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祈るものと選ぶ者

掲載日:2016/04/30

「――――これっきりだぞ」

 男は、紫煙をくゆらせながらさも大儀そうに頭を掻く。そして腕組みすると、目の前の人物――あるいはその体をなしているだけの何かに対して睨みを利かせる。

「そんな怖い顔をしないでくれ」

 威嚇された方はまんざらでもない様子で、若干の喜色を混ぜながら茶化すように言う。

 対して面いっぱいに不機嫌を示す男は、溜息混じりに訴える。

「だいたい、人の生き方とかそういうのに干渉すべきじゃねえんだよ、俺もお前も。俺は憲法違反の非生産的な存在、日陰者。お前らは、常に人に寄り添いつつ、人の認識がないと外形を保てない儚いもの。人に何かを与えるかと言えば、それは記憶の隅に小さく残る程度の染みであるべきだ―――少しばかり、立ち入り過ぎだよ」

「老婆心―――では、言い訳にならないか」

「ならねえなあ」

「それならば、性質と言う他あるまい。これは私のような存在すべてに共通することであって、為さざれば義務を放棄したことになる。そう、性質だ。義務なんだよ」

 目前のそれの言葉が途切れると、男は小さくなった煙草を傍らの囲炉裏に投げ込んだ。

「幸福をもたらすのが仕事―――ってか。福の神にでもなったつもりか、お前は」

 そしてこう続けた。

「お前は責任を持って、それがそいつにとって幸福だと言えるのか?」

 問われたそれはしばらく間、囲炉裏の橙色の光に炙られていたかと思うと、何かを呟いた。

 男は眉すら微動だにさせず、その声に聞き入っていた。

 独り言のような呟きを終えて、それが顔を上げた。男はそれと視線がぶつかると、再び面倒くさそうに頭を掻いてから、「わーったよ」と、投げやりにぼやいた。

 目を丸くしていた話し相手は、愉快そうにくすりと笑うと、穏やかな声色で言った。

 

「頼んだぞ」

                    











*   

硫黄の匂い。

 いくら経っても慣れない匂い。

 毎日顔を合わせる匂い。

 デッキブラシに力を込めると、それは一層勢いを増す。

 丁度さっき、女将さんに叱られた。

「そんなに力を込めて擦るな、ブラシが駄目になる」

 先週は「弱すぎる」と詰られた。そんなことが何度か続いた。どちらの時も日本人らしく「すみません」と平謝りするのに尽きた。置手紙でもして出ていこうかとも思った。

 露天風呂の掃除程度でそんなに思い詰める必要はないとは思う―――しかしこの旅館で青春の大半を過ごしてきた事実は、僕をこの地に縛り付けていた。

 いや、本当に縛っているのはあの女将さんだ。

 両親が他界して義務教育で教養を終え、働き口が見つからなかった僕。そんな哀れな青年を、ただ甥というだけで彼女は快く迎えてくれた。

 旅館の下働きはシーズンにでもなれば苛烈極まる。どうしようもないくらい忙しく、二年ほどでお客をそれなりに捌けるようになった。

 このあたりでは普通の旅館でも一年中忙しいというのに、少し変わった「売り」が有る所為で余計に多忙が深まるこの「玉椿」は、年中無休に等しい業務体勢である。

 屈んだ腰の悲鳴を聞きつけた僕はブラシを傍らに寝かせると、思いきり背筋を伸ばした。鶏の軟骨をかみ砕くような小気味良い音が後背部から背骨を伝って響き、思わず嘆息を

漏らす。「チチチ」と啼きながら蒼空を掻き分ける小さな鳥を見送ってゆっくりと瞬きをす

ると、少しだけ晴れ晴れとした気分になった。

 不意に、宿の敷地、山裾に接した辺りから、女性の声が聞こえた。シーズンも過ぎたこの季節に客がいたかなと首をひねったが、まもなく数人の女子大生が旅行にと、この宿にやって来た今朝のことを思いだす。

 僕がせっせと掃除をしているこの男風呂から向かいの山の方に、高くそびえる敷居で隔てて女風呂が設置してある。直下を流れる、取り立てて目立たない小川と花の咲かない森を眺めるだけのこちらと違って、その景色は開けた視界の中に蒼天と深緑の大地が相対し、凸レンズでもってフィルムを焼いたような扇型の自然が迫ってくるかのように佇んでいる。宵にもなれば、薄ぼんやりと墨汁を滲ませたような天と地の境界の少し上に、瞬くことの無い清純な大気を纏った眩い星が散りばめられ、無意識のうちに息遣いが止んでしまう。それについて見飽きることなどは無く、三原色で映し出される電子の世界よりもずっと魅力的だった。

 風流に配置された岩の縁を丁寧に磨き終え、濯いで茶色になった汚水に流されかけていた天道虫を拾い上げてから、鼠黐の硬く広い葉の上に乗せてやった。右往左往を繰り返してから間もなく突端に辿りついたそれは、何度か足踏みをしてから、おもむろに幹の方へ翻した。何か思い残すことでもあったのだろうか、彼はしばらくの間、幹と枝の又のあたりで静かにしていた。

