第九十三筆:彼らの牛歩
そして時は、紘和がアカリとヨナーシュと共に、ランキルにあるエディットが所有する来賓用の別荘と言われた場所に案内されたところの話になる。程よく揺られて移動した街中より少し外れた場所、いかにも何かあっても取り敢えず被害は最小限になりそうな広い場所にそれはあった。
別荘に入ると車はゆっくりと広いロータリーを半周して玄関へと続く大理石の岩の床の前で止まった。
「着いたわよ」
車を止めたアカリはそう言うと車のエンジンも止め、ロックを解除する。すると後部座席にいた紘和とヨナーシュがゆっくりと降りた。車内でも無言で剣呑な雰囲気が漂っていた二人だが、車を降りたのと同時に互いに向き合う敵意とも殺気とも取れるものが一段と濃くなるのをアカリは感じた。
それは車内よりも動きが制限されていない空間に出たからこそ、互いによりいっそう警戒しなければいけない状況になっていると判断したことが伺えるという意味である。
「それで、ここから先の指示は受けていますか??」
「私はあんたを見つけたらあいつに連絡を入れること。それからここに連れてくることが今回の役目よ」
アカリはこれが全てだと言うように紘和の顔を見ながらゆっくりと頷く。
それを確認した紘和は無言のままヨナーシュに圧力をかけるように顔を向ける。
「敢えて言うなら君が暴れた時の保険だよ」
紘和はこの時、ヨナーシュに感じていた違和感の正体に気づく。
なぜと問われても今なんとなく気づいたのだ。
「いや、質問をする相手を間違えましたか。アカリさん、あなたはそこの男と今回の作戦をどこまで共有していましたか? 正確に、少なくとも嘘偽りなく答えてください。利用し合うならなおのことそういう些細なところで躓きたくはないでしょう?」
脅しである。それも嘘をつけば関係が崩れるだけでは済まない問題であるのは小学生でもわかる程ビンビンな殺意がアカリに集中線が見えるぐらいに突っ込んでいた。しかし、アカリは紘和に視線を向けたまま無言を貫いた。脚が僅かであるが震えている。つまり、死ぬかもしれない恐怖の中でも、無言でいることを選んだということになる。
ゆっくりと紘和はヨナーシュに向き直る。
「この状況で無言を選んだ彼女に何か言うことはありますか?」
「特にないよ。俺が言ったこと以上のことは何もない」
涼しい顔でそう答えるヨナーシュ。
「そうですか」
紘和は自分の考えを披露するか考える。前進はしない、それでもこちらがそう考えているという意図を伝えることでできる駆け引きができるのではないかと考える。こういった領分は今までなら間違いなく純だったと考えてしまう自分に苛立ちを感じつつ、それをやるべきだと思うことができる紘和は気持ちを落ち着かせてゆっくりと丁寧に、それでいて敵意と疑心をしっかりと言葉に乗せて話し始める。
そう、決して感情に乗りながらではなく、感情を乗せるように、相手の感情を波立たせるように。
「自分が推測できる範囲ですと、少なくとも協力関係を築ける何かがある間柄なのでしょう。最大の理由としてはアカリさんが沈黙を選択したこと。それはシュレフタさんとの関係性を話すという行為が裏切りに繋がると判断して且つ私に嘘を言わないための選択と捉えることができます。もちろん、そう思わせることで私とあなたの間にこの様な疑心暗鬼の状態を作るための可能性も推察できたからこそ大いに有り得る話です」
一歩、紘和はヨナーシュとの距離を縮める。
「しかし、あなたは否定しなかった。もちろん肯定もせず、どちらに捉えられてもいいというスタンスを、私と同じ様にアカリさんの沈黙に意味を見出した上で、取ったのです。残念なことがあるとすれば、その全てがあなたの選んだどっちつかずの態度によって憶測の域を決して出ないということ。そのためにこちらがそう思っていることを口にして牽制しなければならなくなったということです」
また一歩、紘和は歩み寄る。
「ただ、これは最大の理由であっただけで、疑いを生む原因となったのはあなたとの最初の接触でした。覚えていますか?」
