第百四十筆:着手成冬
フレーム問題。人工知能を語る上で避けては通れない解決しなければならない課題の一つである。解決する問題に対して一つとして解決策が生まれる。その瞬間に連鎖的に、または並列して解決策に結びつく可能性が無数に出現する。それを振るい分けして最適解と決定する必要があるが、抽出する段階でその生まれ続ける枝先を無数に検討し続けるため、結果、無限の時間がかかってしまう、という問題である。いわば可能性のスパイラルである。
例として、A地点からB地点まで移動しろと命令したとする。するとひとまず我々人間は徒歩での移動が最有力候補となるだろう。次に自転車を、車を所持していれば、タクシーなどの代行を用意できる手段を持っていれば、公共交通機関が存在していれば、そのいずれかを用いて最短時間で目的地であるB地点へ移動しようとするだろう。では人工知能はどうなるのか。極論を言えば隕石が降ってくるかもしれない、という可能性を真面目に検討し出すのである。つまり、人間に出来る無視して良い情報を基本無視することが出来ないのである。
この問題を解決する手段は名前の通りフレーム、要するに条件付という枠を設けてやることで選択肢を無理やり収束させ、人間の曖昧性を再現する、である。先程の例ならば最短で目的地に着く手段の検索に限定することで天候や体調、年齢を排除して学習した結果を端的に抽出できるのである。
シンボルグラウンディング問題。人工知能が直面する問題の一つの名称である。名称という記号を処理できても実世界の意味と結び付けられず知能として持ち合わせることが出来ない現象を指す。それは英語を第一言語とする人間が日本語を習得しようとした時に、その幅広い用途に四苦八苦する光景に少しだけ似ている。
例として、これは犬か猫か区別しろと命令したとする。当然区別するわけだから写真に写ったその動物を区別させようとしているという認識であることは問題ない。この時、人間は恐らく明確に区別した理由を言語化出来なかったとしても区別は出来てしまう。一方で人工知能は出来ないのである。それは四足動物であり、ヒゲを持つ、外見的特徴を記号としていくら入力しても現実世界の犬または猫のどちらかに接地することが出来ないのである。
もちろん、この問題を解決する手段もある。ネットワークでリアルタイムに情報を共有し続けること、である。極端に言えば全ての犬を、猫を把握していれば区別は可能であり、それを情報の海で擬似的に学習させる、ディープラーニングと呼ばれる手法を取り入れることが解決に繋がるとされている。
そしてこれらの問題と解決には連鎖的に破局的忘却やブラックボックス問題などにも派生し、人間にとって不都合が生じる問題とされている、がここではあくまで人工知能が人に近づくために必要な問題に着目したとして、先述の二つの問題提起のみにしておく。いや、例えしなかったとしてもどうしてここまで人工知能の問題をつらつらと並べ立てたのか。
その理由はここにある。
「全ての人工知能、俺の目にしてきたアンドロイドがこれら全てを解決していないとしたら。そう言えばオーストラリアに向かう前、入院中の時に見舞いに来た友人が当たり前を疑え、みたいなことを言ってたよ。まぁ、この事を言ってたとは振り返っても微塵も思わないけど。何が言いたいかって? 人工知能の現場に携わってない俺たちが思い描き、まさにこれだと考える感情を持ったアンドロイドはこの大前提を解決した上で話を進めてたんだなと。あまりに身近でないからこそ当たり前に受け入れていたけど、本来は知能を駆使できる段階ですらまだないのが今の人工知能なんだなと。つまり感情の有無という議論は所詮、俺たち人間様の娯楽の域を出ないってことなんだなって」
イブリース邸を後にし、街の灯りで星のよく見えない薄明るい空に向かって純がぶつぶつと喋っている。