 どこか拍子抜けに思った僕はそいつを横目に見ながら、掃除用具の片付けに入る。濡れていた時は綺麗になった気もしたというのに、渇いてしまうと途端に変り映えのしなくなった石床はくすんだ色で僕を嘲る。

僕はそれを避けるように視線を上げる――と、例の敷居のふち、視界の端でなにやら影が動いた気がした。

ここは湯殿、湯煙の中に蜃気楼でも見えたのかと目を疑ったが、確かに「それ」はそこに居た。

 八雲立つ八重垣に不穏な男の影。ここが男湯であることを鑑みればこれっぽっちも奇怪ではないが、腰にタオルを巻いて敷居にへばりつき、舐るようにその垣根から垣間見る隙間を探すその姿は、紛れもなく犯罪者か妖怪だった。

 もちろん、こんな現場に出くわすのは初めてのことでは無い。なまじっかこの宿が女性に人気なこともあり、覗きや盗撮と言うのは珍しいことではないのだ。

 だがしかし、白昼堂々と女風呂を覗こうとする不逞の輩はこれまで一切合財遭遇したことが無かった。

 デッキブラシを握り締め、音を立てないようににじり寄る。よほど夢中なのか、もじゃもじゃの毛玉のような頭髪の男は、削らんばかりに顔を押し付けている。同じ男性として情けなくなるほどだった。

 一歩踏み出せば呼吸まで感じ取れそうなほどに接近し、ブラシを振り上げる。

 まだ気づかない。

 落ち着かせるために、小さく深呼吸をする。

 まだまだ気づかない。

 生唾を呑み、目前を睨む。

 まだまだまだ気づかない。

 さらに落ち着こうと、瞼を閉じてから、ゆっくりと見開く。

「――――どしたの、おにいさん」

 隈の刻まれた業の深そうな瞳が、こちらを覗いていた。

                  

                 *


 山の上方、村はずれにその家は建っていた。

 そこには元武士の一家が慎ましく暮らしている。

 杣小屋のような大きさで、その所帯を考えると、決して満足な暮らしを送っているには見えない。けれど、そこで懸命に生きている若い夫婦と、夫の一族数人の生活には、笑顔の絶えることが無かった。そういった側面で彼らの生活を垣間見れば、彼らほど幸せに満たされた日々を綴る者たちは、すくなくとも一家を拒絶した共生の輪の中、目下の村々には見られなかったように思う。

         

                *

 

無慈悲に頬へと放たれた白く細長い掌は、鋭く僕を打ち据えた。

 ちりちりと痛む半面を洗剤荒れした掌で覆い隠す僕は、俯きながら、目の前で深々と頭を下げる女将さんを見やる。

「このたびは誠に申し訳ありません―――」

 不意に伸びてきた青白い手に頭を押さえつけられ、強制的に板張りの床と睨めっこになる。

「いや、良いですって。紛らわしいことしてた俺もまずいわけだし」

 女将さんの頭頂の先には、先ほどと違って服を着ているにもかかわらず、変わらず不審者のような佇まいの男が居る。いや、正確に言えば、彼の頭に包帯が巻かれているという変化は、ことの次第の説明には欠かせないものとして挙げる必要がある。

それが起こってしまってから後に女将さんから聞くに、道祖尾(さおのお)とかいうこの男性は通い続けて長いうちの常連さんらしく、その親密の度合いから女将さんが敷居に不備がないか入浴の折に確かめて来てくれと頼んだらしかった。もちろん隙間があって奥の女風呂が見通せでもしたら事なので、向こうではブルーシートを張っていたらしい。それをまったく知らされていない僕は、彼がこちらを振り向いて声をかけてきた直後、絶叫と共に、彼の頭部へと反射的にデッキブラシを振り降ろしてしまったのだった。

「―――すみませんでした」

 顔を上げてから、僕は謝罪の言葉を発した。隣の女将さんは眉間にしわを寄せて僕を睨む。

「いや、ほんと気にしなくていいから。楽しかったし」

 道祖尾さんは言った。

「楽しかった?」

 直後に怪訝そうな顔つきで復唱する女将さんに、体を震わせて慄く道祖尾さんはどもりつつ、苦し紛れを吐き出す。

「い、いやー!俺、す、隙間大好きなんですよねー!あっははは!」

わざとらしく笑い飛ばす道祖尾さん。

「―――あの、なんか隠してるんじゃ…」

「あー!痛い!頭ズキズキする!いかんなこれは!可及的速やかに酒をあおって床に就く必要がある!」

 頭を抱えてうずくまり、さぞ辛そうな様子を見せる眼前の男は、うなじが冷や汗に濡れていた。気づいていない女将さんは狼狽している。

 しばらくして、彼女が替えの湿布を持ってくると言ってその場からいなくなると同時に、包帯の男は一度こちらを見て頷くと、ものすごい速さの匍匐前進でその場から姿を消した。

