第百四十六筆:杯中蛇営
バルナペの纏う雰囲気が変わった。実に曖昧で主観でしかない評価である。それでもこの言葉に頼らなければならないのが今のヘンリーだった。確かに今目の前にいる傷だらけの男、バルナペは初めて邂逅し、手合わせをした時から、強いか弱いかで篩に掛けろと言われれば、間違いなく強い人間だった。その強いの中でも上澄みだったろう。
しかし、その実力がヘンリーと釣り合うかはまた別の話であった。あくまで強いか弱いかで語った時の話であり、あくまで強い中では、の話であり、その話はヘンリーより強いか弱いかで語っていないのだから。それは優劣を決めるような要因がここまでなかったことを意味する。言ってしまえばそのぐらいの、強いだろう、そんな存在だったのだ。それが今、ヘンリーの一撃を受けて変わったように感じさせられたのだ。バルナペの強さは八角柱に手をかけられるほどに強いのではないかと。
ただそれでも、だ。ヘンリーは戦いの経験ですでにバルナペが経験した強さの上限を超える瞬間を経験しているいわば先輩である。その純と戦ったという事実は、バルナペが純以下ではあるという、優れた慢心となり、ヘンリーの力に正しく作用していた。
ヘンリーは近くの想造で出来た棘を破壊したことで破片となった岩を拾うとそれを思いっきり地面へと打ち付ける。そしてそれはまるで当たり前のように摩擦によって火花を散らせる。その火花は宙でとぐろを巻くように対空しながら炎へと成長した。発火を石でする、というあまりにも非効率というよりも成功率の低い手段で、それが最効率と同義にできるヘンリーの一芸は周囲の敵側に驚きを与えた。何せ相手からすれば、その低い成功率を一度で手繰り寄せたように見えるからである。そんな炎はある程度成長すると、植物から果実が生るように火球を切り離し、そのままバルナペに一直線に飛ばしていった。相手に炎の制御を奪われるといった危機感は一切ない。普通に考えれば火元を自身の周囲に常備しておくことは裏を返すと敵にナイフを突きつけられているも同義なはずだが、それは自身の力量を信じているからこそできることだった。事実、現在、そのような不祥事は確認されていない。一方でただの火球では周囲の空気の含有量を変化させられるだけでバルナペの元へ届かされる前に沈下させられていた。
やはり、想造は起こり得る現象、つまり常識の範疇であれば基本相殺により戦闘に大きな影響を及ぼすことは出来ないのか、とヘンリーは考え始めていた。そう、試すなら有象無象ではなく、ある程度の強敵を相手にサンプルが取れたほうがいいのは当然であるが故に、ヘンリーは試していた。とはいえ、その試行がすでに規格外であるのは置いておくのだが。
だが、これはあくまで戦場であり、目的は敵の無力化である。だからヘンリーはある程度の見切りをつけると深い一歩を踏み込む。そう深い一歩である。火球という遠距離攻撃、それをバルナペにとって回避あるいは、受けるために目視でどうにかできる距離十メートル、その距離をたった一歩で地面がスライドしたのかと錯覚するほどの跳躍距離、滞空時間でヘンリーは迫ったのだ。初撃の高速で仕掛けるには低姿勢で力を溜める必要がある、という先入観がこの軽やかな接近を奇襲へと変化させる。ただ、ヘンリーはこの奇襲を意図的にやったわけではない。その時の最良の攻撃手段を選んだ結果が結果的に相手からすれば奇襲になっていたに過ぎない状況だった、それだけのことだった。もちろん、近づく時にすでに攻撃の構えをとったまま、つまり、身体を正面に対し直角に捩りつつ、拳を作り下げた腕を直角に持ち上げたまま移動していた。その結果は着地と同時の腹部への寸勁である。ゼロ距離から放たれた攻撃でありながらその実、移動という加速がヘンリーの剛腕に上乗せされ、さらに先程の身体という面での突撃に対し、一点に集中された一撃がバルナペの触れた肋骨にヒビを送る。受け身も取れず効いた一撃は芯まで届き、内臓を大きく揺らす。そして、嘘偽りなくバルナペの身体をヘンリーの打撃のみで宙へと誘う。
