、その運命すらも全て自らの力である、と肯定することが常識の世界から来たのか、それともこの力が霞むような別種の力が跋扈する世界から来たのか、そんな会話を与える間もなく敵を死に追いやっていたのか。
どれを想定したとしても、厄介なことに変わりはない、それがヨナーシュの結論だった。
「じゃぁ、そんな見返りにどうしてこいつらが飛べないのか、教えてもらえます?」
飛べない。その判断を下したのは簡単で、落ちた二界之頂が再び空へ舞おうと一定の高度に達すると地面へ吸い寄せられるように落下していたからである。単純に考えるならば重力操作を疑う状況がそこにあった。
そこから更に観察することで想造で対処するために、ヨナーシュは時間稼ぎの意味で質問をする。
「宝剣、師子王って知ってるか?」
ヒントないし解答が返ってくるとは思っていなかっただけに、武器の名称が出てきたことにヨナーシュは驚く。
「学がなくてね。有名な御伽噺か英雄譚なのか?」
「……いや、そこは別に。源平合戦は?」
「何だ、そっちでは有名な大戦なのかい?」
シーンと静まり返った、そう錯覚するぐらいの紘和が何せず硬直した時間が発生したのだ。それは返答が気に入らず逆鱗に触れた嵐の前の静けさ、ではないことだけはわかる。
表情、そして沈黙を経て顔を伏せ、思案するその様からも、何か気づいてしまった真相のことの大きさを受け入れきれない、消化しきれない状況がさっきの静寂だったのだろうと推察できた。
「可愛げがある」
その気付きとは一体何なのか、こぼれ出た紘和の言葉が気になるところだが、再度質問をすることを選択した。ちなみにここで不意を撃つように銃撃や想造を行使しないのには当然理由がある。この質問する時間を作ったのがヨナーシュであること、それだった。つまり、この状況を作った側が反故にするように攻撃を開始すれば、紘和のそれこそ逆鱗に触れかねない、と判断したのだ。何らかの理由で【最果ての無剣】を一方的に行使して責め立てない、ナメた行動を取っているのだ。些細なことでその余裕が消えてしまうことだけは避けなければならない。
やるなら確実に、そうでなければ被害を最小限に負けない戦いを心がけねば、明日へ繋げられないのだから。
「どうしたんだ? 教えてくれそうな雰囲気だったのに。ケチケチしないでくれよ」
ヨナーシュの言葉で現実に引き戻されたような顔を向けた紘和はポリポリと右手で頭をかいているのだった。
◇◆◇◆
「何だ、そっちでは有名な大戦なのかい?」
源平合戦、これ自体は日本人であれば、有名も有名、義務教育で習う歴史的大戦の一つである。故に様々な逸話がこの時代から残されている。しかし、あくまで日本では、であり世界的に見ても認知度のある大戦か、と問われれば、どう答えるべきか困る程度の歴史である。そして、今紘和の抱える問題はこの源平合戦がこの地球とされていた彩音によって創られた世界に存在する、根付いた歴史だということである。つまり、彩音の住んでいた世界、ハーナイムには存在しない歴史であるのだ。その確認の意味も込めて紘和は先程、ヨナーシュに質問を投げかけたのだが、返答は知らない、であった。もちろん、本当は知っているが、故意に情報を伏せている可能性、存在するが本当に知らないだけの可能性もある。
ある、が、紘和の第六感はすでにこう紐づけた結果一つの問題提起をしていた。彩音は自分の創った世界の世界観から逸話や英雄譚、伝承を創ったのならばまだ良い。だが、実例、紘和たち創られた人間を知っているならばこの可能性を真っ先に考えてしまうのが妥当だろう。
それは、参考にするべき文献がこの世界とは別に存在していること、である。
「可愛げがある」
そう、ここまでは可愛げがあるのだ。あまりに荒唐無稽で壮大にも関わらず、可愛げがあると断定できるのだ。では可愛げがない可能性とは? 紘和にとっての最悪は因果性のジレンマに繋がる形而上学的問題を孕みかねない、可能性に立ち会った張本人である可能性である。いや、そう思ったこの瞬間の自分はすでにジレンマの狭間の存在なのではないか、そう感じさえしていた。今考えた所で答えは出ない。
しかし、今からでも考えておかねば自分という存在の意義が問われる。
「どうしたんだ? 教えてくれそうな雰囲気だったのに。ケチケチしないでくれよ」
