第百十九筆:終に始まる彼女の物語
※注意とお願い※
処女作のため設定や文章に問題があることが多いかもしれませんが、暖かく見守ってください。
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「随分と待たせちゃったね。ようやく……ようやく、だよ」
雲一つない青空から陽が燦々と彼女に降り注がれる。吹き抜ける暖かさを届ける風が彼女の長い黒髪をふわりとなびかせる。彼女の言葉に応じる者はそこにはおらず、墓標が立っているだけだった。彼女は自身の発した言葉によって今までの苦労を思い出したからか、それとも悲願を達成できる実感を得たのか、瞳に涙を湛えた後、きれいに一筋、両眼から途切れることなく暫く溢し続けたのだ。
彼女の名前は花牟礼彩音。異人からすれば箱庭の発起人、創造主と置き換えても差し支えない存在である。一方、ハーナイムの人々からすれば十七人いる世宝級の中で現在消息不明とされている人間の一人である。そして、以上の情報を知る人間からしてもこれだけでは当然彼女を語り尽くせていないことを理解できている。それは同時に彼女の全てを語り尽くすためには一つの疑問を解き明かせば良いということをすでに知っているとも言える。なぜ、箱庭を創ろうとしたのか。この疑問は実に遠回しである。求める答えに直結する疑問はこうである。
なぜ、彼女は愛する人を蘇生させたかったのか。
それは今までの言動から鑑みても彼女が彼を愛していたから、という理由に他ならないことは想像に難くない。そしてそれは、ここで言う彼女の全てを語る上であまりにも疑問に対する解答として正解である。一方で、これを考えさせられている皆に求められた解答ではないことは重々承知である。だからこそ、ここで今のうちにその求められる解答を綴っておこう。彼女が彼を、彩音にとって最愛の男である法華津省吾を蘇らせるまでの物語を。ただし、注釈には敢えてこう表記させていただこう。
*この解答は先の質問には一切関係がありません。
◇◆◇◆
ルケタ大陸北東部に存在する国タネボタルの首都サタキカ、に隣接するカンアナが彩音の出身地である。また、食品会社という本来の顔よりも慈善事業の分野で世界中に名の知れ渡っている大企業、雲天グループ株式会社を起業した花牟礼篤詞の孫という一面も生まれた時から持ち合わせていた。世界中に名の知れ渡っている大企業という表現の通り、彩音は裕福な家庭に生まれた。そして、慈善事業の分野で、とこれまた表現通りその活動に奮闘する祖父母に両親の背中を見て育った彩音は当然、幼くしてその道に触れる機会が自然と多かった。小学生の頃から地元のボランティア活動の一環として公園や河川のゴミ拾いはもちろん、街頭募金などよく耳にする代表例のようなことは一通りこなしていた。それは自分が施しをする立場の人間だということを強く意識付けると同時に、熱中させるモノとなった。そして気づけば大学生まで色恋とは無縁の、ボランティアと学業に専念していた。その結果、ボランティアサークルを発足し、花牟礼家の令嬢ということも相まって華々しい活躍を見せ続けた。もちろん、あくまで学生に出来るボランティアの範疇で、ではあるのだが。
さて、ここで少し寄り道をする。ルケタ大陸は大陸の特徴として非常に乾燥した気候を常に有しており、北部と南部の両端はその特徴から砂漠やサバンナが数多く分布していた。そのため、海に面しているという点からも植物の少ないやせ細った土地と成り果て、何より水不足に常に悩まされる土地が多くなっていた。アフリカ大陸という言葉を借りてくればどういった光景が広がっているのか、皆さんは想像しやすいかもしれない。そして年々、いや日に日にその影響は内側へと広がり続けており、タネボタルへもその砂は足をかけ始めていた・
そんな中で彩音が迎えた大学三年生の夏。彼女は自身が所属するボランティアサークルとしては初めて国外へと活動の脚を伸ばしたのである。それは雲天グループ株式会社の慈善事業に付き添う形での参加であり、彩音にとって今までで一番大きな活動でもあった。その内容は夏季休暇期間中という長期間に及ぶ参加であり、緑化推進運動並びに水・食料支援の手伝いだった。今までの活動の延長線、その感覚が抜けない彼女は、過酷な環境で生きている人間という者を初めて知ることにもなったのだ。
いや、それを体験することになったのだった。
「お~い……大丈夫かい」
その声と共に目を覚ました彩音は見知らぬ天井を見ていた。
目を覚ましたという状況から何となく自分の置かれている状況を把握することが出来たが、その見知らぬ天井が自分の想像する真っ白なものではなく今にも朽ち落ちそうな土塊であることに、場所の推測までは出来ずにいた。
「やっと目を覚ましたみたいだね。ひとまず……良かったぁ」
彩音が最後に覚えている光景は突然発生した砂嵐に車ごと巻き上げられたこと、である。
意識を失う理由としては十二分だと想像が出来る。
「ここ、は?」
「チライハ砂漠にある集落の一つだよ。ふぁああ。君たちが救援物資を運ぼうとしてくれていた場所の一つさ。どうやら砂嵐に巻き込まれたみたいで君は運良く俺に見つかったって話だ。頭部の強打によるところも大きいだろうけど熱中症も患ってたみたいだからまだ安静に、横になってるといいよ。あぁ、先に断っておくと一応君の身元は所持品を勝手に覗かせてもらって確認させてもらってるよ」
上半身を右肘を立てて少しだけ起こすと周囲を確認する彩音。そこには同行者が同様に横になっている光景があった。
仲間の無事と何より見知った顔を確認できたことで少しだけ落ち着けた彩音はそのまま頭を元の位置に戻す。
「ありがとうございます」
「いえ、お気になさらず」
そして、これが彩音と省吾の出会いでもあった。
◇◆◇◆
「行ってきます、お兄ちゃん」
「行ってらっしゃい、璃子。気をつけるんだよ」
翌朝、小さな女の子を見送る省吾に彩音は声をかける。
「おはようございます。妹さん、ですか?」
「妹の璃子だよ。っと、そういえば自己紹介がまだ、だったね。俺の名前は法華津省吾。よろしく、花牟礼さん」
スッと差し出された手に引き寄せられるように彩音も手を伸ばし、握手をする。
「初めまして、私は花牟礼彩音です」
言い終えると交わした手を解く。
「それで、物資や私たちが乗車してきた車はどうなっていますか?」
「車は横転していたからそのまま。中の物資もこちらで勝手するわけにもいかないと思ったからそのまま。もう大丈夫そうなら皆さんをそこまで案内するよ」
そして、彩音は無知故の言葉を発する。
「物資だけでも先に持ち帰って頂いても構わなかったのに」
その言葉を受けた瞬間、彩音の目には助けるべき存在からの明確な敵意を感じる表情を一瞬だけ、それでいて鮮明に捉えることが出来た。すぐに柔和な顔に戻っていたが、それだけ彩音にとって異質故に際立った表情だったのだ。
それは本来であれば施しを行う立場の人間が向けられるはずのない表情だっただけに、向けられた当人は心底訳が分からないでいた。
「悪気がなかったことはわかってるよ。でもね、廃棄弁当を持ち帰ることですら他人の財物を窃取したとして窃盗の罪に問われるんだよ。何より、俺たちは施しを受けさせられる立場なんだ。そんな弱い立場の人間がそんな軽率な行動をすれば後々どういう理由をつけられて何をされても何も言えないんだ。だから、そもそもしてはいけないし、だとしても出来ないんだよ。コレを機にそういう事も覚えておいて欲しい、かな」
その言葉は彩音にとって、感謝を述べられてきた人間として驚きしかないものだった。
「いや、気を悪くしないで欲しい。こっちは確かに助けられてるから、そこに感謝はしてるんだ。申し訳ない、勝手に少し熱くなってしまったみたいだ。大人げないね」
そんなことありません。こちらこそ失礼なことを言ってしまったみたいで申し訳ありません。と本来であれば続けるべきであろう言葉は彩音の口からは出ないでいた。それだけ彩音にとって省吾から向けられた言葉は衝撃的だった。そして、新しい視点を彩音という花牟礼家の立場の人間に真っ向から間違っているという切り口で発言した人間というのも、彩音の目にして来た人に今までいなかったため、またまた衝撃的に映っていた。
そのためこの衝撃はボランティアに向き合う姿勢に対しても、省吾という人間に対しても実に実に彩音にとっては興味深いモノへと変質を遂げることになる。
「は、花牟礼さん? ほ、本当に気分を害して申し訳ありません」
省吾の、彩音があまりにも無反応でいること時間が長いことに対して逆鱗に触れてしまったのかという発想からの必死さが表れ始めた謝罪は、二人の立場をより明瞭に線引していく。
「あっ、いえ。お気になさらず。あまりの自分の無知さに少々驚きを……。だって、全部その通り、なんですもんね」