「覚えてるよ。君ぐらいの人間が通れば否が応でもマークする。当然のことさ。俺の今日の任務はあそこの警備だからな」
「そう、そういう設定だったのでしょう。それこそ、アカリさんからも偶然そこにいた、そういうレベルだったから彼女は私にあなたとのいざこざを避けるように忠告しました。そう、忠告したのです。そんなことをせずとも、私ならあの中であなたに最も警戒を払わなければならないと判断できるかもしれないのに、わざわざあなたという人間を紹介したのです。仮にお二人の中で何か計画があるならばそれこそ伝える必要はなく、あの様に私が暴れてからの登場でも、奇襲をかけるという点ではそうしなかった方が得策だった可能性があったかもしれないということです。もちろん、これも私への信頼を獲得するための小さな小さな布石である可能性は否定できません」
また一歩。
「そして何よりあなたがその警備をほっぽりだしてここへ来たということです。優先順位を平然と入れ替えられるということ。それだけの任が警備を差し置いてでも私についてくることにあった、そう考えることができる。いや、私についてくるというよりかは協力関係にもあるアカリさんが何をしようとしているのか抜き打ちで調査している可能性でしょうか。それとも単なる抑止力でしょうか。ともあれ、あなたがここへついてきてしまったことを含めて振り返ると、アカリさんの先程の無言がよりこの私の仮説に現実味をもたせるのです。あなた方は互いを知っている。協力関係にもある。それでも一枚岩というにはあまりにも利害でのみ手を取り合っているのではないかと、そう考えられるわけです。だからこそ、この場で私がどうなるのか、知りたいのではありませんか?」
目と鼻の先まで近づいた紘和に対してヨナーシュは余裕な感じを崩さずに答える。
「用心深いことは結構だけど、それだけだよ。ただ一つ確実に言えることがあるとすれば、俺はこの国でも、それこそ世界からも認められる実力がある。自惚れてるわけではないけど、力を持つものが厄災を払うべく見張るのはおかしな話じゃないだろう? 君が俺の危険性を理解できるなら、俺だって君の危険性は、あそこで警備することの優先度を変更せざるを得ないぐらいだというのは理解しているつもり、ってことさ」
その回答に紘和はニヤリと悪そうな笑みを浮かべて見せる。
「まぁ、どっちだってこちらとしてはいいんです。これだけ私が考えていることが当たっていようがなかろうが、アカリさんが私と今後どうしていきたいのか、あなたが何を目的にここにいるのか、どうでもいいんです。それこそ無関係を装おうと、こちらの主軸の会話には一切触れずに、あくまでを貫く。結構です。もちろん、それがただただ事実だったとしても私のすることに対する結果は変わらない。そう」
全てを踏みにじるように紘和は笑顔を取り消し、ぐいっと顔面を鼻がこすり合いそうなほどヨナーシュに近づけて伝える。
「あなたたちの努力は水の泡となるのですから」
ピクリと本当に僅かにヨナーシュの右まぶたがピクリと反応するのを紘和は見逃さなかった。
「それでは行きましょう。まずは、目の前の、そう眼の前の問題からです」
眼の前の、を強調してからサッと反転して紘和は玄関へと歩き出す。気持ちはすでにオズワルドへの怒りへ切り替えている。そう、紘和にとっての本命はここからなのである。
◇◆◇◆
紘和の歩みだしに合わせて先行し始めたアカリが、最初から鍵がかかっていなかったのか、中からこちらの様子を伺っていて解錠されていたのかはわからないが、スッと扉を開けて入室を促した。紘和はそこへ躊躇なく一歩を踏み出す。来賓も兼ねているということだからか、入って目につくのは大きな階段とそこから両脇に二階へと伸びている、館という表現が適切なエントランスだった。それは外観から伺えたイメージと遜色ないものでもあった。
しかし、そんなものは今の紘和にとって必要のない、頭に入ってこない情報である。
「オズワルド・マクギガン。会いたくて 会いたくて仕方なかったぞ」
バキッと床が陥没する音、玄関に踏み込んだ躊躇なかった一歩と紘和がオズワルドの目と鼻の先に出現したのは同時だった。