今はこのヨナーシュの時間稼ぎに感謝しよう、という現実逃避という現実との現在最優先の事項と向き合うことに集中する。
「源頼光の後胤兵庫頭頼政が、東三条の森から黒雲に乗って現れ二条天皇を悩ませた妖怪変化を見事射落とし、褒美として賜った鳥羽院より伝わる御剣、それが宝剣、師子王だ。その逸話に則り、この剣は自分が対象とした相手の制空権を奪う。つまり、ただ地面に落とすんだ……便利だろう?」
あぁ、便利過ぎる、その代償とも言えるのだろう。彩音を見つけて落とし前をつけるより先にやらなければならないことができた瞬間だった。
◇◆◇◆
「つまり、ただ地面に落とすんだ……便利だろう?」
紘和から告げられた異能の力は、自然の摂理に反するものだった。便利だろう、まさに言葉の通りだった。無重力も従来の高度に則さない負荷の重力をかけることも、それが出来る限定的であれ可能ならば、ヨナーシュの知らない知識で紘和が実現している可能性もさっきまではあった。つまり、対抗する手段もあったかもしれなかった。しかし、返ってきた答えは空にいたら落とすという結果を再現する、である。そういうものであり、それ以上でも以下でもないならば因果に介入することすら出来ない、ということである。
即ち、二界之頂は翼を授けることで変異種としての兵器性を拡張したにも関わらず、ただのトカゲとさして変わらぬ存在になってしまったのである。
「ホント、チートだよ、チート」
しかし、ただのトカゲと言っても変異種の大型に改良され身体が丈夫な、というセールポイントは残るトカゲである。一般兵よりもはたまた想造の国宝級にも劣らない戦力であることは否めない。だから、この現状を二界之頂に装備された小型のカメラから知っている、指令を送る人間の判断を信じて、数的有利を生かすことを選択する。
しかし、その間違ってない選択は選択すら許されないものへとヨナーシュの気づかぬうちに変わっていた。
「どうだ、意思疎通が出来るならお前ら、少し話さないか? お前ら、人質がいるとか立場向上を望んでとか、そういう協力させられてる理由があるのか? それともただただ隷属させられてるのか?」
紘和の質問に目をパチクリさせたのはヨナーシュと二界之頂たちだった。ヨナーシュは二界之頂への意思疎通は制限、統制していると知っているからこそ、言葉をかけても無駄だとわかっていたから出てきた仕草であり、二界之頂にとってはそういった制限、統制が働いて無理やり従わされていたにも関わらず、目の前の敵と認識させられた存在に声をかけられた瞬間、まるで発言を許可された様に意思に自由を取り戻したからである。
即ち、二界之頂は真実を口にしたのである。
「お、俺たちは兵器となるために捕獲、品種改良され、無理やり実践に投入された」
最も紘和の近くにいた二界之頂がそう口にしたのに対して、各々が首を縦に振りながら、その通り、と一番最初に口を開いた二界之頂の証言を続け様に肯定していく。
それはヨナーシュからしても、二界之頂へ指令を飛ばしていた人間からしても、支配が解かれたと解釈せざるを得ない状況だった。
「へぇ、随分と流暢じゃないか。それって変異種としては割と当然のことなの? それとも人体実験の賜物?」
「いや、人間が変異種って呼ぶ俺たちみたいなのはあくまで意思疎通が取れて想造が行使できる人間でない生物のことを指していて、人語を介して人間と意思疎通が取れるのは稀な存在だと、されている。それは俺たちからしても特異な存在、という認識がある。だからかわからないが、自然と名、を持ちたいという欲求が生まれる。だから、俺たちにはコイツラの実験体としての総称として二界之頂と一律に呼ばれているのは、正直不服だし、そもそも無理やり連れてこられてこんな身体にされて無理やり働かされてたんだ、不服以外の言葉は見つからない」
誰から見ても二界之頂たちにはラギゲッシャ側に敵意が見て取れた。
「クソ、何をしたんだ」
ヨナーシュの質問に紘和のは立てた右手の人差し指を口元に近づけ、シーッとわかりやすく沈黙を強要してきた。しかし、ヨゼトビアと共闘している立場からすれば、これは隷属ではなく、協調を図った上での、同意の元行われた行為であると出来なければ、あの正義の化物の逆鱗に触れかねない、そうヨナーシュは考えていた。つまり、良好な戦線を築いたままヒミンサという国を落とすには外部にこの今から話すことを漏らしてはならないのだ。それは例え自国の兵であっても、極秘裏に進めていた研究である。人の口に戸は立てられないのなら、そんな研究はなかった、そうするのが最も最善だと判断した。だから、ヨナーシュの身体は動こうとする。