そこにどうやって施錠されている、人様が所有しているであろうビルの屋上に侵入しているかはさておく話である。
「夢なんだよ。夢でしかないんだ。人から人を生む訳でなく、機械から人を創るなんてやっぱり、ね。そういう事が可能な世界でしかありえないんだ、と。いや、夢って言うと出来ない世界でまるでもまるで叶うみたいな言い方だったな。いや、現状でも限定した空間でなら可能なんだろうけどな。つか、そもそも機械で人間を創るメリットって探究心以外にないよな。だってわざわざ平等に扱う存在を作ってるんだぜ。しかもアンドロイドなんてわざわざ人間に見た目を近づけて愛着をもっちまってるんだから世話ないよな。っと、また出来もしてないことにツッコんじまった。要するにだ、冷静に考えれば人間の様な思考ができ、感情を持ち、意思疎通が出来る機械は未確認という話だ。ラクランズはあくまでこの世界の人間を元にしたデータが入り混じった、という前提条件を置いといても、そもそもそういう設定を与えられて生まれた創作のモノだったと捉える事が出来るからあくまで想像の中のものだったと差し支えて問題なかったということ。じゃぁ、この世界で歩き回るのは? 簡単だよ。機械から人を創るんじゃない。人を機械に作り変えていく。全てその過程で人工知能の抱える問題を全て解決できたって話なんだよ。だってそうだろ? 枠が人から始まってるんだ。人の枠に近づけるよりも簡単だろうさ。なぁ、ブッピン」
「ダカラコソ、コセイガアッテモイワカンハナイダロウ?」
「嫌われるよりも好かれた方が確かに世渡り上手よな。でも俺は今のそっちのほうが安心してられるし、イライラがないんだよ」
「ソウカ」
明らかに以前とは違う、抑揚のない無機質な、声色というにはあまりにもただ読み上げられているような音声のブッピンの応答に、つっかかるべきものを失った寂しさのようなものを携えた表情をする純。
「それで、君たち、俺の独り言を影で盗み聞きだなんて、雇われの身として人が悪いんじゃないの?」
ふと何かを思い出したように後ろは振り返らず、しかし、視線は背後へ向けた純の語りかけに姿を現す者が一人。
「さっきの長い長い独り言まで含めて俺がいることわかってて聞かせてくれてるのかと思ってな。何、語るのにも雰囲気は大切だろう。それを台無しにするほど雇い主に対して無粋だとは思ってないってことだよ。それに、定期報告を直に聞きたいと呼びつけたのはそっちだろう。時間通りに来たんだからとやかく言われる筋合いはないはずだ」
姿を見せたのはマーキスだった。
「いやはや全くあんたの言ったことは否定できないな。だからこそ、俺が雇ってない人間を介入させているのが気に入らないって話だったんだけど。何、やっぱり一泡吹かせたいと腹の中では思ってるわけ? 酷いなぁ。お仲間さんの装備だって俺のお陰で整ってるわけでしょ。それは恩を仇で返すって言わない?」
そう言って純は左手の親指と人差指でピストルを象ると肘を曲げながら左右に動かす。
そして、ある方向でピタッと止めると腕をまっすぐに伸ばした。
「バンッ」
もちろん、銃声を真似た声を発したからと言ってその手から銃弾が発射されるようなことはない。
「ハハッ。あれが噂の化物クラスってことか」
それでも、薄暗いとは言え夜という環境の中、約一キロメートル先でスコープ越しに純を監視していたケイデンからしてみれば、射線に視線がピタリと合わせられたのだ、驚きの声を上げるには充分な芸当だった。
「もういいぞ」
どこかに隠していたであろう通信機にそう指示を出すマーキス。
「ほら、やっぱりいた」
「そういうのは当てずっぽうでやった人間のセリフだ」
「それ、もしかして褒めてる?」
「引いてるんだよ。ドン引き」
ふぅと長い溜息と同時に両手を腰に当て会話を続けるマーキス。
「報告の前に、お前が言う感情以前の人工知能の問題とそれをクリアしているラクランズの理由をなぜ知っているのか聞いてもいいか?」
