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綴られた世界  作者: 白井坂 十三
第九章:始まって終わった彼らの物語 ~渾然一帯編~
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第百十五筆:その目に映っていたのは彼だった

「やる」


 地獄の釜の蓋が開かれる前夜、ジャンパオロの元へ訪れたアリスの言葉だった。


「まぁ、ギリギリまで悩んで出した答えとしては及第点、やな」


 ジャンパオロは棘のある言葉を吐きながら、アリスを足のつま先から頭までチラリと見ていた。緊張していることは強張った全身から見て取れた。恐らくここ数日、鋼女を始め様々な寄り添ってもらえる人間から無理をする必要はないと擁護的な言葉を投げかけられてきた故に固まった決意なのだろう。

 解決しなければならない絶対的な問題があったとする。今回はそれがマヌエルが何を企んでいるか否かを判断することに該当する。少し話は逸れるが今回これの実行に承諾したということはアリスにもマヌエルへの疑いがあることの証明にもなっている。つまり、何かを隠しそれが疑念に結びついているのだとジャンパオロは確信する要因にもなった。

 話を戻し、その解決すべき問題が誰からも共通認識だったとする。しかし、それを出来る人間は一人である。そんな時、善良そうだと思われる人間なら十中八九自分一人とその他を天秤にかけ傾く方を優先する。つまり、大勢を救おうとするのである。

 仮にその狭間で揺らいでいる人間がいるとする。そして、そんな人間の背中を後押しするのはいつだってその自己犠牲を引き止めたいと思っているはずの周囲なのである。自己犠牲は美しくない、他に方法があるはずだから一緒に探そう。この言葉を外部から刺激として受け取れば受け取るほどその他である天秤の重量が、解決して守りたい、救いたいという思いが深まるのは当然のことである。

 再び話は逸れるが、もしこの状況があったらどんな言葉をかけることが犠牲者の足を止める手立てになるのだろうかとジャンパオロは考えたことがある。それは、どんな言葉をかけるにしろ、人間ができていれば結局自己犠牲を果たしてしまうことは決定しているとジャンパオロは思っているからだ。故に、阻止できる方法があるならばそれはそれで面白いと考えているからだ。だからこそこうも思う。犠牲となる人間に言葉をかける人間はこれをわかっていながら行う策士なのではないだろうかと。そうでなければ無能な働き者となんら変わらないのではないかと。

 ここまでで何が言いたかったのか。簡単である。ジャンパオロは鋼女他、親身になった人間に自分ではなし得なかっただろう発破をかけてくれたことに感謝しているのだ。まぁ、そもそも今となっては問題になるとは微塵も思えていないのだが。


◇◆◇◆


 アリスがマヌエルの成りすましをしようと決断したのには二つ理由があった。一つ目はジャンパオロの推察通り、現状の問題に白黒させるために覚悟を決めた、という点が大きかった。

 そこにはマヌエルの成りすましを実行するにあたり恐らくリュドミューナとジャンパオロで集まり解散した後に、ジャンパオロが話をしたことで言葉をかけにきた鋼女の存在は大きかった。


「聞いたよ、大丈夫?」


 まだ整備の終わっていない街の一角で星空を見上げながら座っているところに音もなく近づいて隣から覗き込むようにかけられた言葉である。

 駆け寄ってきていることはなんとなく気配で察していたが音もなく出来るものなのか、なんて思いながら声のした方へ振り向いた。


「もう聞いたんですか?」

「聞いたよ。それでね、私はアリスちゃんにそんなことしなくてもいいって言いに来たんだ」


 鋼女はフードを取るとアリスに目線を合わせるようにその場に膝を抱えてしゃがみ込む。


「そんな怖い思いをしなくても四日後の処置を受け入れても何ら罪悪感は必要ないって。だって、アレンが黒かもわからなければ、そもそもこの一件はアリスちゃんたちには関係ないし、解決だけなら時間の問題だと思うから」


 ふぅと一息。


「でここからはちょっとした懺悔。今私たちのためにって考えたでしょ」


 全てを察しているような顔にアリスは目をそらす。


「アリスちゃんはいい子だからね。私がこんなこと言ったらそのために逆に動こうって考えちゃうよね。でも、本当に思ってることを言わないのはなんか違うと思ったから言いに来たの。実際やる必要はないからね。現況はこの状況をつくったこの街とも、バルボのせいだとも言えるのがムカつくところだよね」