不幸にも相対する敵もまた正義の化物であると知らずに、である。
「さっきのは黙って動くなって意味のつもりだったんだけど、そこまでは察せられない馬鹿な人間だったのかな? 少しイライラし始めてるんだ。平和な戦争にしたければ何もしない、させないでくれ、な」
ヨナーシュは紘和の接近を許していた。それは、決して油断していたからではない。常に警鐘を鳴らしながら最大限の注意を払って相対していたはずだったのに、姿を見失ったという意味だった。つまり、ヨナーシュにとって紘和が横にいるという事実は、恐怖から目を逸らした隙にポッと湧いて出た、そんな距離の詰め方をされたのである。そう、無意識に目を背けたくなるほどの殺気混じりの畏怖が今は肌をゼロ距離で突き刺している。
それも実際に刀を喉に突きつけられ、血を垂らすような状況に追い込まれて、である。
「す、すまない。自分のことで手一杯だったんだ」
ナメていたわけじゃない。一度対面しているからこそ、そこで力量は図ったつもりだった。その結果全力で潰しにいかなければならない脅威と認識したのである。ただ、それだけでは甘かったのである。本能が告げている。この紘和の放つ畏怖は決して能力によるものではないと。だからこそ、生理的に目を背けてしまう、そんな状況を創り出す生物の頂点に立つような人間に叶うわけがないと悟ってしまう。何が二界の頂点に座す、でドラゴンだ、である。
畏怖に当てられて失禁し、逃げてしまえる兵士が実に羨ましい、そう思えるほどにヨナーシュにとって今この瞬間は絶望に染まっていた。
◇◆◇◆
「さて、お待たせ。話を続けよう」
紘和はそう言って紅刀月陽を収めてヨナーシュに背を向ける。そう、背を向けたのである。そしてこれは油断でも慢心でもない。ただ正当に評価し終えた結果、他に注力を注げるようになっただけである。そう、戦場である。注意力は何処へでも向けていて損はないのだ。目の前の敵に集中しなくなった分、奇襲を防げる可能性が増える、実に合理性を取った結果である。そういう意味では余裕は出来たことに違いはなかった。何せ、世界級にも肩を並べると評される男が、戦いを全うすることなく敗北を認めてしまっているのだから。
その上で立ち向かう気概を燃やし直していないのだから、そうされてからまた注意力を分配し直せば良い、という話なのである。
「不服、ということだったが、どうだろう? こちらは人手不足でね、猫の手だって借りたい。だから、区別はするけど差別はしないことを約束するヒミンサ共生国に寝返ってもらえないだろうか。もちろん、断ってこの場を去ってもらっても構わない。その時は、この戦場から逃げる手助けはしてやろう」
そもそもなぜ二界之頂は現在、紘和とコミュニケーションが取れる状況下にあるのか。その疑問の答えは、二界之頂の攻撃を安々と防いでみせた霊剣イコーウォマニミコニェにある。この霊剣は物理的に斬れないものを斬ることが出来る遺物である。その解釈を物理的に斬る事は出来ないものを斬ると言う概念に当てはめられる、関連性のある概念に適応すると拡大することで生まれる投法がその答えである。即ち、支配という縁を斬ったのである。
ちなみにこの縁は斬るだけで消すわけではないため、本人たちに復縁の意思があれば即座に快復してしまうし、再度支配下に置く手順を踏まれれば効力を取り戻される、そんなあくまで一時的な効力であるため、使用すれば断絶できる、という絶大な効力を持っている訳ではない。
「今すぐ俺の一存でこの場の全員の意思決定をすることは出来ないが、俺個人としてはこの戦争であなたたちの味方をしても構わないと思っている。ただ、助けてもらった立場で言うのもなんだが心中するつもりは毛頭ない。その時は自分の身を優先しても構わないだろうか?」
「構わないよ。ただし、ただ去るのなら背中は追わないが、敵対して保身に走った場合はしっかりと報いを受けてもらうよ」
コクリと頷いてからその二界之頂は更に続ける。
