夏波と春陽と九尾の狐
六百年余りの時が過ぎた。復活の時は近い。そして再び世に混沌を……。
プロローグ
安西理奈は塾の帰り、駅前のマクドナルドで、友人の裕子と話に夢中だった。
駅前といっても、商店街は直線距離でわずか三百メートルほどしかなく、マクドナルドのほかに飲食店は二軒の居酒屋とラーメン屋が一軒あるだけだった。マクドナルドの店内は遅い時間にもかかわらず、サラリーマンや学生たちの話し声でざわめいている。客席がある二階の窓から見える駅前ロータリーは、終バスも出てしまい、停留所には客待ちのタクシーが並んでいるだけだった。
高校三年生の理奈は来年、大学受験を控えているが、彼氏がいないことに焦っていた。高校最後の夏、受験勉強だけで終わりたくない。素敵な彼と楽しい夏休みを過ごしたいのだ。裕子は去年のクリスマスに告白されて、付き合っている彼がいた。その彼とのデート中に、理奈の写真を見せたことがきっかけで、友達を紹介する話になった。
理奈は少しクセがあるが、魅力的な顔をしていた。中学までバレーを習っていたので、スタイルもよく、たまに街でナンパされることもあるが、声をかけてくる男子はパッとしなかった。
「本当にイケメン? 不細工なのいやよ。太った人とか」
「理奈はイケメン好きだからね。大丈夫だって。何で彼女がいないのか、周りから不思議がられてるくらいなんだから。今度、彼からラインで写真送ってもらうよ」
「本当? うれしい」
夜の十時を過ぎたところで、理奈のスマートフォンが鳴りだし、二人の話は中断した。
「やばい、ママからだ」
理奈は裕子に向かい舌を出して、おどけながら電話に出た。
「もしもし」
「あなた何時だと思っているの。パパ怒っているわよ。早く帰ってきなさい」
毎日のことで聞き飽きた母の小言に、理奈はうんざりだった。今まで盛り上がっていた楽しいひと時が、一気に下がった気がする。
「わかっているよ。いま裕子に相談があって、話をしていたの。すぐに帰るわよ」
理奈は吐き捨てるように応え、スマートフォンを切った。
「本当うるさいんだから! 裕子、ごめんね」
理奈は両手で拝むように謝り、慌てて店を出た。
十時十六分。家に帰る道は、国道とその一本裏の工業団地を通って帰る近道があった。国道は車の往来も頻繁で、街灯も明るく、安心だが二十分以上かかる。しかし近道を通
れば十分足らずで家に帰れる。工業団地内には民家がなく、プレハブ建ての工場だけが立ち並び、殺伐とした風景が続く。夜になるとまったくと言っていいほど人通りがない。国道と比べ、昼間でも薄暗く、そのため理奈は普段通らない。最近、近県で若い女性が襲われる事件が多発している。そのことが一瞬、頭をよぎった。この道で事件があったことは過去に無かったが、国道沿いを通って帰りたかった。しかし父親の怒っている顔が目に浮かび、近道を選んだ。
――だいたいうちの親はうるさ過ぎるのよ。私の事、全然信用してないんだから……。塾が九時までなんだから、その後なんだかんだですぐ一時間位経っちゃうっての。明日は終業式だし、成績も悪くない。受験勉強だってうまく進んでる。マジうるさ過ぎ。
理奈はぶつぶつ言いながら近道に入った。
いくつかの工場はまだ作業中なのか、窓から明かりが漏れている。その明かりに寄り付く蛾の大群。理奈は気持ち悪そうに窓の蛾を見た。
この時間、団地内の交差点は点滅信号になっている。赤と黄色の光が規則正しく、交互に点滅している。人通りがないせいか、その点滅する光が、気味悪く見えてきた。
交差点を通り過ぎたところで、後ろから何か嫌な気配が感じられた。
――何だろう……。
――鼓動が早くなってきた。
――走ろうか……。
――でも気のせいだ。
暗がりで、誰もが感じたことのある気配。人類が遠い祖先から受け継いだ、闇に対する恐怖の記憶。振り返って見ても、今歩いてきた道路と作業中の工場の明かり、点滅信号の光が見えるだけ。何もいない……。自分の想像力が恐怖を増大しているだけだ。そう頭で考えても強迫観念なのか、後ろに何かがいる気がしてならない。
人間ではない気配……。
後ろを振り返りたくなるが、振り返ってはいけない気がした。七月も中旬を過ぎ、暑さも増しているのに、下着は冷たい汗で濡れ、肌が泡立ってきた。
――そうだ、スマホ。
理奈は歩きながらスマートフォンを取り出した。暗がりの中で、スマートフォンの明かりは理奈をほっとさせた。裕子に電話をかけ、先ほどの話の続きをしながら、家に帰ろうと思ったのだ。その間も背後から迫りくる恐怖は、増すばかりだった。電話さえすれば、その恐怖から逃れられる。すがるような思いだった。しかし何回コールしても裕子は出ない。苛々しながら三回ほどかけ直した。
――お願い、裕子出て……。
裕子は移動中なのか、結局出なかった。
理奈はあきらめて、家に電話しながら帰ることにした。着信履歴から家の番号を選択し、通話ボタンを押した時、背後で何かが動く気配がした。
「何?」
理奈はスマートフォンから目を離して、後ろを振り返ってしまった。
何もいない。
遠くに国道を走る車のヘッドライトの光が見える。
――よかった。やっぱり気のせいだった。
胸をなでおろしたが、心臓はドキドキしたままだ。理奈は前を向いた。
――えっ……。
辺りは闇に包まれていた。工場の窓の明かりも見えない。理奈は目を疑った。方向感覚がなくなる。理奈は立ち止まった。その暗闇に明確な悪意が感じ取られた。足が萎え、その場にしゃがみこんでしまいそうになる。
――怖い……。
「もしもし」
先ほどはうんざりしながら聞いていた母の声。
――ママ、助けて。声にならない。
闇の中で黒い物体が目の前に現れ、理奈を飲み込んでいった。
理奈の手からスマートフォンが落ちた。
「もしもし、理奈? 理奈? どうしたの? 理奈!」
理奈はかすかな悲鳴を上げた。
第一章
「おはよう、お父さん」
「おはよう。早いな、春陽。今日で一学期、終わりだろ?」
「そうだよ。夏波は?」
「お前と違って夏波は寝坊助だし、まだ六時前だぞ」
「朝練があるの」
短パンにTシャツ姿の春陽は、テーブルにある食パンをトースターに入れて、冷蔵庫へ牛乳を取りに行った。グラスになみなみと注いで、一気に飲み干した。空になったグラスにもう一度牛乳を注ぎながら、春陽はテーブルの席に着いた。
父親はリビングのソファに座り、テレビを見ながら新聞を読んでいる。器用なことをしていると思いながら父親に尋ねた。
「お父さん、昨日の夜、何かあった? パトカーのサイレン、すごくうるさかったけど」
「ああ、今ニュースでやっていた。隣町で女子高生が襲われて意識不明だってさ。犯人はまだ捕まってないみたいだ。ここ最近、若い女性が襲われる事件が多いからな。お前も年頃だ、気をつけろよ」
「まだ中三だって。それにそんな時間、外にいないし」
春陽は笑いながら肩をすくめ、父親の心配をやんわりとかわした。
「目玉焼きいくつ?」母親が対面キッチンの中から顔をのぞかせ聞いた。
「二個」
「春陽、夏波を起こしてきて。一回や二回じゃ起きないんだから」
「はいはい」
春陽は妹の夏波を起こしに、二階へ上がった。
「夏波、起きなさい。夏波!」
二階で春陽の声がする。いつもの朝の風景。
父親と母親は、昨日の事件について話していた。
「まあ遅い時間に外にいることはないから大丈夫だろう。ましてまだ子供だし」
「春陽はもう年頃だし、この間、お友達と原宿に買い物に行った時なんか、何人もの男の子に声かけられたって言ってたわ。夏波も初めてラブレター貰ったって喜んでたし。子供だからって、そんなのわからないわよ。他にも似たような事件、多いじゃない。明日から夏休みだし、あなたから気を付けるよう、子供たちに話してよ」
「はいはい」春陽がしたように父親も返事をした。
姉の春陽はバスケットボール部のキャプテンで学校の成績も優秀。まだクラスメートには秘密だが、推薦で大学の付属高校に進学が決まっている。背が高く、淡い栗色の肩にかかる長い髪がよく似合っていた。中学二年生の時、モデルにスカウトされてこともあったが、父親の大反対で断ったこともある。これだけ揃っていると友達から敬遠されがちだが、だれに対しても分け隔てがない。面倒見がよく、同学年からも下級生からも慕われている、あこがれの存在。夏波も姉みたいになりたいと幼い頃から思っていた。
妹の夏波も学年で一、二を争うほど男子から人気があるが、姉に対するコンプレックスか何事にも消極的だった。何をするにも姉と比較され、そのため失敗を恐れてしまい、同級生からよくからかわれている。しかし、本来持っている性格の明るさは失われていなかった。黒めがちな大きな瞳、姉とそっくりの淡い栗色の髪でまだ幼さが残り、その分、姉と比べ、可愛らしさが前面に出ている。
十五分くらいたって、二人が二階から降りてきた。
「おはよう」
寝ぼけ眼で、夏波はテーブルの席に着いた。パジャマの裾は片方出ており、ズボンが膝の上までまくれている。
「おはよう、夏波」父と母が同時に応えた。
「夏波、朝はみんな忙しいんだから自分で起きるようにしなさい。中学生になったんだから。お姉ちゃんは何でも自分でやるわよ。」
「はいはい。わかりました」
「はいは一回。夏波、お母さんの言うとおりだぞ。それから、昨日隣町で女子校生が襲われる事件が起こっている。昨日のパトカーのサイレンはそれだと思う。犯人はまだ捕まっていない。約束だ。二人とも夜は出歩かない。昼間でも人気のない所には行かない。何かあったら大声で叫ぶ。わかりましたか?」