「バルボ、さんの?」

「だってあいつ、絶対アリスちゃんが力を使わなきゃいけない状況にしたんだよ。ここの人間人質にとって、私たちのこと良いように仲間意識させたところで善意に訴えかけてきた。最悪だよ。それに多分、私がここに来て励ますのも見越してるよ。仲間意識に繋がる訳だけど。だからさっき懺悔って言葉を使ったし、言い訳みたいに自分はアリスちゃんのことを知る人間としてこう言うべきだと思ったって言ったの」

「それは、鋼女さんが悪いわけじゃ」

「ないって言ってくれたとしても結果的にアリスちゃんが成りすましを選べば要因としては十二分なの。……ほんと嫌なやつよね、アイツも私も」


 アリスはそこから先堂々巡りになることがわかっていたので言葉を返すことができなくなっていた。もちろん、鋼女もそれがわかっているのだろう。よろしい、という言葉が聞こえてくるような笑顔が向けられた。

 そして、勢いよく立ち上がるとそこから深々と鋼女は頭を下げていた。


「こんな話をごめんなさい」


 これに対してもアリスは何も言えなかった。顔を上げた鋼女の顔はすでに深々とフードを被り直して見えなかった。


「私が、いえ私たちがなんとかするから、気にしないでね」


 その言葉は、鋼女たちが真犯人を追い詰めるという意味なのか、それとも成りすましで取り入られても止めて見せるという意味なのかはわからない。いろいろ言われた後だからからこそその言葉の真意は複雑である。もちろん、鋼女がアリスに危険を犯して欲しくないと本気で思っていると理解していてもだ。そして、これが一つ目である。

 そして二つ目の理由はマヌエルが実際に何かを企んでいることを証明するためにあった。カレーライスを食べるためにカレーライスを作る必要がある、と言っているような気がするかもしれないが、アリスにはカレーライスを食べるために出来上がったカレーライスを作らずにそのものを購入する手段があるのだ。それは青年Aの証言である。

 だからアリスはジャンパオロに宣言する前夜に青年Aの元を訪れていた。


「察してくれて助かりました」


 たった一日、それだけあれば整備、修復できてしまうほど想造アラワスギューのあるこの世界は便利だと体感しながらアリスは前回青年Aと出会った場所に来ていた。


「あれだけ言葉通り熱烈な視線を繰り返し送られたら、ね。それにわざわざ私はこっちに残してくれたわけだし、どこかで一回は話さないといけないんだろうなとは思ってたわ。それで何?」


 以前よりも砕けた言葉遣いに感じながらアリスは二日後には隔離された人間の殺処分が行われること、それを解決するためにマヌエルが今回の黒幕であるという確信を青年Aの口から言って欲しいことを伝える。


「なるほど、ね。別に構わないけど、私の言葉で信用を得られるのかしら?」

「それはだって魂と身体がズレてるあなたが私に協力してくれてることを伝えた上でなら」

「私みたいな同類の証言だと偽りの情報を伝えている可能性があるって、バルボってやつなら間違いなく疑ってかかるわよ。こっちからすれば証明のしようがないんだから。それに私が知っていることはあなたの力をマヌエルが利用してるってことだけなの。私もこうしていられるのは結構最近なんだから」


 最後、どういう意味で言ったのか分からなかったが、そもそもとして青年Aの言ってることは一利以上のものがあった。


「それに、今更あなた以外の前に出て反感を買って殺されようもんなら私はそもそも証言したくないわ。ましてや私はこのふざけたままごとを終わらせて欲しいの。殺処分は大歓迎よ」

「そんなこと……無関係な人たちを助けられるかも」

「助ける? よしときな。徹底しなければ喉元噛みちぎられるわよ。世宝級、舐めてない?」


 舐めているかどうかという点ではその実力をまだ見ていないと思っているだけに何とも言えないというのが正直なところだった。

 しかし、協力を仰ぐことは出来ないことがわかり、さらに青年Aの言葉では不信感を煽ってしまうとなったのでアリスは成りすましを決意せざるを得なくなったのである。


「わかりました。それでは、明後日決着をつけてくるのでそれまでお気をつけください」

「そっちこそ最後まで気をつけてね」


 こうして短時間の接触で二人は解散したのだった。もし、この接触の際、互いがもっと詳細に情報交換を行っていれば認識の違いに気づけて地獄の釜の蓋を開けずに済んだのかもしれないが、時はすでに遅い、というやつだった。