ようやく彩音が口にした言葉はあくまで確認だった。
「……はい」
言葉遣いからおっとりとした人物像を想像していたが、この返答からその人物像を改める必要があるとも彩音は思った。
そこがまた彩音を惹かれさせていくのだが、この時は省吾へ向ける興味がそういったものだという自覚をすることはもちろん出来ずにいた。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした」
そして漸く彩音は省吾に謝罪の言葉を告げると、気まずさから話題を物資の話へと戻し、皆を連れて回収へ行く提案をするのだった。
◇◆◇◆
案内の道すがら彩音は興味を持った省吾に対して様々な質問を自然とぶつけていた。もちろん、先程の失礼と感じさせた質問から沈黙になると気まずさを思い出してしまうからという理由で喋り続けていた節もあるだが。いや、普通は会話も気まずくなるだろうからやはり無意識下で惹かれているという感覚がそうさせていたのかもしれない。どちらにせよ、彩音は支援物資を回収する中で省吾に問いかけ続けていたのだ。そんな中で彩音がわかったことは以下の通りである。
まずは現状。横転して一晩放置された車は部品が欠損、破損していた。それは車の構造を詳細に知る人間がいないことから想造によって修復することが出来ないと判断できるぐらいの損傷具合であり、彩音たちボランティアの一行は帰りの脚を無くしてことを意味していた。もちろん、徒歩による帰還も不可能ではないが、日中の照りつける太陽によって高温と化した砂の上を移動するというのは彩音たちにとって過酷以外の何物でもなかった。砂の熱は横転した車の装甲を歪ませるだけの熱を持っているのである。普通に町中で暮らす人間なら誰しもが危険だろう。その証拠にここまで来るのに照り返しも含めて何度と木陰となる傘を立て休憩を挟んでいたのだから。そのため省吾たちが暮らす村から通信機で救援を要請することとなり三日は街に滞在することが確定することとなった。
次に省吾についてだ。家族構成は璃子という妹との二人暮らしである。両親は父を過労、母を流行り病ですでに亡くしているとのことだった。年齢は彩音よりも五つ上ではあるものの若くして街の顔役という立場で復興、発展を牽引する立場にいる。その理由に大きく貢献しているのは省吾と璃子主導で行っている砂漠再生計画によるところが大きいという。やっていることはその名の通りで砂漠に緑を取り戻すためにどうするか、を検討しているものだった。ひとまず現在は小さな区画を用いて植物の育つ土作りから始めているのだという。一方でその過程で育った個体からその地に根付くことが出来る個体を選別し、より強い個体を作ることを並列して行っているという。その結果を積み重ねて想造による早期拡張を行えればという将来性の話を彩音はしてもらっていたのだ。
◇◆◇◆
「あっ、彩音さん。おはようございます」
「おはようございます、璃子さん」
彩音が村に来てから二日目の朝。日が水平線上に顔を覗かせたぐらいの時間に二人は外で出会っていた。彩音は省吾から砂漠再生計画の話を聞いてからこの実験を行っているという区画こと畑へ頻繁に顔を出すようになっていた。それは純粋にボランティアという視点から興味のあることだったからだ。省吾に言われたボランティアが出来る立場の人間とボランティアされる立場の人間。この関係を根本から無くす対症療法ではなく原因療法である点に実に惹かれるものがあったのだ。それは施しを受ける立場が当然存在し続けるから自分が手を差し伸ばす、と考えていた彩音にはある意味思いつきもしなかったものだったのだ。
だから、その研究の進捗を確認する上でも頻繁に顔を出していたのである。
「省吾さんもおはようございます」
「おはよう、花牟礼さん」
朝から汗を流しながら土をいじる兄妹を見ながら彩音は省吾へ駆け寄る。
「本当にこんな朝早くからやっていたんですね。昨日はこちらに時間を割いてもらい申し訳ありません」
「いえ、お気になさらず」
「……それで私に何か出来ることはありませんかね」
もちろん、彩音もただ見るためだけに来たのではない。
少しでも理解するために、何よりここで過ごさせてもらう間、少しでも恩が返せるように手伝いに来たのである。
「じゃぁ、あっちの方を耕しながら五メートル間隔で土を採取してきてもらっていいですかね」
「わかりました」
そんな感じで彩音はここで三日間を過ごしていくのだった。
◇◆◇◆
滞在最終日の夜。彩音は省吾と二人、星空の下にいた。彩音の方から声をかけ、ある話を持ちかけるために時間をもらっていたのだ。
そして、その話を彩音は早速切り出す。
「この研究を植物の個体の選別に重きを置いて私たちの元で研究出来るとしたら、どうしますか?」
パチパチと数度の瞬きを挟むと省吾は彩音から顔を反らして星空へと目を向ける。そこから暫く無言の時間が続く。彩音はすぐに承諾を得られるとは思っていなかったが、内容の詳細を聞かれたりと今後の展望を語り合う時間が始まるとは予想していただけに、この無言の時間、省吾が何を話せばいいか悩んでいるような素振りには意外なものを感じていた。しかし、先に持ちかけた側であり、それ以上でもそれ以下でもない提案をした彩音は省吾の口が開くの待つことしか出来なかった。研究出来るとしたら、の言葉通りまだ不確定な約束となることは決まっており押し売り出来る立場では決してないからだ。それでも尽力したいと、砂漠地帯を亡くしたいと思った彩音だからこそ提案しており、そこに後悔は当然ない。承諾を得れば全力で支援してみせよう、そう思っていた。
固唾を飲んで彩音が見守る中、省吾は漸く口を開いた。
「多分、君も妹から俺のしていることを良い様に聞いている、と思うんだ。実際、俺も自分の口で砂漠再生計画、なんて大仰な言葉を使ったからね」
話の流れから省吾は砂漠を再生することに実は興味がないのか、そんな疑念が生まれる。
「あぁ、もちろん、この砂漠を緑豊かな土地にして住みよい環境を作りたい、取り戻したいって気持ちに嘘はないよ」
彩音のそんな考えを見透かすように補足が挟まる。
「でも、俺の活動の動機の根本は……妹のため、なんだ」
申し訳無さそうに、それでいて照れくさそうにハハッと軽い笑い声を添えて言葉を続ける。
「璃子は歳の離れた兄妹だ。だから、って話を繋げるのは少し違うかもしれないけど、両親の顔を殆ど覚えてないんだよね。両親の温もり、愛情を知らないで育ててきたんだ。だから俺は愛情を目いっぱい注いできたし、だからこそ絶対に両親と同じような最後を迎えて欲しくない、と思ってる。きっと両親もそれだけは望んでるのは間違いないだろうしね」
亡くなった両親が璃子に向けた優しい眼差しを思い出している、とその目を細めて遠くを見つめる柔らかな口角は彩音に物語らせていた。
同時に覗かせる哀愁は育ての親の愛情以外に使命感を携えていると感じさせられた。
「そのためにまずは飢えさせない、栄養不足による免疫力の低下を防ぐために野菜づくりを始めたんだ。だから、土の品質向上も、植物の品種改良も全部その妹のため、のついでなんだ。そんな恣意的な、いや目的を持っているから私的の方が良いのかな。ともかく身勝手な理由な自分が結果として今の立場を得てしまっただけで、そんな理由で支援を受ける立場にあるのかという後ろめたさがあるんだ。いや、本当は……」
「十分な理由です。後ろめたさなんてありません私はそんなあなただから支援したいのです」
彩音は本心からこの言葉を間髪入れずに省吾へ告げていた。周囲から身勝手と言われようと誰かを助けたいという気持ちに貴賤はないのだから。ましてやそれが唯一残された肉親の為ならばなおさら、である。だから彩音はより強く省吾をさせたいと思った。
同時に璃子のためにと過ごした時間は短いけれど、妹がいればこんな感じかと愛着が湧くほど戯れた故に思ってもいた。
「どうですか? 私が両親に、上に話を通すだけでもまずはさせて頂けませんか? 私も世界を、いや、あなたの世界を救ってみたいのです」
その強い熱量の推しに省吾は目をパチクリとさせていた。
「わ、わかったから落ち着いて。俺たちのこと考えてくれてたってのはここに来た時よりも十分感じられたからさ。まだどうするかはそちらの詳細を聞いてから返させてもらうよ」
「頑張って良い返事がもらえるように努力するから」
彩音の善意である。しかし、前のめりな感情だけの言葉の波が遮った、いや、に続けていた省吾から聞けていれば、彼らの考えの違いはすれ違うこと無く衝突し、よりよい方向へ進んでいたのかもしれない。もちろん、そんなことは実際なかったのが事実である。