「自分だって『はいはい』って言うじゃない。それに小学生じゃないんだから、わかってるわよ。ねえ、お姉ちゃん」
「そうそう。それより今日の成績表の方が気になるわよねぇ、夏波」
夏波が中学生になって、初めての成績表が渡される。つい先日、夏波の期末テストの答案用紙を部屋で覗き見していた春陽はからかうように言ったが、夏波は聞こえないふりをして、母親に朝ごはんの催促をした。
「お母さん、私も目玉焼き」
「また夏波の聞こえないふりだ。じゃあ朝練あるから、私先に行くね。行ってきます」
春陽は食パンをくわえたままで、学校に行った。
夏波は姉にからかわれて、ふくれっ面で食パンを食べていた。
「夏波、ふくれてないで、早く食べてあなたも行きなさい。朝練あるんじゃないの?」
「大丈夫。うちの部は始業式と終業式の日、朝練が無いの」
夏波は朝食が終わると、すぐ二階の自分の部屋へ行った。
姉が中学生になる時、二人にそれぞれ個室をあてがわれた。自分の部屋ができ、うれしい反面、姉と離れて寝るのはちょっぴり寂しかったが、今では一人で寝るのにも慣れた。
今日は大親友、ゆいの誕生日だ。素敵なプレゼントがある。机の引出しをあけるとキラキラ光る、正六面体の小さな石があった。まだ小学生のころ、地元の神社で拾った二つのうちの一つだ。姉にもらったきれいな袋に石と手紙を入れれば準備万端。ゆいは喜んでくれるだろうか……。
ゆいは小学三年生の時から同じクラスだった。第一印象はカッコいいだった。夏波が男子にからかわれていた時、さっそうと現れて、その男の子の前に立ちはだかり、助けてくれたことがあった。それがゆいとの初めての出会いだった。姉の様に何でもでき、クラスでも人気者でみんなから慕われていた。消極的な夏波とは正反対であったが、馬が合うのか、ずうっと何をやるのも一緒だった。中学に入って部活も一緒の剣道部に入部した。夏波自身は剣道が好きなわけではなく、ゆいが入ると言ったので一緒に入っただけだった。それでも剣道の腕は同学年で一、二をゆいと争うほどになっていた。
「行ってきます」
春陽に遅れること一時間、夏波は家を出た。家から学校に行くには、家の前から住宅地を抜け、幹線道路を渡らなければならい。いつもその交差点でゆいと待ち合わせをして、一緒に登校するのだった。
「おはよ、夏波」
「おはよ、ゆい」
明日から夏休み。二人は夏休みにどこへ遊びに行くかの話で、盛り上がりながら学校に行った。毎週月曜日は部活が休みなのでプールへ行くか、映画を観に行くか、遊園地で遊ぶか、ゲームセンターでカードゲームをするか、いくつもの選択肢があった。学校に着くまで話は続き、結局決められないままだった。
教室に入ると、クラスでは昨日の事件の噂で持ちきりだった。
「ねえ、聞いた? 昨日の事件の話」
「うん。隣町で女子校生が襲われたってニュースでやってた」
「そういえば似たような事件が全国であったじゃん。何か関係ありそうじゃない?」
「アクセサリー屋さんで買った物が一緒なんだって」
「アクセサリー屋?」
「そうそう、何年か前に、そのアクセサリー屋さんに強盗が入って、店員が殺されちゃったんだって」
「だって全国だよ?」
「ネット通販で買ったんでしょ」
「犯人はまだ捕まっていないんだって」
「その店員の呪いじゃないかってさ」
噂話が飛び交う中、先生が教室に入ってきた。
「はい、静かに。これから体育館で終業式です。みなさん、廊下に並んでください」
噂話は終わり、クラス全員が廊下に並び、静々と体育館に向かった。体育館では先生たちが厳かな表情で生徒たちがだらけてないか、見つめていた。やがて校長先生が壇上に上がり、終業式のあいさつを始めた。五分を過ぎたところで、あちらこちらからひそひそ話が始まり、大あくびをする者も出てきた。校長先生はその事には気にせず話し続け、最後にこう締めくくった。
「みなさんも知っていると思いますが、昨日、高校生の女子が何者かに襲われる事件がありました。最近、若い女性を襲う事件が頻繁に起きています。明日から皆さん待望の夏休みです。夜遊びは当然厳禁ですが、塾の帰りなどは、明るい人通りの多い道を通って帰ること。そして帰る前には家にこれから帰る旨を電話すること。また、防犯ベルなどを持ち歩くようにして気を付けてください」
長い話が終わり、苦痛から解放された生徒たちは、期待と不安が入り混じった表情で教室へと向かった。
教室に帰るとさっそく一人ずつ前に呼ばれ、成績表が手渡された。友達と見せ合い喜ぶ者、苦い顔をする者、自分の成績を嘆く者、一人こっそり微笑む者、落ち込む者、それぞれだった。
夏波は自分の成績表を見てがっくりとしていた。ゆいが話しかける。
「夏波、どうだった? わたしはまあまあかな」
「ゆい~、どうしよう。怒られるわ、これじゃあ……。最悪」
夏波の成績表には数学、理科、体育、美術は五段階評価の五だがあとは二と一だった。
「一緒に言い訳考えてあげる。夏波、帰ろう」
二人は仲良く学校を後にし、帰り道の途中で神社に寄った。
地元の氏神様の神社だが、稲荷神社も合祀されていた。お祭りの時は模擬店がたくさん出て、人も大勢集まり活気があるが、普段はひっそりとしている。この神社は三年前、ご神体の石が拝殿から盗まれる事件があったが、犯人は未だ不明のままだった。大きな石の鳥居をくぐると、背の高い木が立ち並び、ちょっとした森のようだった。二人は日差しを遮る木々の間を通る参道を歩き、境内の石段に並んで座った。
本格的な夏の到来を告げる、蝉の鳴き声が神社に響いていた。
「夏波は何でもできるのに、緊張しすぎなんだよ。失敗することばっかり考えてるから。テストの時もそうだったでしょう。間違えるのが嫌で、同じ問題を何度も見直して、時間なくなっちゃったんじゃない?」
「でもさぁ」
「でもじゃないの! 間違えは誰にだってあるし、初めからうまくできる人なんていないよ。間違えるのを怖がらないで挑戦するの。私うれしかったんだ。夏波が一緒に剣道部入ってくれるって言ってくれたこと」
ゆいは少し言い過ぎたと思い、話題を変えた。
「え、そうなの? だって中学に行ったら、同じ部に入ろうねって約束したじゃん」
夏波はびっくりした顔でゆいを見た。
「うん。でも私は小学校からやってるけど、夏波はやってなかったじゃん。それにお姉ちゃんの春陽先輩はバスケ部だし、夏波もバスケ部入るのかなって」
「実はそれ、考えたこともあるんだ。お姉ちゃんにも誘われたし。私、いつもお姉ちゃんに頼ってたんだ。だから中学入ったら頼るのやめようと思って」
「えっ? そんなことないでしょう。春陽先輩に頼ったところ見たことない。気にしすぎだよ。」
夏波はゆいの話を聞き流し、話しはじめた。
「小さいとき、近所にガキ大将がいたの。サッカー部の中野先輩」
「へぇ、ガキ大将だったんだ」
「うん。小さいとき、お姉ちゃんが大事にしていた、ガラス玉みたいなきれいな石を、こっそり持ち出して遊んでたの。そしたら中野先輩が来て、その石を寄こせって言われて、私怖くて渡しちゃったの。その後、お姉ちゃんが帰ってきて、問い詰められてさあ」
「うん、それでどうなったの?」
「怒られて、取り返してきなさいって」
「中野先輩の所へ行ったんだ?」
「怖くて行けなかった。行ったふりして、この神社で泣いてたの。帰るに帰れないし、辺りは暗くなってくるしさ。そしたらお姉ちゃんが、鼻血流しながら迎えに来てくれたの」
「鼻血って?」
「中野先輩と取っ組み合いのけんかになったらしいの」
「女の子殴るなんて最低! 中野先輩、見損なったわ」
「まだ小学生だったから、加減がわからなかったんじゃないかな。今はそんなことないし。それでね、私、泣きながらごめんなさいって、お姉ちゃんに謝ったの。そしたらもう取り返したから大丈夫。一緒に帰ろって、抱きしめてくれた。お姉ちゃん、いつも私のこと守ってくれた。それからいつもお姉ちゃんに甘えてた気がする。だから中学に入ったらお姉ちゃんに頼らないって決めたの」
「そっか。それでバスケ部には入らなかったんだ。えらい、えらい」
ゆいは夏波の頭をなでた。
「でも本当はすぐ頼っちゃうんだけどね。それにゆいがいてくれるから。ゆいはいつも私がくじけそうになると手を取って一緒に前に進んでくれた。ゆいがいてくれたから私は頑張れた。だから中学に行ったら同じ部に入ろうって決めてたの」
「えっ、それって私、春陽先輩の代わり?」ゆいはおどけて夏波に言った。
「違うって」夏波は慌てて否定した。
「わかってるわよ。冗談」
「もう」
夏波はカバンから、今朝用意したプレゼントを取り出した。そしてゆいに両手でプレゼントの入っている紙袋を手渡した。
「ゆい、誕生日おめでとう。これプレゼント。はい」
「わあ、覚えてくれてたんだ。うれしい。ありがとう」
ゆいもまた両手でプレゼントを受け取った。
「親友の誕生日くらい覚えているわよ」
「開けていい?」
「うん。でも中の手紙は帰ってから読んでね、はずかしいから」
「わあ、きれいな石。どうしたのこれ?」
「小学校のとき、この神社で拾ったの。あまりにきれいだから、神様が私にくれたのかなって。二つあるからゆいにプレゼントしたくて」
「ありがとう。うれしい」
神社に面している通りから、二人の様子を見つめている一人の男がいた。黒いサングラスをかけ、夏だというのに黒のスーツに身を包んだ男だ。痩せぎすで背が高い。髪は長く、顔は青白い。気温は三十度を超えているのに、汗ひとつかいていない。
ゆいが袋から取り出した石を見て、男は薄笑いを浮かべた。そして神社に向かってゆらりと歩き出した。途中、自転車に乗った主婦がすれ違ったが、何やら不気味な者を見たような表情で、振り返りながら通り過ぎて行った。男は鳥居をくぐり、そこから足早に二人に近づいて行った。