両手で指パッチンをしながらマーキスの指摘に喜ぶようにその本人を指差す。
「いい質問だ。特に後者。俺の独り言の中からしっかりと今お前に必要な部分をしっかりと抜き取れてる。でも。だ。俺がそれをただで教える義理は当然ない。それとも何かこれに勝るものを情報や働きで俺にくれるの? 信頼とか寒い前借りは勘弁だよ」
まるで唐突に面白いことを言ってと言われる無茶振りを彷彿とさせた。
「開口一番に言った通りだ。だからてっきりお喋りしたくて、教えたくてうずうずしてるのかと思ったまでだ。もちろん、知りたいとは思うが今の俺はすでに報酬を受け取ってる。その分の仕事に上乗せするつもりもない。だから、喋る気がないなら構わない」
「……つまらないなぁ。まぁ、それこそ俺を楽しませるのは別途かかる訳なんだろうけどさ。非礼と言うか無礼もあったわけだし、そこは少し無理してくれても良かったんじゃない?」
「俺一人で来いとは言われていなかった。それに雇用主の安全とこの場の気密性を守るために周囲の警戒を怠らないという意味で彼を配備していた、という理由だって建前としてはある。例え必要ないことだとしても、な。だから文句を言われる筋合いはないと思うわけだけど、どうだい?」
前もってしっかり純の屁理屈に対して用意されていたと思われる解答がペラペラと並べられる。
「そっか。それじゃぁ、本題の調査報告の方をしていただこうかな」
一拍。
「今日来ると言われていた外部からの危険分子。その監視に時間を当ててたから今回できる報告はこの一件だけだ」
「構わないよ。続けて」
「お前から指定された時間と場所で明らかに検問を素通りした様子の武装集団を確認できた。これがお前が確認、監視対象としていた集団かはお前が具体的にどういう人間か伝えていなかったかわからないから、それを含めて調査しろという意味だとも感じ、そこから先は知っているモノに尋ねてみた」
「そう睨むなよ。俺も詳しくは知らないんだって。超やばい集団がこの国で何かの片棒担ぐために来ることしか知らなかったんだからさ。それで、知っているモノっていうのは?」
少しの無知を装う純。
試されていようがいまいが、つまりこの純の少しの無知にマーキスが何か正解を導き出せるという訳ではないことを自覚しているため突っかかるような真似はしない。
「スペだ」
「まぁ、情報源としてはまともそうだけど、信用できるのかな?」
ん? と揚げ足を取り煽るような表情をする純にマーキスは淡々と報告を続ける。
「それも含めて報告、だ。続けるぞ」
崩れないマーキスに面白くない、といった表情を見せる純に咳払いを挟むマーキス。
「その集団は神輿と呼ばれているだけでその実は名を持たない組織らしい。そして今回侵入したその神輿の中に盤外戦力が二人いたようだ。顔写真、必要か?」
「ぜひ」
マーキスは純の端末にスペから送られた顔写真と名前の情報に自分たちが遠巻きに撮影した顔写真を添えて送信した。
受け取った内容を確認した純が口を開く。
「一人、名前ないじゃん。特定できないの」
「そういうことだ。その辺も含めて話を進める」
「そっ」
どうぞと手で話を進めていいと合図する純を確認するとマーキスは報告を続ける。
「バルナペ・アペラール。遠目からでもあの中で一番強いのだろうというわかる風格があった。視認情報だけだとそれだけだな。どのぐらい強そう、とかそういう話は今は避けよう。しかし、そう言った手前、問題はその名前のないもう一人だ」
「不能男、ねぇ。随分と何も出来なさそうな二つ名なことで」
文字通りの感想を述べた純に続けるようにマーキスが捕捉に入る。
