第百九筆:事態がゆっくりと動き出す
病院の開院時間である九時に合わせてアリス、メレンチー、カトリーンの三人にジャンパオロを合わせた四人でマヌエルとリディアと合流する。宿を出る際にメレンチーがマヌエルに病院で患者のカルテを調べたいことを伝えていたため迅速な対応がなされていた。
ただし、患者のカルテ、個人情報を勝手に開示することは守秘義務という観点から好ましくないため、敢えてこの世界とは無関係なところから来た人間一人に対してのみ閲覧を一時的に許可するという条件を提示された。
「ご指名ってこと?」
結果、などと調子のいいことを言うジャンパオロが付いてくる運びとなったのだ。ちなみにリディアは本日、数人の受け持ちの診察があるということでマヌエルと同行しているということだった。
◇◆◇◆
「そういえば、連絡が遅くなったけど、こっちは街の外に居住区が確保し次第移動することになってる。あれから人数は若干増えてるが、そちらが指定した受入人数の想定は越えないっぽい」
カルテが置かれた部屋でジャンパオロがマヌエルと二人きりになったタイミングでの第一声である。
他の三人は院内の探索や勤務中の人への聞き取りを行っている。
「そ、そう。わかったよ」
ジャンパオロはペラペラとカルテを捲っていく。
入口付近で椅子に座っているマヌエルが相槌のような返事をする。
「それと、レイノルズ。今日はそっちにブルスと一緒に泊まらせてもらうよ」
「おぉ、それはた、楽しみだ」
先程の街単位の決定事項に対する興味のなさそうな反応とは真逆の高揚感を乗せた返事である。
「ついでに、アレンさんは、今回の一件、どこまで知ってるん?」
「……それは、き、昨日話した君たちが、こ、この世界に来ることになった話をもう一度詳細に問いただしたいという意味かい? そ、それとも今調べてるバーベリさんたちの抱える問題について、かい?」
「後者だよ。決まってるだろ。これからわかっていくこと、あんたはどこまで知ってるんかっちゅー話や」
すでにいくつかのカルテを抜き出し、明らかに分別を始めているジャンパオロの質問に、マヌエルは数拍置いて答える。
「君がここで言うこれからを、ぼ、僕はどの規模で解釈していいかわからない。そういった漠然とした質問は、都市伝説の雑貨屋にでも聞けばきっと答えが返ってくるのだろう。だから、当てずっぽうの返しをすることを申し訳なく思いつつ、僕はこう答えることにするよ。きっと君の想像を越えているだろう。でもその想像が間違いではない、と言ったところかな」
「それって自白?」
「そう捉えたとして、進展があ、あるの?」
「いや、嘘だろうが本当だろうが、何の意味もないな。わざわざ意味深に答えてはぐらかしただけの状況に何も産まない内容や。そういう意味だと、俺の質問も聞いても意味のない質問やったな。まぁ、雑談としては優秀やったろ?」
二カッと明らかに作り笑いとわかる笑顔を貼り付け、マヌエルをコケにするジャンパオロ。
「それに……いや、脱線はよそうか。ケース・エーヴェ。あんたの部下に当たる男が担当した人間のカルテを見させてもらったが、その中に今回の被害を受けたと思われる人間が複数人確認できた」
「か、彼の研究は」
「人の認識における心理学からのアプローチ。心的な過程から認識を歪ませることも、彼なら可能じゃないんですか?」
「否定はしない。しかし」
そう言って何かを訴えるようにジャンパオロの顔を見つめたマヌエルはどうぞ続けてと言わんばかりの若干微笑んだようにも見えるジャンパオロの表情を見てから言葉を続ける。
「そ、そんなことを僕に今まで気づかれることなく、や、やっていたなんて」
信じられない。そう続くであろう言葉は宙へと霧散したようだった。
その驚きと困惑に満ちたようなマヌエルの顔をジャンパオロは食い入るように見つめていた。
「……まずはエーヴェの所在を確認しよう。そ、そして彼に事の経緯を問い正さなければ、い、いないね」
焦りは見られるが妥当な対応が宣言される。そう、まだ決まったわけではない。
そして、マヌエルは携帯電話を取り出し、電話をかけ始めた。
「で、出ない。確か、僕の部下の家の家宅捜索を先にしたいとかで、最初にエーヴェのところからと数人向かっているはずだよね」
