第1話:僕とメイド服
カチカチと振り子時計の小気味いい音が、古風な我が家の一室を支配していた。それ以外の音といえば、僕の情けない心臓の鼓動。春うららな一日、平穏に終わると思っていた一日は父から手渡された一着の仕事服によって崩壊した。
――冗談じゃない。
そう言えるならば、そう言いたい。
受け渡された仕事先の制服。あの厳格な父が、こんな場面でふざける人には思えない。ああ、この現実を受け入れるには僕の器は小さすぎた。
受け入れ難い現実を確認するように、僕は閉じていた瞼を恐る恐る、僅かに開き、手元に収まっている肌触りの良い服を視界に入れる。
メイド服だ。
ああ――思わず、僕はくそったれな現実を呪うように、大きく息を吐いた。
大抵、自分の悲劇を語る主人公はこう始めるだろう。
さて、どこから話そうか。
◇◇◇◇◇◇
その日は天気も良く、いつもの修行も気持ちの良いものであった。
――僕、御剣棗は御剣家の長男である。
御剣家――我が家のことを紹介するのは少々気恥しいが、しっかりと説明せねばなるまい。武闘派御三家と言えば、必ず名前が挙がる一族である。それゆえ、御剣に名を連ねる者達は様々方面で――主にお天道様に顔向けできないような方面で――活躍することが多い。幸いなことに、未成年である僕はそういった依頼を受けることは少ないが、姉の楓は生傷が絶えない。
「棗ぇ、面倒な日課は終わったかぁ?」
噂をすれば。聞き覚えのある声に、僕は「はいはい」と返事をする。どうせ、また切り傷やら擦過傷やら、武勇伝と一緒に作って来たのだろう。
御剣楓。御剣家の次女である。背丈はかなり高く、スタイルもいい。長い髪の毛を後ろにまとめ上げ、外で見せるにやりと笑う横顔は獰猛な獣のそれ。別に不細工、というわけではなく、御剣家の血がそう見せるのだ。
変な姉弟愛をこじらせていることを除けば、僕の自慢の姉である。普段の性格は血の気が多く、激情の持ち主。せっかくの美人が台無しである、と常々言っているのだが、「弟が私の分まで可愛ければいい」と意味不明な自論を持ち出す――いや、僕が可愛くても意味ないでしょ。
変な猫なで声で楓姉が僕を呼ぶのは、怪我の治療をしてほしいという合図である。頼まれるまでもなく、僕は救急箱を片手に彼女の方へ行った。
思った通り、和室の中央で傷口を僕に見せつけるように両足を開いている。はしたないから一刻も早く止めて頂きたい。
「今日も頼むぅ、お姉ちゃん怪我しちゃった♡」
「しちゃった、じゃないよ! 全くもう、お嫁さんに行けなくなっても知らないからね」
「お嫁に行けなくなったら、責任を持って棗が私を貰ってくれるんだろぉ?」
黙殺。素面で酔っぱらうってどんな芸当だ。そもそも、何の責任か。
タンクトップにホットパンツという、思春期の少年の眼球を殺す気満々な楓姉の服装に僕は溜息を吐く。お陰で怪我をした場所が目立って手当はしやすいが、僕にとっての利点はそれだけ。
「んふふ、お姉ちゃんの生足に触れて嬉しいだろー?」
「大根舐めているほうがマシ」
御剣家の女性取扱説明書。あるなら一ページに僕はこう記す。「真面に取り合わないこと」と。
慣れたもので、姉のあしらい方と治療の技術は無駄に上がる。いや、なんで上がったんだろうか。上げてしまったんだろうか……!