◇◆◇◆


 アリスがジャンパオロにマヌエルへの成りすましをすると宣言した翌日早朝。洗脳された人間の隔離区画の反対側、のさらに城壁の外側に大勢の人が集まっていた。その中心にいるのはもちろん、本日の主役としてきたマヌエルへと成りすましをするアリスである。そして、そのアリスを囲むのは成りすましが失敗した時に反乱されても、能力を解除する上でも時間的猶予を確保するために意識を刈り取るために集められた精鋭、アンナ、ジャンパオロ、グレタ、鋼女、ルドル、カトリーンの五人だった。リュドミューナやメレンチー、キヨタツがこの場にいないのはマヌエルや洗脳された人間への警戒を高めてのことであり、想造アラワスギューを使える人間を分散するに当たり程よい力配分となると考えていたからだ。

 そう、一番厄介なのがマヌエルに意識を乗っ取られたアリスが紘和の力を行使することであるため、実際に考えてみたら足りないのかもしれないが、そこはアリスが問題なく戻ってこれること、何よりマヌエルが黒でなければ済む話なので出来た采配とも言えた。


「いきます」


 そう言ってアリスはマヌエルの髪の毛を一本口へと運んだ。そして咀嚼すること無く口に入れた直後からゴクンと喉を鳴らすように飲み込む。そこからアリスは紘和とヘンリーの記録を残し新しくマヌエルを手に入れる。そして、周囲の人間もアリスの姿が紘和からマヌエルに変化、成りすまししたことで第1段階が終わったことを理解する。成りすましをしたアリスも自身の手付き、体格の変化を確認するように身体を動かす。そして、問題なく機能していることを認識した後周囲にいよいよやるよと目で訴えかける。そのアイコンタクトに答えるように皆が頷く。だからアリスは深く深くマヌエルになりきるために意識を内側に集中する。

 頭に靄がかかったように自分の体が自分の出ないような、他人の身体に乗り移った感覚が始まる。染まっていく、いや飲み込まれていく。そう塗りつぶされて自分がマヌエルだと思い出していく。意を決してなりきろうと、恐怖に対して勇気で奮い立たせていた自身は徐々に徐々に失われていく。つまり、恐怖は鈍化し、当然のものと、マヌエルであると捕らえ始める。戻ると、飲み込まれてはいけないという意識がグレーダーで削られた様に細かく飛び散り、溶けやすくなっていく。


◇◆◇◆


 マヌエルが周囲の人間をゆっくりと見てから口を開く。


「状況から見てよ、ようやくこの時が来たんだね」


 それがアリスの発言ではなくマヌエルの発言であることはわかった。


「つまり、こ、ここからは時間との戦い、かな」


 だからこそ、この場にいた誰もが冷や汗を流していた。この状況を、展開を望んでいたような言い回し。味方、白と捉えるにはあまりにも不穏漂う空気。

 それは予期していた最悪の展開を乗り越えなければならないのと同時に、まだ控えている影が、マヌエル本体との連戦を意味しているのだ。


「っと、思ったよりも早い、ね」


 ガクッと意識を失うように突然マヌエルの、アリスの顔だけがポキっと音の仕様な角度で下御を向く。

 そして、バッと勢いよく顔を上げる。


「ア、アレンの目的が」


 バチンッと音が空気を振動させる。鋼女の攻撃をアリスが止めたのだ。


「そんな演技で乗り越えられるほど甘くないよ」

「ハハッ、流石はう、噂の都市伝説。そ、そんなにぼ、僕の気配は気持ちが悪かったかい?」

「そう言うんじゃないけどね。でも、私の知ってるアリスちゃんの気配とは別物だったという点では気味が悪いのは確かだよ」

「な、なるほど。そういうことか」


 正直、騙されそうになったジャンパオロはこの手の虚偽報告があることは想定するべきだと二人の会話を聞いて思いつつ大声を出す。


「ジェフに会うんやろ。手間かけさせんなや」


 今求められているのは時間である。戦いはできるだけ避けるならばこの最良の言葉は投げかけるべきなのだ。そして、その効果はテキメンでありウッといううめき声と共にアリスが、マヌエルが膝から崩れ落ちる。