それだけでは終わらない。それだけで無力化出来ない相手だとはヘンリーも評価しているからだ。故に、宙への到達点が最高に達し落下を始めるまさにそのタイミングでヘンリーはバルナペの元までその巨体を飛ばし、腰を捻りながら右足で蹴りを叩き込む。結果、重力落下に関係なく陥没していたであろう威力でバルナペは床へと激突した。それに合わせて砕けた小さな破片が空中へと舞う。そして、トドメと言わんばかりにヘンリーはバルナペの元へ落下する。数十メートル落下のかかと落とし。
その巨漢から繰り出される威力はバルナペの身体をくの字にへし折る想像を周囲に与えるのは充分だった。
「ありがとう」
バルナペのその言葉を聞き取れた人間はヘンリーだけである。それだけ小さくか細い声だったのか、それとも口の動きから予想した言葉がヘンリーの脳内で再生されただけなのかわからない。ただ、バルナペの感謝の言葉と共に、ヘンリーの周囲はバルナペを巻き込む勢いで爆発したのだった。
◇◆◇◆
「ありがとう」
それはバルナペにとって自然と口にしてしまった言葉であった。バルナペは生まれた時から戦い、二十歳前なら喧嘩で負けたことはなかった。加えて、教わったもの、見聞きしたものへの理解は一を知って十を知る、そんな才覚すら併せ持つ人間だった。故にバルナペ苦労を知らない上に、周囲から特別だった。そう、特別である。その特別が常にポジティブな言葉で用いられるとは限らない。特別故に周囲を理解できないし、周囲が理解しようとしない。その特別がバルナペに本来人との関わりで育むべき共感性を著しく乏しいものに仕上げた。何せ、バルナペは特別だから。その結果、何事もこなす怪物が生まれる。忖度なく、出来ることをただこなす。こなすことが数いる人の中でもすでに優れていたため、周囲の特別視をより破格のものへと押し上げる。
過大であるが過小でない。
「バカだな、お前」
だから最弱で自分よりも明らかに劣るバカに言われたその一言がたまらなく眩しかった。その眩しさはつながりとして満たされると同時に今までの共感性を埋めたがる、特別だから得られなかったものへの乾きに変わる。その乾きを潤すためにバルナペは不能男の下についたのだ。いや、本人から言えば目線を下げて、足を止めて、曲げて肩を組んでいるのだと言った。ただ、それで特別が解消されるわけではない。故に、バルナペ以上のものから得られるべき潤いは中々滴ってはこない。
故の感謝の言葉だったのだ。想像できる範疇で圧倒される。重要なのは圧倒されたという、自分よりも上の人間の存在を実体験としたこと。それが焦がれる領域ではなかったこと。渇望しながらも満たされるという奇妙な体験からでた言葉だったのだ。
バルナペはヘンリーのかかと落としをくらう直前に何をしたのか。それは空中に浮いた身体を追撃し、バルナペを無力化すると、敵の実力なら出来ると信じた結果もらった蹴り落としの段階から始まっていた。落下と共に受けた衝撃に偽装して、いや正確には背中は殴打しているのだが、床から鉄を中心に小さな破片を周囲に飛ばし、衝撃波で生んだ風の勢いで無理矢理にその破片を固定していたのである。それも、無数に、である。これは意表を突くという意味でかけでもあった。成功するかはわからないが、これぐらいしなければ勝機は見出だせないという執念が生んだ戦略。だが、あまりにも成功率が低く見えるそれは、ヘンリーの持つ可能性の力が逆に作用し、見事成功へと至った。要するに、本来であれば限られた区画内で起こるその現象、粉塵爆発を起爆と生る燃焼材を砂埃のようにカモフラージュした上で固定し、意図的に引き起こそうとしたのである。何せ、起爆はヘンリー自身がまとっている炎が勝手に着火してくれるのだ。だから、バルナペはヘンリーが落下してくると同時に感謝の言葉を述べながら、床の中へ沈むように、爆風を避けるために埋まっていった。勝ちをもぎ取るならば相打ちでは意味がない。だから、ヘンリーを掴んで確実に巻き込む選択はしなかった。そうでなくとも空中で移動するのは不可能である。想造(アラワスギュ―)でとっさに足場を作れたとしてもそれは爆風と共に原型を保てない。つまり、落下した時点で必中なのは確実だった。
