第21話:兄として
たっぷりと僕の耳朶を堪能した葵は、ようやく拘束を解いてくれた。それはもう、耳の穴まで舐めるほどの徹底ぶり。時間にして、およそ三分程か。それだけでも僕の足腰が立たなくなるには十分であった。
「ご馳走様、お兄ちゃん。これくらいで許してあげる。あ、それともお姉ちゃんって言って欲しい?」
「は、はひぃ」
……兄の威厳はどこへやら。僕はだらしなく口を開き、辛うじて返事らしいものを言葉にした。本当にこればかりは勘弁して欲しい。いくら過酷な修練を積もうとも、耳に関しては克服することが出来なかったのだ。
刺激に堪らず倒れ込んだ僕を、葵はしゃがんで観察している。その表情は恍惚としたものであり、十二歳の少女が浮かべるには、あまりにも妖艶なものであった。
垂れた葵のツインテールの髪先が、甘えるように僕の鼻の先をくすぐる。
「棗お姉ちゃん、かわいい。もう片方の耳も舐めてあげようか?」
「やめて、本当にやめて」
そんなことをされては、今度こそ再起不能になる。……何を参考にしているのかは知らないが、年々葵の耳責め技術は向上しているのだ。一体、どこでそんな技術を学んでいるのだろうか。
我が妹に悪影響を与えているのは、全て椿姉と楓姉の存在に違いない。普通の女の子であれば、家族とはいえ異性である僕にパンツを見られるのは嫌であろう。だというのに、葵ときたら臆面もなく僕の目の前でしゃがみ、さらに見せつけるように股を開いている。
「こら、葵。はしたない恰好はやめなさい。お兄ちゃんにパンツ丸見えだからね」
足腰に力が入らず、プルプルと震えている惨めな恰好であるが、僕は一丁前に兄貴面をして葵を窘める。どうせ、椿姉や楓姉はこういうことを注意しないだろう。あの二人は管轄外だ、弟の僕が口を出すことではない。
だが、僕は葵の兄で、葵は僕の妹だ。健全な淑女に育って欲しいと思うのが兄として当然のことであろう。
少しは懲りてくれるだろうか――という僕の想いを裏切って、葵は僕の耳元で甘ったるい声音で囁いた。
「お兄ちゃんだから見せているの。ほら、どう? 他の男子じゃ絶対に見れない光景だよ?」
僕の注意を聞くどころか、葵は挑発するように小振りのお尻を揺らす。……いけない、一瞬だけ匙を投げるようとした自分を引っ叩きたい。
葵はきっと、僕に甘えているだけなのだ。御剣家のその三女として生まれた葵は、両親も姉も構ってもらえず、専ら僕と遊んで育ってきたのだ。
その僕も、今度は仕事で三年間という時間を来栖家で過ごすことになる。これは葵にとって、とても大きな出来事ではないのか。
「もう、僕相手でもやっちゃダメだから。ほら、そろそろSHRでしょ。僕も仕事に戻るから、葵もちゃんと教室に行くんだよ?」
「あ……」
寂しそうに葵は僕のスカートを抓んだ。やはり気丈に振る舞っても、中身は年相応である。構ってあげたいのは山々だが、僕は護衛任務中なのだ。
「そうだよね。ごめん、お兄ちゃん。お仕事の邪魔して」
先程とは打って変わって、葵はしおらしい態度になってしまった。……元々、葵の気質は甘えん坊である。
普段は僕を挑発するような言動であっても、いざ僕が仕事をするとなると、甘えて引き留めようとするのだ。
甘えられるのは兄冥利に尽きるが、公私混同してはならないのは重々承知だ。次期当主としての器が量られるとき、僕は葵を――否、家族を一番に考えてはならない。
本当は冷たく突き放すのが正解なのだろう。
だが、それは兄として絶対にやってはいけないことだ。
「ほら、葵。お姉ちゃん達には内緒だよ」
「……! うん!」
僕は葵の返事を聞くと、にこりと笑って彼女の額に軽くキスをした。