そのとき……。男の後ろで声が聞こえた。
「夏波! 何やってるの? ゆいちゃんも一緒?」
春陽だった。
「お姉ちゃん」
「春陽先輩」
二人は同時に春陽を見て言った。
黒ずくめの男は舌打ちをし、二人に気づかれないように、ゆいの手にある石を見た。そして二人の側を通り過ぎた。神社に参拝に来たように装い、参道を通って、また神社の外へと出て行った。
春陽は何気なくその男を目で追っていたが、夏波もつられて、姉の視線を追っていた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「うん? 何でもない」
春陽は首を慌てて横に振り、二人に話しかけた
「何の話をしてたの?」
ゆいが春陽に今までのことを話そうとすると、夏波は春陽に見えないように、ゆいに向かってウィンクした。さっきの話は内緒の意味だ。ゆいはうなずいて春陽に違う話をした。
「剣道のことを話してたんです。ね、夏波」
夏波はゆいのとっさの振りにうまく対応した。
「そう。どうしても試合の後半、腕が疲れてきて、竹刀が上手く使えなくなっちゃうんだよね。私」
「そんなの腕の力、鍛えるしかないわよ。腕立てしたり、重い竹刀使って素振りの練習するとか。ね、ゆいちゃん」
「そうなんですよね。ただ素振り用の木刀とか結構高いんですよ」
「成績良かったらお母さんにおねだりしようと思ってたんだけど、お姉ちゃん、ダメだわこれじゃあ」
「ちょっとお姉ちゃんに見せてごらん」
春陽は夏波の成績表を見た。
「………」
「ダメだよねえ」
夏波は絶望的な顔を姉に向けた。
「あんた文系全然ダメじゃん。まあ四科目、五なんだから大丈夫じゃない? でも女の子なのにめずらしいわね」
春陽は夏波の成績表を見て、意外に思った。夏波は幼い頃、本ばかり読んでいた印象が強く、国語や社会のほうが得意だと思っていたからだ。
「春陽先輩もそう思います? 夏波、数字とか物凄く強いのに、国語や社会はまるっきしダメなんです」
「この夏休み、苦手な科目、お姉ちゃん見てあげるよ」
夏波は嫌な顔をした。
「何よ、その顔」
春陽はすかさず突っ込んだが、ゆいは羨ましそうに言った。
「いいなぁ、夏波。私も見てもらいたいなぁ」
「ゆいちゃんも一緒に勉強する? そうすれば夏波も文句ないでしょ」
「ゆいも一緒なら……」
その後は三人はでたわいもない話で盛り上がり、それぞれ家に帰っていた。その間も男は、神社に面した道路の電信柱にもたれかかりながら、三人から目を離さず見つめていた。男の前を通り過ぎる人々は、いぶかしげに男を見ていたが、当の本人は気にしていないようだった。
翌日、朝練のため春陽と家を出た夏波は、姉と別れて剣道場へと向かった。
「おはよう、夏波」
「おはよう」
先輩たちはまだ来ていない。そしてゆいも。
ゆいが夏波よりも遅れることは、小学校のときから今までない。おかしい。何かあったら必ず連絡をくれるのがゆいだった。夏波はゆいに電話をしてみた。コールはするが出ない。どうしたんだろう。
夏波は不安になりながら、道場の床磨きをほかの一年生と一緒に行った。そのうち二年生、三年生の先輩たちが道場に入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう」
「全員集合!」
三年生の男子主将が掛け声をかけた。いつもなら「八時だよ! が抜けてる」など同学年の部員から茶化されるのだが、主将は真面目な顔をしている。他の三年生も同じだ。三年生の前に一年、二年生の順に並び、整列した。下級生はまたしごきかと、ビクビクしていた。すぐに部長の先生がやってきた。先生もまた厳しい表情をしていた。そして三年生も二年生の横に整列した。
「今朝方、一年生部員の中村ゆいが何者かに襲われて、意識不明になった。家の前で素振りをしている最中だったらしい。犯人はまだわからない。夏休みの間、朝の練習は中止する。校内を移動するときはトイレも含め、二人以上で行動すること。昨日校長先生がおっしゃったように、外出中はできるだけ一人は避けること」
先生の話を聞きながら、夏波は立っていられないほどの衝撃を受けていた。
ゆいが……。なぜ……。誰が……。
思わず先生に問い詰めるように聞いた。
「先生、何でですか? どうしてゆいがそんな目に遭わなくちゃならないんですか!」
普段おとなしく、臆病な夏波の食いかかるような姿に、先生や先輩たち、同級生もびっくりした。
「夏波、先生だってわからない。今、警察が調査中だ。外傷はなく、意識が戻らないらしい。おとといの事件と関連があるのかもしれないが、それは不明だ。とにかく今日は家の人が迎えに来るまで家に帰らないこと。両親が共働きの場合も先生方が連絡を取っている。すぐに迎えに来られない場合は、先生と一緒にいること。一年生は各部とも一年一組の教室、二年生は二年三組、三年生は三年一組の教室に待機。先生方が教室で待っている。わかったか」
夏波が所属する剣道部のほか、朝練がある部は野球部、サッカー部、そして春陽の所属するバスケットボール部だった。部員たちは着替えてそれぞれの学年の教室に向かった。
体育館からバスケットボール部が出てきた。
「夏波!」
「お姉ちゃん!」
夏波は抱き着くように春陽にすがった。姉の顔を見た途端、涙があふれてきた。
「お姉ちゃん……。ゆいが、ゆいが」
「びっくりしたわ。ゆいちゃんかわいそう。昨日まであんなに元気だったのに。何なんだろうね。許せない」
夏波は春陽の胸に顔をうずめて泣きじゃくった。春陽のユニフォームは夏波の涙で見る見る濡れていった。
「春陽、早く行かないと先生に怒られるわ」
同じバスケット部の友達に促されて、春陽はうなずいた。
「うん。今行く」
「夏波、お姉ちゃん行くね。帰り道に話そう」
「うん」
夏波はまだ涙で濡れている顔を姉の胸から離し、うなずいた。
指定された教室に行き、母親が迎えに来るのを待っていた。同じクラスのバスケ部の女子が話しかけてきたが、うわの空で聞いていた。
やがて親達がそれぞれ迎えに教室に入ってきた。
「夏波」
「お母さん、ゆいが……」
「ええ、先生から聞いたわ。何であんないい子が……。とにかく、春陽を迎えに行って帰りましょう」
三人は並んで家へと向かった。帰り道、ずっと泣き続けている夏波の肩を抱きながら、春陽は何か考えている顔をしていた。
その後ろを三人に気付かれないように、つけている影があった。黒づくめの男である。男は三人と距離を置きながら、他の通行人に怪しまれないよう家の前までつけていた。
三人が家の中に入るのを見届け、口元に薄笑いを浮かべながら立ち去って行った。
うちに帰った春陽と夏波は、それぞれ自分の部屋で着替えて、一階のリビングに座った。夏波はまだ涙ぐんでいる。二人は母親が入れてくれたアイスコーヒーを飲みながら、話し始めた。
「お姉ちゃん、ゆいが襲われたの、私がプレゼントした石のせいかもしれない。昨日、クラスの子が言ってたの。最近の事件で襲われた人は、皆同じアクセサリーをしていたって。だからゆいも……」
「あんた何言ってるの? その話が本当だったとしてもアクセサリーでしょ? 石じゃないでしょ」
「でも……」
「とにかくその石、見せてみなさいよ」
二人は二階の夏波の部屋に行った。机の引き出しからキラキラと光る石を取り出し、春陽に見せた。石は淡いグリーンの正六面体で、消しゴムより小さく、手のひらに乗る大きさだった。
「あら、本当にきれいね。私の持ってる石と同じで宝石みたい」
「でしょ。だからゆいも……」
夏波はまた泣き出してしまった。春陽はため息交じりにつぶやいた。
「この事件、何かおかしい。あいつに連絡してみようかな」
「お姉ちゃん、今なんて言ったの? あいつって?」
春陽は慌てて首を横に振り、石を捨てるように夏波を説得したが、頑として捨てるのを拒んだ。
「何で? もし夏波の言っていることが本当だとしたら、今度はあんたが狙われるのよ。早く捨てなさい」
「でもゆいは私のせいで意識不明になったんだよ。私だけ助かりたくない!」
「バカ! そんなこと言ったって、ゆいちゃんは喜ばないよ!」
「二人ともいい加減にしなさい」
二人の言い争いを見かねた母が間に入り、終了した。
事件当日の朝、ゆいは朝練の前に素振り用の木刀を持って家の前の道路に出た。夏真っ盛りだが、早朝はまだ涼しい。何としても秋の新人戦個人で地区大会優勝したかった。そのためにも部活の練習だけではなく、自分自身でも練習しなければと思っていた。親友の夏波は中学に入ってから剣道を始めたが、最近は、三本のうち一本は必ず取られ、危うくすると二本目も取られてしまうくらい成長している。同学年や先輩たちまで夏波の成長ぶりは、目を見張っていたが、『春陽の妹』だから当たり前で済ましていた。確かに夏波は運動神経が良く、勘所もいいと先生もほめている。しかしゆいは知っていた。夏波の手のひらにはいくつも豆がつぶれて硬くなっているのを。彼女も毎日素振りを欠かしていない。私もそれ以上に頑張らねばと思い、朝練前に素振り百本を自分の日課にすることを決めたのだった。そしてその初日。
ゆいは一心不乱に木刀を振っていた。道路に出たときはまだ夜の明け始めで薄暗かったが、気が付くと辺りは明るくなっていた。あと十本。ゆいの顔から汗がしたたり落ちる。そのとき、ゆいの背後に黒い霧が現れた。
ゆいが木刀を上段に構えたとき、闇に包まれた。
――何?