後は反射神経の問題だ、そう考えていた。そう、バルナペ視点、ヘンリーが助かるには空気を操作し鎮火するか、足場としてではなく爆風を受けるものとして土壁を周囲に展開し被害を最小限にするしかない、と考えていたからだ。つまり、爆音を聞き、三秒。熱波は収まっていないだろうが、攻撃に怯んでいるヘンリーに追撃し、追い詰めるチャンスが今、なのだ。
だからバルナペは床から悲鳴を上げる身体を無理やり動かして出てくる。
「おかえりなさぁい」
軽い火傷で済んだのだとわかる見た目の、笑顔のヘンリーが出迎えた。そして頭部を殴打されたのを記憶の最後に、バルナペは意識を失うのだった。
◇◆◇◆
なぜ、ヘンリーは軽症で済んでいたのか。そもそもである。なぜヘンリーは炎を自身の近くに這わせて、その熱を気にせず立ち回ることが出来ていたのか。それは決して炎の火力が弱かったからでも、ヘンリーがやせ我慢をしていたわけではない。炎を展開したのと同時に空気中から水分を皮膚に薄っすらと膜のように貼った上で、空気の薄い密度の層を意識的に生成し、熱に耐性を持っていたからである。
つまり、バルナペの奇襲は確かにヘンリーの意表をついたという点では成功していたが、攻撃としては最初から失敗していたのである。
「ふぅ」
それにしても、とヘンリーは思う。バルナペが強者だということはわかっているが、これぐらいの素質を持った人間は割といるのだろうか、と。ヘンリーがハーナイムに来て、出会った人間がアーキギュスやバルナペとこの世界では強者と呼ばれる特別な存在だと、特に後者は知らないだけに、思う警戒心だった。だからこそ、無力化に成功した今、その命を摘むべきかを考えていた。別に殺しをためらっているわけではない。ただ、目の前の人間の価値がわからない以上、軽率に殺してしまうと今後に影響が出るのではないか、とも考えてしまい手が出せないのである。それを考慮しなければ間違いなく殺っていただろうが。
バゴーン、と先のエリアから何かが崩れるような音が響き渡る。そこからさらに聞き覚えのある獣のような金切り声が聞こえてくる。
それはヘンリーの悩みを保留にしてもいいと思える事象であり、即座に音のする方へと振り返った。
「この国、こいつらを捕獲してやがった」
遠く、獙獙は目がヘンリーと目が合うと大声でそう叫んでいた。
背中には知らぬ女性を一人背負っている。
「当初の目的は?」
「やるにしてもこいつらどうにかしてからだろ。俺だって荷物担いで出来ることにも限度があるんだぞ」
「はぁ」
ヘンリーは大きくため息をつく。
「あんたたち、これは貸しだよ。そこに転がる荷物ととっとと撤退しなさい」
ヘンリーはバルナペの部下に顎をくいくい動かし、でバルナペ連れて逃げろと催促する。
「すまない」
そう言ってバルナペを担いで撤退したのを見送ると再びため息を挟んでヘンリーは指示を出す。
「こいつらをぶっ壊すわよ、ムバラク」
シャリハは頷きながらヘンリーの横に立つ。
「ったく、イブリースの野郎。どう考えても共闘とは言えこっちの比重が重すぎる。後で説教だな」
パンッと左手に右手を打ち込み気合をいれるとヘンリーは無名の演者目掛けて走り出すのだった。
◇◆◇◆