 その姿を見る鋼女が拳を収めたところをみるとどうやら戻ってきているのだろうと推察できた。


「いやはや、本当に思ったよりは、早いね。そしていい判断をしたけどもう……」


◇◆◇◆


 意識。かすかにあった意識もマヌエルの押さえつけなければという執念によりアリスは押さえつけられていた。そう、我が強かったのだ。まるで青年Aに聞いていたアリスをマヌエルとして増やそうとしているよりかは、まるでこのアリスとマヌエルの精神の引っ張り合いが拮抗している時間をできるだけ維持しようとしているかのような状態だった。その御蔭でアリスは様々なマヌエルの思考を、記憶を読み取ることが出来た。そう、そんな貴重な情報を差し出してまでなぜ時間を稼ぎたいのか。それはマヌエルがやろうとしていることを知った時、マヌエルが黒であると確定した時に既視感と共に理解することになった。その既視感は、本当に最近感じたものだったとだけその時は思い出していた。後はそれが何だったのかを思い出すだけ。何だっけ、そう思うほどに答えは知っていると確信に変わっていく。何だっけ。何だっけ。何だっけ。次の瞬間、ドプンッと背中から水面に滑り落ちるような、深く深くそのまま沈んでいく感覚を覚える。それはアリスが見た現場とそれを仕組むために最後の仕上げを行った紘和の行動がぬるりと適合した瞬間でもあった。

 そうこれは観ていたからこそ真似ることの出来る作戦であった。


「ジェフに会うんだろ。手間かけさせんなや」


 合言葉のように分厚い水面の氷がピキッと音を立てて亀裂が入るのを感じた。押し込められる重圧を跳ね除けられる意識の回復。

それはマヌエルの意識を容易く引きちぎる結果となる。


「いやはや、本当に思ったよりは、早いね。そしていい判断をしたけどもう……」


 邪魔だ。アリスは押しのけるように深層から浮上する。早くしないと、と。

 とんでもない勘違いをしていたにも関わらず、最悪を、想定外の最悪を実行されると。


「フェイギンさん、ボチャロフさんと連絡付きますか」


 マヌエルの声であってもそれがアリスだということはその場の全員が瞬時に理解できた。

 同時に一部にはイーシャと呼ばずに咄嗟に本名を口に出す素振りからも状況が切迫していることが伝播する。


「グレタ、ボチャロフと連絡は?」

「……呼びかけていますが、応答……ありません」


 なぜ。

 皆の疑問に答えるべき人間はその疑問を解決するよりも行動を呼びかけた。


「そのまま呼びかけてください。チャフキンさんとアレンの身柄確保が最優先です。鋼女さん、外に出た気配はありますか?」


 そう、この質問は今まであればする必要がなかった。なぜなら気配で人の出入りを注視することが鋼女がここに来て最も優先してやるべきことであったからである。

 しかし、今この瞬間だけアリスのために意識が明確に削がれていたのだ。


「いるよ。街の外に出て遠ざかってく気配が複数ある」


 それだった。


「大変です。隔離区画が」


 カトリーンが無線機から聞こえる応援要請を全員に聞こえるように突き出しながら割って入る。


「突破されました」


 マヌエルが開放した。

 そう確信するには状況証拠が整いすぎていた。


「端的に状況説明」


 その場の混乱をピシャッと断ち切るような大声がジャンパオロから発せられる。

 それは同時にアリスへと全員の視線が集まることを意味していた。


「これは囮です。目的はチャフキンさんの力をアレン自身に譲渡させること。そして、洗脳されたと思ってた人間は全てアレンの人格を添付された人間です。今すぐアレン本人を追いかけて阻止してください」