これは、宿を出る時にあらかた今日の予定を喋っていたのでマヌエルも知っている情報である。はじめから当たりをつけての捜索ではあったが、マヌエルからすれば無作為に一人ひとり丁寧に調べるために選ばれた最初の一人とでもうつっているのだろう。
そう、感じられる態度だった。
「そうだよ。これからバーバリさんたちともこの話を共有してすぐにでもエーヴェ宅へ向かった人間とこちらも連絡を取りたい。問題ないよな?」
そう言いながら、ジャンパオロはマヌエルの電話が呼び出しを続けていることを耳で確認する。
繋げたまま状況を伝えている、ということだけは無いようだと判断できた。
「構わない。ぼ、僕も残りの部下にかけあって彼の行方をすぐにでも探させるよ」
「協力的で助かるわ。この事を伝えたら俺もあんたと行動をともにしても」
「問題、ないよ。疑われるには十分だ。晴らすために協力は、お、惜しまない」
言質を取ったジャンパオロはゆっくりと立ち上がり、メレンチーたちと合流するために扉に手をかける。
しかし、そこでドアを開けることはなく、振り向かずにジャンパオロは追加の質問をした。
「そういえば、さっき話に出た雑貨屋。あれはどういう類の都市伝説か教えてもらっても?」
名前や出てきたタイミングから何でも取り扱う情報屋という想像は出来るが、この短い間に都市伝説というワードを他で耳にしてるだけに、気になったのである。
「欲しい情報を何でも知ってる情報屋のい、異名だよ。た、ただし本人にちょ、直接会うことは出来ないし、連絡も一方通行。加えて、無償で渡される情報が欲しい情報とは限らない。う、噂の領域を出ないにはもってこいのふ、不透明さといい加減さをもった、話、だよ」
いかにもな都市伝説らしい。しかし、何でも知っていて雑貨屋の方から連絡を取って来た上に無償で提供される情報が、求めているものとは限らないというのがどこか人間味や何かしらの柵を感じる内容で、どことなく本当にいるのだろうな、と感じさせるものがあった。
一方でその知っている情報を教えないという人間性に一人の男を想像する。
「一応、聞いておくがあんたは会ったことが、いや連絡をもらったことはあるのか?」
期待はしていなかった質問だが、返事は予想外のものだった。
「ぼ、僕はないけど知り合い、花牟礼はあったみたいだよ」
それはもう都市伝説ではないのではという感想と同時に、驚きがジャンパオロを襲った。
「何を聞いたかは?」
「そこは、きょ、興味本位で聞いたけど、教えてはくれなかったよ」
「そっかぁ。しかし、随分と凄そうなやつなんだなぁ」
これ以上わかることもないと判断し、会話を切り上げる言葉を選ぶ。しかし、凄そうなやつという自身の言葉に、直前に想像した男が重なり、情報屋として煮え湯を飲まされた純の顔を鮮明に思い出すこととなり、マヌエルには見せないが顔をしかめることとなった。そして、どちらの方が情報屋として優れているか、またどちらの方が性根が腐っているか、自身を抜きで比べてしまっている自分に、ジャンパオロは一層顔をしかめるのだった。
願わくば、純の方が性根が腐っていることを、そう思うことで今は嫌がらせをすることが出来ないジャンパオロは部屋を後にするのだった。
◇◆◇◆
ジャンパオロがメレンチーたちとケースの一件を共有すると即座に状況が動き出した。まずは、ケース宅へ向かっていた部下たちとの連絡が行われる。連絡が入った部下たちはすでに家の探索を開始していたようで、連絡を受けて妙に納得がいったような反応だったという。
まず、ケースと合流した場所がケースの自宅前ではなく、研究施設前であったことだ。メレンチーの部下たちが地理に詳しくないということもあり、わかっている最寄りの場所で待ち合わせをしようという話だったのである。そして、指定の時間で合流するとケースはそのまま自宅前まで案内した。到着すると自宅の鍵をメレンチーの部下たちに渡し、自身は昨日の異人周りの書類のまとめや研究の遅れを取り戻すために一旦研究室に戻ると告げその場を後にしていたのだ。
