第30話:ギロチンの縄
登校初日――正確には、まだ僕は編入していないわけだから、初の白神学園訪問と言ったほうが誤解がないか。少なくともこの初日が僕に与えたものは、決して良いものだけではなかった。
僕よりも格上の敵。来栖家の現状。そして、なによりも瑠璃様には他家の令嬢に比べて、闘争心がないということ。
勝ち負けの問題じゃない。僕も瑠璃様も、まだ彼女たちと争う場にいないのだ。実力も、覚悟も。何もかもが、あの場にいた敵に対抗できるものを持ち合わせていなかった。
何よりも問題視しなければならないのは、瑠璃様が次期当主としての覚悟が足りていないということ。それもそうだ、ほんの数日前までは千草様が座るべき場所に今、自分が座ることになるとは誰が想像しただろうか。
「そうかぁ。瑠璃様は誰かが傷付くのを恐れているってわけかぁ」
「……ちょっと楓姉。胸を頭の上に乗せるのやめて」
来栖家が僕に提供してくれた部屋には、すでに侵入者――楓姉が居座っていた。
もしかして、僕の部屋は「開けゴマ」で扉を開いてしまう不思議な部屋なのだろうか。あまりにも自然に僕のベッドを占拠していたものだから、楓姉の部屋に入ったのかと勘違いしたほどだ。……そもそも、来栖家に楓姉の部屋はないはずなのだが。
「覚悟の問題ってやつだなぁ。言っちゃあ悪いがな、瑠璃様には次期当主としての座を甘く見すぎているきらいがあるなぁ」
「千草様と比べても、やっぱり?」
「おいおい、棗ぇ。比較対象が残酷すぎるな、そりゃあ。千草様は私と椿を使えるような奴だぞぅ?」
それもそうだ。千草様は生まれた日から次期当主の座が用意されていた人間だ。瑠璃様はつい先日まで、その責任の重さを知らなかった、ただの少女である。
いや、今も瑠璃様はその重さを知らないままでいるのかもしれない。
「棗が傷付くのを嫌がるって気持ちは分からんでも無いがなぁ。桜花血風流は傷付くことが前提の後手必殺だからな」
「でも、僕は……」
使えないのだ。御剣家本家の中で、唯一僕だけが桜花血風流を使いこなすことのできない欠陥品。それでも、壱式を使えば、刀弥や大楯の人間にも負けないと自負していた。
だが、改めて実感した。御剣が最強である理由は、偏に桜花血風流があってこそなのだ。どれだけ壱式が高性能であろうと、異能を持った相手に苦戦することは必至だ。
「なぁに弱気になってんだぁ。御剣最強の男だろぉ?」
「姉さんも知っているでしょ。僕は桜花血風流が使えないんだよ」
正確には、使えなくなった、と言ったほうが正しい。だが、それは些細な問題だ。重要なのは、今僕が桜花血風流を使えるか否か。
そう、その今。僕は御剣家の次期当主という座を用意されながら、桜花血風流が使えない。
僕の家族は当然、このことを理解している。楓姉だって例外ではない。楓姉が今ここにいるのも万が一、僕が無理をしないかの監視と、その万が一の状態に発展した際に尻拭いをするための安全装置という役割があってのことだ。
どうしようもないことだ、と僕は心の中でケリを付けたことだが、桜花血風流を使いこなすことができるのとできないのとでは、戦力に雲泥の差がでる。その差は、とても壱式では埋めることのできないものなのだ。
「血流の制御ができない、ってのはまあ、しょうがないからなぁ。うん、しょうがない。だが、私たちが悩んでいる棗のために、何もしなかったと思っているのかぁ?」
「へ?」
それは、僕にとって意外な言葉だった。まるで、僕が桜花血風流を使えるようにするために、楓姉たちが努力してきたと言わんばかりの台詞だったからだ。
「つ、使えるの!? 僕が桜花血風流を……!」
「ああ、そのための壱式だからなぁ。あとで椿に感謝しとけよぉ?」
