第20話:小悪魔
都市と同規模の敷地面積を誇る白神学園は、その内部の施設も最先端の技術を備えていた。情報通りと言えば情報通りだが、やはり僕の中学校とはまるで違う――有り体に言えば、僕は異世界に迷い込んだ気分であった。
「すごいですね。とても学園施設は思えません」
僕の口からぽつりと出た言葉は、ありのままの感想であった。まだ一つ目の校舎であるが、ここは中等部の校舎らしい。僕が想像する学舎とは真逆のデザインで、どちらかというとオフィスビルのような外観である。
一歩入って教室を覗けば、驚いたことに黒板は無く、代わりに巨大なモニターが設置されているではないか。勿論、懐かしの黒板ふきクリーナーなど備えておらず、チョークの粉も落ちてはいない。
なるほど、デジタル化というやつか。
「……これくらい普通じゃないの? 外の学校がどんなものかは知らないけれど、あんまり驚かないでよ。瑠璃様の品位が疑われるわ」
一ノ瀬さんの言葉は正しい。彼女の言う通り、従者の質は主人の品位に直結している。僕の粗相は、全て瑠璃様が背負わなければならないのだ。
……僕の仕事は瑠璃様の護衛なのだが、瑠璃様の品位を落とすことは本望ではない。
とはいえ、未だ黒板とチョークが教室の主役であった僕の学校と、明らかに文明に差のある白神学園で動揺を隠すのは一苦労である。
恐るべし、白神学園。
「肝に銘じておきます」
「わかればいいのよ。わかれば」
そう言って一ノ瀬さんはずんずんと瑠璃様と僕を先導していく。うーむ、刺々しさは和らいでいるものの、警戒心は保たれたまま。まあ、自分の仕事場に他人が入ることを嫌う人もいるという。護衛という神経を使う仕事に、僕という異物は邪魔に感じるのだろう。
こればかりは一ノ瀬さんに妥協してもらうしかない。どれだけ嫌がろうとも、この三年間は共に瑠璃様を守る仲間なのだから。
「棗、ごめんなさい。紗綾はとてもいい子なのだけれど、ちょっとだけ環境の変化に心が追い付いていないの」
先に進む一ノ瀬さんから少し離れ、瑠璃様が僕に耳打ちしてきた。……瑠璃様、すみません。僕の耳、すごく敏感なんで、内緒話は前もって知らせてくれませんか……!
とは言えるはずもなく。
「い、いえ。一ノ瀬さんの心情は察するに余りあります。勿論、瑠璃様も。僕のような一介の護衛メイドに気を遣って頂くのは有り難いですが、ご自愛下さいね」
僕は一つ咳払いを入れて、平静を装いつつ返事した。危ない危ない。数少ない僕の弱点だ、たとえ瑠璃様と言えども簡単に悟られてはならない。
「ふふっ、ありがとうございます。護衛に来てくれたのが貴女で良かったわ」
なんとも眩しい笑顔である。これだけでも彼女を守る価値があるというものだ。
「瑠璃様? それと御剣。早く行くわよ! 中等部の校舎なんて見ても目新しいものなんて無いわ。もう教室に向かわないとSHRに間に合わなくなるわよ!」
「まあ、それは大変。棗、行きましょう?」
瑠璃様に手を引かれ、僕も「はい」と返事をしようとしたときであった。
――殺気。
「……いえ、瑠璃様。少し用事が出来ました。申し訳ありませんが、先に教室の方へ向かって下さい。すぐに追い付きます」
周囲を警戒する。疎らではあるものの、廊下には中学生――それも一年生か――が視界に入る。僕や瑠璃様に見惚れている者が何人かいるものの、驚異になり得るような人物は確認できない。
警戒度を一気に跳ね上げる。僕の索敵から逃れるのだ、相手は相当の手練れ。まさか、衆目のあるこの場で仕掛けるのか。
「……はあ?」
難色を示したのは一ノ瀬さんだ。どうやら、彼女は気付いていないようである。
ならば、僥倖。
「少しお手洗いに。ですので、僕に構わず教室に向かって下さい」
笑顔を貼り付けて僕は嘘を並べる。ここで一ノ瀬さんに緊張されるよりは、何も知らないまま瑠璃様と一緒に教室へ向かってもらった方が良い。
ひりつくような殺気は、先程から僕の首筋を狙っている。各個撃破を狙っているのか、どうやら標的は僕のようだ。
「タイミングの悪い奴ね。ほら、瑠璃様。行きましょう」
「ダメよ、紗綾。待ちましょう?」
うーん、瑠璃様はどうやら優しすぎるきらいがある。僕や一ノ瀬さん、他の身内からしてみれば有り難いものであるが、ときにそれは敵の付け入る隙となるだろう。
「いえ、大丈夫ですよ。一ノ瀬さん、瑠璃様を教室に案内して下さい」
「言われなくてもするわよ。ほら、御剣もああ言っていますし、ただのトイレですよ。待つ必要なんかありませんって」
