第29話:弱き心
「御剣、あんた自分が何をしたのか分かっているの?」
そんなわけで、僕は保健室前の廊下で正座させられていた。目の前で鬼の形相で僕を問い質すのは、一ノ瀬さんだ。……そりゃそうだ、保健室で休んでいる瑠璃様に心労を掛けるわけにはいかない、と椿姉に促されて断りなく生徒会室に突撃したのだ。今考えれば、一ノ瀬さんだけにでも告げるべきだったか。
「御堂さんから、御剣の独断専行は許容しろ、って言われているけれど。瑠璃に心配させるようなことだけは許さないわよ」
「すみませんでした……」
同い年の女の子に、女装して正座で頭を下げる。これが僕だなんて信じたくない。
幸いだったのは、今が昼休みを越えた五限目――この情けない姿が、衆目に晒されなかったことだろう。
「……もう、いいわよ。あんたもどうせ、瑠璃に心配を掛けないように一人で行動したんだろうし。でも、次からは私に一言ちょうだい」
「わかりました。気を付けます」
かれこれ三十分ほどの説教で、一ノ瀬さんは溜息と共に僕を許してくれた。一歩間違えれば、白神学園での瑠璃様の立場を危うくさせるような出来事だ。椿姉がいたとはいえ、少し迂闊だった。彼女がここまで怒るのも無理はない。
「……その顔、もしかして瑠璃の立場を危うくするーとか、来栖家に迷惑をかけたーとか、変な気を遣っているんでしょ」
「それは……」
僕が一番に考えなければならないことだ。それは僕の命よりもだ。最悪、ここにいるのは僕でなくてもいい。僕以上に腕の立つ御剣は、分家を含めて他にもいる。来栖家の要望は本家から同い年のメイドを選抜する、というものだが、僕が任務遂行不可能である――つまり、死んだり五体のどれかが欠損したと母さんが判断すれば、代理をすぐに立てることだろう。
長男だから、という理由で次期当主の肩書が僕にはあるが、それも名ばかりだ。僕よりも椿姉や楓姉の方が、御剣を纏める才能はあるだろう。……実力も才覚も含めて、僕は代替可能な武器の一つに過ぎない。
だが、来栖家を背負う瑠璃様に代役はいない。
「いい? あんたが勝手にくたばるのは構わないけれど、絶対に瑠璃には知られないようにしなさいよ」
「? どうしてですか?」
「……瑠璃はね、誰かが自分のために傷付くのを一番怖がっているのよ」
それは、来栖家を訪れる前に渡された瑠璃様に関する情報書の中には記載されていなかった、新たな情報であった。
誰かが自分のために傷付くことを恐れている? 心優しいことは美徳だが、千草様が倒れ、古河家と桐坂家、そして黒狗の標的になっている今、そのような甘えたことは言っていられないだろう。
だが――同時に合点がいく。
今、瑠璃様が心労で横になっているのは、恐らく昨日の襲撃で傷付いた護衛メイドたちのことも、大きな要因なのだろう。
「どうして護衛の人が傷付くのを瑠璃様が恐れているのか、理由を聞いても大丈夫ですか?」
「それは駄目。仕事上、あんたに教えておくのはここまで。そこから先は、本人に聞きなさい。あんただって他人に言いふらされたくないことの一つや二つ、あるでしょ」
……たしかに、女装のことは当てはまる。姉さんや葵が言いふらすとは思えないけれど。でも、そう言われると弱い。できることなら、護衛が傷付くことを恐れないで欲しいのだが。僕が傷付く度に、瑠璃様に心労が掛かるというのは仕事の意味がない。
「それで? 生徒会に特攻かまして、何か収穫はあったのかしら」
「う……」
無様な結果だった。成果は何もない。精々、生徒会の面々と顔見知りになれたことだろうか。……護衛の僕が知り合ったところで、意味なんてないのだけれど。
「その様子じゃ試験の内容変更の抗議どころか、延期もできなかったみたいね」
「面目ありません」
一ノ瀬さんは、生徒会の情報なんて端から期待していなかったらしい。落ち込んだ様子も見せず、携帯端末に何かを入力し始めた。
「戦闘以外で役に立たないなら、私たちを頼りなさいよ。御剣のバックアップがどれだけ凄いかは知らないけれど、無いよリはマシでしょ。瑠璃のためなら力を貸すわよ」
「一ノ瀬さん……」
心のどこかで、僕は一ノ瀬さんを侮っていたのかもしれない。確かに、彼女は御剣の誰よりも弱いかもしれないが、瑠璃様を守る仕事に関しては僕よりも一日の長がある。