「全く要件も聞かず、よく来てくれたと称賛の言葉を送りたくなりますね」
電話で全く会話ができなかったことを根に持つようにいうオズワルド。
互いに火花をバチバチと飛ばす視線の飛ばし合いが、牽制があった。
「改めまして。んっ。こうしてお会いするのは初めましてですね、天堂紘和さん。私はオズワルド・マクギガン。今はなきプロタガネス王国在籍していたあなたの大嫌いな極悪人です。今までもそしてこれからもきっといろいろと間接的にお世話になった、なると思います。以後お見知りおきを」
スッと右手を差し出し握手を求めるオズワルド。
しかし、当然の様にその手を握り返してくる手はない。
「よく知ってるじゃないか。そうだ。俺は悪のカリスマと呼ばれるお前が心底嫌いだ。だからこそ、今すぐにでも洗ってもらった首を撥ねてやりたいところだ」
「ふふっ。皮肉な話だと思いませんか?」
オズワルドの話題の転換に、何が皮肉なのか理解できない紘和。
「何がだ」
「あなたはこれだけ自分の正義を愛している。きっと疑いようはないでしょう。しかし、しかしです。それは私と対局と言っていい立場であるにも関わらず、あなたは正義のカリスマ足り得ない。私は悪のカリスマと呼ばれているのに、です。皮肉だと思いませんか?」
「……すぅ」
紘和の息を吸う音だけがする。
「どうしてだか考えたことはありますか?」
アカリはオズワルドの首が飛ぶ光景を思い描く。
それはほとんど初対面であるヨナーシュですら逆鱗に触れる行為ではないかと思ってしまう言葉の選択であった。
「お前は今にも自殺をしようとした人間がビルの最上階にいる時、きっとその人間が死のうと思った理由を肯定するんだろう。理解者を演じるのはとても簡単なことだ。基本は同意すればいい。欲しい言葉を選べるかは経験だろう。そして、後は自分だけ命綱をつけた状態で恐怖心を切って飛び降りるだけ。いや、お前の場合はそんなものがなくても着地できるのかな」
その言葉は正義を主張する紘和から出る言葉にしてはあまりに生々しく、心に響く例えをしている様に感じられる。
「俺は今まではそんな人間を救おうとは思わなかった。なぜなら彼らが自殺をしたところで俺の何かが変わることではないと知っていたからだ。だから、お前と違って依存されることはないだろう。だが、今の俺は少しだけ違う。自殺をしようとしている人間がいれば止めるだろう。それが俺の正義に関係なかったとしても、きっと正しいことで、それを俺の正義にしていく必要があるからだ。そして、俺はその止め方を説得でしか今はできる場所にいないだろう。失敗すれば、そいつは死んでしまう。その結果を見れば、俺は魅力的な人間には見えないだろう。そして、最終的に目指すべき場所、死にゆくものの手をそいつの意思を曲げてでも手に取る。これが出来て人一人救えたとしても、俺に羨望の眼差しを向ける人間は少ないだろう。正義とはそういうものだ。だから、悪と違って転がした人間が満たされるとは限らない。もちろん、悪行を後悔する人間もいるだろうが、お前のカリスマはそこを含めてのことなのだろう? そりゃ、正義のカリスマなんて生まれるわけないさ」
それは一見すると自虐的にも聞こえる内容だった。
しかし、紘和があまりにも自信満々に断言するそれは、紘和という人間を少しでも知っていれば想像出来ない人物像であった。
「随分と、成長したのですね。まぁ、私を語るにはまだまだ足りないところも多いです。ただ正直、あなたに恨みを抱くことはあれだと敵だと認識したことがなかったので、ここで侘びておきたいと思わされたぐらいには……響く言葉でしたよ」
明らかに小馬鹿にしていたような態度を改めるオズワルド。
「いらないさ。それで俺の怒りが収まるほど、俺はまだ出来ちゃいない。千絵の無事が確認できない限り、お前の命の重さはその瞬間までこの世の何よりも軽いと思え」
その凄みに一切臆せずオズワルドは自分の話を改めて持ち出す。
「それでは、その全ては二階に上がって右奥の部屋で待っている曽ヶ端さんから聞いて判断してください。それまで私たちはここで待っていますから……っと実に迅速な行動ですね」