「実際その文字通りの感想で正しい、と思う。危険人物、この世界の盤外戦力というラベルの価値に疑問を持つレベルに、そいつからは脅威ってものがなかった。別に殺意とかを綺麗に隠せているとかそういう話じゃない。ただ純粋に普通を下回る、あまりに脅威のない、戦場に出れば真っ先に死んでいそうな、そういう類の人間の様に見えた。だからこそ、そこでスペの報告に虚偽が紛れている可能性が強まった。と同時に神輿がお前の目的とする団体でない可能性も、な。だからほとんど一日、というかここに呼ばれるまでは結局危険人物の出入りを観察するのに費やしていた」
「もしかしてサラッと仕事の不出来、いや効率の悪さを俺になすりつけた?」
「ハハハッ。面白い冗談も言えるんだな」
作ったような満面の笑みに突き出した右手の人差し指を左右に振る。
「もしかして、じゃない。しっかりと皮肉にならないようにまっすぐにそう伝えたつもりだ」
「ひゅー、これは手厳しい」
両手のひらを上に上げ、まいったとでも言い出しそうなポーズを決めながら純は一歩、一歩と近づいてくる。殺意はない。しかし、純を知っているという点から湧き出る勝手な圧力があった。故にマーキスは体勢をそのままに、一方で何かされるのかという緊張から身体をこわばらせていた。
そんなマーキスの心の内を見透かしてだろう、純は半分ほどの距離を詰めてからピタリとその足を止めた。
「どう、少しビビったでしょ。何もするつもりはなかったけど」
「大人げないな」
意趣返しのつもりかと思ったマーキスは事実ではあっただけに悔しい気持ちを罵倒に変えて吐き捨てる。
しかし、次に純の口から出た言葉は意外なものだった。
「まぁ、俺だからそう身構えさせるのは致し方のないことだ。でも、だ。でもだよ。神輿と呼ばれる有名な団体様が来て、しかもその内の一人は確かに危険だとわかる実力をその立ち居振る舞いから滲み出している。そんな中に紛れ込んでいる人間。少なくとも捕虜でもない限りは一般人なワケがない」
語る。
「もしかしたら知識を豊富に蓄え博識な想造の使い手でただ世宝級に指定されていないだけかもしれない。俺という存在が特別な肩書を持ち合わせていないように。もしくは世宝級足り得ないが偏った知識を持っていてそれが特定の条件下で無類の利点を積み上げるのかもしれない。もしかしたら周囲より弱く見せることに長けていて実は格闘技が、実は武器が、実は純粋に戦いが強いのかもしれない。そうでなくとも知られざる未知の脅威となる力を隠し持っているのかもしれない。八角柱の連中の一部が持っている普通に考えたら人として逸脱した力のようなものを」
一拍。
「もしくは文字通り不能であり、その脅威のなさが脅威として認定されていたり、とかな」
ドヤ顔ともキメ顔とも取れる言い切ったことに満足したような顔。しかし、その顔が言わんとしていることもわかる。何せ、マーキスは自ら不能男の性能を評価し終えた後だったからだ。しかも戦場にいれば真っ先に死にそうな、と今となっては真逆の評価を下した後、である。故に純の指摘したいことが理解できている。つまり、純が言った通りのまま、脅威のない脅威。それがいかに脅威であるかは直感に反する脅威故にピンとは来ないだろう。油断していないのに油断している環境が生まれている、と考えるのがしっくり来るのではないだろうか。油断にはもちろんバリエーションはあるだろうが、戦いに於いて言えばそれは相手を前に最善を尽くせず、全力を出し尽くせず、本解に尽くせず、それは自分に尽くせないということである。生存能力の暴力とも言えるだろう。そして、もしもその脅威のなさが顕著であり、下限に溢れていたら。不能男は確かに盤外戦力と言えるのかもしれないと感じさせられた。無論、憶測の域を出ない話だが、この雇い主がそう言ったのである。
そうなのだろうと感じさせる何かがある、という話である。
「いやぁ、何か嫌がらせ等受けた時のことを思い出すようで身が引き締まるよ」