ゆいは目をこすった。ありえない状況に対応できなかった。
――夢? 私寝ぼけてる? まさか……
闇に怯えながらも、木刀を青眼に構え直した。しかし自分が立っているのかどうか、平衡感覚がない。背中を冷たい汗が伝った。目の前に闇より暗い影が現れた。ゆいはその影に飲み込まれていった。
母親が気づいたとき、ゆいは道路で倒れていた。すぐに救急車が駆けつけ、病院に搬送されたが、ゆいの意識は戻らないままだった。
春陽と夏波は母親同行でゆいが入院している病院に、見舞いに訪れた。母親はナースセンターで病室の番号を聞いた。四人部屋だった。
夏波は両手を胸の前で組みながら病室に入った。ゆいの母親が三人を迎えてくれた。
病室のベッドでゆいは静かに寝ている。外傷は無く、脳にも異常がないのに意識だけが戻らないとゆいの母親が教えてくれた。姉に促されて帰るまで、夏波はゆいの手を握りしめていた。
その夜、春陽と夏波は二人とも、まんじりともしない夜を過ごした。春陽は妹のことが気になり、夜中にちょくちょく夏波の部屋を見に行った。夏波は姉に心配をかけまいと、春陽が部屋を覗くと寝たふりをしていた。
ゆいのことが気になり、眠いのに気が張り詰めて、眠れない夜を過ごした。
翌朝、目覚ましが五時半になりだし、春陽はベッドから出て、朝練の準備をし始めた。ほとんど寝ていないので眠かったが、カーテンを開けると朝日が差し込み、気持ちがよかった。夏波の話が本当だったとしたら、昨日は何もなかったけれど、必ず何かが起こる。春陽は眠い目をこすりながら、夏波の部屋に行き、ドアを開けてそっと中に入った。夏波は朝方まで起きていたが、今は寝息を立てている。自分の持っている石を、夏波の石とすり換え、持つことにした。少なくとも、これで夏波が襲われることは無い。あとは『あいつ』に連絡すれば何とかしてくれる。そう思いながら一階に降り、自分で食パンを焼いて朝食を食べ、朝練へ出かけた。学校まではおよそ十分の距離、その間に春陽は『あいつ』に連絡を取った。
学校まであと二、三分のところで、春陽の目の前に黒服の男が現れた。そしてそばに寄って話しかけてきた。顔は青白く、目がおどおどしている。
「おはよう、お嬢さん。私は怪しい者ではありません。少しの間、お話を聞いてくださいませんか」
初めて会ったのに、いきなり怪しくないなんていうこと自体が怪しい。
あっ、この前神社にいた男……。事件の犯人はこいつかもしれない。
「私、朝練に遅れてしまうので失礼します」
「ああ待ってください。あなたの妹さんが持っている石の件で……」
みなまで聞かずに、春陽は男の横をすり抜け、駆け出した。やっぱりそうだ。この男かもしれない。春陽は全力で学校まで走った。百メートルを十二秒台で走る春陽は、そこらの大人には負けない自信があった。校門をくぐり、校内に入ってしまえば、先生たちやほかの生徒たちもいる。校門が見えてきた。もう少し。
あと三十メートル。
「お嬢さん待ってください」
耳元で声がした。驚き振り返ると、男の姿は見えない。前を見ると男がいる。
どうして……。
男は立ちふさがり、春陽を止めようとしたが、バスケットボールで鍛えている華麗なフットワークで男をかわした。男は春陽のフットワークに惑わされ、取り逃がした。
「助けて! 先生! みんな!」
「ああ、違うのに~」
男は情けない声を出しながら、その場から逃げ出した。春陽の叫び声を聞いて、先生たちは慌てて出てきたが、男は逃げ去った後だった。昨日と同じく、生徒たちを教室に入れた学校側は、警察に連絡。春陽は警察の事情聴取を受ける羽目になった。二人の刑事が春陽を校長室に連れて行った。応接セットに座らされ、対面の席に二人の刑事、春陽の隣には校長先生がサポートで座った。一人は三十代くらい、もう一人は五十代後半の禿げ頭の男だった。年を取った刑事の方が春陽に質問をし、若い刑事が調書を取った。朝、家を出たとき間から、男に会った時間、場所、男の背の高さ、体型、髪型、年齢、着ていた服装などの特徴を詳しく聞かれた。
「そうすると男は身長一八〇センチを超える長身、痩せてて、色が白く、上下とも黒のスーツを着ていたんですね。そしてその男とは面識がなく、急に声をかけられた。本当に心当たりはないですか」
「はい」
「それでは何か些細なことでもいいので、思い出したら、警察にご連絡ください」
春陽はなぜか石のことは黙っていた。
一時間ほどで事情聴取も終わり、先生に送られて家に帰った春陽は、真っ先に夏波の部屋に向かった。
「やっぱり夏波が言ったとおりだった! あの石を狙っている奴がいる!」
そう言って部屋のドアを開けた。部屋にはいない。
「夏波!」
春陽はトイレを見てみたがいない。リビングにいたかな? 下に降り、見てみたがやはりいない。
「夏波……。まさか……。あの子、神社へ!」
春陽は自分が襲われそうになったのも忘れ、慌てて神社へと向かった。走りながら本当の石は私が持っている。万が一襲われても大丈夫。そう自分に言い聞かせながら全力で走った。幹線道路の赤信号がもどかしい。春陽は交差点で足踏みをしながらやきもきしていた。
――早く青に変われ!
信号が青に変わる前に春陽は走り出していた。途中、近所のおばさんが話しかけてきたが、返事もそこそこに無我夢中で走った。
――夏波、無事でいて……。
夏波は昨晩、姉との言い争いの後、自分なりに考えていた。ゆいと同じ目に合うのが本当にゆいのことを思っていることになるのか。かといってこの石をどこかに捨ててしまえばまた誰かが拾って被害に合うかもしれない。神社で見つけたものだから、神社に返せばいい。朝起きたときに今日、神社へ石を返しに行くことを決意したのだった。家から一人で行くのは怖かったが、昼間なので人通りもあると思い、神社へ向かった。すれ違う人々が、みんなゆいを襲った人に見えてしまい怖かったが、何事もなく、神社に無事到着した。鳥居をくぐり、参道を歩きながらポケットにある石を握りしめていた。
拝殿についた夏波はお賽銭を入れ、二礼二拍手の後、神様にゆいの意識が戻るよう懸命に祈った。最後に一礼して鳥居の方を振り向くと、参道に黒い服を着た怪しい男が立っていた。背が高く、顔が青白い。濃いサングラスをしている。夏波は震えてその場に立ち竦んだ。男はまっすぐ向かって歩いてくる。しかし夏波は動けない。
セミの鳴き声だけが聞こえている。
男の距離が十メートルを切ったとき、春陽の声がした。
「夏波! 逃げなさい! 早く!」
春陽は夏波に駆け寄り、自分の後ろにかばった。
「お姉ちゃん!」
夏波は姉に抱き付いた。
「あんたは今朝の……」
「だから、あなた方に危害を加える気はありません。何か勘違いしていらっしゃる。私は、あなた達を守るために来たんですよ」
「信じられないに決まってるでしょ! 何から守るのよ」
「全国で起きている事件は人間が起こしたものではないのです。人外の者が起こした事件。その石さえお渡しいただければ、すべてが解決するのです。さあ、石を渡してください」
春陽は男の言葉を信じていいのか考えあぐねていた。その間も男はゆっくりと二人に近づいてくる。二人はその場から動けなくなっていた。
「信じてください。私はあなた達を守る義務がある」
黒ずくめの男はサングラスを外し、透き通った瞳で、まっすぐに二人の目を見つめて言った。
そのとき、二人の後ろから黒い霧が突如、現れた。
「危ない!」男が叫んだ
「夏波! 石を貸しなさい」
春陽はそう言うと夏波から石を取り上げ、本物の石を誰にもわからないように手渡した。
「夏波、それが本物。私がおとりになるから、あの黒服の男の所へ逃げなさい」
春陽は黒服の男を信じることにした。
「お姉ちゃん……」
「石はここにあるわ!」
春陽はいきなり走り出した。黒い霧は春陽の方へ向かい、取り囲んだ。
「お姉ちゃん!」
「早く逃げて! 私は大丈夫だから」
春陽は夏波の方を向き、優しく微笑んだ。黒い霧は春陽を包み込んでしまう。その瞬間、一筋のつむじ風が春陽を取り巻いたかに見えた。
「お姉ちゃん!」
夏波は黒い霧の方へ走り出したが、黒服の男は半ば強制的に夏波を止めた。
「いけない! あれは人外の者。早く逃げなければ」
「離して! お姉ちゃん!」
黒服の男は泣きじゃくる夏波を小脇に抱え、連れ去るように神社から離れた。そして車の中に押し込み、急いで走らせた。
「これで奴の元に、すべての石が集まってしまった。奴は復活する。別の方法を考えなければ……」
男は運転しながら、独り言のようにつぶやいた。すると泣きじゃくっていた夏波が、男に石を見せた。
「こっちが本物の石。お姉ちゃん、私の身代わりになったんだ。おじさん、お姉ちゃんを助けて!」
「本物だって! そうか、奴はまだ復活できない。お嬢さん、落ち着いてよく聞いてください。お姉さんやお友達はまだ無事です。奴は本来の力を取り戻してない。しかしあなたの持っている石が、奴の手に渡ると本来の力を取り戻し、捕らわれた皆さんは奴に取り込まれてしまう。だからその石を破壊しなければならないのです」
黒服の男は運転しながら夏波に説明したが、何のことだか理解できなかった。
「どういうこと? 私はお姉ちゃんとゆいを助けたいんです。石なんかどうでもいい!」
「お姉さんも、お友達も今のところ無事だと話しましたよ。よく聞いてください。これから福島県の示現寺というお寺に行きます。そこで唯一その石を破壊できる槌を手に入れなければならない。槌を手に入れさえすれば、その石は破壊できます。お姉さんもお友達も助けられます。」
「本当ですか? でも私が一緒に行っても、足手まといになるだけだと思います。石はあげますから、お願いです、お姉ちゃんたちを助けて」
「あなたはお姉さんとお友達を助けるのに人に頼るのですか? 自分は何もしないというのですか?」
黒服の男は少し怒ったような口調で言った。
「それに奴はあなたを突き狙う。石を持ってようとなかろうと、正体を知ってしまったのだから。一緒に行く以外、選択の余地はありません」
「でも……」
黒服の男は夏波を励ますように言った。
「大丈夫! あなたは自分が思っているより、はるかにいろいろなことができるはずです。もっと自分を信じてください。自己紹介がまだでしたね。私は小野篁といいます」
「私は夏波です」
夏波は怖々と名乗った。
第二章