これだけでもケースは連絡が来た時点で自身の保身に走る行動を取っていたことが推察できる。まず、集合場所を研究所にしたのは優しさからではなく隠匿するためのものを選ぶための、つまり時間稼ぎだったというわけである。次にすぐに研究所に戻ったのは証拠の隠滅が完了した、もしくはするためにさらに研究室を利用する必要があったということである。どちらにしろ、家宅捜索の依頼が来た時点で逃げる猶予を与えていたということである。
だが、これも憶測でないことがメレンチーの部下たちの連絡でほとんど確定している。家宅捜索をしてまもなく、ケースの書斎と思われる部屋から明らかにここ最近何冊か抜き取られた形跡のある本棚があったのだ。最近と判断したのは本棚に積もった僅かな埃が、その抜き取られた場所のみ本勢いよく慌てて抜き取ったからか露骨にキレイに拭い取られていたのだ。そして、そのなくなった本、資料がケースにとって見られたくないなにかなのだろう。
以上を踏まえてメレンチーは研究施設にいる部下に連絡を取ると、すでにケースは施設内にいないということが追って判明したのだ。何一つ証拠がないことが証拠。メレンチーたちが当初想定していた状況証拠が出てきた、そんな状況である。そして、この状況証拠によって二つの処置が施される。一つは状況を把握したマヌエルによるオスムの通行規制とケースの指名手配である。通行規制は城門前の警備の強化、指名手配はケースを危険人物として無線式拡声放送が迅速に行われた。そして、もう一つがメレンチーから鋼女への気配察知の要請だった。ケースの実力はわからないが、万が一に地下や上空を含めたオスムの住人が一般に知り得ない脱出経路を確保していた時に備えて警戒を怠らないように要請したのである。
本人からはあまり頼りになりっぱなしにして欲しくないということだったが、最低でもということで了承を得てもらった。
「それで、バーバリさんたちはこれからどうすんの?」
「城門前の警備にこちらの部下を数人導入、後は研究施設と地下下水道を含めた捜索を始めようと考えている」
実に妥当な状況に対する妥当な判断だとジャンパオロは感じる。
逆にそれ以外することがないのも事実だろう。
「そうか。んじゃ、こっちはこっちで動かしてもらうけどかまへんな?」
「こちらの緊急の要請に応えてくれれば、構わない。今は何としても見つけた解決の糸口を捕まえなければならないんだ」
その表情から必死という単語が見て取れた。それもそうなのだ。彼らがこの街に来た理由は観光ではない。同時に好きで摩訶不思議な事件に巻き込まれているわけではない。自身の大切な人が別人のようになってしまった原因を探してここまで来た存在なのだ。解決の糸口が見つかれば池の鯉のように飛びつかざるを得ないのは必然なのだ。故に必死にもなるのだろう。だからこそ、部外者だからこそ、ジャンパオロは見落としが無いかを探す。
相手の力量を見定めた時から最大限の警戒を忘れないことを意識して、だ。
「わかった。こっちも何か新しいことを見つけたら追って連絡する」
「助かる」
それだけ言い残すとメレンチーとカトリーンは走り出した。
その姿とジャンパオロを交互に見つめながら私はどうしたらという人間がいるのでジャンパオロは口を開く。
「俺はこのままアレンに付いてく。お前はアレンとの約束までの時間はどっちについててもいいぞ」
アレンとの約束を強調したのは、昨晩のことを今の現状にブレることなく実行することをアリスに意識付けるためだった。アリスもその意図が伝わったのだろう。
深くうなずき返す。
「じゃぁ、じゃぁ手伝ってきます」
困っている必死な人を助けたいと思うのが普通なのかなと思いながら少しだけ柔らかい顔でジャンパオロはアリスが出ていくのを見送ることになった。
「それじゃぁ、こっちも」
そう独り言をつぶやきながらジャンパオロは後ろでせわしなく電話で指示を飛ばしているマヌエルの元へと向かう。手伝うわけではなく、何かしでかさないか一挙手一投足を見逃さないことを目的とした監視のために。そして、この時のジャンパオロは少しだけ他者の立場に立つことで冷静になりつつどこか感傷的になっていたのかもしれない。だからすぐには気づくことが出来なかったのだ。リディアがこの場から姿をいつの間にかくらましていたことを。