周りがうるさい。そう思いながら目を覚ましつつ、同時に自分がなぜ目を覚ます状況に置かれているのかを獙獙は思い出す。いきなりの不意打ち。殺気、というよりも闘志を感じる間もなく顎と後頭部に素早い手刀をもらい、意識を失ったのだ。それは端から相手にされていなかったのか、異質の強さを持っていた故に獙獙の直感が働かなかったのか。どちらにしろ生きているならば今後も注意しなければならない存在ということになる。
それは純に勝利を収めていようと、敗北していようと、裏で繋がっていようと、初めて味わう感覚と共にこの世界の常識とすり合わせていく必要があるからだ。
「で、どうして幾瀧はいないし、こいつらが解き放たれようとしてるんだ?」
獙獙を強襲した女は無名の演者の近くで気絶している。その判断は息をしている、と胸の上下運動があるにも関わらず逃げる素振りが一切ないからだ。状況から推察すれば純が女と交戦し、いつものように圧倒したのだろう。だったら目の前の状況は純の置き土産ということになる。わざわざ無名の演者を解き放ち、場を混乱させようとしているのだ。いや、すでにターチネイトの謎めいた行動が確認されているため、混乱ではなく混沌を望んでいるのかもしれない。
だとすれば。
「ふざけやがって」
獙獙に出来ることは二つ。一つはこの場で無名の演者を沈黙させてから純を追いかける、または本来の目的である人体実験の証拠を見つけてくること、つまり先へ行くこと。そして、もう一つは、気絶した女を連れて撤退すること、である。
それは実質一択であることを意味する。
「やぁ」
先程、異質の強さとして、獙獙の直感が働かない相手がいることがこの世界では多々あることの一つなのかもしれないという考えた矢先の出来事だった。危険、として認識することなく背後を取られていた。今振り返れば無名の演者以外に何かが動く音がしていたような気もするが、それを敵と認識しようとする危機感がなかった。それは同時に、もし相手に殺意があれば刺殺、銃殺、いかなる手段でもすでに死んでいることがわかった。
だから、柄にもなく冷や汗を垂らしながら警戒心を顔に貼り付けて獙獙は声の方へ振り返る。
「おぉ、驚かせた。悪いね。安心して、殺すつもりはないよ。そうだったら君はもう死んでただろう。それに、ハハッ、この状況になればわかると思うけど、俺は弱い。君と戦えば絶対に勝てないことが保証されていることはわかるでしょ? そんな最弱のバカで場違いなお願いだ」
異質だった。男の言う言葉に間違いは何一つない。最弱を豪語する通り、獙獙より弱いのは明白であり、小学生の喧嘩でも、そう思ってしまうほどに非力さが体表へ漲っていた。それはこの距離で刃物を、銃口を突きつけられても、そして今なら背後を向いていたとしてそれを行われていたとしても、きっと回避できたと思えるぐらいにである。
そんな男が不躾で分不相応な願いをしようとしている。
「そこにいる女の人と一緒に逃げて欲しい。そして出来るなら、君が倒した男を気にかけてやって欲しい。俺みたいなバカには出来ないことだから」
そんなことも出来ないのになぜこの戦場にいる。それはまるでライオンのいる檻にいる蟻のように。と獙獙は感じたところでその異質さを理解する。ただ、理解できてもそれが成り立つ状況が担保されている、いや保証されている状況が継続しているというのはあまりにもこの世のものではなく、最弱という言葉との矛盾を感じるほどだった。疑うまでもなく最弱、故に最弱ではない。最強ではないが、最強足りうる最弱。
言葉を並べれば並べるほどただただ異質さだけが際立つ。
「気味が悪い」
了承の言葉を追い越して出た心の声。
「そう言わないでよ。代わりと言っちゃなんだけど、俺はこの先に用事があるんだ。良ければ、何か君にも用事があるなら聞いておくよ。まぁ、聞くだけだけど」
放っておいても害はない。その思考が全ての思考を退けてまるで第一タスクの様に頭の中を過ぎり続ける。本来であれば無意識にする事実の工程を意識的に、だ。だから、獙獙は首を右手で鷲掴むと、そのまま床へと叩き、いや、押し付けた。叩きつければ間違いなく意識を失い会話が出来なくなるからだ。だから加減した。