そうならなかったというイフがちらつき、そこでありえなかった事実に話を乗せて語るのは、この場合愚かな証拠であると同時に醍醐味、いや程よいアクセントでもあるのだが、それはここでは関係のない話である。
「では、話だけでも」
こうして省吾は妹のために差し伸べられた大きな力に少しだけ身を委ねてみる意向を示すのだった。
◇◆◇◆
彩音が現雲天グループ株式会社代表取締役社長である父、花牟礼文善に砂漠を再生するために緑を増す研究を食糧問題と紐づけてやらせて欲しい、やらせたい人がいると直接進言してから三日が経過していた。実施したとして可能なのか、可能だとして出資にどれだけ投じることが出来るのかなど現実的な検討をしなければならない別れ際には言われた。会社でなす事業である以上ただの善意だけで動くことが難しいということはわかっていたが、彩音は待たされるその時間に、いや、きっと通ると確信しているからこそそれを省吾に伝えたいという先行した思いにソワソワとしていた。そしてそんな三日目を過ごしている際中に彩音は文善から連絡をもらう。ゴーサインが出たのだ。そこから研究にあたり詳細な予算を始め条件を聞き終えた彩音は当然、いの一番に省吾に連絡を取るために再びチライハ砂漠にあるあの村へ向かうのだった。
◇◆◇◆
雲天グループ株式会社が提示した条件は以下の通りだった。まずは年間一千万円の研究費の贈与で五年間経過を観察すること。これは雲天グループ株式会社が省吾と五年間の雇用契約を結ぶことを示した、という意味である。そして、五年以内に研究の目処を立てる、もしくは結果を出せということも意味している。
また、研究成果として得られた全ての知見、成果は省吾と雲天グループ株式会社が管理、行使する権利を有すること。この世界が情報や知識によって己の力を想造を介して強固に出来る性質がある以前に、平たく言えば特許、利権を軋轢なく成功報酬として手中に収める折衷案が事前に敷かれている、という意味である。そしてこれに際し、被推薦者は契約期間中は雲天グループ株式会社の監視下に置かれ、外部との接触を禁ずる、というものだった。
この条件は研究者という立場から見れば決して悪くない条件である。しかし、省吾にとっては半軟禁状態というのは好ましいものではなかった。それはすべての行動の起因である妹と物理的に距離を置かされる状況を余儀なくされることを意味していると取れたからだ。もちろん、五年で成果を出せば妹の、璃子の未来をより豊かにすることを確約することが出来る。
しかし、それはそれまでの期間に璃子の身に何が降りかかろうと関与できない状況下に置かれることは不安でしかなかったのである。
「どうでしょうか。妹さんのためにと頑張れる省吾さんならきっと出来ると思います。この機を逃すのはもったいないかと」
「いや、でもその条件は」
もちろん、彩音は璃子のため、というよりは未来のために、と目の前の環境問題に立ち向かう意味で省吾にやってみないかと話を振っていた。そんな提案を省吾は先が頭にあったため渋る素振りを見せる。しかし、そんな態度も省吾の内心も全て最初から意味がないとでもいうように事態は進んでいく。それは意図的ではないにしろ璃子や数人の村の住人のいる場所で行われていた、というのが運の尽きとも言えた。何を意味するか。村からこの砂漠化を救うかもしれない英雄誕生の門出への羨望の目を一身に受けること。何より、省吾にとっての行動原理となる璃子からの無慈悲な後押しがあったのだ。
どうしてそんな難しそうな顔をしているのか、妹だからこそわかるから出せてしまった言葉。
「私は大丈夫だから。みんなのために頑張ってよ、お兄ちゃん」
無垢な笑み。自分が兄の足枷になっていると察しているからこそ向けられた善意でしかない一押し。この場の誰からも悪意は当然ない。だからこそ、省吾は期待に応えざるを得なかった。もちろん、彩音のためでもましてや村の人間やこの砂漠の未来のためでもない。ただ一人の妹である璃子の言葉に泥を塗らないために、だ。
眉間に皺を寄せ左手親指と人差し指で摘みながら己の葛藤を体現すると、細く息を吐きながら覚悟を決めたように省吾は口を開くのだった。
「……わかった。頑張ってみるよ」
こうして、覚悟を決めたではなく決めさせられた省吾は雲天グループ株式会社の研究室へと移ったのだった。
◇◆◇◆
一ヶ月後。省吾主導の元、雲天グループ株式会社所属の研究員と共同で砂漠再生計画は本格的に始動した。一方の彩音はまだ大学生だったこともあり直接手伝うといったことは学業という点や企業に所属していないという点からも出来ずにいた。しかし、その期間が彩音の進むべき道を形作っていくことになる。
プロジェクト始動から一年。省吾は明確な成果を一つ生む。駿胞樹脂。保水性に富んだ樹脂の開発である。この樹脂は水を吸水させることでゲル状となる有機素材であり、一度給水されゲル状となった樹脂内の水分は構造上、蒸発を極力抑えた状態でその状態を維持するというものだった。そして、この樹脂の最大の特徴は一グラムで十リットルの水を蓄えることが出来る点にある。つまり、その樹脂を砂漠に撒いておけば撒いたグラムに対して約十倍リットルの水をその地に維持することが出来るということである。それは砂漠で植物を生い茂らせるうえで欠かせない水不足解決への第一歩になったということである。同時にこのニュースは世界中に省吾の名前を轟かすことになり、同時に雲天グループ株式会社の株を急上昇させる実績ともなった。
一方の彩音はこの人ならと推薦した、自分に別け隔てなく意見をし、ボランティアの価値観に新しい視点を授けた省吾の活躍に、自分も隣で尽力したいという思いがこの発表を受けてより強くなった。何より、本当に結果をこの短期間で生み出したことに彩音はとても感動していたのだ。
その半年後、省吾は砂漠で育てることに特化した植物を品種改良の末に生み出す。スナアツメ。耐乾、耐暑、耐寒、耐塩性などに優れる落葉樹である。成長が比較的早く根粒菌が共生し、土壌改良の働きがある。つまり、砂漠という土地に根付きやすく、その土壌を継続的に向上させていく力があるのだ。しかし、一番の特徴はこの性質を持っていながら枝葉は家畜の優れた飼料となり果実はトウモロコシなどに近い栄養素をもつため、人の主食としても利用可能な点にある。
そして、保水性の優れた樹脂による安定した土壌の上にこの植物を大量生産することができれば、安定して緑化地帯を増やしていけることを意味していた。懸念点はそれだけの樹脂と植物を用意すること、そして何より土壌が砂と違うという点で安定しているという表現を使ったが、豊かであるという肥育の点では砂の栄養をどう賄うかという課題が残されている。しかし、これだけのスピードで躍進を続ける事業、研究である。誰の目からも数年と待たずに現地で着手されるのではないかと期待の眼差しを一身に受けることとなる。
さらにこの半年後、大学を卒業した彩音が省吾の研究部署に就職することになる。そして職場を共にしたことで省吾へ寄せる憧れや好意が恋慕だと確信した彩音は一ヶ月もしない内にその思いを告白し、それとなくその向けられる感情を前々から察していた省吾は自身のためにも、とその告白を受け入れたのだった。社内公認のベストカップル誕生と話題になり、実際に外から見る二人の動向はとても順調なものに見えていたという。いや、失言である。順風満々のそれであったことを疑うものは彩音を含めその場の関係者には誰一人いなかったと言うべきだった。しかし、そこから二年間、研究の進展は発表されることなく、一つの事件が起こるのだった。
◇◆◇◆
「現存する環境に及ぼす影響を考慮するために調査しなければならないって何なんだよ。俺たちは砂漠という環境を緑に変えるという身勝手なことをするために研究をしてきたんじゃないのか。こうしてる間にもチライハ砂漠から離れられない、離れさせてもらえない人間は苦しんでいるっていうのに」
彩音との交際から二年。
研究成果を実行に移すことが叶っていない省吾が職場で度々漏らすようになった言葉である。
「私も何度も取り合うように申請してるんだけど、どうしても肥料として土壌を完全に別のものに置き換える可能性がある点が本来の生息する生物の生態系にどう影響して、最悪絶滅させる可能性があるかもしれないから慎重にならざるを得ないって」
「そんなこと、砂漠を再生する上でわかってたことじゃないか」