◇◆◇◆
日も暮れかかった頃。
「で、トラーゴがいないと気づいた時は焦ったが、アレンの指示で研究施設に戻ってすでに出勤していたブローサと一緒に指揮を取って施設の機密事項の漏洩及びエーヴェの痕跡を探していた、ということらしい」
「愚痴ですか?」
「いや、そういうことにされると辻褄が合ってて何も言えねぇなぁと」
「はぁ」
マヌエル邸へ行く道中のアリスへ付いてくる中ずっと愚痴のようにあれだこれだ言ってくるジャンパオロにアリスはもはや溜息をつくことでしか返事をする気力がなくなっていた。結論から言ってしまえば、ケースは見つからなかった。そう、見つからなかったのである。鋼女の気配察知のお陰でこの一日、オスムから外へ出ていく人間は一人もいなかったという。もちろん、察知できない高度、深度まで行かれていなければという前提の話だが、そういった気配はなかったということである。ケース一人の気配をピンポイントで終えるほどケースの気配が特殊でもなければ町の住人が複数といる中で、個別に追うことには無理があったため、結局追い詰めることは出来なかったのである。
一方、人海戦術にも包囲網にも一切引っかからなかった。一般人が対処するにはあまりにも危険な存在であることから、数少ない地元警察や役所の職員とそもそも地理に詳しくない、土地勘のないメレンチーたちですることしかできず、包囲網も網目が小さく出来るわけでもなく難航していたのだ。
しかし、難航していたとしても一切の痕跡が見つからないという不審な点はあった。
「いるな、協力者が。というか、三人の内誰か、だよな」
ジャンパオロがそう言って顔をあげると目的地であるマヌエル邸がそこにはあった。
「優秀な想造の使い手ではあるわけだし、逃げるのも計画的、何か私達が見落としてることがあるのかもし」
ピンポーン。
せっかく相槌にしっかりとしたものを用意したアリスの言葉を遮るようにジャンパオロが呼び鈴を鳴らす。
「しっかし、広いなぁ」
屋敷と称しても問題ないような一軒家に、広い緑の芝一面の庭を見ながらジャンパオロがぼやくのに、無視された上で全く異なることへの感想を口にされアリスはぽかんと口を開けることしか出来なかった。
しかし、ジャンパオロの言う通り周囲の家と比べても明らかに特別なその家はマヌエルという人間がいかに特別かをより強調しているようだった。
「お待たせしました。レイノルズさんと……バルボさんですか?」
「おぉ、良くご存知でいらっしゃる。そういうあなたはアレンさんの奥様でいらっしゃいますか?」
隣から聞こえてくる妙に人当たりのいい声の主に眉をひそめて冷ややかな視線を送るアリス。
「はい。私がマヌエル・アレンの妻、メイ・アレンです。夫が、マヌエルがお世話になっております」
「ハハッ、冗談はやめてください。お世話になってるのはこちらなんですから。異国の人間を受け入れてくださる懐の広さ。きっと現在逃亡中のお弟子さんが俺たちを実験動物のように迎え入れたい、とは違い慈悲深さの塊なんでしょうなっってぇえ」
ジャンパオロが盛大に嫌味を言い終えるのと同時に、らしくてよかったと思ってしまう自分の怒りを乗せつつアリスはジャンパオロの左足を思い切り踏み抜いたのだ。その結果が先の悲鳴である。しかし、ジャンパオロの悪意ある言葉選びをしたくなる気持ちもアリスにはわからなくもない。異人の受け入れを積極的に賛成していた人間が、現在無差別に人間を洗脳、催眠していた疑いのあるケースの上司に当たる人間だからだ。恐らく、ケースは異人を足がつかない大量の実験動物が確保できる、と考えていたのではないかと、この容疑の犯人の一人であるとなった瞬間に結びつけてしまうくらいだった。そして、その実験動物として、という括りが想像できてしまうと仮に無関係だったとしても認知の分野に関わる他の人間も同義でないといい切れるかと疑いが感染していくのは至極明白なことだった。悪いことほど紐づけして疑ってしまうのは、危機に瀕するからこそ当然な措置だからだ。故にその研究とは遠いところにいるかもしれないメイの方に揺さぶりをかけて、外堀を埋めながら手探りでマヌエルの人柄を探ろうとしているのである。