「ついで、この戦いの勝敗に関わらず、あなたたちに助力はするが、あなたたちの国に在籍するかはまた別、としていただきたい。その判断はこれまた現状では判断しかねない。あくまで個人としてはそこにいる奴らに対して不当な扱いへの意趣返しをしたい、それだけの理由で手を貸しても構わないと判断しているので」
「あんたの言い分はわかった。他のやつの意見も聞きたい。その上で協力をしてもいい宣言したやつは俺の作戦を聞いた上で実行できるかどうか判断して、改めてこちらに加勢するかの参加表明をして欲しい」
紘和の説明に二界之頂首を縦に振り、列をなす。
そのため、要件を伝え終えた最初の一匹が自然とその場所を開けるために移動するのを紘和は呼び止めた。
「おい、最初に話してくれたお前」
「何だ?」
要件がまだ他に、そういう顔で振り返った二界之頂に紘和は極めて普通の、それでいて変異種からすれば少しだけ驚きの言葉を投げかけた。
「名前は?」
確かに名前があるという主張はしたが、それでも変異種と積極的にコミュニケーションを取ろうとする人間は非情に珍しい。
そんなことを知らない紘和からすれば、不自然に出来た間を二界之頂側の驚きだと理解できないのは当然のことで、どうした、という疑問の表情を向けてしまうのだった。
「ふふっ」
「……何かおかしかっただろうか?」
「いや、温かい申し出に顔がほころんでしまっただけだ。気を悪くしないでもらいたい」
ここで紘和は変異種が、差別の対象に置かれている、その根深さを理解した。
「俺はシャーゴ。暫くの間、よろしく頼む」
自然と差し出された手。しかし、紘和にはこの手を差し出すのにどれだけ勇気のある行動なのかを先程の流れから推察していた。つまり、これは歩み寄ってもらえた、ということなのだろう。
少なくとも紘和はそう解釈し、その手を強く握り返した。
「こちらこそ」
この固い握手は他の二界之頂にとっても緊張を、警戒を和らげる光景となったのだった。
◇◆◇◆
この状況は異質だった。戦場の最前線であるにも関わらず、一切手を出すことが出来ない領域。双方の合意で生まれた不可侵の領域ではない。この領域はあくまで片方の陣営がただ作戦会議を、話し合いの場を設けたいと訴えた上で敵陣ど真ん中で勝手に始めて生まれたものだった。そして、この状況を成立させている条件が、情けでも譲歩でもなく、恐怖、であることが異質さを際立たせているのだ。機嫌を損ねたくない、死にたくない、そんな戦場で言ってられないようなことを成立させる存在がいるのだ。それはこの場にいる彼、紘和にとっての敵に全て適応される事態。ヨナーシュですら例外足り得なかったのだ。
ヨナーシュがどうにかしなければいけない状況なのに、身体が動かない。
「気をしっかり。折れないでください」
そんなヨナーシュに声をかけたのは、遥か後方で指揮を取っているはずのオズワルドだった。
◇◆◇◆
「とまぁ、やる気の所申し訳ない作戦なんだけど大丈夫?」
十八匹、全てが様々な対応を要求する中、唯一全会一致したのが、この戦争中のヒミンサへの、紘和への協力だった。
復讐に燃えるもの、恩義に報いるため支援に回ろうとするもの、その立ち回りも様々であるが敵最高戦力であろう一角を全て剥いだ、この事実は味方の志気向上にも一役買うほどに、大きなものだった。
「この身を与えたことを後悔させてやりたいところだが、ひとまずあなたの作戦に従うのが筋だろう。余程のことがない限り、だな」
「あぁ、それじゃぁ、よろしく」
その一声を機にニ界之頂が全員散り散りに戦場へと飛び去っていった。
「さて、お待たせ。まさかお前みたいな人種がその身一つでここに来るとは想定外だったよ。そのぐらいの危機的想定外でもあったのかな……マクギガン」
先程までの戦場に似合わない穏やかな空気は何処へ。清涼感さえあったお待たせから始まった言葉は煽り立てるような言葉へ変質した後、オズワルドの名を怒気を孕ませ我なる声で〆られる。
それは感情的なむき出しの敵意そのものだった。
「もしかしてそれ、煽ってますか? 事実確認なら出来てますので大丈夫ですよ」
「そうかい。だったら後はその事実に、お前の死亡が確認できれば、世界から悪事の芽はなくなるな」
「悪事の芽が、ですか。あなたは、悪の本質をわかっていない」
煽り返すな、そんなヨナーシュの制止する手を振り払ってオズワルドは続ける。
「悪とは、あなたが正義の名のもとに潰したい悪が全てではなく、得をするために必ず生命が起こす行為、全般を指している、と解釈したことはありますか?」
