第19話:のせる心、傾く天秤
最初の方は三人称になっております。
一ノ瀬紗綾は不機嫌であった。それは昨日の襲撃を乗り越えても変わらず、寧ろ一層増しているような雰囲気であった。
いつもならば、登下校の合間は姦しい後部座席も、この日は何か重い影が落ちていた。
「今日はどうしたの? 紗綾」
「別に、何も……」
来栖家の次期当主という扱いを受ける瑠璃にとって、経島が運転する送迎車の後部座席は唯一と言っていいほど気の休まる空間であった。幼馴染である紗綾に、瑠璃様と呼ばれなくていい場所はここだけしかない。
だというのに、今日の座席はなんとも居心地が悪いものである。その原因は、送迎車を変えたからという理由ではないだろう。
ハンドルを握る経島は何一つ喋らない。経島はこの車内で起きたことを聞いていないし、見ていない。一介の運転手である経島は、彼女達の友人でもなければ、ましてや親でもない。何かを訊かれれば、人生の先達として真摯に答えるが、訊かれないのであれば、それは自分の役割ではない。彼は自分の立場を弁える男であった。
「……ねえ、瑠璃。やっぱり私じゃ、貴女のことを守り切れないのかな」
いつも勝気な紗綾が零した弱音に、瑠璃は困ったように眉を曲げた。……来栖の名を狙う者の手を、ただの少女である紗綾が守り切れるとは瑠璃も考えていない。瑠璃という一人の人間が天秤で紗綾を量るのであれば、それもいいだろう。
だが、来栖家次期当主という椅子に座った者が、その秤に私情を積んではならない。姉である千草の背中が常にそれを語っていたのを瑠璃は覚えている。
「そんなことないわ。紗綾、貴女はとても頑張っているもの。私はすごく感謝しているわ」
嘘偽りなく。気持ちだけを伝えるならば、瑠璃は紗綾に感謝していた。
千草が病に倒れる前まで、銃など握ったこともないような紗綾が、己を守るために限界を超えるような努力を続けていることを知っている。
だが、現実は残酷である。どれほど努力しようとも、紗綾が一人で瑠璃を守れる場面など限られてくるだろう。現に、亜種能力者の襲撃では手も足も出せぬまま、棗の救援が車での時間を稼ぐのが精一杯であった。
「それに、御剣家に応援を呼んだのは私を守るためだけではないの。紗綾、貴女も守るためよ」
これから激化するであろう襲撃の手を想定すれば、自分の身はおろか、紗綾の身すら危うい。自分も紗綾も、ほんの少し前まではただの女の子だった。否、今もそう変わらないだろう。
「……ごめん、瑠璃。我儘ばかりで」
必要ない、そう言える強さが無いことを紗綾は自覚している。能力は弱く、経験もない。棗には亜種能力者を捕縛出来なかったことを指摘したが、自分が出来るかと問われれば否定しなければならない。
必要だから応援を頼んだ。瑠璃の判断に誤りはない。これ以上、彼女の判断に口を出せば、己の未熟さを晒してしまうことを紗綾も理解している。
それがどうしようもなく――歯痒かった。
「そんなことないわ。本音で私とお話してくれるの、紗綾だけだもの。貴女の我儘はとても嬉しいわ」
「瑠璃……」
車が一つ角を曲がり、そこで止まった。窓の外を見れば、見知った校舎が瑠璃の目に映る。白神学園に到着したのだ。
その風景に浮かぶように、一人のメイド服を着た人物が佇んていた。
御剣棗。御剣家から護衛として参加した、本家の三女。そして、先の襲撃から守ってくれた命の恩人。彼女のことは、まだ何も知らない瑠璃であったが、一つの確信だけはあった。
「きっと、あの子はとてもいい子よ。さあ、降りましょう?」
「……わかったわよ。瑠璃の言うことだもん。少しは聞いてあげるわ」
「ええ、ありがとう。さあ、今日も一日を楽しみましょう」
経島が扉を開き、瑠璃をエスコートする。お嬢様としての一日が、今日も始まる。
◇◇◇◇◇◇
「お待ちしておりました、瑠璃様」
恭しく、僕は一礼した。瑠璃と呼べ、なんて言われて鵜呑みにするほど僕は子供ではない。当然、礼を欠くことは許されない。
「待たせてごめんなさい。そういえば、棗は白神学園は初めてでしょう?」
……瑠璃様の言葉を僕は否定しない。中高一貫校なのだから、僕が卒業した中学校が白神学園であれば、同級生に僕の女装を見せることになる。まあ、別に任務と割り切っているので見られてどうのこうの、と文句を言うわけではないが、精神衛生的によろしいのは言うまでもない。
この時ばかりは、白神学園に入学しなかった過去の僕の英断を褒めたい。
「はい、そうですね。一応、学園の見取り図は頭に叩き込んでいますので、特に問題はありません」
「あら。折角なんだから、少し学園を見て回りましょう? お散歩には丁度いい天気だと思わないかしら」
にこりと笑う瑠璃様は、天真爛漫な少女のそれ。来栖家の次期当主という、日々の柵から変化を求めるのは、仕方のないことだろう。
ちらり、と瑠璃様の言葉を聞いて僕は空を見上げる。快晴。次に周囲を見渡す。男子生徒複数、女子生徒複数。視線の先、僕。男女ともに頬を赤らめて僕を見ている。……おい、僕は男だ。
「瑠璃様のご提案よ。有り難く受け入れなさいよ」
ぶすっとした表情は相も変わらず。一ノ瀬さんは棘を含みつつも、瑠璃様の提案に同意した。
……まあ、護衛に問題はないだろう。細心の注意を払えば、なんら支障はない。
「そうですね。SHRまで時間はありますので少し散歩しましょう」
「まあ、ありがとう。それじゃあ、紗綾に案内をお願いしようかしら?」
「え」
ああ、それはありがたい。来栖家の最終防衛ラインに立つ彼女であれば、この学園の中の情勢について詳しいだろう。場所だけでなく、他の生徒の様子についても訊いてみたいと、ちょうど思っていたのだ。
告白してしまえば、彼女はどうやら僕に苦手意識を持っているらしく、瑠璃様に場所をセッティングしてもらえるなら願ったり叶ったりであった。
「ありがとうございます、一ノ瀬さん。お願いしますね」
「う、うぐ。しょうがないわね。一度しか案内しないから、ちゃんと聞いておくように!」
こうして、今日の朝の予定は埋まり、僕の仕事は始まった。
忘れていたんだ。立て続けに起こった出来事によって、彼女がこの学園に進学していることを。
そして、僕がこの学園に進学すると知った彼女が、絶対にこの機会を逃さないことを想定しなければならなかったと、僕はこの日後悔することになる。