もちろん、こんなところでボロが出るはずもないが、出ればそれはそれで問題ない。
「エーヴェさんの一件は私も非常に驚いております。しかし、マヌエルはそんな人じゃありません。だから」
「ははっ、言葉通りですよ。邪推させたなら、いや、お気を悪くさせたなら謝罪します。申し訳ありません。ただ、疑いの目を向けてしまう。それはこれからお世話になる力の弱い我々とはいえ許していただきたい」
誠意を見せつつ、しっかりと杭を打つ言葉。
「……こちらも取り乱してしまいました。そちらのお気持ちも察するべきでしたね」
無関係というよりも蚊帳の外にいるであろう人間にこういった態度を取らせるというのは心に来るものがあるな、とアリスは思った。
「今更ですが、立ち話も何ですから上がってください。マヌエルはまだ戻っていませんが、先にもてなさせていただきますよ」
言葉通り、場の雰囲気を紛らわせるように笑顔で、ほがらかで口を開きだすメイ。
「いえ、自分はこいつを送るだけでしたので、このまま帰らせてもらいます。それに俺はお呼ばれされてませんから」
苦笑を挟む。
「ついでに、もう一人来るはずだったブルスという女性は、恐らくご主人と同じでいろいろ手間取っているのでしょう。合流は遅くなるか、もしくは欠席かもしれないと伝言を預かっていたので、伝えさせていただきました」
「わかりました。ありがとうございます」
「いえいえ、それでは俺はこれで。では」
サッと振り返るとそのまま背を向けてジャンパオロはその場を後にしてしまった。アリスからすれば、マヌエルがいないことをいいことに帰宅するまで屋敷を探索すると言ってきてもおかしくないだけに随分引き際がよろしいなと感じるのだった。
とはいえ、一方通行の通信機は身につけているので結局それで事足りるという意味なのだろう。
「ようこそ、レイノルズさん」
アリスは招かれるままに敷居をまたぐのだった。
◇◆◇◆
アリスはメイに軽く家の中を口頭で説明を受けた。一階は客室やリビング、キッチン、書庫があり、二階に寝室やそれぞれの趣味の部屋があるということだった。説明された数以上の部屋がこの家の大きさにはありそうだが、そこをさらにツッコむ気にはならなかった。そして、マヌエルが帰るまでまだ時間があるだろうということでお風呂を勧められ、アリスは素直にその行為を受け取ることにした。
普段よりも広めの浴槽に浸かりゆったりとした気分を味わったアリスは、風呂からあがると、用意された寝間着に着替え風呂場に案内される時に紹介されたリビングへと戻るのだった。
「お風呂、ありがとうございました」
「よかったです。寝巻きのサイズは大丈夫そうですね」
「はい」
リビングの奥、キッチンから顔を覗かせたメイがいた。
恐らく夕食の準備をしているのだろう。
「少し家の中を見て回っても?」
「えぇ、問題ないですよ。まだ夕食まで時間もありますから、ご自由にどうぞ、です」
「ありがとうございます」
そう言ってアリスはそのままリビングを後にする。普段ならテレビを見て時間を潰していたかもしれないが他人の家でしかも料理をしている横でくつろぐ二人きりの空間というのがどうも落ち着かないと思ったのと、今なら一人で行動できるということでアリスは一応断りを入れてから本命を実行に移すのだった。
◇◆◇◆
最初に向かったのは一階の書庫だった。鍵はかかっておらず、開けると書庫と言われるだけ合って人が一人通れる本棚を柵にした通路がある、と表現したくなるようなぐらい大量の本が置いてあった。しかも通路の奥や本棚の上には収まりきらなかったであろう本が乱雑に積み重ねてあり、いつどこから崩れてきたとしてもおかしくない状態だと感じた。そして、本棚の中から無作為に一冊の本を抜き取り、中を開いてみるアリス。タイトルは自己知覚。内容を読み込もうとするのを身体が受け付けないぐらい文字がひしめいていた。加えて明らかに専門用語のような活字が至るところにはびこっているため自然と目は章のタイトルなどの項目へと行ってしまう。自己には様々な種類があることやそういった事を提唱した人物などが記載されており、そうなんだと思う前にアリスは本を棚に戻した。中身はまだ二十歳にも満たない少女である。