小野篁と夏波の二人は、福島県に向けて車を走らせていた。幾分落ち着きを取り戻した夏波は、篁の話を聞いていた。車は東北自動車道の入り口に順調にたどり着くはずなのだが、幹線道路が交通事故で通行止めになっていた。仕方なく迂回をするが、行く先々で工事や事故処理で渋滞か通行止めになっていた。
「おかしい……」
小野篁は車を走らせながら、いぶかしげに言った。まるで二人の行く手を阻むかのような道路事情だった。夏波は篁を不安そうな顔で見つめた。
篁は高速道路を使用しないで、国道四号線を使って北上するルートを取ることにした。
「おじさん、高速に乗らないの?」
「ええ。こんなに事故や工事が多いのはおかしい。なにか別の力が我々の知らないところで働いている気がします。高速に乗って通行止めなどされたら、身動きが取れなくなる」
「別の力って?」夏波は怯えたように聞いた。
「その石を狙っている者です。数いる妖怪の中でも一・二を争うほどの、恐ろしい妖怪」
「妖怪……」
「そう。名を『白面金毛の九尾の狐』 中国、インド、そしてこの日本をまたにかけて、地上に魔界を出現させようとした……」
「それって、玉藻前」
「よくご存じで。奴は初め、紀元前十一世紀半ばの中国に、殷王朝最後の王『紂王』の后『妲己』として現れました。虜になった王は、欲望を満たすため、民衆から税を厳しく取り立て苦しめ、豪華な宮殿を造り、酒池肉林の毎日を過ごしました。そして王の行動をいさめる者には残酷な刑罰を与えました。しかしそんな振る舞いが長く続くはずはありません。反乱によって殷は滅亡しました。妲己は捕らえられ、死刑となるはずでしたが、妖艶な微笑みに、みな騙されてしまいました。だが武王の補佐、太公望は『照魔鏡』をかざし、九尾の狐と見破りました。奴は正体を現し、今みたいに黒雲を起こして飛び去ろうとしましたが、太公望の投げた宝剣によって三つに切り裂かれ、消滅しました。
次に妲己の死後約七百年が過ぎたころ、今度はインドのマガダ国王子『ハンゾク太子』の婦人『華陽』として再び現れたのです。太子も同じように奴に操られ、千人の首をはねるなどの暴虐の限りを尽くしました。しかし奴は、キバという人物に見破られ、金鳳山中で入手した薬王樹の杖で打たれると正体を現し、北の空へと飛び去りました。
そして西暦七百五十三年、十六、七歳の女子に姿を変えて、遣唐使船に乗り込み、この日本に渡来しました。その三百六十年後の平安時代後期、赤子に化けて子宝に恵まれない夫婦に拾われました。藻女と名付けられて二人の愛情を受け、美しく成長します。十八歳で宮中に仕え、才色兼備と称えられて、名を『玉藻前』と改めます。やがて鳥羽上皇の寵愛を受けるようになると、次第に宮中での発言力が増していきます。その時期を境に上皇は病に伏せるようになりました。朝廷の医師にはその原因がわかりませんでしたが、陰陽師『安倍泰成』が玉藻の仕業と見抜き、真言を唱えたところ、玉藻は変身を解かれ、『白面金毛の九尾の狐』の姿で行方を眩ませたのです」
「でも最後は討取られたのでしょう? 小学校のとき、私、民俗学クラブに所属していたんです。そのとき、『九尾の狐』の話を先生から聞きました」
「そう、討取られました。続きをお話しすると、その後、今の栃木県那須市で若い女性がさらわれる事件が相次ぎました。鳥羽上皇は那須領主の須藤権守貞信の要請に応え、討伐軍を編成。三浦介義明、千葉介常胤、上総介広常の三名を将軍、安倍泰成を軍師に任命して、八万の軍勢を那須野に送ったのです。しかし『九尾の狐』の妖術に、多くの戦力を失いました。そこで彼らは犬の尾を狐に見立てた犬追物で騎射を訓練し、再び『九尾の狐』に攻撃を開始します。討伐軍は次第に『九尾の狐』を追い込んでいきました。追い込まれた狐は貞信の夢に娘の姿で許しを乞いましたが、これは狐が弱っていると読み、最後の攻勢に出たのです。『目的物に必ず命中し、刺さったら抜けない矢』を得た三浦介は、『九尾の狐』のわき腹と首筋をその矢で貫き、そこに上総介が長刀で斬りつけたことで、『九尾の狐』は息絶えました。
その直後、巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪いました。そのため村人は『殺生石』と名付け恐れました。鎮魂のためにやってきた多くの高僧ですら、その毒気に次々に倒れました。その後、千三百八十五年『南北朝時代』会津・元現寺を開いた玄翁和尚が殺生石を破壊し、石は各地へと飛散したと伝わっています。そしてあなたの持っている石もその一つなのです。」
夏波はポケットから淡いグリーンの石を取り出してまじまじと見た。
「こんなにきれいな石なのに妖怪の一部だなんて……」
篁が『九尾の狐』の説明をしながら、車を走らせていると、道路の先の方にパトロールカーの赤灯が見えた。脇道を捜したが、あいにくの一本道だった。後続車もあるので仕方なく、そのまま車を進めた。
「お忙しいところすみません。検問です。ご協力お願いいたします。免許証を拝見させていただきます」
警官は笑顔で話しかけてきたが、目は篁の身なりを鋭くチェックしていた。
「何かあったのですか?」
「先ほど少女連れ去り事件が発生しまして、容疑者は車で逃走した可能性が高いのです。ただ車種や色などについては今のところ不明なので、全車調べているのです」
警官は怪しむように篁と免許証を見比べていた。そして夏波をのぞき込むように見て、話しかけた。
「失礼ですが、この男性とはどのようなご関係なんですか? お嬢さん」
夏波を背に隠して、代わりに応えようとする篁を警官は制し、もう一度夏波に同じことを聞いた。
「父です」夏波はとっさにそう答えた。
警官は夏波の答えに拍子抜けしたような顔をした。
「それは失礼しました。ひょっとして、と思ってしまったので。ちょうどあなた方位なんですよ。容疑者も連れ去られた少女も。いや大変失礼しました」
篁は車を発進させた。赤灯がバックミラーから見えなくなり、ホッと一息ついて、夏波に話しかけた。
「夏波さん、あなたの機転で助かりましたよ。ありがとうございます」
「いえ、とっさに出た答なんです。お巡りさん疑っているみたいだったから」
夏波は照れながらそう話した。
「そうですね。確かに疑っていましたね。神社の件は誰にも見られていないはずですが、学校での件で先生方が警察に通報したのでしょう。この先も検問があるかもしれません。車は乗り捨てて、電車で移動することにしましょう。それと夏波さんのアイデアをいただいて、これから先、人には親子だということにしておきましょう」
二人は車をコインパーキングに停めて駅へと向かった。駅にも警察官が何人か立っていたが、人ごみに紛れて駅構内に入った。ターミナル駅なので人は常に行き来している。篁は歩きながら注意深く人の波を観察していた。
改札を抜け、二十番線のホームを目指しながら、夏波は今なら人ごみに紛れて篁から逃げられると考えていた。先ほどは警察官にうそを言い、篁を助けたが、信用してよいのかわからない。妖怪なんてこの世に本当に存在するのか。ましてや、その妖怪を相手に戦わなければならない。中学一年生の夏波には到底無理に思えた。しかし、さっき篁が言った「自分のお姉さんとお友達を助けるのに人に頼るのですか。自分は何もしないのですか」の問いかけが心に残っていた。いつも夏波を助けてくれた姉とゆい。その二人が『九尾の狐』に捕らわれている。
――決めたんだ。中学生になったらお姉ちゃんに頼らない、ゆいにも頼らない。自分で頑張るって。そうだ、今度は私が助ける番だ! このままだと、お姉ちゃんもゆいも妖怪に捕まったままだ。
篁が言っている伝説の槌を手に入れ、姉とゆいを救う。夏波は覚悟を決めた。
東北新幹線の乗り場についた二人はホームを前から後ろまで歩いた。夏波がなぜそのようなことをするのか不思議だったが、篁の後を黙って付いて行った。
東北新幹線が入ってきた。停車して、反対側のホームに乗客を吐き出した。車内清掃が入り、しばらく時間を取られた。その間に売店で飲み物を買い、二人は真ん中の十号車の自由席の車両の前に並んだ。やがて清掃が終わり、二人は車内に入った。平日でもあり、車内は乗車率六十パーセントくらいか。篁は車内の人数、座っている場所などを確認している。幸い、篁の注目をする人物はいなかったが、念のため、夏波に話した。
「脅すわけではないですが、気を付けて。奴は人の心を操れます。全ての人がそうではないですが、怪しいと思ったらすぐに知らせてください」
「はい……」
夏波は怯えながら答えた。
――人を操れるだって? 誰が襲ってくるか、わからないわけ?
――怖い……。
さっきまで姉とゆいは自分が助けると決意したはずの夏波だったが、得体の知れないものへの恐怖がわいてくるのを抑えられなかった。
二人はドア近くの座席を選び、椅子を回転させ四人掛けにした。二人は対面に座り、どちらも通路側に座った。有事の際、臨機応変に対応できるためだった。
夏波は車内を見渡した。サラリーマンの二人組、一人で座っている大学生くらいの男性、おしゃべりに夢中になっているおばさんたち、子連れの母親、乗客がすべて九尾に操られている人に見えてきた。そんな夏波を見て、篁は安心させるように言った。
「あまり神経質にならないで。今のところ怪しい気配は車内にはありませんから」
「でもいつそうなるかわからないですよね。私怖いです」
「大丈夫。そのために私がいます」
篁は夏波の顔を真っ直ぐに見て、力強くうなずいた。まっすぐに見つめる篁の目を見て夏波は安心した。
午後六時四十三分。新幹線は何事もなく、順調に進み、郡山駅に到着した。
交通渋滞に巻き込まれていたため、空はまだ明るいが、午後六時を回っていた。郡山から喜多方までは二時間以上かかり、目的地に着くのが九時過ぎになってしまう。槌を早く手に入れたいのはやまやまだが、その時間に見ず知らずの者が訪ねて、寺の宝である槌を貸してくれと言っても疑われるだけでかえって話がややこしくなる。捕らわれた人々も石がこちらにある限りは、九尾の狐は復活できないため無事だ。二人はビジネスホテルに泊まることにした。篁はシングルルームを二つにするつもりだったが、夏波が心細いというのでツインルームを取った。
ホテルのフロントで手続きをしている二人を見て、従業員が話しかけてきた。
「こちらには何をしに来られたんですか?」
どうもこの従業員、二人を勘ぐっているらしかった。
「父の親戚がなくなったんです」夏波が答えた。