腹部をさすりながら不敵に笑う純。その所作は古傷が痛むのとそれに対して借りを返す、いやもう一度挑戦し今度は可憐に克服してみせるぞというワクワクの表れにも見えた。
そう、少なくともマーキスから見て純は、不能男を一人の敵と見定めた上でその特異性に対してか、楽しみにしているのである。
「浮足立ってるな。もう術中にハマってるんじゃないか?」
「あぁ、その通りかもしれない。俺はその忠告を真に受けることから始めなくちゃいけないのかもしれない。いや、かもしれないじゃダメだ。そうだ、と言い切ろう」
報告を始めるまでの陰鬱な気分とは一転し、実に、実に無邪気な子供がそこにいた。そう、子供、である。
だからこそ若干の不安は拭えないが、それ以上はマーキスの出る幕では、いや義理はない。
「それで、報告はそれで終わり?」
「いや、神輿以外にも警戒せざるを得ないから時間がかかったとは言ったけど一応、彼らの動向は追っていた。そして、今送った画像の場所がケイデンが追えた最後の位置だ」
チラリと画像を確認するように一瞬だけ端末に視線が流れる純。
「まぁ、ここがどこだかわからないけど誰が関わってる施設かはどうせ見当がついてる。ここまで判ってれば上出来だ。で、もう一度真っ直ぐな苦情が来たわけだけど目ぼしい人間はいたの?」
「いや、いなかった。一応、スペを使って監視してた場所から入国していた人間の照会は済ませているが神輿関係者も以降は見当たってない。別ルートからという可能性は充分あるがそこまでの人員を確保する余裕はなかった、とだけ」
ふぅと軽く息を吐くマーキス。
「報告は以上だ」
パチパチパチ、と純から拍手が送られる。
「うん、流石だね。過不足なく仕事をこなしてもらった感じだ。いや、不能男をしっかりと評価できていた、という点ではむしろご褒美が必要かもしれないな。あっ、これ嫌味じゃないよ」
脅威がない男とマーキスという経歴を持つ男の評価のおかげでその異常性が評価できたという意味なのだろうが、それを見破ることが出来なかったという意味で嫌味にしか聞こえないのは事実だった。
だから、マーキスは特に口を挟まず純の次の言葉を待った。
「でもその前にしっかり上げて落とす。他にいた人間についての一切がないけど、その点は報告漏れ?」
落としてばっかだろ、という言葉をしっかりと胸の内にしまうとマーキスは一呼吸置いてから話し出す。
「他の二人に比べれば印象が薄かった、というよりは数ある兵の一人、ぐらいの感覚だった。名前と顔写真は一応スペから後で受け取ったけど、先の二人を注視したこと、そして何より何度も言うが観察対象が明言されていなかったせいでその場を動くことができなかったから俺がそいつらに評価をするほど熟考する機会がなかった、というのが正しい」
そう言って送られてきたマーキスからの情報を見ながら純は受け答える。
「見かけで全部判断ができるわけないじゃん。何だよ、さっきからそういうオーラがって、なんてバカバカしく掘り返すようなことは、俺も例としてやった立場から言える立場じゃないけどさ、お前とかってわかりやすく自分の評価、ちょっと普通の人よりはちょっと強いどこにでもいる傭兵、って感じだろう。そのちょっとがどれだけ恵まれてて、そのちょっとがどれだけの普通と差が出来た貴重な存在か理解してる?」
「俺ぐらいのやつが相手ならそりゃ手こずるだろう。でもそれはこっちの話であんたにとっては別の話だ。あんたにとってその差は俺たちにとっての雲泥だとしても誤差なんだからな」
ハハッと乾いた笑いを純は挟む。
「褒めてくれるじゃん。てことはさ、なんとか出来ると思ってるし出来なくてもそれはそれで何とかなると思ってるってこと? ズルいなぁ」
「綺麗に爪を隠してるならそれは相手を褒めるだけだし、あんたの前に出る前に俺が暴くわけだから問題ないだろう」
「それもそうか。それは失礼しましたっと」
わかってるならいい、とでも言うように純は両手を組んで裏返しながらぐっと上に持っていき伸びをする。