「公共の場で無闇に能力を使わないこと、寝る前にちゃんと歯を磨くこと。あと、嫌いなピーマンもちゃんと食べること。それができたら、瑠璃様の護衛の合間はここに来るから」
「本当ッ!?」
「うん。あと、これが僕の仕事のときの連絡先。椿姉に記録されているけれど、許してくれるだろうし。夜の間だけになっちゃうけれど、お話してあげる」
「十分! 大好き、お兄ちゃん!」
お返しに葵からキスを貰い、僕は彼女の頭を撫でて瑠璃様の後を追った。
しまったな、思ったよりも長引いてしまった。トイレで納得してくれれば良いのだけれど。
◇◇◇◇◇◇
暗殺者は殺意を放つ。御剣ならば、この程度の気に反応するだろう。それは確信であった。
期待通り、御剣は来栖家の令嬢と護衛を先に退避させて、この場に残ってくれた。
暗殺者に舞い込んだ依頼は、来栖家の令嬢を殺すことではなく、御剣の威力偵察。暗殺者の手元には、すでに昨晩の襲撃の件に関しての情報があった。
可変式武装『壱式』。輪禍剣『ヒバナ』。ぶつかったのが亜種能力者であったとはいえ、生還を果たしているのだ。暗殺者は、自分にも情報を持ち帰ることができると達観していた。
依頼主が何者か、など暗殺者にとってはどうでもよいことであった。目の前のメイド服を着た御剣の技量を報告し、可能ならば暗殺する。超人を相手にするわけではないのだ、自分でもあの程度の御剣であれば殺すことが出来るだろうと慢心していたのだ。
中等部の校舎の向かいにあるビルの中――そこは喫茶店であった――で暗殺者はほくそ笑んだ。傍目から見れば、その男は朝のコーヒーを楽しむ紳士に見えることだろう。一般人に擬態した自分を見つけられはしないだろう、と高を括っていたのが彼の間違いであった。
それを悟るのは、全てが終わった後であった。
それは、対象――御剣棗の背後に少女が現れた瞬間に起きた。
「お前か」
ぞわり、と暗殺者の首筋を冷たい何かが走った。彼が行動する何よりも――そう、呼吸さえも――早く、声の主は男の首に手を当てた。
右隣だ。誰かがいる。男にはそれしか分からなかった。
「なッ……!?」
「ああ、喋らなくていい。訊きたいことは、直接お前の体に聞く」
声は少女のものだ。まるで感情の無い、恐ろしいほど冷たい声音が暗殺者の耳元で囁かれる。
「痛いのは嫌いだろう? 大人しくしていれば、すぐに終わらせてやる」
言うよりも早く、変化はすぐに暗殺者の体に現れた。ぶつり、ぶつりと全身の血管が浮き上がり、何かが背後に立つ少女に奪われていく。
「ふん。大したものは持っていないな。やはり蜥蜴の尻尾か。お前で五人目だよ、私の兄様を狙うのは」
「ぎっ……がっ……!」
「良かったな。今日の私は気分がいい。お前の依頼は成功だ。帰って依頼主にこう報告しろ。『貴殿の把握している戦闘力が御剣棗の全て』とな」
淡々と、声の主の言葉が脳を焼く。御剣棗に関する情報を根こそぎ奪われ、そして彼女の言葉が植えつけられる。
嫌だ。これ以上、奪われれば自分は間違いなく廃人と化すだろう。
「ぐ、ぐぅ、るっでぃい、るぅ!」
「狂っている? ああ、そうとも。お前の言う通りだよ。我ながら、楓姉さんの技は狂っていると思う。良かったな、相手が私で。記憶だけで許してやる」
奪おうと思えば、他の何かも奪える。言外に背後の少女はそう言ってのけるのだ。五感の全てが縮みあがり、暗殺者は声にもならない悲鳴をあげた。
いや、もう悲鳴をあげる自由すら奪われた。
「そうだな、消えていく今のお前に教えてやろう。どうせ、忘れるがな」
見たくない。見たくない。だが、強制的に眼球を動かされ、右隣りに座る何者かを視界に入れてしまう。
「私の名前は御剣菖。葵の妹だ」