「これはご愁傷様でございます」
ホテルの従業員は慌てて頭を下げた。興味本位で尋ねたことをホテルの従業員は恥じていた。
次の朝、天気予報は梅雨明け宣言をだし、福島県でも猛暑日になるとテレビは伝えた。
ホテルのコーヒーショップでモーニングセットを食べ、二人はホテルを後に喜多方駅へと向かった。
「暑くなりそうですね」
篁は自分の暑苦しい恰好をよそに、他人事のように夏波に話しかけた。
「篁さん、暑くないんですか?」
「ああ、私は大丈夫です。夏波さんこそ熱中症に気を付けて行きましょう」
二人は磐越西線で郡山駅から二十一駅目、喜多方駅に着いた。駅の改札を出ると、駅前には客待ちのタクシーが何台も並んでいた。人はまばらで、よくある田舎の駅の風景だった。しかし篁は注意深く駅周辺を見まわし、歩いている人たちを観察していた。夏波も同じく人々を注意深く見つめていたが、やがて篁に話しかけた。
「篁さん、何かおかしい気がしませんか? あの女の人たち。こちらをじっと見ています。それにタクシーの運転手たちも……」
「静かに。まず私のことはお父さんと呼んでください。次に質問のことですが、どうやら狐憑きのようです。すぐには襲ってこないと思いますが、気を付けてください。ここに立ち止っていては危険です。歩きながら話しましょう」
「狐憑きって、あの人たち操られているのですか?」
「恐らくそうでしょう。目がうつろです。確かめる方法がありますから、とにかく歩きましょう」
二人は駅前の通りを歩き始めた。その後をタクシーの運転手たちや女性たちが続いてぞろぞろと歩き出した。夏波は怖くなり、振り向こうとしたが、篁に制された。
「振り向いてはいけません。彼らはまだ何もしようとしていない。これからぐるっと一周して駅に戻り、タクシーをいただいちゃいましょう。運転手も全員こちらについてきていますから。タイミングは私が声をかけます」
「いただいちゃうって、タクシーを盗むんですか?」
「便宜上、仕方ありません。歩いていける場所ではないですから」
夏波は泥棒の仲間と思われてしまうことが嫌だったが、篁は飄々としていた。
「大丈夫です。証拠は残しませんから」
二人は何気なく駅前諏訪通りを歩き、途中で左まきに駅前に戻った。曲がり角のたび篁は右手の中指に人差し指を重ね、口元に持っていき、何か呪文のようなものを唱えていた。
「今だ! 走って!」
篁が声をかけた。
駅前に戻った二人はすかさず走り出し、タクシーに乗り込み発車させた。
タクシーの運転手や女性たちは、慌てて追いかけてきたが、篁が呪文を唱え、結界を張っていたため、その位置から駅前には戻れなくなっていた。
「やはりそうでしたね。これから先、このような人がたくさんいると考えた方がよさそうですね」
「どうして……」
「我々をどうしても寺に行かせたくないのでしょう。奴にしてみれば死活問題ですから。夏波さん、これを」
篁はポケットから護符を取り出し、夏波に渡した。
「肌に直接身に着けておいてください。万が一のときもその護符があなたを守ってくれますから」
護符は和紙で出来ているのかどうかわからなかったが、夏波は無言でうなずき、胸に直接身に着けた。
「さあ、寺に向かいますよ。村人たちも操られていると考えて、彼らに会っても直接目を見ないようにしてください」
緊張した面持ちでうなずいた夏波は、姉の春陽のことを考えていた。
―― お姉ちゃん、大丈夫かな……。
第三章
光がない……。
春陽は深い闇に飲み込まれていた。上を向いているのか、下を向いているのか、立っているのかさえ分からない。ゆいが感じたのと同じく平衡感覚がない。完璧な暗闇。自分の身体さえ認識できない。目を開けてもつぶっても変わりはなく、顔に手を近づけても見えない闇。空気が重く、体を圧迫するような感覚。音がなく、耳の中がキーンと鳴っている。だが不思議と恐怖感は無かった。春陽は深い闇に包まれるとき、一陣の風が自分を取り巻いたのを感じていたからであった。春陽はその風に向かって怒り調子で言った。
「遅い! 助けに来てくれないのかと思ったわよ」
「すまんな。まさか奴が復活をもくろんでいたとは思いもよらなかった。それに俺の石を夏波に渡してたろ?」
春陽は風の問いかけには答えずに、自分が気になっていることを聞いた。
「ねえ、夏波に黒服の男の所へ行けって言っちゃったけど、大丈夫かな?」
「ああ。大丈夫だ。彼はこちら側さ。人間界でたとえるなら俺は警察、彼は裁判官みたいなものだ。それより夏波は一人で大丈夫か? お前にべったりだったろう。いつもお前の顔色ばかり窺ってたような……」
「あの子小さいとき、卵アレルギーだったの。卵の入ったものを食べると、呼吸困難になっちゃうの。だから食べ物でも飲み物でもいちいち親に聞いて、安全だとわかってから食べたり飲んだりしていた。ケーキやプリンなんかも食べられないし、パンも卵が使われてないものだとフランスパンとかになっちゃうんだよね。可哀相だった。だからいつも誰かに聞かないと何も出来なくなってるのよ」
「そうか。トラウマみたいなものか」
「そうかも。ねえ、奴ってこの闇のこと? 何なのあれは?」
「その答は後だ。どうやら奴の根城に着いたらしい。気を失ったふりをしていろ。心配するな。お前は取り込められない。石は別物だし、何より俺が護っているから」
春陽は足元に地面を感じた。やがて闇は消えて、辺りが見えるようになったが薄暗い。
少し離れた所に大きな石が光っている。夏波が持っていた石と同じだ。その側で形にならない影がうごめいていた。人の様になったり、獣の様になったり、形が定まらない。そして石からなのか、影からなのかわからないが、形容しがたい声、いうなれば闇の声が聞こえた。前にもこんな声、聴いたことがあるような……。春陽はまだ小学生だったときのことを思い出していた。
「ようやく我の元へ戻ってきたか。六百有余年……。復活のときが今……」
影のようなものは春陽に近づいてきた。春陽の手から偽物の石を取り出してかざした。
――話してもいい?
――ダメに決まってるだろ! 気を失っているふりしてろ。
――何で? 知りたいのよ。何故こんなことをするのか。
――奴は人間に対して憎しみもなければ、悪意もない。ただ魔界を出現させるだけだ。聞いても無駄だ。
「偽物! おのれ、逃げた小娘が本物を持っているのか!」
闇の声が祠の中に響いた。影は巨大な獣のようになり、激しく揺らめいた。しかしまた人のような形に戻り、落ち着きを取り戻した。
「どおりでこの娘の魂を捕らえられないわけだ。まあよい。示現寺へ向かったのであろう。手は打ってある。男一人と小娘、すぐに捕らえられるであろう。影よ! 小娘から石を取り戻せ! 殺しても構わん!」
その言葉に春陽は立ち上がって叫んだ。
――あっバカ……。
「夏波を殺すだって! 絶対させない!」
「気を失ったふりをしておったか。小娘、我の邪魔をする者は何人たりとも許さん。偽物をつかませおって、そこでもう一人の小娘が虜にされるのを見ておれ。それとも先にお前を食ろうてやろうか」
影がまた巨大になり、春陽に近づいてきた。そのとき、春陽を取り巻いていた風が人を象り、少年の姿になった。坊主頭で、すらっとして背が高い。切れ長の目と口元から覗く尖った犬歯が印象的だった。
「鬼丸!」
春陽は鬼丸の背中に隠れた。
「やれやれ。お前が直情型だったの、すっかり忘れてたぜ」
「何奴!」
「久方ぶりだな、九尾の」
「人の子ではないな。だがお前のような者、知らぬぞ。名を名乗れ、小僧」
「いやだね。何でお前に名乗らなくちゃならない。自分で思い出したらどうだ。大体この世に現れる度に、男をたらしこんで自分の思うように操るのが気に入らねぇ」
鬼丸はそっぽを向いた。春陽はハラハラしながら二人のやり取りを聞いていた。
「その性格の悪さ、思い出したぞ! おのれは風鬼か! 何で貴様が人の子側にいる。昔は散々悪行を重ねたお前が」
「そうなの?」
「大昔のことだ。今は所属が違うんだ」
「何をたわけたことを! 貴様の行ったことの償いのつもりか?」
影が激しく揺らめいている。春陽は風鬼と呼ばれた鬼丸と影を交互に見た。そして鬼丸のことをじっと見つめた。
「やましいことはないよ。第一、今そんなこと疑っている場合か? あそこを見てみろ」
鬼丸は宙に浮く、大きい鳥かごを指差した。
「ゆいちゃん!」
鳥かごみたいなものがいくつも並び、その中に、ゆいをはじめ、意識不明になっている娘たちが捕われていた。
「ゆいちゃんたちをどうするつもり?」
「知れたこと。身体が復活すれば、我に取り込むためよ。じゃがまだ最後の石が揃っておらん。揃えばお前も我が食ってやるわい」
「あんたはこの世に甦って、何をする気?」
「わが願いはこの世に再び混沌を招くこと……。魔界を出現させること」
影は揺らめいていた。
「なぜ魔界を出現させなければならないの? それほど人間が憎いの?」
先ほど、鬼丸から質問しても無駄だと言われていた春陽だが、聞かずにはいられなかった。
「貴様たち人の子に恨みや憎しみはない。お前たちが虫や草に対してそのような感情を持つか? 我はただ魔界を出現させるだけ。わが身が復活すれば、この世を魔界に変えるだけ」
「じゃあ何で人を襲うの? 魔界を出現させるだけなら、人を襲うことはないでしょう!」
「こちらの世界に馴染むためには、こちらの法則に従わねばならん。そのためには七日に一、二度人間の肉と血を食せねばならぬ。さすればこちらの法則に則れるのでな」
「どういうこと?」
鬼丸が口をはさんだ。
「かいつまんで言うと、霊的な存在のこいつは人間界で肉体を維持するのに、人間の肉と血が必要だってことだ」
「そんな……」
「何を驚いておる。お前たち人の子も、獣や魚の肉を食べるであろう。何が違う? 対象が違うだけであろう? そして最後の石が揃えば、我の身体は復活する。お前は若く美しい。我がその美しさを永遠のものにして進ぜようか。」
「バッカじゃないの! 何であんたのような化け物に憑りつかれなきゃなんないのよ! 最後の石は妹が持っている。あんたの手には戻らない!」
「人の命は短い。その美しさを永遠のものにしてやろうと情けをかけてやっているのにのう。まあよい。手は打ってあると言ったはずじゃ。わが眷属がすぐにお前の妹を捕らえて、この場所に連れてくるわ」
「さぁて、そんなに簡単にできるかな」
「何を言っておる、風鬼」