そしてパッと両手が勢いよく離れるのと同時にまた喋り出した。
「と、言うわけで、ご褒美を上げましょう」
「気前がいいな」
そのご褒美が本当にご褒美足り得るのか疑いつつもマーキスは相槌を打つ。
「俺がアーキギュスと模擬戦をして勝った話は?」
「スペから別れ際に聞いてる」
「……あれ、あまり驚いてない?」
「最初に聞いた時は驚きはしたけど、腹立たしいことに意外だ、とは思わなかったな」
ニヤニヤした嬉しそうに弄りたそうな、俺が強いと褒めてくれてありがとう、という顔をした純はマーキスの言葉を受けて続ける。
「ご褒美はその勝因となった技術を君たちにも生で見せてあげるついでにさらにその先の真髄も見せてあげようって話さ。そして、この技に名前がつく世紀の瞬間を目の当たりにさせて上げる権利もプレゼント、ってね」
クルリと純が右足を軸に一回転する。すこぶる気分はいいことだけは推察できる。
「まずは手始めに」
次の瞬間、パキッという音と共に周囲の気温が一気に冷えた。理由は目の前に咲く一輪の純たちの腰の高さほどある大きな氷で出来た花の出現である。
温度が下がって空気中の水分が凍った、ではなく空気中の水分を水分子を固定し凝固させた、と理屈ではなるのだろう。
「規模はどうあれ、あんたでもこれに似たことは出来るだろう」
どうだろうか、とすぐさま答えはしなかったマーキスの答えはそもそも期待していなかったのだろう。
次のステップへと純は移行していた。
「結晶之花」
言葉と同時に先ほどと同じものが生えていた。
「これが、俺が模擬戦でやった想造の言語化だ。再現性を高めると同時に誰でもこの現象、つまり結果を見て唱えれば氷の花が咲く様になる。ただし、これで確実に出来る、とは実はならない。唱える人間の知識量、理解力に応じて変わる、とかじゃない。問題は俺がどういう言葉を並べてりっかと言ったかにあるわけだな。だから、大方今日のを見て希望を持った奴の多くはチグハグな結果で困るだろうよ」
ペラペラとペラペラと饒舌に、軽率に。
「俺は漢字で結晶の花、あぁ、の、も漢字をイメージしながら唱えた。そしてそういう文字列から本来の漢字での六花、氷の花を出現させた。つまり、この現象の結果は以後簡略化されたと認識され俺の創作文字列、結晶之花で氷の花が生まれる訳だ。良かったな、周りを出し抜ける貴重な情報だぞ。お陰でお前がバカだったとしても出来る」
あっさりと、そうあっさりと純は報酬に見合わない、莫大な情報を開示したのだ。だから、マーキスは言葉を失っていた。つまり、誰もが拳銃以上の凶器を突き合わせて生活できる時代が来てしまうということである。それは、マーキスの様な立場の人間の価値が失われ、同時に言葉そのものにマーキス以上の価値がつくことを意味していた。それをわかってて目の前の人間は、きっと言っている。だからこそ、だからこそ、純粋な眼に恐ろしさを感じる。馬鹿でも出来る。
その言葉の意味を、自らの首を絞めかねない事態を理解しているのか、と。
「ここまででも驚きを隠せないだろうがこれは俺が前フリをした真価、ではない。では、真価とはこれだ。まず、一つ」
息を吸い込む純。
「結晶之花咲うは燦々の銀世界」
比喩ではなく、事実として吐く息が白くなる。なぜか。
屋上一面が足の文場も許さぬぐらいの一面、氷の花畑と化していたからだ。
「言葉による補足はより理解できなくても言葉という意味持つ文字が世界に意味を記して具現化させる手助けとなる。つまり連想できる意味であればより進化もする。まぁ、どっちかというと本来の想造よりも手の内はバレても精度が増すって方が重要だけどな」
純が右手を突き出し人差し指を軽く突き出すように振る。
「さらに、結晶之花、岩となる」
足元がぐらりと揺れたと錯覚するほど凹凸が出来上がっていた。なぜか。