そう、わかっていたことである。元あった緑を戻したいという大層な理由はそこには本来ない。緑がない土地にただ人が憐れみを感じ勝手に緑を再生することで地球に貢献しているとうぬぼれている、と表現してもまだ外面の皮が厚い意見である。根幹は自分たちの生活圏を取り戻すため、である。だからこそこの現状は上層部の妨害にも感じられてしまっても仕方がない。しかし、その理由を彩音には想像することが出来ない。だから故郷で送り出してくれた妹の思いに応えられないことにやるせなさを感じ、行き場のない感情を大声でしか発散することの出来ない省吾に彩音は何一つ、かけるべき言葉を見いだせずにいた。何せ彩音はその妨害をしているであろう文善の親族なのだから。いや、違う。彩音がどうにか出来る手段を持ち合わせていないからこそ気休めの言葉すらおこがましいと直感的に不快感を与えると理解できているからだ。
それだけの期間を交際につぎ込んできた自覚はあった。
「すまない、彩音。俺がここで憤りを大声で叫ぼうと意味がないことも、そんな俺に君が気遣った結果無言で見守っていることも頭ではわかってるんだ。でも、こうでもしないと、自分でもどうしていいかわからないんだ」
キッカケはなんとなくではあるがそれでもそうだろうと思える出来事があった。それは肥料となる有機物を一部の廃棄食材から賄える算段がついた時からであった。当然これらを対比として活用するにはある程度の発酵期間を有することにはなる。しかし、本来であれば廃棄される食品を利用するという点から環境にも適した計画であることは火を見るより明らかだった。
つまり、堆肥の精製方法に問題があったわけではない。問題があったとすれば砂漠再生計画が後は実施するだけの段階まで来てしまったことにあるのだと推察できた。
「やっぱり……」
続くであろう言葉を省吾は口にしない。それは口にしてもしょうがないことだから飲み込んだのか。それとも彩音に聞かれたくないからつぐんだのかはわからない。それを確認しようと彩音も思わない。今の彩音に出来ることはただ省吾に寄り添うことだけである。だから彩音は机に伏している省吾の元までゆっくりと歩み寄ると後ろから優しく抱きつくのだった。少しでも省吾の抱える不安を和らげたくて、少しでも省吾の苦悩を分かち合いたくて、その身で省吾を感じるのだった。
しかし、不運とは続くものである。この三日後にチライハ砂漠に点在する村々で未知の感染症が発見され、隔離されることが決定したのである。つまり、物理的に省吾の研究が実行へ移せない状況が生まれたのである。もちろん、省吾にとってこの一軒で自身の進める研究が一時的とはいえ完全に中止させられたことはそこまで問題ではない。
ただ一人の家族がその未知の感染症にさらされており、契約上自身がその現場へ迎えないことが省吾に続いた不運だったのだ。
「待って。省吾さんにとって璃子ちゃんは全てなの。だから」
チライハ砂漠へ向かおうと研究党を飛び出した省吾はすぐさま敷地内を巡回していた警備員に捕縛された。
「たった一人の妹なんだ。だから」
そんな懇願の声が届くはずもなく省吾は落ち着くまでと断流の処置が施された部屋に軟禁されることとなったのだった。彩音の静止する声も振り切り何の迷いもなく走り出した省吾。
そんな省吾のためにと彩音も文善と面と向かって対立する覚悟を決めたのだった。
「待ってて、省吾さん。私、行ってくるから」
扉越しに自身の決意を言葉にして彩音は文善の元へと赴いたのだった。
◇◆◇◆
「たった一人の家族なの。せめて一目だけでも会わせてあげてよ。省吾さんが自分の研究を私利私欲に口外するような人には見えないでしょ」
タネボタル首都サタキカに居を構える雲天グループ株式会社本社ビルの最上階にある社長室で彩音は文善と二人で口論を開始していた。机に向きながら座る父の正面に娘が立つ構図である。
そして彩音の開口一番は情に訴えかけるという至極単純なものだった。
「契約、それはそれ以上でもそれ以下でもない。交わされたことを守ることに意味があるんだ。守ることで互いの信頼が保証され、その積み重ねが外部との評価にも繋がる。だから出来ない。それに法華津君からの条件である妹さんへの支援は続けていた。彩音の彼氏だからといってこちらが特別扱いするのも彼の立場を悪くするだけだろう。わかってくれ彩音」
それは文善という人種にとって効力の薄い手段だったということは返される言葉からもわかるだろう。
しかし、そんな事がどうでもいいくらい聞き捨てならない言い回しが彩音にはあった。
「支援は続けていたって……どういう意味?」
嘘はつかない、というよりも嘘はついていないことへの対応として罰の悪そうな顔で一瞬だけ目を逸らす文善の姿がそこにはあった。
「まさか、感染症の発表以降、支援を打ち切ってるの? 璃子ちゃんは大丈夫なの? そもそもそれは契約違反じゃ」
「落ち着け。そんなに一度に捲し立てられたら答えるべきものも応えられない」
軽く前に出した両手をこれまた軽く押すように二度手首を上下させる動きを挟みながらふぅとため息を一つ漏らして見せる。
「じゃぁ、支援を打ち切ってるの?」
肩を上下させつつも深呼吸して落ち着きを払う姿勢を見せる彩音を確認すると文善は腕を机の上に置き両手を前で組むと口を開いた。
「二次被害を考慮して現在政府がタネボタルからのチライハ砂漠への入退場を規制しているのは当然知っているな」
頷く彩音。
「隔離措置、というやつだ。もちろん、雲天グループという力ある企業だとしても例外たり得ない。無論、我が社の性質上政府と連携して食料を中心とした物資を送ってはいる。ただ特別に支援している状況から平等に支援物資を送っている状況に変化したことは認めよう」
感染症に対して誰かを守るために選ばざるを得ない状況において国としてみれば正しい判断をしており、その判断に従う文善が悪だと言い切るのは難しいということは理解できる。しかし、感情的に考えれば契約という言葉を口にしてそれを保護にしている状況と、璃子の安全確認を天秤にかけた時、釣り合っていないと思えるのは人間という感情を持つ生物的には何らおかしなことではなかった。
ただ、どちらも思考できる立場であるからこそ次の言葉が駄々をこねるように、無理を通そうと意見するのではなく、質問の続きをするという選択肢を彩音に取らせてしまうのだった。
「璃子ちゃんは無事なの?」
「わからない、が少なくとも死亡の通達は来ていない」
死亡の通達という言い回しに赤の他人という態度が見て取れるだけに、自分の父親とは言え吐き気がするような不快感を覚えると同時に、安否不明に変わりなく胸が張り裂けそうな思いになる。
「それじゃぁ、先に契約違反を犯してるこちらが省吾さんの外出を認めないのはどうして?」
「我が社の社員であり、その安全を保証するためだ。彼は優秀で今後のためにも必要不可欠な存在だということはそばにいるお前が一番わかってるんじゃないか? それに単身乗り込んだとしてそれが達成できるかは話が別だろう」
仕切り直した後に出来た時間で考えたような、定型文を彷彿させる言い回しに彩音は眉をひそめる。しかもその定型文は誰かのために、という皮を被って提示された側の良心に訴えかけてくるという点も極めて悪質と捉えることが出来る。もちろん、そもそもこれが皮を被っていなかったとしても大切なことだとわかっているからこそ無下には出来ないというのがより彩音の心中を複雑にする。
だから言葉に詰まった彩音は文善の揚げ足を取るように、文句を途切れさせてはいけないと口を開き続ける。
「優秀で必要な人材と言うならどうして砂漠再生の実地試験を承認しなかったんですか。この計画は打ち立てられた当初から砂漠という環境をこちらの身勝手で、人間の住みよい環境に、緑を増やすためにするとわかっていたじゃないですか。それを環境に与える影響だと言って邪魔をしていた理由は何なんですか」
省吾の胸の内を代弁するように、幾度となく紙で申請した内容を彩音は感情を言葉に乗せてその真意を、棄却し続けている張本人の一人であろう文善に問いかけた。
そして約一分もの長い間を経て文善から返ってきた言葉は彩音にはない発想だった。
「我が社が望んでいるのは早期解決か、未解決。このどちらかだからだ」
「それって」
どういう意味、と続けるべき言葉は彩音の口からは出てこなかった。それほどに未解決という理解できない見解の出現に衝撃を受けていたのだ。早期解決はまだわかるのだ。会社の株を上げるという意味では前人未到を、偉業を達成したいという欲があれば不可能を可能にしてこその宣伝効果だろうから。他にも時間をかけていては今助けるべき人を救えない、などやらない理由にならないにしても理由としてはあるものと彩音にも飲み込める解釈である。実際、彩音の想像は容易いのだろう。
衝撃に言葉が出ない彩音に対して、自身が述べた早期解決を望む理由を文善は彩音の推察通りに喋っていた。
「それで未解決、の方だが……お前は良い娘に育ってくれたな、としか言いようがない。これ以上は俺の口から言いたくはない。敢えて言うなら、もっと社会を知って欲しい。それだけだ」
「そんな逃げ方はズルいよ。何より納得できない」
