第8話:見守る者
その場所を説明するならば、実に空想的な研究室であろうか。何に使うか想像もできないような巨大な機械がひしめき合い、足の踏み場もないほどに計画書が散乱している。その部屋の主はボサボサの髪を束ねようともせず、冷めたコーヒーを思い出したように口にしていた。目の下の隈は未だとれず、ぼんやりと眺める視線の先には、ある人物を映すモニターがあった。
映し出されているのは、御剣棗。御剣家の次期当主にして、現在は来栖家の次女の瑠璃様を護衛するメイドである。
観察しているのだろうか――いや、その部屋の主は鑑賞していた。生気の無い目はモニターに食い付き、口はにやにやと笑みを浮かべている。その様は、傍から見れば精神異常者のそれであった。
「……楓め。棗の送迎と大義名分を得て混浴まで持っていくとは考えたな。我が妹ながら天晴見事――と言いたいところだが、詰めが甘いぞ」
部屋の主――それは御剣家の長女、御剣椿であった。出来ることならば彼女も来栖家に行きたかったのだが、御剣家の長女という立場がそれを許さなかったのだ。泣く泣く自室に籠って棗の行動を鑑賞し続けていたのは言うまでもない。
そんな彼女に朗報が届いたのは、わずか十分ほど前のことであった。椿に連絡を寄越したのは、棗を支援するという名目で来栖家に潜入させていた御剣家の人間である。
『椿様、ご報告します。目標は楓様の録画装置を回収――こちらはどうしますか?』
「はは。市販の防水カメラで堂々と撮影するなど、棗の性格を考えれば許されるわけなかろうに。我々は万全を期すぞ」
『――御意』
誤解がないように伝えねばなるまい。これは盗撮の話である。あの手この手を尽くして棗の入浴を盗撮しようとしていた椿であったが、まさかこうも早く機会が出来るとは想像もしていなかった。我が家にいる間は、母親である椛がカメラの気配を察知する度に破壊するため、棗が一緒に入浴することに恥じらいを覚えてからは久しく彼の裸を見ていない。
つまるところ、見たくて見たくてしょうがないのである。
「狙うしかねえよなあッ!?」
鼻から垂れる一筋の赤はリビドーの表れか。不眠不休で働いていたのは、何もメイド服の開発だけではない。
椿の周囲に飛び交うのは、小さなハエ――否、それは飛行可能の小型カメラである。よく観察しなければカメラと判断は不可能であろう。実際にハエの挙動を観察して作られた、技術の塊なのだ。
――準備は万全。あとは棗が肌を晒すだけで十分だ。
録画はするが見るなら当然リアルタイムだ。ならば、と椿は机の上に積まれた書類を手に取り、次々と片付けていく。どれもこれも、御剣家の運営と依頼の確認ばかりである。その作業は棗のサポートと並行して行われており、多忙を極めるが彼女にとっては些事であった。
そんな彼女の仕事を遮るようにチリン、と先ほど鳴った音が再び響いた。おや、と椿は空いた手で受話器を取る。
『椿様、至急ご報告したいことが』
「撮影機器の不備か?」
それは困る――急いでカメラの様子を確認するが、状態は問題なし。当然だ、と椿は呟く。なにせ、このカメラは完璧を追求して作り上げた小型カメラである。早々壊れてしまうような、軟な作りはしていない。
「……驚かすな。それで、そこまで急ぐ必要のある報告とは?」
『どうやら黒狗の動きが不穏です。瑠璃様が棗様と合流する前に攻勢をかけるのかと』
黒狗――来栖家を狙う勢力の一つである。その大多数が亜人で構成されているが、御剣家の敵ではないだろう。これまでは、少々激しい火遊びで来栖家の戦闘力でも対応できたが、本格的に動き出されれば万が一があるだろう。
「ふむ。壱式のデータも取れるし、棗のミニスカ姿も同時に録画できるな。お前たちは余計なことはしなくていい」
だが、椿の言葉に焦りは無かった。寧ろ、黒狗の動きに感謝をしている節さえある。
『……? このようなことをしている場合ではないのでは?』
「おいおい、何を勘違いしているんだ? 私は片手間に棗を愛でているんじゃない。片手間に来栖家を守っているんだ。そこを履き違えるなよ」
御剣椿。彼女は他者の物差しに収まらない天才であり――同時に筋金入りの変態である。
◇◇◇◇◇◇
ぶぅん、ぶぅんと先程から煩いハエが僕の周囲を飛び交っている。来栖家の衛生管理は杜撰なのだろうか。仕事ではないと重々承知だが、なるべく見つけ次第、僕は彼らを潰していく。ハエにしてはやけに硬い気もするが、新種だろうか。
…‥ふむ、これは清掃担当のメイドにも報告した方が良いかもしれない。
「あ、あの棗様? 一寸の虫にも五分の魂と言いますし、その辺りでどうか、どうか許して下さい……!」
心優しいメイドさんである。まるで我が事のように許しを請う姿を見せられた僕も、少し悪いことをしてしまったのではと感じてしまう。
「それもそうですね。それにしても、一体どこから湧いたんだか……」
食事の時は全く見かけなかったのだが。風呂の話題が出たあたりだろうか。皿の上の残飯でも狙っていたのだろう、全く狡猾な虫たちである。
「ほら、楓姉。いつまでも惚けていないで、ちゃんと助けてよ」
うわ言のように「カメラ……カメラ……」と呟く楓姉は、控えめに言って気持ち悪い。控えなければ近付きたくない。
ただ、この状態のまま服を脱げば、間違いなく僕は男であるとバレてしまう。楓姉の手助けは絶対に必要なのだ。苦渋の決断だが致し方なし。映像に僕の裸が残るよりは、何倍もマシだ。
本当に、本当に恥ずかしいがしょうがない。母さんや姉さんたちが上の空になったとき、一発で元に戻す荒療治があるのだけれど、これは言わば最後の手段だ。
無駄に背の高い楓姉の頬に手を当て、僕も少し背伸びをする。ん、あともう少し身長が欲しいなあ。
互いの息遣いを感じるほど、僕は楓姉の顔に近づく。本当、見た目だけはいいので僕も少し緊張してしまう。僕も覚悟を決めて、手の触れていない、楓姉のもう片方の頬に僕は唇で触れる。――まあ、うん。キスしたのだ。
「お姉ちゃん、一緒にお風呂、入ろ?」
そして、次にして欲しいことを言う。これで一発。特別なことはなにも必要ない。羞恥心を捨てさえすれば、母さんや姉さんたちは動き出すのだ――気持ち悪いくらいに。
「っしゃあ、野郎共! 風呂の時間だァ!」
野郎は僕しかいないんだが。野暮なことは言うまい。「応!」と答える先輩メイドのなんと勇ましいことか。本当に僕、大丈夫なんだよね?