屋上の床のコンクリートが氷の花に置き換わっていたからだ。
「岩って抽象的だけどまぁ、そこは頭で補完すればこの通り。つまり、無から有は出来なくても置き換えることは出来るって話だな」
後もう一つあるんだけどこれはあいつを驚かすために、など言っているが教える気のない説明にまで脳を割く余裕は今のマーキスにはなかった。今あるのはただただ衝撃である。先程のある種幸運な人生を辿った弊害により馬鹿を知らないであろう人間が振りまく利便性の弊害に対するものもあるが、それと同様に馬鹿でない自分にもこれは十二分に薬となる毒だとわかってしまうことである。知ってしまった。その一点でもう後戻りはできない。知らない方が幸せだったかもしれない、そう思う日が来るかもしれない。少なくとも強さという枷は外れたはずなのに身体は重く強さに向かって高速で坂を転がることは出来る状態なのだ。
結論、やはりご褒美とは程遠いものだったということである。
「そんなこの新しい力、俺は名前がないならこう名付けたい」
パチンッと指パッチンを決めてから純は語る。
「言葉を奏でて造る。そうぞうと書いて奏造と」
石で出来た花が示し合わせたように崩れていく。
「魔法という言葉に逃げず、浸透しやすさを度外視していると思いきや、中々に想造にちなんだ良い言葉遊びだろう?」
投げキッスならぬウィンクにマーキスは不快感を隠しきれずに表情に出す。
「ハッ。お前に命名権があるようなことならな」
「良いこというね」
そしてその不快感は情報量の多さに驚き続けてポカンと停止していた思考回路を、すでに名前があるかもしれないだろうという野次として映りの悪いテレビを叩いたように稼働させたが、なぜかここで純のハートを射止める結果となりこれまた驚かされるマーキス。
「多分、これを知ってるやつはいるし、関係者はわざと広がらないように隠してる。じゃぁ、なんでつけるかって?」
一人で会話を始める純。
「簡単な話だよ。その現象に名前があるって何事においても便利だからだよ。まさに共通認識になるからいちいち説明がいらなくなる。だから、本当の名前が見つかるまでの繋ぎだよ、つ、な、ぎ」
この時の純からしてみればこれは嘘などではなく本当に言葉通りにそう思っているから名付けたに過ぎなかった。しかし、実際にはマーキスに理由を説明する上で前置きをした通り、この用法を知っている者は存在しているし、その者は意図的に隠してきたのもまた事実だった。とはいえ、ここまでのことは誰もが予想してもおかしくはない範疇を決して抜け出していない。一方で一つ奇妙な偶然が一つ重なったことを意味する。
当然、そんなことを純を始め奏造を知らない人間が知る由はない。
「それじゃぁ」
そう言うと屋上の床の凹凸が綺麗に修復されていく。
「明日もしっかりと報酬に見合う働きをしてきてくれたまえ」
「それは、受け取った報酬金に対して、で変わらないよな」
「当然だろ。まさか、恩着せかましく教えたご褒美分上乗せされたら過労死するとでも思った? 安心してよ、さっきのはあくまで不能男に対するご褒美なんだから。別に変に勘ぐらなくて質を落とされても無理に危ない橋を渡られてここでの手駒も減らしたくはないからね」
「ならよかったよ。俺じゃ、いや俺を始め何人雇っても、そうそうあんたの右腕の代役なんて務まらないだろうしな」
「あぁ、知ってるよ」
比べるまでもない、と静かに、冷静に言い切られたことに自分から振っておいて少し自尊心を傷つけられたが、それ以上に、もう一回ぐらいその意趣返しに噛んでやろうかと睨んだ先の純が右腕、紘和のことを思い出してか、寂しそうにした横顔を見せていたので踏みとどまってしまうのだった。独りだと思っているのだろうか。寂しいのだろうか。
マーキスはこれらを喉に押し込んで屋上を後にするのだった。
「楽しくやってるだろうか」
純の解答は夜空へ吸い込まれていくのだった。