千絵の現在地を知らされた途端、その場から今度は音もなく紘和の姿は消えているのだった。
◇◆◇◆
音もなく部屋の前に来た紘和であったが、何を隠そう千絵と再開するのはまさに日本の剣の一件で別れて以降のこととなる。いざこの扉の先に千絵がいると考えると少しだけ、ほんの少しだけオズワルドの手中にあるという状況を忘れて緊張してドアノブにかけた手を三秒ほど撚ることが出来ずにいたのだ。
だが、どういう状況で千絵がそこにいるかわからない、それこそ危険が迫っているかもしれないと考えた次の瞬間から紘和はドアに細工がないか最大限の警戒をした上で、ゆっくりと開いた。
「久しぶり、だね」
逆光の中、開け放たれた窓と扉から吹き抜ける風がそのシルエットを形作る。
以前よりも長くなった黒髪にきちっとしたスーツの後ろ姿がそこにはあった。
「……曽ヶ端さん、ですか?」
紘和は名前を呼んで確認する。決して千絵を忘れたからという理由ではない。むしろ、髪が少し伸びようが、後ろ姿であろうか、目の前にいるのは千絵であるという確証はあった。しかし、オズワルドが関わっているという状況が紘和に警戒は怠るなと訴えかけてくるのだ。
故の確認。
「そうだよ。曽ヶ端千絵だよ」
パッと振り返るとそこには約一年とは考えられないほど久しぶりに見た顔があった。
「今はマクギガンさんと一緒に仕事をこなしてる、ね」
その言葉さえ続かなければどれだけよかっただろう。
紘和はそう思うことしかできなかった。
「……それはあなたの意思ですか?」
確認する。洗脳された形跡はない。視線、感情の抑揚を始め、すでに【最果ての無剣】の中にある物理的に切れないものを斬る霊剣、イコーウォマニミコニェを用いて異能による痕跡の切断を試みていた。それでもないのだ。
故の確認。
「がっかりした?」
どこか晴れやかにも見える笑顔があったが、今のどこにそういった点があったか理解が出来ず、それでも、真意を確かめるために、対話を続けるために紘和は言葉を続ける。
「いや、何か理由が……嘘です。曽ヶ端さんが曽ヶ端さんではないことを疑いました。でも今は、何か理由があるのではないかと思って確認しています」
まっすぐに千絵に自分の本心をぶつける。以前の紘和ならば理由を聞かずに暴言を吐き始め、自分の信じる正しいを、正義を押し付けていただろう。
しかし、今この場に確かに何故という不信感はあれど怒りは存在していなかった。
「凄いね。実は下での会話も聞いてたんだ。だからね、私にはわかる。人は短期間でここまで成長できるんだって。やっぱり……あなたは凄いなって」
紘和はここで千絵が無意識なのか意図的なのかはわからないが、自分の苗字を、名前を使わないようにしていることに気づいた。それが未練を絶とうとしているか、未だに待ち続けてくれているが故のけじめなのか、今の紘和に確認する度胸はない。しかし、こうして紘和が怒りに任せず様々な思考ができるようになったのは、離れていたからこそ思うことができる存在だと再認識できたことに起因していると自己分析は出来ている。それが出来ているからこそのジレンマ、というのもあるのだが。
◇◆◇◆
窓の外を眺めていると、自分のいる部屋のドアが開くのを風の流れから感じた。
ドアが完全に開いたのだろう、一歩部屋に踏み込む音が聞こえ、千絵は直感でしかないが、紘和が入ってきたと確信し、窓に顔を向けたまま挨拶する。
「久しぶり、だね」
緊張していたこともあり今の声が震えていないか心配になる千絵。久しぶりに合うこと以上に、今までに紘和がしてきたことを言伝であるにしろ聞いてきた千絵からすれば以前感じた恐怖心を更に助長させられることとなってもおかしくないからだ。イギリス、ロシア、オーストラリアで何かしらの事件の中心におり、そして最後は第四次世界大戦とも呼べる世界の存続をかけた戦いの最前線で猛威を振るっていたわけである。それは凶暴性に拍車をかけているのではないかと紐づけてしまうのは自然なことのようにも感じられる。