頼らなくて、どうするのだ。彼女は僕の先輩なのだ、特に戦闘以外の方面では、彼女ほど頼りになる存在もいないだろう。
「紗綾でいいわよ。なんだか、あんたに名字で呼ばれるとむず痒いわ」
気恥しそうに、頬を赤く染めながら一ノ瀬さんはそう言った。
「では、僕のことも棗とお呼びください。……僕以外にも御剣はたくさんいますので」
◇◇◇◇◇◇
「本当に大丈夫なのに」
「昼休みまで保健室で休んでおいて、その言い訳は通用しないです。瑠璃様、今日はもう帰ってお休みください」
あれから少しした後、送迎用の車が白神学園の校門前に停車していた。どうやら、先ほどの紗綾さんが端末で連絡していた内容は運転手の経島さんへの早退連絡だったらしい。
今、僕の視界には駄々をこねる瑠璃様と、それを叱りつける紗綾さんが映っている。まるで姉妹のような彼女たちのやりとりに微笑ましさを覚えるが――まさか、連絡一つで瑠璃様の早退が着々と進んでいくのは、少し驚いた。
だが、どうしたものか。僕は行きの足は楓姉に頼んだのだが……今日の仕事は終わっただろうか。帰りの足にアテはないのだ、ここから来栖家に徒歩で戻るのは、ちょっと骨が折れるぞ。
「ほら棗、あんたもさっさと車に乗りなさいよ。瑠璃のいない学園に用なんてないでしょ」
「あ、はい!」
きょろきょろと、手持無沙汰で瑠璃様を見送ろうとしていたら、紗綾さんが僕を手招きした。ああ、良かった。朝とは違って乗せてもらえるようだ。
僕の座った席は、瑠璃様のちょうど対面の席だ。さすがは、来栖家の次期当主を送迎する車だけあって、豪華で広い作りだ。御剣家も他の家に比べれば裕福な部類に入るが、来栖家ほどではない。
運転席には、当然だが経島さんがハンドルを握って座っている。……朝も見たけれど、改めてかっこいい男の人だと思う。背格好は中肉中背、2メートル近い高身長の身体はスーツを着こなし、女装したメイドよりも護衛らしさがある。
……なんで僕はメイド服を着ているのだろうか。あの男、刀弥のように執事服を着させてもらったほうが、僕としてもありがたいのだけれど。
「経島さん。運転のほう、お願いね」
「はいよ。安全運転で行くが、シートベルトはしっかり締めてくれよ」
最後に紗綾さんが扉を閉めたのを合図に、車が心地よい加速を開始する。比べるまでもないが、楓姉のロマンをガン積みした、乗り心地の悪いバイクとは比較にならないほどの快適さだ。……まあ、バイクと車を比べるのは酷というものだが。
「それで? 紗綾、大丈夫そうなのか」
「大丈夫も何も、棗次第よ」
「……なるほどな。災難だな、御剣のメイドさんは」
経島さんの言葉は、僕を労うように呟かれた。当初の予定とは大きく異なるが、しょうがない。これも御剣の仕事の領分だ。瑠璃様の命だけでなく、名誉も守る。それが今の、僕の仕事なのだ。
「災難だなんて……。これが僕の仕事ですので、特に思うことはありません。明日の試験に、持てる全ての力をもってぶつかるだけです」
もとより、そのつもりだ。試験日を延ばして対策を講じたり、何か仕込みでもできれば良かったのだけれど、そんな見え透いた作戦は古河さんと桐坂さんには通用しなかった。まあ、駄目で元々、ああいった騙し合いは僕の領分じゃない。
なにより、こんなところで弱気になっている暇はない。僕の弱気な姿が、今の瑠璃様の負担になることなど想像に難くない。
僕は、瑠璃様を守る剣なんだ。
「……お願い、棗。あまり無理はしないで。貴女が傷付いてまで、私は生徒会長の席に座りたいと思わないわ」
「え……」
その一言に、僕は側頭部をがつんと殴られたような気分になった。
確かに、その言葉は瑠璃様の優しさから生まれたものかもしれない。紗綾さんは、そう言っていただろう。「瑠璃様は誰かが自分のために傷付くのを悲しむ」と。
だが、同時にその言葉は……僕が瑠璃様に認められていない、その証左だ。
ああ、それもそうか。僕は御剣家の長男でありながら、まともに桜花血風流を使いこなせない未熟者なのだ。
それさえ使えれば、ヒバナも、それどころか壱式に頼ることなく瑠璃様を守ることもできるのに。
瑠璃様の優しくも、残酷な言葉に――僕は情けないことに何も返すことができなかった。