――なんと、椿姉が用意してくれたこの壱式は、僕の戦力を底上げするものではなく、僕が桜花血風流を使えるようにするための代物だったらしい。
己の肩に触れる。なんと、頼もしい。どのようにして、僕が桜花血風流が使えるようになるかは知らないが、これほど嬉しいことはない。
桜花血風流に敗北はない。ならば、それを操る御剣に残されるものは勝利だけ。
「勝つしかないんだね」
「……それを選ぶのは、瑠璃様と棗だ。精々、私らができるのはサポートだってなぁ。困ったら、幾らでも助けてやれるが、その答えを代わりに出してやることはできないからな」
◇◇◇◇◇◇
それが、私の正しい答えとは思わない。私が選んでいるのは、結局のところ自分が一番傷付かず、周囲の人間が一番笑顔になれると信じた幻想だ。
来栖家、次期当主。今も、これからも、その椅子が私に相応しいとは思えなかった。
来栖千草。私の姉の名前だ。いつだって、姉さんは正解を選んできた。それは、来栖家を守るために必要な最適解だった。彼女の後ろに隠れていたからこそ、私は傷付くことなくここまで生きてこれた。
自慢の姉だった。私に責任が及ばないよう、死力を尽くして務めを果たしていた人なのだ。
そんな姉さんがある病に倒れてから、私の生活は変わってしまった。用意された椅子は、座り心地が悪く、気を抜けば滑り落ちてしまうような、とても腰を落ち着けることのできないものだ。
しかも、その椅子は曰く付きで、座った人間に災いを呼び込む呪いの椅子なのだから笑えない。
その椅子を、人は来栖家次期当主と呼んだ。
ここ最近、私を狙う襲撃が増え、紗綾にも無理をさせすぎた。父の呼んだ御剣家のメイド――御剣棗も、よく働いてくれていると思う。
私が来栖家の当主になることを諦めれば。そうすれば、誰も苦しまない世界があるのではないか? 生徒会長だって、来栖家から態々一人出す必要もない。古河と桐坂で、勝手に争っていて欲しい。
「瑠璃……?」
紗綾の声に、私はふっと意識を取り戻す。開いた瞼の先には、私の部屋があり――ようやく返って来たというのに、その実感が全くなかった。
「何かしら? そんなに心配そうな顔をして、私なら大丈夫よ」
ふふっと、笑みを作る。大丈夫だ、まだ私にはその余裕がある。
「嘘。無理しているくせに」
ジト目で、紗綾は私の嘘を看破する。長い付き合いで、紗綾に嘘は通用しないのだ。全く、困った従者である。
「そんなに露骨だったかしら……?」
「私以外には分からないわよ。……もう、私には本当のことを話してくれてもいいんじゃないかしら?」
私の部屋では、紗綾もいつも通りの素で話してくれる。私と紗綾はこういう関係でいいのだ、主人と従者という関係上、外ではこのような話もできないのだが。やはり、立場というのは堅苦しくて私には鬱陶しいものだった。
けれども、紗綾が私とこの関係を崩さずにいてくれて良かったと常々感じる。
「……そうね」
だから、私は秘密の内緒話をすることにした。
所詮、私は弱い人間なのだ。姉さんの背中に隠れながら生きてきたツケだと思えば、安いものだろう。
ポケットから携帯端末を取り出し、画面に触れてメールを呼び出す。最初見たときは、あまりにも衝撃的で開いた口が塞がらなかったが――今思えば、これが契機なのかもしれない。
そのメールの差出人は、白神学園生徒会である。もう、この時点で私には嫌な予感がしなかった。
「なによ、これ……ッ!」
紗綾の言葉は、最もだ。
「『御剣棗の試験における棄権の意思表示方法』って……! 最初から、棗を合格させるつもりはないってこと!?」
恐らくは、紗綾の言う通りだろう。そして、ギブアップの権利は私に委ねられたのだ。
いわば、来栖と御剣は今、断頭台に首を置いた状態である。
その刃に繋がった縄を切る権利が、私の手の中に収まっていた。