加えて、先程の階下でのオズワルドとの会話を感じている。考えに変化が生じているのは間違いないが、敵と認識した相手に向ける殺意は、まさに千絵が国会議事堂の下で味わったそれだった。
「……曽ヶ端さん、ですか?」
数秒の間を空けて生の声を耳にする。紘和であると認識したのと同時に、他人行儀な呼び方が、今の自分達の関係を如実に表していると感じ少し寂しくも感じさせる。
それが、自分の望んだ結果であり、さらにわがままにも僅かな希望を押し付けているのも自分であるというのに、だ。
「そうだよ。曽ヶ端千絵だよ」
久しぶりに見た気のする紘和は、一段と男前になった様に感じた。惚れた弱みがこれならば至極全うで弱みと言うにはもったいないような気さえしてくる。しかも本人に自覚があるかはわからないが、強張った表情が確かに和らいでいる変化を千絵は決して見逃してはいなかった。それは押し付けた希望がまだ全然可能性として残っているのだと前向きに捉える材料として申し分ないと捉えることができた。
だからこそ決心がついたとも言え、千絵は最初から用意していたセリフを口にした。
「今はマクギガンさんと一緒に仕事をこなしてる、ね」
ただの事実の報告がこれほどまで緊張し身構えるものだろうか。しかし、千絵はこれが死をも覚悟して言わなければならない言葉だということを身をもって知ってしまっている。だから体中からブワっと汗が吹き出るのを感じた。錯覚やモノの例えではなく、手汗でビチョビチョになる両手、背中に張り付くワイシャツがそれが実際に起こっている身体の反応だと教えてくれていた。
「……それはあなたの意思ですか?」
チクチクと全身を突き刺すような殺気も、ゾワゾワと全身を纏わりつきながら這い回るような悪寒も紘和からは感じられなかった。
純粋な心配、そう捉えられる言葉だった。
「がっかりした?」
紘和を試してみたい。
そんな感情だけが先行し、先程まで命の危険があったかもしれないこの会話をまるで楽しむように、千絵はいたずらっぽく笑って紘和に返事をする。
「いや、何か理由が……嘘です。曽ヶ端さんが曽ヶ端さんではないことを疑いました。でも今は、何か理由があるのではないかと思って確認しています」
凄いなぁと思う。
そして思うのと同時にそれは口に出ていた。
「凄いね。実は下での会話も聞いてたんだ。だからね、私にはわかる。人は短期間でここまで成長できるんだって。やっぱり……あなたは凄いなって」
本当に凄いことだと思った。恐らく明確な変化に繋がる出会いが紘和にはあったのだろうと思う。それが決して自分ではないと考えてしまうのが極めて残念なことではあるが、それでも紘和という男の成長を心の底から喜ぶことが出来た。だからこそ、更に試したくもある。その成長の先と、自分にどの様な感情を紘和がぶつけてくれるのか、ということを、だ。
◇◆◇◆
「それで……理由は話していただけますか? それともここから一度脱出してからにしますか? 私は曽ヶ端さんの安全を確保したくてここまで来ました」
「大丈夫だよ。ここで話そう。そして、どうするかはあなたに決めて欲しいの」
それはまるで紘和を試すような言い回しだった。そして、試すからには話を聞いた後に紘和は千絵と袂を分かつ可能性もあるのではないかと考えた。その憶測に、一瞬、本当に一瞬だけ嫌だなと思えた自分を自覚し、少しだけ寂しい気持ちを抱く。
しかし、話を進めるために紘和は首を縦に振って了承の意を示す。
「じゃぁ、話すね。どうして私がマクギガンさんに協力したか。そして、どうして私がこんな話をするのか」
そう前置きして千絵は丁寧に自分がこちらの世界に来てからのことを話し始めた。最初は自分の置かれている状況を推察することで精一杯だったこと。その後、なんとかして誰かと、紘和と連絡をとってこの状況を整理、解決しようと思ったこと。そして、そんな矢先、オズワルドが自分をスカウトしに来たこと。その目的が千絵同様にこの世界の把握という情報収集であったこと。利害の一致から一時的に協力関係になったこと。そのまますでにラギゲッシャ連合国の中枢と懇意にしていることが判明し、以下に早い手段で紘和といった有力な人材と合流とするかを検討したこと。その結果、見つけるのでは見つけてもらうという手段を用いて結果、今に至ったことを話した。しかし、そのどれもが千絵がオズワルドと手を組まざるを得なかった理由でしかなく、ここを一度脱出してからという選択肢を流す理由にはならなかった。そう、今こうして紘和は千絵と合流できている。