これ以上、するべき会話はどう考えてもないというのに、行き過ぎた気遣いを無意識に施したのだ。
「どうしてあの女を助ける必要がある。目的は何だ。仲間なのか」
獙獙の疑問に男は心底何を言っているのかわからないという表情を貼り付けて問い返してきた。
「いや、可愛そうじゃん。それにここから逃げる理由があった方が君にも都合がいいでしょ?」
その二つの理由は本心だろう。しかし、その二つの理由が本心として同居することは極めて悪質で、異質である。死にゆく人間を助けたいという慈しみをそのまま自分の目的のために利用しようというのだから。それこそバカでもなければ。そこまで考えて獙獙は何度目かのハッという気付きに思考を停止する。答えはシンプル。本人が言っていた。そう、この男はバカなのだ。しかもただのバカではない。思ったことを素直に出来る、無垢で、卑下しないバカなのだ。それ故に、どんな人生を歩んでその性格を、性根を維持し続けてきたのか、興味深いものでもあった。
いや、それは危険を知らないという点で、危険に飛び込んでも問題ない人生を歩んできたからと、納得行く答えがすぐそこにあったのは皮肉とも言えよう。
「わかった。もういい」
その言葉は呆れ、だった。呆れたから獙獙は男から手を引いて、女を助けに歩き出したのだ。
その男は何も出来ない。でも、出来ていることを理解している。盤外戦力にした人間はとてもセンスがあったに違いないだろう。何せ、最も危険でない無害な人間が最も危険である可能性を提示し、その可能性を押し通した上でその席につかせたのだから。
◇◆◇◆
「その女は?」
「知らねぇよ。敵方だと思うけど」
「じゃぁ、なんで助け……は今はいいか。あいつらの力、どれだけわかってる?」
「ついてきてる三体のうち二体は怪力っぽいのを確認してる。そして、一体は未来視だと思う。指示が的確だ。合成人としての力は正直わからない」
「そう」
未来視を指揮官にしている無名の演者を相手に、気絶した人間を抱えてここまで逃亡を成功させている脅威の身体能力にヘンリーは脱帽しながら、短い時間で作戦を考える。
「あんたはそれ置いて戦うつもり、ある?」
「……まぁ、そこで倒れてる奴も運ぶほど怪力でもないからな。そっちの方が良いか。頭数に入れていいぞ」
介抱、というよりも撤退の援護を引き受ける辺りやはり敵ではないのだろうとヘンリーは勝手に推察する。
そして、朗報はやはり獙獙が加勢するという事実である。
「あぁ、それと」
後ろに置いてきて戻ってきた獙獙が悲報を届ける。
「ついてきてない五体の内、一体が転移だった」
「……まだいんの?」
「八体、鹵獲されてた」
衝撃の事実に目を大きく見開きながらヘンリーは大きな大きなため息を吐く。
「こっちの不始末とは言え、聞かされてなかったって意味でも腹が立つわね」
そして、言葉にはしないがこの国には無名の演者を鹵獲できる手練れがいることを意味する。
「他には?」
「ない」
「じゃぁ、後は、あれが突然、想造を使ってこないことを祈るだけかしら」
シャリハの言葉に二人はあぁ、という顔をする。
「良いこと言った。想造はなしよ。そういう技術があることはすでに見聞きしてるでしょうけど、使ってこないうちは学習させて不利になる可能性は減らしたほうが良いからね」
「まぁ、そもそもなくても相手出来てたわけだしな」
そう言い残して気合を入れたヘンリーよりも早く獙獙が先陣を切って飛び出す。それに続くように首を回しながらヘンリーが、遅れて少し自信のないシャリハが動き出す。大掃除の開幕である。
◇◆◇◆
バンッという荒々しい音でドアをイブリース家現当主、ディマスの寝室を開けたのは、部下からターチネイトが暴走していると連絡をもらったカルロだった。
「オヤジ、今この国で、いや世界で何が起きてるか話してもらうぞ」