元から勉学に積極的に励むような人間でもなかったが、そういう話以前にこの本の内容を理解するのは厳しかった。恐らく、ここにある全てがそういったアリスの身の丈にあっていない学術的本なのだろうと思った。一方で、アリスは一つの疑問を抱えることも出来ていた。それはなぜ知識が重要とされるこの世界でこんな重要な文献が置いてある場所に鍵などがされていないのだろう、ということである。パッと見たところでは監視カメラの類も見当たらず、警備はずさんと言えるだろう。それだけ、誰もこの部屋に入ってこないぐらい街の治安がいいのか、それともここにある資料の価値はアリスが想像するよりもないに等しいのか、と考えられた。
次にその足取りで一階に他にめぼしいところがないことを確認しながら二階へアリスは移動した。ダブルベットのある寝室を見つけながら夫婦仲はいいんだなと感じながらアリスは一階同様部屋のドアに手をかけ中をチラッと確認しながら移動を続けていく。そして、ただ一室鍵のかかった部屋を発見する。恐らく説明を受けた上でそれらしいものがなかった趣味の部屋、それもマヌエルのものだろうと推察できた。部屋に鍵をかける理由があるとすれば、以下の二つだろう。誰にも見られたくないものがある、または護るべく大切なものがある、だ。今のアリスの状態であれば力づくでも想造でも容易に扉を開けることは出来るだろう。しかし、今ここで事を大きくするのは得策ではないことはアリスでもわかる。だから、ここにそういう部屋がある、それがわかっただけでも収穫とすることにした。
ガチャッと下から扉の鍵が空けられる音がした。誰かが、マヌエルが帰宅したのだろうか。
ここに来てからアリスもそれなりの時間を過ごしているので何も不思議なことではない。
「あら、もしかしてブルスさんでいらっしゃいますか? どうぞ、お上がりください。随分とお疲れの様子ですね。先にお風呂をどうぞ」
「ご行為、感謝致します」
どうやらカトリーンだったようだが、探索の切りも良かったこともあり、アリスは階下へ降りていったのだった。
◇◆◇◆
その後、カトリーンが風呂から上がったのを見計らったタイミングでマヌエルが帰宅し、特にすることもなく結局リビングでテレビを観て時間を潰していたアリスはそのまま四人で夕飯を共にすることになった。マヌエルの客人が来たということでメイが張り切ったことが分かる程度には様々な料理が食べ切れるのだろうかというだけ作られ机に並べられていった。しかし、そのどれも頬が落ちるぐらいに美味しく、食べる橋が止まらなかったのをアリスは覚えている。こちらの世界に来て食べた物の数は少ないが、だからこそか、最も美味しく感じたのかもしれない。会話などは少なかったが、温かい食事という言葉があるならこの雰囲気だろうと思える程度には居心地の良さを感じる場所と時間だった。それだけアレン夫妻の仲が良かったとも言えた。しかし、その人の温かさアリスにジェスの顔を思い出す結果となり、成りすましを解きたいという、自我を保ちたいという欲求を連鎖的に思い出させてしまうのだった。
バレたらまずい、その一心でアリスはジャンパオロから渡された首から下げたリングを見つめる。
「あら、大丈夫? 顔色が悪いけど」
「少しおトイレを借ります。疲れが出ただけだと思いますけど」
そう言ってアリスは席を立つ。
「トイレはそこを曲がってすぐですから」
メイの言葉を背にアリスはトイレに駆け込むのだった。
◇◆◇◆
一度成りすましをトイレで解いて落ち着いてから食卓へ戻ると、待っていたと言わんばかりのマヌエルが口を開く。
「じゃ、じゃ二人にはこの後、疲れているかもしれないけど、このまま僕と話をしてもらって構わないかね」
ここへ来た本題である。
「こちらとしては今日の一件を含めて新しくいろいろ詰めたいところと考えています」
「そ、そうだね。そっちも大切なことだ。研究者なんだろう、レイノルズさんとの話に強い関心が合って、失礼だったかもしれないが、意識の外だったよ。ブルスさん、もちろん構わないよ」
少し苦笑しながらマヌエルはカトリーンの申し出に応える。そう、ここからがアリスの本命のもう一つ、魂の違和感の追求なのだ。