「棗ちゃーん! お父さんが呼んでいるわよー?」
楓姉の唾つければ治るような怪我の治療を粗方終わらせた頃に、母の御剣椛の声が和室まで響いて来た。
御剣椛。我が母ながら、一男三女を産んだとは思えない若々しい人である。身長も低く、並んで歩いていたときは兄妹と間違えられたほどだ。しかも、驚くことに我が家は婿取婚――つまる話、武闘派の血は父からではなく母から流れている――これが笑えない。母さんを除く、御剣家の総兵力で彼女に殴りかかっても、こちらが病院送りにされる自信はある。
話せば長くなるが、僕の一人称が僕であるのも、母さんの影響である。
「何? お仕事の話?」
そろそろかな、そう思って僕は聞き返した。
「うーん? お母さん、わからないや」
母さんへ仕事に関して話が通っていないのは珍しい。そういうこともあるのか。ちょっとだけ不思議には思ったものの、そっか、と返事をして僕は腰を上げた。
「待て、棗。耳掃除が終わっていない」
「ドライバーでも突っ込んどけば?」
◇◇◇◇◇◇
「仕事の話だ」
父、御剣源蔵の重い口が開かれた。父の人相はかなり厳つく、祖母は僕の顔が父に似ないか心配したそうな。かなり失礼な話ではないだろうか――いや、まあ、寝起きで父の顔が目の前にあれば、流石の僕も少し悲鳴を上げるが。
想像はついていたので、僕に驚きはない。形骸化しているとはいえ、一応の義務教育を終えた僕が、何もせずにただ飯を食えるとは思っていない。そろそろだとは思っていた。
「我が家がどこの援助を受けて成り立っているか、お前も知っているな」
「――来栖家ね」
来栖家と御剣家の繋がりは血よりも濃い。金銭面の援助もそうだが、御剣家は文字通り、来栖家の剣なのである。裏も表も、御剣家無くして来栖家無し。逆もまた真なり――要するに、持ちつ持たれつの関係、と言えば聞こえはいいだろうか。正直に言えば、御剣家は来栖家の私兵。来栖家にとって邪魔な相手は、善悪問わず処理してきた歴史がある。
そして、それは今でも続いている。
来栖家の依頼。それは、御剣家の人間にとって重大な意味を持つ。絶対に失敗できないという前置き。恥ずかしながら、僕は少し緊張した。
「渋った言い方だね、父さん。何をやればいいの?」
まあ、悪い奴をやっつける、そんな話だろうと高を括っていた僕に、父は意外な言葉を被せてきた。
「来栖家の次女、瑠璃様が今年から高校に進学される」
……んー? 話が見えない。瑠璃様、と言われても、僕は彼女の容姿を覚えていない。会ったのも、もう十年以上も前だ。来栖家と御剣家が血よりも濃い間柄と言えど、御剣家の、それも一人前でもない半端者が、そうそう来栖家のご令嬢の尊顔を拝することなど、まず無い。
というか、瑠璃様と同い年ということ自体、初耳である。へえ、目出度い話だなあ、と能天気に僕はそんなことを考えていた。
「話は変わるが、棗。高校に行きたくはないか?」
本当に変わりすぎだ。もしかして、父さんは会話のキャッチボールが下手なのだろうか?
よく観察してみれば、そわそわと父さんの動きが落ち着かない。エロ本がバレた中学生じゃあるまいし、そもそも父さんが僕に隠し事をするというのが、あまり想像できない。こと仕事に限っては、公私混同はしない人だ。
疑うわけではないが、ここは僕が下がって父さんの様子を見た方が良さそうである。
「……別に、どっちでもいいよ。『行け』という命令なら喜んで受けるし、『テストで満点を取れ』というのなら取ってみせるよ。来栖瑠璃様の学業にあたって『一切の障害を排除しろ』というのなら、そうするさ。御剣家の長男としてね」
御剣家に名を連ねるとは、そういうことである。たったそれだけのため、御剣家は来栖家から《異能》を使うことが許されている。
「む、む」
――しかし、僕の予想を再び裏切って、父さんは何とも難しそうな顔をする。
やがて、観念したのか、父さんは後ろに隠していたらしい、一着の服を僕の目の前に出した。
――メイド服だ。
……んんー?
◇◇◇◇◇◇
嫌な予感ほど的中する。
まさか、と思った僕の前に、扉越しで盗み聞きしていた母さんが「源ちゃん説明下手ー!」と飛び込んできたのがついさっき。
「改めて説明するわね! 瑠璃様が入学祝に御剣家に要望したのが、『同い年のメイドさん』なのよ!」
背景にでかでかと効果音がつきそうな、本当にしょうもない台詞を我が母上は大声で宣う。
「それと、僕の目の前にメイド服が置かれている理由が結びつかないんだけど」
当然である。男のメイド、うーむ、この文字のインパクト。
そう言った僕に、母は「ちっちっち」と指を振る。うわ、腹立つ。
「違うわよ、棗ちゃん――『男の娘のメイドさん』よ!」
「父さん、父さん――家族会議をしよう」
地球人と話さなければ。宇宙の言語は僕には早すぎる……!
しかし、父さんは悲しい表情で首を横に振る。神よ、この試練は己の力で乗り越えろと仰るのか……!
「待って、母さん。本当に待って。分家の人にいないの? 同い年の女の子」
そう、我が家は御剣家の本家である。母の代に男はおらず、長女の母が御剣家の現当主なのだ。悪い人ではないのだが、この人に当主の座を任せても良いのだろか――常々疑問である。
「いるにはいるんだけれどねぇ――」
「じゃあ!」
「来栖家の要望で『本家から選出すること』とお達しが来ちゃってぇ」
神様の馬鹿野郎。神に唾を吐けど、来栖家に足を向けるな――ならば盛大に唾を吐こう。
「なら楓姉でいいじゃないか。同い年の女の子はいませんでした、って!」
「来栖家の意思に歯向かうのはご法度なの、わかるでしょ? 棗ちゃん」
むむむむむ……!
「でも、僕、男! それこそ来栖家の意思に歯向かうことになるんじゃないの!?」
この最後の壁が破られたら終了である。だって、男がメイド服だよ? 需要ないでしょ? 幾ら僕が女顔だからってね! 駄目なもんは駄目だって!
「うふふ、瑠璃様の要望は『同い年のメイドさん』――ほら、ここに性別については言及されていないでしょう?」
……ちょっと、この壁脆すぎない?