実際、納得できなければこのまま時間を無駄に過ごすことは文善もわかっているのだろう。そして時間を無駄に潰すことで時間を浪費することはこの問題の解決ではなく不安要素の助長にしかなり得ないのもまた目に見えている。最悪なのは文善にとって自身の管轄外へ彩音ないし省吾が動き、結果として暴走したとならないことが重要なのである。しかし、これから説明をしても結果は変わらないだろうと思ってもいた。
その葛藤、無言で実に三分。
「まず始めに断っておくことがある。良く聞いて欲しい」
そう前置きして漸く文善は重く閉ざした口を開き始めたのだった。
「俺は社長として控えめに言わなかったとしても我が社の社員の明日の命を預かる身だ。会社が成り立たなければ働く社員に給与を渡す事ができない。だから会社の業績が向上することなら進んでやるし、会社の不利益に繋がる場面があれば俺が責任を持って切り捨てる。そのぐらいの覚悟を持ってこの会社を切り盛りしているつもりだ」
ここからどう未解決に繋がるのか、彩音にはまだ理解が及んでいない。
「また善行はできる限りやるべきだと思う。道を踏み外しそうな人が身近にいれば踏みとどまらせるために尽力することも、道端に落ちているゴミを拾うことも等しくだ。だから慈善事業と評して、可能な限り手を差し伸べてきている」
一息。
「これを踏まえて、だ。彩音、一つ聞きたい。お前は豪雨の中、増水した川に流される幼い子供がいたとして、その場に身一つで他に誰もいなければお前はどうするべきだと思う?」
この話題に正解はなく、誰かの答えがあるだけだということはわかる。それだけにこの話は核心へ向かおうとしていることも理解できた。
だから彩音は自分の答えを口にしようとする。
「救える命なら」
「幼い子供と言ったが、それが犯罪者だったら? 明日にはすでに死ぬことが決まっている人間だったら? 赤子だったら? 老人だったら? 避難勧告を無視して遊び続けていた人間だったら? たった一人のお前の恋人だったら?」
文善はまくしたてるように続ける。
「お前は今、幼い子供という俺の表現に対して、あくまでその状況を想定した中で即決した。果たして本当の現場でこの全ての可能性と出会った時に同じ思考時間で同じ判断をお前は下せるかい?」
「それは……」
「それが答えだ」
全てを見透かすような文善の断定に彩音はその通りだとなり返す言葉が出てこなかった。考えをまとめる時間が欲しいと思ってしまったのだ。
それは災害に見舞われている人間に対して等しく救いの手を差し伸べき理想に対して個の価値観の篩で差し伸べるべき相手を選別してしまっていた、ということと同義であったのだ。
一方でこうやって水を濾過するように慎重に順序立てて核心へ迫っていた文善はいよいよ本題だと畳み掛けるように口を走らせる。
「話を本筋に戻そう。慈善事業。彩音、お前はこの事業をやる意味って何だと思う?」
「人を助けるため」
「それはこの事業がやっていること、だ。俺が聞いているのはやる意味だ」
「だから、人を助けられるからじゃぁ」
「……事業とは生産・営利を目的とする仕事、だ。つまり、俺たちがやっている慈善事業は無報酬の奉仕活動じゃないということだ。やらないよりやった方が企業のイメージアップに繋がる。そして、助けるのも自分たちの財源の余裕の範囲内でそのイメージアップに繋がりやすい者を選んで手を差し伸べている。つまり、自分たちに利益があるかどうか、で人を意図的に、恣意的に助けてる」
その言葉は人を助けるために手を差し伸べている彩音にはまさに虚を突かれたような内容だった。逆に今までの段階を踏むような話建てに妙な説得力が生まれた瞬間でもあった。悪意はなく善意で動いていることに違いはない。それは善意を持たず悪意で動いているような理由に有無を言わさず、前者のような物言いへと彩音に修正力を働かせる手順だったのだと理解できたからだ。
そんな今だからこそ未解決の真意が理解できた。
「だから、チライハ砂漠の問題が未解決で済む、ということはチハイラ砂漠を改善しようとする姿勢をまだ見せ続けることが出来る、というわけだ。チハイラ砂漠に住む人々を見捨てているわけではない。ただ本来そこで生活出来きている人々に最低限の手は差し伸べる。そして、その差し伸べる手の数は、こちらが決める。奉仕の意義に大小は関係ないのだから」
文善の言いたいことは理解できる。しかし、その言い分に納得できるだけの人生経験を積んでいなければ、この理屈を許容できるだけの心の強度を彩音は持ち合わせていなかった。
ただそれだけのことだった。
「でも……それでも……少なくとも私と省吾さんが初めたこの研究は、本当に根本から解決するためにやってきたことだから」
「それが通用するのは」
「お互いに御託を、綺麗事を並べてるだけにしか見えない会話になってしまったことはわかってる。でも、それでも私はお前の御託が気に入らないし、お前の綺麗事が心底耳障りでならない。私は省吾さんが濁流にさらわれてたら絶対に何も考えずに助ける。それはきっとお前が流されてる時よりも早い判断で動くと思う……それが答えよ」
ただそれだけで文善は初めて娘からお前と呼ばれ、激しい憎しみをぶつけられただけでなく、命の選択の優劣を恋人より下につけられたのだ。順建てて説明をし、理解を得られた上での拒絶である。
それは修復仕様のない亀裂を生んだことを示唆するものでもあった。
「感情的になるな、とは言えない。でも、その一時の感情に流されて大局だけは見誤るなよ」
修復は不可能とわかりつつも、それでも親としての意見のつもりで選択肢を増やしたつもりの言葉も彩音には当然聞き入れてもらえていないのが表情から見て取れた。
「ここでの会話は省吾さんに伝えるし、その上で私は私にできる行動を取らせていただきます」
「……共倒れだけはしないでくれよ」
それが会社を守るスタンスを取った文善が出来る対立構造による社員という人質の可視化であり、彩音への唯一の抑止力になると信じて絞り出した言葉であった。
「私が絶対に」
彩音は去り際にボソリとそうつぶやくのだった。
◇◆◇◆
彩音は全てを省吾に話した。
なぜこのような状況になったのか、その答えとなる文善との問答を全て話したのだ。
「なるほど。ようやく合点がいったよ」
そう言って開け放たれた扉の向こうにいた彩音を睨むような視線が貫いた。彩音は省吾にとってはどこまで行っても花牟礼の親族である。その点から憎しみの感情をぶつけられても仕方がないとは割り切っていたのだ。それでもこの告発が省吾への信頼回復に繋がる、この開放が省吾の味方だとアピールできていると彩音は信じていた。そう、今この周辺に意識がある人間は彩音と省吾の二人しかいない。それは彩音が警備員を含め省吾以外の人間を全員気絶させていたからである。
そして、長い彩音の一人語りに加え、扉が空いたことで省吾も全てを察していたのだろう。
「ひとまずはありがとう。それで、彩音はどうする? 俺はひとまず妹の、璃子の元へと急ぐつもりだけど」
中から出てきた省吾は彩音の頭をポンポンと軽く叩きながら先ほど見せた鋭い眼光が嘘のように、いや全てを飲み込んで何も知らなかった彩音を許すような柔らかい笑みを向けてそう告げたのだ。
だから彩音はその心意気に応えるべく、今自分がしなければならないことを告げる。
「いえ、私は省吾さんに迫るであろう追手を一手に引き受けます。それと、省吾さんの計画が実現できるようにも、何より現在進行系の感染症の救命を私なりにやっておこうとおこうと思います」
「……ありがとう」
交わした言葉は短い。しかし、優しく抱き寄せられ、省吾に包まれた彩音はそれだけでよかった。いや、それがよかったのだった。ようやく省吾さんのために尽力できるのだと。故に今どんな顔をしているのだろう、などという似つかわしくない状況で似つかわしい心情の乙女的感情の揺らぎが彩音の頭を過るのだった。
その後、二人は浅間通りそれぞれの目的を果たすために一時的に別れて行動を開始する。そう、ようやく柵を取り払って解決へと走り始めたのだ。しかし、大きな一歩を踏み出したからといって事態が好転していくかはわからない。
だがそれがいい、と思う人間がいるかのように、ね。
◇◆◇◆
この感染症は通り雨のような厄災だった。これは誰がなんと言おうと揺るがない事実だった。
少なくともこの世界の人間にはどうすることも出来ない、自然の摂理として処理せざるを得ないものだったということである。
「璃子……返事をしてくれ、璃子」
隔離されていると言っても広大な砂漠である。検閲を無視して突破するのは省吾にとってそう難しいことではなかった。そのため彩音と分かれて璃子の元まで来るのはさほど時間を要さなかった。ただ、死に目に合うには遅すぎたのである。省吾は唇を噛む。じわりと滲む血が流れる涙と交わりながら落ちていく。