「それは」
「おっと、悪に優劣なんてつかないでください。何があろうと、悪は等しく悪であるからこそあなた方の言う正義が建前として生きるのですから」
紘和の脳裏に過ぎらなかったわけではない、信号無視、他人への陰口、孤児が生き残るために犯す万引き、イジメを受け殺されそうになった時に抵抗したことにより起こった不可抗力による殺人など程度や一線を引きたくなる悪事、それらを全て悪事であると先回りして宣言するオズワルド。
「善悪は全ては損得の立場で成り立っている。均一化された人生が並列しない限り、個性、役職が損得を生んでしまう。しかし、その損得を自制へ導くのが唯一儀式的闘争なのです。理想を現実の範疇に収めるのです。そして、あなたが許せないのはその儀式的闘争を逸脱した行為。素晴らしい。それは誰もが手を焼く損なのですから。でも皮肉なことに、その損をあなたという個で潰せてしまう平和、あなたの力は手綱を持てないその恐怖から損へと変質する。わかりますか?」
オズワルドは突きつける。
「あなたの抑止力としての強大な存在が、今度は悪となるのです。強すぎる光が影すら産まなくなるように、暗すぎる光のない世界ではその闇が影であるように善悪は因果に収まらないのです。あなたという、人間という善悪の基準を生む存在が善悪を損得を両方備えている、だから損は、悪は消えない。しかもその損は、弱者が虐げられて得を求めるために起こるのではありません。多くは弱者の皮を被った弱者という蝙蝠が正しさの濁流に飲まれて得を理解できずに一斉に流れた結果、起こるのです。だから重ねて言いましょう。悪は消えない。それこそ、一人残らず殺しでもしなければ」
紘和の不意の喉元への紅刀月陽による一閃をオズワルドは紙一重で後退して躱す。
「あぁ、それはもはやあなたがあなたの得を求めた結果の悪、でしたね。お気に召しませんでしたか? でもね、知っていますか? 正義は暴走しないのです」
大きく息を吸う。
「だから、私は悪の側に立っているのです」
ニヤリという微笑みと共に一つの可能性を提示した悪のカリスマに、紘和は無言を貫いた。
「反論出来ないから黙っているのか、反論した所で平行線だから黙ってしまったのか。どちらにしろ手を出すのは頂けませんね。ただ、己の得を得るためには必至でしょうし、私としてはそれこそが人、だから大歓迎です」
オズワルドは懐からあからさまに禍々しい色をした液体の入った試験管を取り出すとそれを紘和へと放った。
「あなたには私たちでは絶対勝てない。だから、これがこちらに出来る万策です」
紘和は咄嗟に距離を取るでも切り捨てるでもなく、その試験管をそっと受け取った。
「……やはり、私は賭けに勝ったようですね。あぁ、素晴らしきかな今にも自壊してしまいそうな、いや、すでに歪となっているであろう正義の下僕」
その勝利宣言が具体的に何に、なのかは語られない。
今はそれが理解できているのがオズワルドと紘和、二人いれば充分なのだから。
「だから……付き合ってくれますよねぇ」
そのオズワルドの言葉が合図だったのか、たった一人の人間に対してはあまりに予算を注ぎ込んだ集中砲火が開始される。
ありとあらゆる重火器が、紘和ただ一人を狙うように降り注いできたのだ。
「遠距離攻撃に適した想造を行える者は全員こちらへ。この攻撃を途切れさせてはいけません」
硝煙と怒号の中、ヨナーシュとオズワルドは本日最後の紘和の言葉を確かに耳にした。
「付き合わせられなかったその時が、お前の負けだよ」
そして、鳴り止まぬ紘和への集中砲火はヨゼトビア側の撤退の合図が出るまで続いた。その煙の向こうにはほぼ無傷の怪物の姿だけが映し出される。国家予算の三分のニ、約二十一兆円。それが紘和をその場に足止めするためにかかった爆撃の総出費の額であった。そのかいあってこの一件を含めてエディットを始め、ありとあらゆるこの戦争に参加するハーナイム出身の人間は、紘和の脅威を正確に把握することになる。あれを止めねば国は滅ぶと。だが、同時に生き残るならば併合をするべきではないのかと。しかし、その憂いにも希望はまだあった。オズワルドが予想した紘和の変化、それと十家と神輿の参加であった。各々の平穏を求めた、そして、世界の存続をかけた戦いはまだ始まったばかりなのである。