「この子の妹には『小野篁』がついている。野狐や悪狐ごときで彼を止められるかねぇ。お前も行った方がいいんじゃないか」
『小野篁』の名に影の揺らめきは一瞬、おびえるように止まったが、すぐにまた揺らめき始めた。
「小野篁、奴が動いたか……。今は石の回収が先じゃ。さあ影よ、示現寺へ急げ!」
影と呼ばれた黒い霧は煙の様に消えていった。
第四章
「この辺で車を止めましょう」
篁は道の途中で車をUターンさせ止めた。
「どこにお寺があるんですか?」
「寺はこの先、五分ほど行ったところです。ここから歩いて向かいましょう。車で寺のそばまで行けますが、村人たちに囲まれてしまう恐れがありますから」
二人はエンジンをかけっぱなしで、車から降りた。
夏波は緊張した面持ちで篁の左隣に並び、寺へ向かって歩いた。何の変哲もない道路だが、夏波にはこれから起こる不吉なことへ続く道に見えた。この寺は会津盆地北端の名湯熱塩温泉街の坂を上りきったところにある。
「あれが示現寺です。あの本堂の中に、その石を破壊できる唯一の槌があります。その石を砕けば、奴は永久に復活できなくなります。だからこそ、奴はあらゆる手を使って阻止しようとするでしょう」
真っ直ぐな、何もない道をしばらく行くと、山門へ続く石段が見えてきた。石段のそばには誰もいない。夏波は内心ほっとした。篁に話しかけようとしたとき、夏波の身体の前を篁は手で制した。
「どうしたの?」
視線を篁から道の先に向けた夏波は、小さな悲鳴を上げた。先ほどまではいなかったはずの石段の周りに、村人が大勢、うつろな目で二人を見ていた。猫背で腕をだらりと下げ、膝を少し曲げた状態で立っている。
「これまた、ずいぶんいらっしゃる」
篁は他人事のようにつぶやいた。憑りつかれた村人たちは、ゆっくりと二人に向かって歩き出した。夏波は篁の腕にしがみついた。
「落ち着いてください。これから私たちの周りに結界を張ります」
そう言うと篁は夏波の腕をほどき、先ほど駅前で行ったように、右手の中指に人差し指を重ね、口元に持っていき、何か呪文のようなものを唱え、自分たちの周りを、円を描くように回った。村人たちは二人を取り囲むが、結界に阻まれて二人に手出しができなかった。二人に掴みかかろうとすると、まるで磁石のN極とN極、あるいはS極とS極同士の様にはじかれ、飛ばされていく。
夏波と篁は寺へ向かって歩き出した。村人たちは手を出せないまま、なす術もなく、まるで政治家か芸能人を取り囲む、記者やファンの様に二人を囲んで一緒に歩き出した。
村人が襲ってこれないことに安心した夏波は篁に話しかけた。
「狐って人とかに化けるんじゃないんですか?」
「他のものに化けられるのは、妖狐の中でも位の高い狐です。野狐、悪狐はせいぜい人間に憑りつくのが精一杯でしょう。犬を連れてくればよかったですね。彼らは犬が嫌いですから」
篁はまるで何もなかったかのように、夏波を連れて石段をあがり始めた。村人たちは結界に阻まれ二人に近づけず、唸り声をあげながら後に続いた。二人は山門をくぐり、寺の敷地内へと入った。
寺は敷地の中央に本堂、左側に鐘があった。右側には檀家の墓地が広がっていた。本堂までの道には小砂利が敷き詰められていた。
近づくにつれて、お経を唱える声が聞こえ、二人は本堂へ向かった。これでようやく槌を手に入れることができる。槌さえ手に入れば、この石を破壊できる。石さえ破壊できれば姉の春陽もゆいも無事帰ってくる。夏波はそう思うと、自然に先を急ぐように小走りになった。
「お父さん、早く!」
しかし篁は、いぶかしげな顔をしていた。
何かが引っ掛かる。何だ? 違和感がある。
そうしている間にも、夏波は本堂へとずんずん歩いて行く。篁が後ろを振り返ると、村人たちが山門をくぐり、参道をこちらに向かっていた。
「夏波さん、ちょっと待ってください。立ち止まって!」
鋭い篁の声に夏波は一瞬ビクッとして立ち止まった。
「どうしたんですか? 急に大きな声を出して。びっくりします」
夏波は少し怒り気味に篁に応えた。
「何かがおかしいのです。違和感がある」
「でも急がないと」
「ええ、わかっています。でも用心するにこしたことは無い。私は彼らが近寄れないよう、結界を張ってきます。夏波さんは本堂に行き、住職から槌をお借りしてください」
そう言うと篁は結界を張り、後に続いてきた村人たちが、それ以上、本堂に近寄れないようにした。
夏波はその姿を見ながら、あることを思いついて、すぐ行動に移した。そしてその後、恐る恐る本堂へと向かい、階段を上がって扉を開けた。本堂の中は夏なのにひんやりとして涼しく、中央には虚空菩薩像があった。その中央に坐して、お経を唱えている住職は夏波が入ってきたのに気付き、中断した。
「どちら様かな。今お勤めの最中につき、そこに座ってお待ちください」
「はい」夏波は扉の前に正座した。
しばらくするとお経が終わり、住職が夏波の方を向いた。住職は初老で顔は全体としては柔和だが、吊り上がった鋭い目をしていた。
「あなたおひとりで見えられたのかな?」
「いえ、父と一緒にきました。今、外にいます」
「そうですか、お二人で。どちらからいらっしゃったんですか?」
「東京です」
「それはそれは。この寺に何の御用かな?」
「このお寺に殺生石を砕いた槌があると聞いてやってきました。少しだけそれをお借りしたいんです」
夏波は断られやしないかと、恐る恐る聞いてみた。
「槌はこの寺の宝ともいえる物。何に使用するのかな?」
夏波は今までの経緯を住職に話した。そして姉や親友を助けるために、殺生石のかけらを打ち砕かねばならないこと、槌が無ければその石を破壊できないことを説明した。
「興味深い話だ。確かにこの寺は、『九尾の狐』と只ならぬ縁がある」
「信じてくれますか。では槌をお貸しください」
「話としては分かるが、にわかには信じがたい。その石を私に見せてくれんか」
夏波は急いでポケットから石を出して、住職に見せた。
「これがその石か……。そこらへんに転がっている石と変わらないな。触れさせてくれんか」
そう言うと住職は、夏波に近づいてきた。
――何か違和感がある。
篁の言葉が頭をよぎった。住職の指が夏波の手の上の石に触れようとしたとき、静電気が走るように閃光が走った。二人は驚き、同時に声を上げた。
「すまんがその石を床に置いてくれんか」
夏波はおかしいと思いながら、石を床の上に置いた。住職は床に置かれている石に指先で突くようにし、何も起こらないのを確認すると、にんまりしながら拾い上げた。
「槌はどこにあるんですか?」夏波は住職に聞いた。
住職は後ずさりながら、左手で仏壇の前に飾ってある槌を指さした。
「槌はそこにある。が、石が手に入った以上、もう用はない」
夏波は住職が何を言っているのかわからなかったが、槌の置いてあるところに行き、急いで手に取った。
扉が開き、篁が入ってきた。
「たか、お父さん!」
「夏波、その住職から離れて!」
「もう遅い。石は手に入れた。これで九尾様の復活はなされる」
夏波は篁の方へ駆けて行った。手には槌をしっかりと持っている。
「白蔵主……」篁は絞り出すような声でつぶやいた。
「大丈夫! 本物は私が持っている。お前の持っているのはただの石!」
「何!」篁、白蔵主と呼ばれた住職は同時に叫んだ。
夏波は先ほど篁の『何か違和感がある』が引っ掛かっており、本堂の中に入る前に石ころを拾っていたのだった。
「なぜ先ほど石が反応したのだ」
「彼女には護符を身につけさせているのでな。魔のお前が近寄れば反応する」
「おのれ、謀りおって」
白蔵主は人間の姿から狐の姿に変貌した。目は吊り上がり、口元から牙が生えてきた。夏波は思わず後ずさりした。
突然、本堂の扉が開き、結界の中に入ってこられないはずの村人たちが、本堂へとなだれ込んできた。
今度は篁が驚いた。
「なぜ結界を超えてこられた」
村人たちが本堂へ入ってきた後ろに、黒い霧が浮遊していた。
「九尾の影!」
黒い霧は九尾の狐を象り始めた。
「急場しのぎの結界を破るなど、我にはたやすいこと。白蔵主、しくじりおったな。お前はその男の相手をしろ。娘よ、姉を助けたかったら、石を持ってわが狐塚祠に来るがよい」
春陽も聞いた闇の声である。夏波は自分の怖れる気持ちを抑え、影に向かって叫んだ。
「槌は手に入れた。お姉ちゃんやゆいたちに手を出してみろ。石を砕いてやる」
「我を脅すとな。度胸のよい娘じゃ。とにかくその石を持ってわが祠へ来い。お前の姉や友達とやらの命は助けてやる」
「夏波さん、信じちゃいけませんよ。槌はもうこちらにある。すぐにその石を破壊するのです!」
「バカめ、石を取り出して、槌で砕く前に娘たちの命は消える。それに今石を砕いたら、お前の姉も友達とやらも狐塚祠から永遠に出られなくなるわ。しかも小娘の力で石が簡単に砕けると思いか。娘よ、これが最後じゃ。石を持って祠に来い」
篁は白蔵主や村人に阻まれて、夏波のとこへ行けなかった。
「狐塚祠に行けば、お姉ちゃんやゆいたちを自由にしてくれるのね」
「約束しよう」
「狐塚祠ってどこにあるの?」
「那須野の『玉藻稲荷神社』じゃ。よいな、お前が来るまで、姉たちの命は預かっておこう」
影はそういうとスーッと消えた。
私一人で来いだって。怖い。夏波は足が震えていた。篁は白蔵主と村人に囲まれて見えない。
夏波は去年の夏、小学校の民俗学クラブで、栃木県にある玉藻稲荷神社に行ったことを思い出した。JR東北本線の西那須野駅から田園風景の中を走るバスに乗った。停留所から歩き、百八十二号線から林に向かって斜めに入る道の先に、玉藻稲荷神社はあったはずだ。あのときは引率の先生もいたし、ほかにも部員が何人もいた。今回は一人で行かなければならない。来いっていうのは簡単だけど、交通費がない。第一、喜多方駅まで歩いたら相当時間がかかる。今日中に到底行けそうにない。そう思い途方に暮れていると、狐憑きの村人の一人が近寄ってきて、車で駅まで送ってくれた。
車に乗り込んだ夏波は、話しかけようとしたが、結局駅に着くまで一言も話さなかった。村人も運転中、何も話さない。車中は気まずい雰囲気でいっぱいだった。駅についたとき、夏波の方に財布を投げた。夏波はその財布を拾い、その村人に頭を下げて、中から一万円を失敬した。
第五章