誰に向けたら良いのかわからないやるせなさとは裏腹に、血液混じりの涙は重力に従って流れていく。
「俺が離れたばかりに」
それは璃子が死んでしまったこととは関係がない。現に省吾は治療法をこの場で創ることはできていないのだから。しかし、責めるべき相手をひとまず自分にしなければ今にも後を追ってしまいそうなぐらい深く悲しみに沈んでいたのだ。いや、いっそのこと追うための理由をそこに見つけていたのかもしれない。自身を拘束した、璃子をここから連れ出して保護してくれなかった雲天グループにではなく、自身を連れ出した彩音にでもなく、ましてやこの感染症に対してでもなく、全て自分のせいだと思ってしまえば、憎むべき相手に燃やす憎悪の熱量を全て、全て自責の念へと変換し、その重さに押しつぶされてしまえば容易く璃子に会えると考えているのかもしれない。それを裏付けれ訳では無いが、ピクリとも動かない冷たい妹の身体を省吾は強く強く抱きしめて離さなかったのだった。
そして、暗く沈んだ、不幸な坂を転がり落ち続ける人間は、周囲の異変に全て被害的な考えを持ち始めてしまう。それが元から反感を持っていた藻に対するならなおのこと冷静な判断で見ることは出来なかったのだろう。つまり、省吾にとって悪夢のように感じる時間はまだ終わりを迎えてはいなかったのだ。
◇◆◇◆
「随分と悩んでいるようですね」
文善の配慮があったのか、これだけ騒ぎを起こした研究棟を始め、省吾を追うための人手が割かれるような騒ぎは一切起こらなかったため、彩音は砂漠再生計画の持ち出しと今回の感染症の治療法の模索を始めていた。当然、前者はなんとかなるものの、後者は未知の感染症であるだけにすぐさま特効薬が見つけられるはずがなかった。
そんな、研究室で一人、研究用にと持ち込まれていた病原体のサンプルと向き合っていた彩音にかかった声が先程のものだった。
「……ん?」
社の意向を無視し、親に反抗し、自分の正しいと思った正しいと思われることをしている自分に、何より省吾に褒められた、強く受け入れられたような幸せによる昂揚感が心身共に支配しているため、そのうかれ具合から自身の幻聴を真っ先に疑ったのだ。
「あぁ、幻聴じゃないよ。今、あなたの心に語りかけてます、的な奴です」
「……どなたですか? 一体どういう想造ですか?」
当然の疑問。何より心に語りかけられているという摩訶不思議な感覚に不安が助長される。
そんな彩音の反応を見透かすように声の主は自分のことを明かす。
「おはよう、こんにちは、こんばんは、お久しぶりです、初めまして。どう入っても違和感がない存在。君たちの言うところでは神と言うとしっくり来るだろういわゆる高次元の存在。その名は……別にこだわりとかないから好きに呼んでくれていいですよ。それがあなたにとっての俺になるから。何よりその方がきっと面白い」
彩音がマサミチと呼んだ存在との初めての邂逅であった。
それはあまりに突然で、あまりにご都合主義な場面で、あまりに作為的でいわくつきの偶然であった。
「それじゃぁ、お近づきの印にその悩みを解決してあげよう」
話を進めるマサミチ。一方で当然あまりにも美味しい話に何か裏があるのではと勘ぐるように一瞥する彩音。今は一分一秒と時間が惜しいはずだが、それでも口にするべき言葉を悩み続け無言で思案を続けているのだった。
そして、一分が経過したくらいで漸く開いた口は思案する意味があったのかとツッコみたくなるような内容だった。
「見返りに何を求めるの?」
「いらない、と言えばまた警戒されて事が進まないだろうからこう答えるよ。すでに見返りはもらってるんだ。それも貰い過ぎなぐらいに。だからそれを返してると思ってくれればいいよ。少なくともあなたにこうしろあぁしろと要求するつもりは一切ないよ。逆を言えば俺の声が聞こえる時、つまりあなたと奇跡的に接触できる時は遠慮なく俺に出来ることをしてあげる」
「すでにもらっている?」
「いや~、結局そこに引っかかっちゃうか……でも、どうしてすでにもらっているか、それを知らないことが俺が今協力的である条件なんだ。先んじて潰すようで申し訳ないけど、この問答がここから広がることはないよ。後は俺を信じて試してみるか、どうか。そういう局面だよ。もちろん、俺も暇じゃないかもしれないからいつまでこんな会話が出来るかはわからない、けどね」
明らかに焦燥感を煽っているマサミチだが、時間がない彩音にとってここまで言い訳を、するべき会話の道筋を塞がれてはマサミチの思惑通りの二択をもう選ばなければならない状況から逃れられない。
そして、彩音の決断は省吾のためにという思いもあり、そう時間はかからなかった。
「今、チハイラ砂漠で流行している未知の感染症の特効薬の製造と省吾さんの砂漠再生計画を即実践できる手段を教えて」
「あぁ、それと後出しで申し訳ないけど俺のことは他人に口外しちゃいけないよ。もちろん、それに準ずる行為もだ。まぁ、そんなことはさせないように仕様として組み込ませてもらってるけどね」
後出しで申し訳ない、というマサミチの言葉に彩音は眉間に皺を寄せたが、明確な不利益を、後出しで貶めるような行為でなかっただけにその眉の皺を元に戻しつつあった。
「いや、申し訳ない。しかし、随分と欲張りな注文だね。でも、安心して、俺のため、あなたのためその悩み、この世界の想造で叶えられるように知識として授けよう。もちろん、俺は国を敵国から守りたいと願ったらその国を沈めるような天邪鬼な高次元存在じゃないから安心してくれよ」
マサミチがそう言うと彩音の頭の中を知識が駆け巡った。
膨大な量の情報が一気に流れ込み、時間が経てば経つほど、初めからその手段を知っていたように知識が彩音の身体に馴染んでいくのがわかった。
「どうだい。ひとまずこんな所で。体調は大丈夫かい?」
「え、えぇ、大丈夫」
知識を教えてもったという感覚ではなく、すでにその知識を知っていたという感覚が、知らないから教えてもらったという前後があっただけに違和感として頭にこびりつく。何よりこの獲得した情報で全てが解決できるとすでにわかっていることが、突然手に入れた自分の身の丈に合わない力に恐怖する感覚に似ていた。
同時に、マサミチという存在が本当に高次元の存在なのだろうと理解できた。
「ありがとう、マサミチ」
「マサミチ?」
「あなたの名前よ」
「あぁ、なるほど。どういたしまして」
ここで初めて高次元の存在はマサミチとしてこの世界に干渉したことになった。
「それじゃぁ、また。あなたの窮地に恩返しをしにくるよ」
「それって」
彩音の言葉に返ってくる言葉はない。どうやらある種天啓とも形容できたその声は役目を果たしたことに満足したように、それでいて、また、と本来であれば協力的であるはずが不吉さを感じさせる言葉を残してすでにこの場から立ち去ってしまっているようだった。だから未だ手に入れた知識とこの状況に頭の中は混乱していたが、それでも為すべきことはわかっているため彩音は足を少しふらつかせながら研究室を後にするのだった。
◇◆◇◆
感染症の特効薬が完成したと省吾の耳に届いたのは彩音と別れて五日後、璃子の死を見届けて三日後のことだった。一言で言えば異常だった。何が、と問われれば特効薬が出来上がる期間であり、緊急性を求められる事案であったことを考慮し、安全性の確認といった調査と承認、治験の過程を省いたとしても異常だったのだ。一週間も待たずして一週間前に突如発見され報道された未知の感染症に対して効果が認められる何かを発見し、それを投与できる形にしたのである。もしも異常という言葉を用いなければそれこそ奇跡、神業の類であることは誰の目から見ても明らかなことだった。逆に言えば、何故省吾はこれを、感染症の特効薬が早期発見されこれから解決していくことに異常だと感じてしまったのか。それは彼の持つ人助けに対する価値観と、先の璃子を失ってしまったこと、そして何より研究の邪魔をされたという所属する雲天グループへの不信感が募っての、ある意味自然な憶測からくるものだったのだ。
この感染症の原因となる病原菌を流行させたのは雲天グループだったのではないか、ということである。つまり、自作自演を疑ったのである。まず、感染症の影響で省吾の研究が環境調査というあやふやな理由を抜きに問答無用で中止せざるを得ない状況になった。これは雲天グループにとって現地での試験運用を妨害するという点に於いて省吾につけいる隙を与えないメリットである。では、なぜそんな生物災害を実施できたのか。それがこの短期間での感染症に対する特効薬の存在である。つまり、この感染症を終わらせる手段を持っていたから踏み切れたのではないかという考えである。加えてこの実績は短期間で感染症対策を達成したという雲天グループの実績にも繋がり、同時に砂漠再生計画の進行が遅れても世間的にそれを補って余りある成果として話題をかっさらっていくことになるだろう。つまり、そもそも実績という企業評価を挙げる点で雲天グループにはやる価値があったということである。少なくとも省吾にはあまりにも噛み合った状況に都市伝説で騒ぐような根拠のようで根拠でない願望めいた考え方をしてしまうのである。いや、ここでは省吾の中の偶然が重なった結果、共通部分が色濃くなったことに必然を覚えてしまったと言う方が適切なのかもしれない。