その怒りは明らかに不都合が起きたが、そんな事が起こるとは聞かされていない人間の不満を顕にするような言葉であり、同時に自分には知らされていない何かを知っているならディマスだと疑っていない問いだった。
「何が起きてるか、か」
ベッドの頭側が起き上がり、まるで椅子の背もたれのようにディマスの上半身を起こす。
「知らんな」
「知らないじゃ済まされないぞ。ターチネイトが、アンドロイドが本当に俺たち人間の手を離れてるなら、意味がないだろ」
それはまるで、人間がアンドロイドと対立する関係が故意に作られた状況を指し示すようにも聞こえる言葉だった。
「ただ、この国が目指してきたものが今成就しようとしているだけのことだろうよ。俺は何が起きてるかは知らないが、何が起ころうとしているかは知っている。いや、それが起こることを前提にこの国が動いていることを伝え聞いている、というべきだな。そして、お前はただただ不幸なことにその特異点のせいで俺らの様に傍観者でいるだけでは済まなくなった、それだけのことだ。いや、済まなくなったのは俺もか」
「さっきから何、遠回しに言ってるんだよ。ボケたか、オヤジ」
「歳を取ったということ。それだけ背負ってるものが多い。それに押しつぶされないように生きてきた。硬く靭やかで折れずに、な。だからようやく伸ばせると思うとな、その苦労をゆっくり打ち明けたくなるんだ。俺よりも若いお前にこの気持ちをすぐ理解してもらっても、損、だからな」
「損って、そんなガキみたいな」
「ハハッ、ガキねぇ。損得勘定やワガママを言えばガキの専売特許って言って大人に矯正し、仕立てるのはただただ不愉快だよなぁ」
怒りが収まったわけではないだろうが、開いた口を開いたまま、カルロは力強く作った両の拳を空へ振り下ろした。
「そうだ、黙ってジジイの言葉に耳を傾けろ」
ふぅと長く息を吐くとディマスは続きを話す。
「この国の発展は、進化という自己表現の元で成り立ってきた。誰でも知ってる側面だけで語るならターチネイトと呼ばれるアンドロイドの進化、だ。ただ、その進化はあくまで改良だ。品種改良。進化と呼ぶにはあまりに陳腐、なんだとよ。あれだけ目まぐるしい成果でも、成果としては足りない。そう思い、このマイアチネという箱庭を弄り続けてる人間が二人、いる。わかるわけないのは百も承知で合いの手欲しさで聞いてやる。誰だと思う?」
カルロは舌打ちを挟んで答える。
「アーキギュスだ」
パンパンと拍手二回が力なく響く。
「半分正解だ。一人目が正解という意味ではないけどな」
宣言通り正解を出せなかったことにご満悦のような声を上げるディマス。同時に、アーキギュスが半分正解という事実がカルロの脳内を曇天で覆う。ターチネイトの親玉であり、暗躍するには申し分ないはずの存在を挙げたにも関わらず、それが半分、なのである。そもそも半分、という表現が意味する所が理解できない状況でもある。何せ、まるでアーキギュスと同じ様な存在が二ついるような、そんな錯覚を覚える表現だからだ。
どうして今になってこんな面倒事が。カルロの頭はこれでいっぱいだった。対立構造を描き、悠々自適に過ごしていけるはずの人生設計が、他人が敷いていたレールにタダ乗りしていたとは言え、外されるのがあまりに突然であるのと同時に、外れたと同時に知らない事故が列挙されていくという状態。
目眩を覚えるのは必然であり、今が、いや、これからディマスの口から出る言葉が嘘であってくれと願うばかりだった。
「そもそも半分とは? その前に一人目から紹介しよう」
後に引けないからこそ、という高揚感もあるのか、ディマスの口は実に流暢だった。聞きたくないのに聞かなければならない。それがこの国の大きな歯車であったイブリース家であると知るために。何度も何度も幻聴を、空想を、世迷言を、夢物語を願いながらカルロはしかとそれが現実だと聞かされるのだった。