当初の目的は確実に叶っているからだ。
「マクギガンと協力する目的はわかりました。では、今後は」
紘和は無理矢理にでもオズワルドの元から離れさせようと結論を急ぐ。
そんな紘和の心情をわかっているように千絵は言葉を遮った。
「もし、もしもだよ」
紘和は自分の意識が千絵の言葉に吸い込まれるように向いていくのがわかった。
「あなたがこの世界を破滅に導くとしたら」
紘和が世界を破滅へ導くという、つい最近も聞いた根拠のない言い回しに、千絵が何を問いたいのか理解した。すでにオズワルドが断流会と接点を持っている可能性やそもそもベンノの様に誰かが国の中枢にまで入り最悪掌握している可能性もある。しかし、そんなことは些細な事であった。
そう思えてしまうほどに千絵のこれからするであろう質問は、成長した紘和にとって、あまりにも簡単であまりにも難題であることが予想できた。
「この世界の誰のために正義が使われるのか、私は知りたい」
それは安易な人殺しを許さないという意味。それは人の価値を相対的に見ることを許さない意味。
それは千絵を殺すことができてしまうのかという意味。
「もしもの話ですよね。少なくとも私は今まで世界の滅亡を願ったことはありません」
「そうだね。でも、そうしなきゃいけない時に、できる人でもある。それが正しいなら、正義ならなおのこと」
「そもそも」
「そう、そもそも世界を滅亡させるという抽象的な言葉で語るにはあまりに漠然としているよね。でもね、世界の滅亡は決してこの世界の終わりを意味しているわけではないと思うの。私もあなたが隕石をぶつけたりこの星を縦に割ったり、それこそこの世界の生きとし生けるもの全てに罪があるって言いながら制裁を加えていくとは考えられない。でもね」
でもね、が続く。
「あなたが私たちのためにこの世界の人に立ち向かうということは、少なくともこの世界の人達にとっては滅亡に等しいと思うの。そうだとしたら、いえ、そうだとしてもあなたはどうするの?」
別に紘和はこの世界の人間全てに恨みを持ち合わせてはいない。それでもこちらの人間と自分たちがいた世界の人間、どちらに肩入れするかと聞かれれば、同じ境遇の人間を優先してしまうだろうと考える。その結果が、軋轢となり争いとなり、それは紘和ほどの力がある人間を何かしらの立場に立たせる。
それはどちらの肩を持つにしても、どちらの肩をもたないにしてもである。
「難しい、とても難しい質問ですね。ただ、曽ヶ端さんも先程私がマクギガンとしていた会話を耳にしていた、と伺っています。だから、少なくとも今の私なら手は差し伸べなくても、声はかけるのでしょう。話はそこから先次第です。その結果は今は間違いなく私はこの国と戦争を起こすことになるでしょう。平和を求めるための、私が統治するための戦争です。無責任に聞こえる話でしょう。でもそうとしかでいない。それに、きっとこの自分の抱える正義は、正しいと思えることをしようとする意思だけは間違わないでしょう。自分のためだけに」
だから。
「私はまだあなたとは一緒にいられない、ということになるのでしょう。待たせてる、と自惚れるのは恥ずかしいかな?」
少しだけ紘和は照れくさそうに話す。
しかし、千絵はそれに笑顔で答えた。
◇◆◇◆
「私はまだあなたとは一緒にいられない、ということになるのでしょう。待たせてる、と自惚れるのは恥ずかしいかな?」
やっぱり前に進んでいる。そう千絵は感じた。足りないのはそんな紘和を認め、隣を歩く自分の覚悟だけなのだと思った。
「全然。頑張ってね。私も応援はしてるから」
続きの言葉は胸の中にしまう。まだ紘和に聞かせるわけにはいかないから。それでももし、伝えられたらと思って、自分の言葉を確認するように心の中で反芻する。大好きだよ、紘和、と。