それに追い打ちを考えるように本来であれば喜ばしい実績に省吾は疑心を募らせることになる。しかし、同時に一つの可能性を目撃する機会ともなった。その可能性は璃子の元を追いたいと願う省吾の考えを変えた可能性でもあったのだった。それは感染症の特効薬が出来たと省吾が知った翌日、チライハ砂漠に水と緑に蘇ったことだった。
目が覚めて見た外の光景が一面の緑だったのを鮮明に記憶している。同時にこれをやったのは彩音だと確信し、特効薬を作ったのも彩音だと不思議と思うことが出来た。約束をしていたからではない。もちろん、それは後付で必ずそうだったとも言えることだが、省吾の中では違うのだ。自分の研究を近くで見てきた人間が、雲天グループの人間が手柄を横取りするように、何より一日では出来ないであろう神業を、まるで最初から出来たようにと勘違いするようにやってのけていたからだ。約束しただけで出来る技術、想造の範疇を逸脱している。つまり、ここが絶好の機会と捉えるのが、手柄を取られた、璃子を失った省吾に取っては妥当な腑に落ちどころだろう。出来なかったことをやり遂げられ、失いたくなかった者を失って直後に解決策が転がってくる。これが悪夢でなければなんだというのだろう。もしも、彩音が正確に理由を話せればこのすれ違いも起こらなかっただろうに、それすら出来得ないことが決定しているのだ。いや、出来たとしても沈む省吾の心に彩音の言い分を許容するだけの余裕はなかったかもしれない。
ちなみに、これがチライハ砂漠の再生、ジュ海が生まれた日、彩音が世宝級になった出来事でもあった。
◇◆◇◆
「くそっ、やってくれたな」
これは文善のセリフである。想定以上の業績、それを彩音という娘がもたらした実績に対してだった。少なくともチライハ砂漠を一夜にして一面緑に変えた実績は、未知の病の新薬発表を過去にしてしまうぐらいに今を騒がす話題となっていた。英雄と言われても不思議ではない実績と言えよう。
では、なぜ言い切れないのか。それが想定以上の業績という表現に繋がる。簡単に言ってしまえば想造によって砂漠問題、ひいては食糧問題が一夜に解決するということは、その知識があれば一国を確実に潤すことが出来るのである。裏を返せば、その知識はどの国からも欲しい知識ということであり、争いの火種となりつつあったのである。彩音が公表できないことを文善はすでに聞かされているためにこの想造を独占しても問題ない状況を作るために世宝級の申請を通したわけで、一瞬にして認定されたことからもその力が及ぼす影響力の強さを誰もが認めているということを意味している。
同時に雲天グループはこれにより莫大な利益と損失を獲得したことになる。利益は植物にまつわる食品の市場を実質独占できたこと。ありとあらゆる場所を緑に変えられるということはありとあらゆる植物系の食品をどこでも即時収穫、出荷できることを意味しているからだ。これは大きな利益と言って間違いないだろう。しかし、これにより損失が発生する。それは雲天グループは緑化という側面で請け負ってしまえば確実に出来ることを証明してしまったのである。つまり慈善事業の市場を潰していくことを意味する。しかも、こちらがするかどうかを選ぶことが出来てしまう側面からも請け負うか否かで印象を変えざるを得ない案件なのが文善の立場をより一層難しいものへと仕立て上げているのだった。ひとまず、環境に及ぼす影響を考慮してという何処かで聞いたことあるフレーズを建前に、生態系のバランスを容易に壊しかねない力を慎重に見極めるという名目並べて事態が落ち着くのを見守ることに決めるのだった。
そしてこの半年後、文善はこの善意と金儲けの板挟みから解消されることとなる。彩音が失踪したのである。
◇◆◇◆
チハイラ砂漠が緑を取り戻した翌日。彩音は省吾と二人、同棲する雲天グループ敷地内の社宅にいた。あれだけの騒ぎを社内で起こした二人だが、当然彩音の成した功績のお陰でその一件はなかったことにされていた。今はこうして騒ぎの中心にいる二人をマスコミの殺到から隔離するために部屋に押し込めているという状況だった。
そして、あの夜以来初めて合う二人はなんと声をかければ良いのか分からず部屋の中で無言を貫いていたのだった。彩音はどうしてあんな事ができたのか説明することができず、省吾は璃子を亡くした喪失感からうつむく顔を上げないからである。
それでも何時間も経過すれば、比較的心身共に問題がない方、彩音が省吾のことを気遣って声をかけ始めるのは必然とも言えた。
「その……璃子ちゃんのことは」
その名前にうつむく省吾の肩がピクリと反応するのがわかった。だからこそ続けようとした言葉が一瞬喉に詰まる。
それでも口にしたからには、何より前に進めるためにはと彩音は言葉を続けた。
「ごめんなさい」
残念だったね、という言葉を飲み込んで彩音は謝罪の言葉をした。残念だったね、ではあまりに他人事であり、自分が特効薬を間に合わせられなかったとすればそれはそのまま自責となり、嫌だけれども省吾にとって怒りの矛先になることが出来ると判断した結果の選択であった。そうすることによって少しでも気が晴れればいいと思ったのだ。しかし、省吾は顔をあげようとはしなかった。そんな省吾を抱きしめたいと彩音は両手を少しだけ前に出して止める。謝罪の言葉を述べてしまった手前、その行動は軽率ではないかと考えてしまう自分がいたのだ。一方で愛しているからこそ、立ち直って欲しいからこそ、省吾の苦しみを分かち合いたいからこそ抱きしめてあげたいという思いで手先が震えるという現象となり表に出てもいた。
だがそんな葛藤に時間を費やすことはなかった。彩音にとって今は自分の素直な気持ちで、愛を持って接して、省吾のその心を溶かしたいと考えていたからだ。だから拒絶されることを恐れつつも、勇気を振り絞ってゆっくりと優しく彩音は正面から省吾を抱き寄せた。
胸に顔がうずくまるように、大きく広げた手で赤子に触れるようにそっと、優しく、優しく抱き寄せたのだった。
「どうして」
ポツリと漏れ出た声にこんどは彩音がビクリと身体を震わせる。
「どうして璃子が死んだんだ。どうして俺は死ねなかったんだ」
自分より幼い妹が先立ったことに憤りを、病死した妹を抱えていたにも関わらず同じ苦しみを味わいながら後を追うことすら出来なかったやるせなさを声に漏らす。その言葉を聞く限り彩音は省吾がナイフを自分の首に突き立てるなどの即効性のある自殺手段を選ばなかったことに安堵してしまっていた。同時に彩音が好きな人に生きていて欲しいからというそれだけの理由で生かそうと、生き続けてもらう理由を見つけようとしていることに、罪深さを、欲深さを感じつつも、むざむざ省吾を見殺す理由にはならないという理由だけでその自己中心的な考えを抑え込めていた。
だから自身の覚悟に沿う様に彩音は言葉を重ねた。
「璃子ちゃんが省吾さんの死を望んでると思う? って私の中の璃子ちゃんの言葉を省吾さんに伝えたとしても納得できるとは思ってないの。省吾さんにとって璃子ちゃんはそれだけ大きな存在だってわかってるから。でも、これは絶対に本当。私は省吾さんがいなくなるのは嫌。死んでしまったら生き返らせてしまいたいぐらい、死んで欲しくない。そのくらい私は愛してるの。だから、私のことも忘れないで欲しいの。お願い、璃子ちゃんと張り合うのもどうかと思うけど、私は、私はあなたを愛しているの。だから、これからも支えてよ。その過程で璃子ちゃんを救う方法だってあるかもしれない。璃子を失ったことへの少しでもの贖罪の方法を見つけられるかもしれない。第二第三の劣悪な環境、身勝手な社会の被害者を出さないために活動した方がいいかもしれない。だから、だから、お願い。私のためって今は言わなくてもいい。だから、今挙げた中からでもあなたの生きる理由を見つけて。お願い、私のために、見つけて。それが私のためじゃなくていいから。見つけられたらそれのために私も全力を捧げるから」
一拍。
次の瞬間、感情を抑え込んでいた何かが決壊したかのように、省吾が大声で泣き始めた。
「わぁあああ。あはっ。あぁああああ」
この泣き声だけが響き続ける。彩音はそれに応えるように少しだけ抱きしめる腕の力を強くする。