玉藻稲荷神社の前に着いたときには、日が沈み始め、辺りは薄暗くなっていた。うっそうとする木立の間に、赤い鳥居が見えた。足元に注意しながら歩き、第一の鳥居をくぐったとき、寺で聞いた闇の声がした。そして再びあの影が現れた。
「よくぞ来た。そのまま我に続き、鏡池のそばにある狐塚祠に来るがよい」
夏波は言われた通り、影の後をついていった。第二の鳥居をくぐると、鏡が池の先に荒れ放題の参道があり、その先に狐塚祠があった。その祠は古い家にあるお稲荷様と同じ位の大きさで、とても人間が入れる大きさではなかった。しかし影はその祠に向かってどんどん移動していく。夏波は一瞬たじろいだが、影の後をついていった。二人は祠に吸いこまれるかのように消えていった。
まるで映画のシーンの切り替えの様に辺りの風景が変わった。人が入れないほどの小さい祠のはずが、巨大な洞窟の様に広く、そして薄暗かった。空気はひんやりとして、寒気さえ感じられた。中央に持っている石と同じ淡いグリーン色の岩が獣を形どっていた。
「夏波!」
「お姉ちゃん!」
九尾の狐の影を挟んで二人は名前を呼び合った。姉に向かって大きくうなずいた夏波は、九尾に向かって凛とした顔つきで話した。
「石を持ってきたわ。お姉ちゃんとゆい、ほかの人たちを放して」
「よく一人でここまで来たな。誉めてやろう。石をこちらに寄こせ。そうすればみな解放して進ぜよう」
「騙されちゃダメよ。そんな気さらさらないんだから。早く石を破壊しなさい」
「笑止な。石を破壊すれば、お前たちは皆この祠に閉じ込められる。永遠に出られなくなるぞ」
「そんな脅しに引っかかるかよ。捕らわれている娘たちの精神は、お前が消えればこの場から放たれ、自分の身体に戻れる。この子たちもな」
「鬼丸先輩! 何でここに?」
「詳しいことは後だ。俺が奴を封じる間に石を破壊するんだ」
「お前と一緒にいる娘は戻れるかもしれんが、この娘はどうかな? 生身の身体でこの祠の中にいるのだぞ。夏波とやら、お前はいいのか? その石を破壊したらお前はこの祠の中に永遠に閉じ込められることになる。この暗い祠の中で、独りきりで死ぬまで過ごさなければならなくなる。両親にも友達にも会えないままでだ」
夏波の表情が一瞬、不安に曇った。その隙を突いて、九尾の狐は畳みかけるように話した。
「石はもともと私の一部、私の身体。それを返してくれと言っているだけだ。おかしくなかろう。石を返してくれれば、すぐにこの祠から出して自由の身にしてやろう。そしてお前たちには手を出さない。もちろんお前にゆかりのある者たちにもだ。そしてお前の望みもかなえてやろう。姉のようになりたのであろう? 私と一緒になればお前のその幼い顔も姉のように綺麗に変われる。何事にも積極的になれる」
夏波は黙っていた。
「夏波、石を私に貸して。私が破壊するわ」
春陽は夏波に向かって歩き出した。
「お、おい」鬼丸は春陽の肩を掴んで止めた。
「離しなさいよ、鬼丸」
「待てって。夏波の顔を見てみろ。今あの子はお前に頼らず、自分一人で立ち向かおうとしているんだ。黙って見てろ」
しばらくの間、夏波は黙っていたが、やがて春陽に向かって笑顔で答えた。
「大丈夫。いつもお姉ちゃんに助けてもらってたけど、今回は大丈夫。もともとは私が神社からこの石を拾ってこなければ、お姉ちゃんもゆいも事件に巻き込まれることは無かったの。私の責任なの。お姉ちゃん、お父さんとお母さんによろしく言って。ゆいにも……」
夏波はそういうと石を取り出し、槌を大きく振りかぶった。
「やめなさーい」「夏波!」九尾の狐と春陽が同時に叫んだ。九尾の狐が夏波に覆いかぶさろうとしたとき、槌が石を破壊した。
獣の形をした大きい岩にひびが入り、下から粉々に砕け、崩れ落ちはじめた。
「おのれ~。ただが人の子の、それも小娘にこの我が……。我が消えてもこの世界の闇は再び復活する。最恐の闇が、しゅ…… てん……」
九尾の影は大きく揺らめき、渦を巻き始めた。空間に暗い穴が出現し、その穴に渦が吸いこまれていく。九尾の狐は断末魔を残し消えていった。ゆいたちが捕らわれていた鳥かごが消え、ゆいたちもまた、消えていく。その瞬間、ゆいが目を開けた。夏波と目が合った。夏波はゆいに笑いかけた。
「夏波!」
春陽は夏波に駆け寄ろうとした。しかし春陽もまた鬼丸の風が取り巻き、消えていく。
「夏波! ちょっと、鬼丸、離しなさいよ! 夏波が!」
「お姉ちゃん、大丈夫!」
夏波は春陽の目を見てにっこりとほほ笑んだ。
「夏波!」悲痛な叫び声をあげて、春陽は外の世界に戻った。狐塚祠の前で春陽は鬼丸に食って掛かっていた。
「鬼丸! 何で私だけ助けたのよ。なんとかしてよ! 夏波が、夏波が……」
「大丈夫だって。死んだわけじゃないし、祠に取り込まれているだけだ」
「じゃあ早く夏波を助けてよ」
「それが出来るならとっくにやってるって」
「じゃあどうするのよ! 夏波はどうなっちゃうのよ!」
「今考え中だ」
鬼丸は腕を組んで苦い顔をしていた。夏波は精神体ではなく、生身の身体で、狐塚祠に入った。奴が夏波を取り巻いたからだ。俺が春陽を取り巻いて入ったことと同じだ。祠は奴の内世界。しかし奴は消え去った。何故だ? なぜ内世界が消えない。奴が消えたのだから内世界も消えて、夏波も外に出られるはずだ。
辺りはすっかり夜が舞い降り、暗闇に包まれていた。
春陽は空を見上げた。星が瞬いている。別れ際の夏波の笑顔が浮かんでくる。星の光が涙でにじんで見えていた。
そのとき、急に二人の前を人影が通り過ぎて行った。
「だれ?」
「ご心配をおかけしました。夏波さんは私が祠から救い出します」
人影は狐塚祠に吸いこまれるように消えていった。
夏波は独り暗い世界に残った。その場にしゃがみ込み、膝を抱えた。
「誰もいなくなっちゃった。私ひとり……」
右手には石のかけらが一粒残っていた。その石だけが唯一、夏波が認識できるものであった。薄暗く、音もない。姉には心配を掛けたくなかった。だから別れ際も無理やり笑顔を作った。精一杯の姉に対する優しさであり、同時に強がりでもあった。独りきりになると急に寂しさがわいてきた。さっきはみんなが助かるならそれでいいと思った。事実、ほっとしている面もある。ただ一生ここから出られない、父や母、姉に会えない、ゆいやほかの友達にも会えない。自然と涙がわいてきた。
「お姉ちゃん……」
夏波は膝の上に顔をうずめた。『九尾の狐』と対峙した緊張から一気に解き放たれ、本格的に泣き出してしまった。
そのとき、膝と顔の間からほのかな光が差した。恐る恐る顔を上げてみると、そこには篁が笑顔で立っていた。
「遅くなりました。怖かったでしょう? よく頑張りましたね。あなたは自分が思っているより、大きなことをやってのけたのですよ。誰にもなしえなかったことを! もう大丈夫。一緒に外へ出ましょう。夏波さん」
夏波は立ち上がり、篁に抱き付いた。篁は夏波をしっかりと抱きしめた。篁が呪文を唱えると、光が二人を包み、祠の中を明るく照らした。
「しかし何故、内世界が消えないのですかね? 九尾の狐は消え去ったというのに。残留思念でもあるのか。そうだ、夏波さん、砕いた石はどこにありますか」
「ここに」掌の中の欠片を見せた。
するとその石は宙に浮き、中から光が現れ、獣を形取った。篁は身構え、夏波は小さな悲鳴を上げた。
「やはり残留思念……」
「違います。私は九尾の狐そのものです。本来、消え去った者と私は一心同体。私は九尾の狐の良心」
「金毛の九尾の狐」
「その娘御のおかげで私は闇から放たれたのです。これから私は空孤となるべく修行に旅立ちます。娘さん、その光る石はあなたに差し上げます。もう恐れることはありません。九尾の闇の部分は消え去りました。その石はあなたを守ってくれるでしょう。」
そう言うと九尾は消えていった。
「さあ、私たちも外の世界に戻りましょう」
篁はもう一度呪文を唱えた。夏波の身体が光に包まれ、その光の眩さに目をつぶった。再び目を開けたとき、夏波は狐塚祠の前にいた。
「夏波!」春陽が駆け寄った。「お姉ちゃん!」
二人は抱きしめあった。
鬼丸は篁のそばにより、目礼した。篁は鬼丸にうなずいた。
篁が言った。
「さあ、みなさん、帰りましょう」
エピローグ
「夏波! 起きなさい!」
姉のどなるような声で夏波は目が覚めた。今日から二学期。夏休みも終わり、あの事件から約一か月がたった。机の引き出しを開けると、あのとき九尾の狐から貰った石がキラキラと光っている。
小野篁は祠の中の砕けた石の破片を拾い集め、海に捨てると言って立ち去った。最初見たときは不気味なおじさんの印象がぬぐえなかったが、今となってはもう一度会っていろいろ話を聞きたいと思う。
「夏波!」階下で姉の声。
「起きてる。今降りるよ」夏波は下に向かって返事をした。
――そうだ鬼丸先輩がなぜあの場所にいたのだろう……。付き合ってるのかな? お姉ちゃんに後で聞いてみよう。
夏波は下に降りて朝食を食べ始めた。
「夏波、何度言ったらわかるの。朝はみんな忙しいんだから自分で起きなさい。今日から二学期が始まるんだから」
「はいはい」
「じゃあ私、朝練があるから先に行くよ」
春陽は食パンを口にはさんで学校へ出かけて行った。
「あなたも早く食べなさい。朝練あるんじゃないの?」
「だからうちの部は始業式と終業式の日は朝練無いって言ってるじゃん」
事件以降、父親も母親も心配性になっていたが、すぐに日常のありふれた毎日に戻った。事件直後は自分の影にもハッとして、身を縮めて驚いていたが、この頃はそこまで驚くことは無くなっていた。
「行ってきます」
姉から遅れること一時間、夏波は学校へ出かけた。
登校途中に楽しそうに話をしながら歩いている、二人の女子校生に出会った。夏波は立ち止まり、その中の一人ににっこりと染入るような笑顔で会釈した。そしてすぐ学校へと駈け出した。
「誰あの子? かわいい子ね。理奈知り合い?」
「全然。見たことない子。誰だろう。近所の子かな?」
「ふーん。知らないのに挨拶されてもねぇ。変な子」
「あっ!」
理奈は突然思い出した。暗い洞穴みたいなところで、鳥かごに捕まってたとき、あの子がいた。あの子、夢の中で私を助けてくれた子だ。理奈は急いで後ろを振り返ったが、もう夏波は遠くに小さくなっていた。
理奈たちとすれ違った男がいる。九月に入ったとはいえ、まだ残暑がきつく、真夏日が続いているのに、黒い服を着ていた。汗ひとつかいていない。背が高く、やせぎすで青白い顔をした男、小野篁だった。
(了)