 アリスの口から出た言葉は全て何を言っているんだと言いたくなるような突拍子もない者ばかりだった。それでも、全員が動き出していた。そう、この突拍子もないことが真実だと周囲の空気、状況が疑うなと寄ってくるのを皆わかっているのだ。そして今動かなければ間に合わないことを最も理解しているアリスは即座に紘和に成りすまし一番にこの場を駆け出していた。囮、注目させるべきものに注目を集め陽動する。純が彩音に対してこの世界に来る際にやった騙し討、それの再現をされていたのだ。だから成功してしまった。だからこれ以上は止めなければならない。全く理解できないマヌエルの奇行を止めなければならない。そしてそれは最優先事項である。だから。だからアリスは行く手を遮るマヌエルたちの命を容赦なく狩る勢いで突っ込んでいくのだった。


◇◆◇◆


 まさか。恐らくその場にいる誰もがそんな感想を抱かざるを得なかっただろう。少なくともジャンパオロにとっては想定内であったにも関わらず外になった事例だった。そう、ジャンパオロはこの可能性、人格と身体のズレからそのままの意味で中身と器が合っていないのではないかと考えてはいたのだ。しかし、想造アラワスギューの理解できることを実現する特性上オカルト的なニュアンスを無意識のうちに除外していたのだ。そして何より自身が生きてきた上で、他人に魂を複製するという発想はあったとしても空想上のものでしかなかったのだ。

 つまり、マヌエルはそうなるように、あり得ない選択肢にジャンパオロを誘導していたのだ。洗脳されているという意識付けを強調していたのだ。それは情報戦に於いて屈辱的なものであった。しかも、誘導という点では恐らくジャンパオロが増援として異人アウトサイダーを、リュドミューナを呼ぶこと、この場合呼ぶように誘導させられていたのだろうと今にしてみれば思うことが出来た。それだけ慎重に事を運び、優勢を築かせなければと思わされていたのだ。そこにさらに自身の汚点を上塗りするようにリュドミューナ本人を、マヌエルを目の前に呼んでしまったこと。真意を知らなかったとは言え、完璧に油断はしていた。少なくとも本体の情報は伏せておくべきだったにも関わらず、あの時点でジャンパオロは確かにマヌエルへの警戒レベルを下げてしまっていたのだ。用意されたゴールにまんまと釣られたのである。それはメレンチーとの交渉の場で見せた自身の行動があったからこそ、逆にしてやられたという赤っ恥を突きつけられていたのは間違いなく、手のひらで慎重故に転がされたことにジャンパオロは苛立ちを内心隠しきれずにいた。

 一方で、洗脳であるという誘導が全く価値のないものだったかと言われればそうでもない。それは得るものがあるかもしれない、という程度の話ではあるが、得ることができれば間違いなく自分たちの想造アラワスギューへの理解が深まることを意味していた。それは、想造アラワスギュー創子アイエグレネを用いた理解しているものを再現するものではない、という可能性である。最も、このことが嘘でないことは事実である。しかし、何か隠された真実があるのではないか、という話である。何か、は一切わからない。だが、人格を付与することが現実的でないことだけはジャンパオロにもわかった。それがこの世界にとって異質であることもその場の誰もがまさかと思っている風で確かであった。そして、幸運なことにその真偽を知る人間たちをジャンパオロは知っているのだ。故にジャンパオロはアリスに遅れを取らぬように走る。聞きたいことは山ほどあるのだから。


◇◆◇◆


「鋼女さん、もう加減が出来る相手ではありません。ごめんなさい」


 こちらに向かってくる人の群れが全てマヌエルと捉えるならばやむを得ない状況だろうと鋼女はわかっているからこそ深く頷く。同時にこの娘は恐らく誰かから聞いたのだろう、変異種の立場を考えて住民を殺してしまうことに頭を下げたのだ。その行為が自身の立場すら危うくすることを知った上で、変異種の鋼女たちの心配を優先していることに鋼女は感謝した。自分たちの種が人と関係を築く上でそこまで思われたことがあった経験が限りなく少ないからだ。

 とはいえ、異人アウトサイダーという特殊な立場の人間であるのは鋼女にとってはこの世界からの皮肉のような気もするが、それでも今後も友好でありたい、手を取り合いたいと思うには十分な見返りだった。