それは励ましの意を示すように、彩音の愛を少しでも伝えるように、注ぎ込むように。何より省吾をより強く支えようと、愛そうと誓うように。
「ありがとう」
多くを語らず、ただその一言が彩音の心を晴れやかなもので満たしていくのだった。
◇◆◇◆
そこから半年の間、徐々に明るさを取り戻し、彩音の功績からお咎めもなく仕事にも復帰し、順風満々な省吾との同棲生活を彩音は送っていく。手を繋いで出勤する。食事は二人で摂る。おはようとおやすみを同じベッドで過ごす。誰の目から見ても幸せに溢れる空間が広がっており、省吾の顔色が良くなっていくのは火を見るより明らかだったという。幸せの絶頂に向かって一直線、のはずだった。
その日は雨が降っていた。そして、省吾は仕事で研究棟の外、すなわち敷地外から職場へ戻っているところだった。彩音はそんな省吾を今から戻るという連絡を受けて門の前で傘を指しながら待っていたのだ。
そして、道路を挟んだ反対側から坂道を登ってくる省吾を彩音は見つけていた。
「省吾さん」
彩音は姿を見つけると人目も憚らず大声で呼び、ぶんぶんと手を振っていた。その声は傘へ落ちる雨音をかき消すほどの大きさであるものの、変わったことではない。周囲から見れば時たま見かける光景であり、ある意味普通のことで注目を今更浴びることはないほどのことだった。省吾もそれに気づいて手を小さく振り返していた。ザァーと車が道に溜まった、道を流れる雨水を飛ばしながら過ぎ去っていく。その度に二人の視界は一瞬遮られるが、すぐに去っていくため当然すぐにお互いの姿を確認することが出来ていた。
しかし、一台の大型トラックが通過した時、彩音の視界に省吾が映ることはなかったのだ。
「キャー」
ガシャーンと言う衝突音と彩音の叫び声が重なるのはほとんど同時だった。それはトラックの向こうから一切姿を現さない省吾に訪れた最悪を想起していたから。代わりに赤黒く変色した雨水が坂道を流れ落ちていったのである。つまり、最悪の想像はすぐさま現実へと反映されたのである。省吾は雨にタイヤを取られたトラックと正面衝突し、押しつぶされたのだった。顔に原型が残らない、即死だった。
◇◆◇◆
「まさかこんなに再会が早くなるとは思わなかった、って言ったら信じてくれる?」
葬儀を終え、マスコミの取材から守られるため、何より誰とも会いたくないという彩音の要望に答えた結果、一人暗い部屋の片隅で死んだように膝を抱えて座り込んでいた。そこへ聞き覚えのある声が突然聞こえてきたのである。
しかし、彩音は返事をしない。
「こうなることがわかってたの? とかこれが代償だったりするの? とかそういう返しを少し期待していたけども……それどころじゃないって感じかな」
「いえ、待ってたわ」
「……その返事は少し新鮮かも、ね」
失意のどん底にいるにしては妙にギラギラとしたものを感じ取れる受け答えにマサミチは驚きのリアクションを見せる。
「今は冗談を言ってる余裕がないだけよ。だから私を助けるあなたという存在を信じざる以外に方法がなかった、それだけよ。だから教えて、省吾さんを生き返らせることは出来る?」
「この世界の理を書き換える、程のことは流石に出来ないね。今すぐに生き返らせて、みたいなお願いだったらね。でも、その方法を問われたとすればあるよ」
バッと彩音のうつむいていた顔が虚空へ向けて上げられた。
一点を見つめるように見開かれた目からは狂気を感じるほどの迫力が備わっていた。
「じゃぁ、まずは教えなさい。話はそれからよ」
「ふふっ、いいね。それじゃぁ、この世界の理を守った体を維持して人を生き返らせる方法を教えてあげる。それは」
それは。
「あなたが俺と同じ様な存在である世界をこの世界に作ってしまえば良い。それだけだよ。そして、それを出来る人間を一人知ってる。正確には電子の世界でハーナイムに似た世界を作り出し、この世界の人間のデータを元にその似た世界にこの世界の人間を反映できる技術を持った人間を、ね。後はそいつと協力して死者が完璧に蘇る瞬間をあなた自身が目撃すれば良い。そうすればこの世界でも理解できたものとして想造の対象にできるはずさ。何より、この世界ではない別の世界の理、しかもあなたがこれから創る世界に対してなら理を上書きするのとは違うから俺の知識をその世界にあるものとして根付かせることが出来る。つまり、死者が蘇るために必要な要素が満たされた世界を完成させてあげることが出来るっていう抜け道を上手く歩くような作戦だよ」
「本当に出来るの?」
突拍子もない提案に疑問というよりかは確認をする彩音。
「初めから上手くいく、という保証はないよ。でも、失敗したらもう一回やればいいんと思わないかい? それも成功するまで、さ。状況を少し変えたりして外部刺激を与えながら短い期間で成否を判断し繰り返す。普通の実験と大した差はない。決定的な違いがあるとするならこの実験は実験ではあるものの実験ではないということかもしれない。何せ、パンの種から小麦を生み出すんじゃない、パンの種から美味しい食パンを作る、それが出来るまで練習するだけのことだからね。後はあなたの気合が、覚悟が中途半端じゃなければ絶対に失敗はしないよ」
「じゃぁ,出来るわね」
彩音は言い切った。
「いいね。それじゃぁ、早速必要な知識を教えよう」
そうマサミチが言うと彩音に以前のように膨大な情報が初めから知っていたように流し込まれ定着していく。
この世界の人間をある程度データ化するために知っておく必要があること、そしてマヌエル・アレンの助力を必要とすることを確認し、それさえできれば実験は出来ることを理解してしまった。
「良いことをすると気分がいいね。それじゃぁ」
「待って」
そそくさと前回同様消えてしまいそうなマサミチを彩音は呼び止める。
「どうしたの、そんな緊急を要するみたいな顔で呼び止めて。お礼はもちろんいらないし、緊急を要する問題はこれから解決するはずでしょう?」
「教えて欲しいことがまだあるの」
そして視線を反らした彩音が更に続ける。
「もう、あなたの力を借りることはなくなるだろうから」
その意味ありげな物言いにふむと聞こえてきそうな間を挟んでからマサミチが応えた。
「法華津さえいればもう悩みなんてありませんっていう惚気にも聞こえるよ。まぁ、俺がこの場から立ち去れないということは本当に困っていることがあってそれを教えて欲しいってことだろうからね。問題はないよ。答えるさ。何だい?」
「私は……」
◇◆◇◆
マサミチから答えをもらった彩音はハーナイムの人間のデータを集めるために失踪。その後、マヌエルに共同研究を持ちかけ箱庭を創り、友香もしくは優紀の蘇生が実現するまで特定の年数を何度も何度も繰り返したのだった。
その後、友香の蘇生という実験が達成された彩音は省吾を蘇生させるため彼が眠る場所まで急ぎ馳せ参じていたのだ。
「随分と待たせちゃったね。ようやく……ようやく、だよ」
そして冒頭に戻る訳である。彼女がここへ戻ってきたのは当然蘇生するための遺伝情報である様々な遺伝子が、遺骨が眠っていることを知っているからである。だから、彩音は待たせたね、という言葉に返すように自身が手に入れた蘇生の想造を実行する。すると、目の前の虚空に粒子が渦巻くように集まっていきながら徐々に人の輪郭を作っていく。そして、彩音が想像した、生き返って欲しい姿の省吾が産み落とされたのだった。
ストっと素っ裸で地面に立ったそれは姿形は紛れもなくあの最後に見た省吾の姿そのままだった。
「省吾、さん?」
彩音の呼びかけに数度の瞬きを挟み、ふぅと息を短く吐くと目を開いた省吾が第一声を口にした。
「彩音、かい」
「はい、少し老けちゃったけど花牟礼彩音です」
死者の蘇生は成功したのである。
まさに世紀の大発明である。
「一体どうやって」
困惑したような省吾に彩音は服を渡しながら自分が行ってきたこと、そしてどうやって蘇生のやり方の全てが記載されたデータを直接省吾の頭へと転送して見せる彩音。
「ハハッ。本当に凄いな」
「だた、一つ。一度生き返らせた人間を再び蘇生させる対象にできる保証はないから、気をつけてね」
そう本当に凄かったのである。何が凄かったのか。それは本当に彩音は間違いなく本物と呼べる死者を生者として、省吾を蘇生させたことにあった。
だから省吾の耳にはその驚きの昂揚感が勝り、彩音の注意を確認する余裕はなかった。
「本当にありがとう。俺は嬉しいよ」
「ふふっ、大したことじゃないし、もう済んだこと。気にしないで」
満面の笑みに涙を添えた彩音を省吾は抱き寄せる。
その大胆な行動に彩音は頬を赤らめる。
「これが成功だって信じられるものが俺の中にあったんだから」
次の瞬間、トンッと彩音の身体が軽くくの字に跳ねる。そして、彩音の心臓を貫通した石杭の両端から鮮血が滴り落ち始めるのだった。