「……わかりました。なら、なるべく早く来て下さい。もっと棗とお話したいもの」
「ええ、必ず」
惜しむように瑠璃様はそう告げると、僕の視界から消えていった。……これでよし。護衛対象から離れるという、少々喜ばしくない状況ではあるが、一ノ瀬さんがいるのだ。ここの敵を倒して、瑠璃様に追いつくまでの時間は稼いでくれるだろう。
再び周囲の様子を確認する。振り返った先、僕は驚愕することとなった。
――馬鹿な。目を離した一瞬のことであった。廊下にいた中等部の生徒たちは皆、姿を消していたのだ。まるで、一斉に神隠しにあったように。
術中に嵌まった? いつの間に。僕に幻覚の類の能力を仕掛けたか。それとも、この場にいた生徒達全員に、何らかの能力を行使したのか。
後者ならば、相当の能力者だ。今の僕に対応可能かすら危うい。僕に知覚不可能の速度で、複数の人間に対し能力を行使したのだ。
「――壱式、起動」
だからと言って敵に手心を加えてくれ、と頼める状況などではない。僕はすぐさま壱式を起動させ、臨戦態勢へと移行する。
未だ、敵を視認できない焦りは手のひらを伝う汗となって現れた。二度目の失敗は許されないと、僕が背負う御剣がそう告げる。
「ダメよ、お兄ちゃん。そんなに緊張してたら、上手に動けないでしょ?」
ふぅ、と僕の耳を誰かの息がくすぐった。生暖かい熱と、くすぐったさに思わず僕は耳を押さえて振り返る。
「……誰だッ!?」
「ほら、それで右手が使えなくなっちゃった」
次に後ろから両腕を抑えられる。視界に入った腕は意外にも細いが、僕の両腕を掴む力はその細腕から引き出されているとは思えないほど強力である。
というか。
「葵!?」
「にひひ、当たりぃ」
僕の背中にしがみ付き、両腕をホールドするのは僕の唯一の妹である葵だ。というか、壱式の性能で僕の筋力にも補助をかけているのに、拮抗するどころか抑え込むなんてどんな馬鹿力だ。
「なんで白神学園にいるの? 小学校はどうしたの」
不登校であれば由々しき事態である。すぐさま母さんに連絡して家族会議を開かねば。
「お兄ちゃん、お仕事でごたごたしていたのは知っているけど傷つくなー。私、もう小学校は卒業したんだよ?」
……そういえば、そうだ。葵はすでに十二歳で、今年の誕生日を迎えると十三歳。そうか、もう中学生になるのか。
僕と違って、どうやら彼女は進学先をここ、白神学園にしたらしい。椿姉は四六時中、僕のことを観察しているだろうから置いておくとして、楓姉の魔の手を逃れたと思ったら今度は葵か。これでは我が家にいるのとあまり変わらないのではないだろうか。
それでも、葵が小学校を卒業したことを忘れていたのは事実である。謝罪して葵の機嫌を取らねば、僕の業務に差し障りが出てしまう。
「ご、ごめん。謝るから許して? お兄ちゃんもお仕事があるから……ッ!」
「ダメ。許しませーん」
葵の拘束から抜けようと四苦八苦するが、両腕は彼女によってがっちりと固められており、びくとも動かない。頼むから壱式、もうちょっと踏ん張ってくれ……!
こうなると葵は梃でも動かない。……あまり使いたくはない手なのだが、こうなったら僕が譲歩するしかない。
「わ、わかった。今度、何でも言う事を聞いてあげるから。ね? だから、腕を解いて」
大体こういえば、軽くて一日デートの刑。酷くて一緒にお風呂の刑。どれも御免被りたい刑の数々だが、ちょっとしたスキンシップだと思えば、まあ、うん。耐えられるだろう。
「お兄ちゃん、楓姉とお風呂に入ったんだよね? それも、分家のお姉さん達と一緒に」
ちょっと待って。どこでそれを。
「お兄ちゃんの裸、見たかったなー」
「葵、葵さんや。その発想は大変不健全なので、お兄ちゃんは一切許可しません」
あのときは色々と仕方が無かったんだ。嵌められた僕も僕だが、そんな不健全な理由で一緒に入ったわけじゃない。少なくとも、僕は家族の裸なんて興味ない。
「しかも瑠璃様に話しかけられて、すっごいエッチな顔してたしぃ」
「誤解です、葵様。僕が耳を触られるの弱いこと、知っていますよね?」
知らないはずはない。御剣家女子が共有する僕の弱点マニュアルに『耳責め』なるものを書き込んでいたことを僕は知っている。
「だからぁ、罰としてお兄ちゃんは『お耳はむはむの刑』でーす」
「ちょっ、待っ……!」
問答無用で葵の柔らかい唇が、無抵抗である僕の耳朶を食んだ。
あ、終わった。
その刑が執行される瞬間、僕の思考を埋め尽くしたのはその一言だけであった。