「それと、ごめんなさいついでに一つお願いしてもいいですか?」

「いいよ。私に出来ることなら何でも言って頂戴」

「では」


 そう言ってアリスが立ち止まった瞬間、降って湧いたように道が出来た。実際には現在地からマヌエルが逃亡したと思われる方角の城門までを直線で結んだ距離の両脇が城壁のように高い壁の出現によって遮るもののいない道になったのだ。それが形成されるまでの時間があまりにも短時間で滑らかであったのだ。本来であれば隆起していく土壁を見るだろう時間がほとんど介在せず、それこそ最初からそこにあったのではないかと錯覚するほどのスピードで形成されたからこそ降って湧いたような想造アラワスギューだったのだ。

 それは世宝級を容易に彷彿とさせる実力を体感させるものであり、誰の目から見ても、そう鋼女から見ても異様な速度による形成だった。


「ここをお願いできますか?」


 異様は続く。天気は晴れている。しかし、アリスがこれから進もうとしているであろう道の向こうからボタボタとゲリラ豪雨の時に聞くような大きな大きな雨音に加え雹が混じったように重たいものが落ちる音が聞こえてくるのだ。もちろん、皆それが雨や雹でないことはわかっている。そもそも何であるかは理解していた。ただ快晴、どこか疲れたようなアリス笑みに不釣り合いな血、骨、臓器の赤黒い雨が異質過ぎて、想造アラワスギューの完成度への驚きを置き去りにしてしまったのだ。極めつけは、それを成し遂げているのが二十歳にも満たない、つい先程までマヌエルに人格が飲まれることを恐れていた少女であることである。まるで別人、しかしアリスがアリスであることは疑いようがなかった。それほどまでに彼女は何者であろうと彼女だと感じられたのだ。

 雨音が止み、左右へ分けられた群衆の声が再び聞こえてきた所で鋼女はようやく目の前の出来事を飲み込む。


「わ、わかったよ」


 そう応えることが精一杯だった。謝罪を受けた上で先に大罪を犯してみせたのだ。

 鋼女には眼の前の少女にそう応える以外の対応を持ち合わせてはいなかった。


「ありがとうございます」


 なぜジャンパオロがアリスはマヌエルに飲み込まれないと思うことが出来たのかようやく理解できた。いや、恐らくジャンパオロがその時考えていた以上に今理解することが出来ていると感じている。恐らくアリスはアリスという特別な存在なのだと。それ以外にどう表現したらいいのかはわからないが、彼女はそれだけ確固とした何か特別な存在であることを理解したのだ。

 それは親しみを恐怖が塗り替えてしまうぐらいであり、その畏怖が紘和由来ではなくアリス由来なのだと身体の芯から蝕まれていると自覚できるものであった。


「派手にやったなぁ。まぁ対立するならこのぐらいがハッキリしてて遺恨がないか。とはいえ、面倒事が増えたには違いないってちょっと待てや、引っ張るなって」


 鋼女の応答を聞いてアリスは小言をいうジャンパオロを引っ張って走り出す。最終的には抱えるようにして走り、すぐにその背中は小さくなっていった。鋼女はその姿が見えなくなるまで見守っていた。本来であれば小さくあるべき背中に不釣り合いな威厳を心配して文字通り見守ってしまったのだ。自分が現在最も脅威にさらされた場所の中心にいることも暫く忘れて、である。そう、ここは世宝級であるマヌエルが大勢構えた敵地ど真ん中なのである。


◇◆◇◆


「じゅ、準備の方は?」

「問題ないよ」


 リュドミューナを抱えたマヌエルを迎えたのはマヌエルが彩音と分かれた後、彩音のいた研究施設へと一人向かわせていたマヌエルの人格を転写した人間だった。そう、マヌエルは今あの箱庭ビオトープを稼働させていた街から少し離れた研究施設にいたのだ。

 なぜか。もちろん、それは当初から予定されていたことだからである。街を囮にすること。街にこの機材、研究を置いといてはいずれ見つかってしまうこと。そして、この世界に異人アウトサイダーが来てしまうことが、だ。そうマヌエルは知っていた。唯一知らないことがあったとすればそれはリュドミューナとこんなに早く遭遇できることだった。もちろん、ここまでくればなぜマヌエルは彩音すら知り得ない箱庭ビオトープの崩壊、介入を事前に知り得ていたのかという疑問が湧いてくるだろう。そして、その答えは未来の出来事を知っていれば当然のことだと誰もがわかる。つまり、マヌエルは断流会の一員ということである。

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