 その後僕はもう一度、叱責された。


                 *


 二代前まで、彼らの当主は殿さまに仕えていた。

その殿さまの名前など、たんとわからない。

ただ、彼らの先祖が領主の隣に控えており、少なくとも人様に妬まれる程度に財も力も持っていた時期があったのは確かなことで、それを、彼らの小屋にたった一つだけ大事にしまい込まれている甚だ不釣り合いな赤い反物が示していた。

彼らはそれを、若妻の腹に息づく「ややこ」の着物を仕立てるためにと、売りもせず寒さをしのぐのに使うこともせず、ただただ蓬の葉と共に、小さな箪笥の奥で守り続けていた。


                *

           

「なーにしてんの、多田くん」

「なにって…仕事です。それより、どうして僕の名前ご存知なんですか」

「さっき女将さんに聞いたんだよ。よろしく、多田均(ひとし)君」

 例の女子大生たちが借りている「椿の間」と呼ばれる比較的大きな部屋で、彼女らが夕方の散歩へと出かけて居る間僕は、布団を敷く作業を終えてから床の間に飾られた諸々の手入れをしていた。すると、空きっぱなしだった引き戸にもたれかかって、道祖尾さんがこちらを眺めていた。

「…どうも、よろしくお願いします。ところでお客様はこんなところで何を」

「道祖尾で良いよ。そりゃーお前、もちろん女子大生の甘い香りに釣られ――――じゃなくて、ほら、名物をね、見に来たんだよ」

 わざとなのか事故なのかはわからないが、彼は咳払い一つを合間に混じえて、そんなことを言った。既に包帯が取れていて、湿布も剥がしたらしく、彼の頭髪のボリュームとバランスは初めて彼を見かけたその時に戻っていた。

「この部屋だよな?」

「え?」

「例の部屋だよ」

「―――あー…はい」

 唐突かと思われた彼の質問だったが、彼が直前に口にした「名物」という言葉から彼の言わんとしていることが推し量られた。そして僕は、左手に横たえていた一体の人形を少し掲げて示す。興味を示した道祖尾さんは、腰を屈めて手を伸ばした。

「―――土人形か。雰囲気あるなぁ、おい」

 外見からは想像もつかない丁寧な手つきで僕が手渡した紅い着物の土人形を矯めつ眇めつ観察する彼は、敷居に張り付いたり匍匐前進をしたりしていた人とは別人のように見えた。それから彼はしばらくの間そうしていて、待っているのも急かすようでなんだと思った僕がトイレットペーパーの補充を済ませてから戻ると、彼は部屋の窓際で外を眺めていた。

「…すみません道祖尾さん、他のお客様の部屋なので」

「んー?あーそうだな、それは悪かった。ほれ、あっちに綺麗な花が目に入ってな。なんて花だ?」

 言葉はともかく態度としては全く反省していない様子で、彼は窓の外を指さして気さくに尋ねる。少々辟易しながら見遣ると、夏色の林の中、ところどころに粉が吹いたように白が混じっていた。

「ああ、あれは玉椿ですよ」

「タマツバキ?」

鼠黐(ねずみもち)が一般的ですかね」

 毎年、陽が長くなるようになると、湧きでるかのように白い花を咲かせる。僕が初めてここに来た時も、その小ぢんまりとした低木に雪を被っていた。好奇心に押されるままに間近でそれを見た。小さくて可愛らしく、雪色の金木犀のようだったのを覚えている。

「へぇー」

 道祖尾さんは聞いているんだか聞いていないんだかわからないような声を漏らす。

飄々とした態度を不快に思い、睨みつけるつもりで彼を見てみると、そこで大事なことを思い出した。狼狽え問いただそうとすると、彼は少し口角を上げながら床の間の方を指さした。見ると、柔らかな笑顔を浮かべた少女の人形が向かいの壁をまっすぐ見つめるように置かれていた。不思議だったのは、その配置が多少の差異はあるにしろ、ほぼ完璧であることだった。

「聞いてるとは思うが、これでリピーターでね。少なくて何年かに一回、多い時には一カ月に三度ほどことがある。もちろん、毎度毎度この部屋ってわけじゃない…高いからな」

 僕の思惑を察したようで、彼はおもむろにそう言った。

「けど、一度くらい会ってみたいだろ?足しげく通っているのにいつも居留守だ。お宅のお嬢さんは身持ちが硬い、出し惜しみでもしてるのかってな」

窓の方から僕の突っ立っている入口に歩み寄りつつ、彼は冗談めかして言う。ただしこの場合冗談のように言うというよりは、まさしく彼の言ったことは冗談に他ならなかった。

「汚れた大人は見えないんですよ―――『座敷童』は」

 この旅館の「売り」というのはまさしくそれである。

「玉椿」が営業を開始して間もないころに、宿泊客の一人の男性が血相を変えて当時の女将に迫ったことがあった。それというのも、「風呂から上がって部屋に戻ったら床の間に赤い着物の女の子が腰掛けていて、自分に向かって屈託なく微笑んでからすぅっと消えてしまった。そしてそこに、こんなものが置いてあった」とのことで、その時女将に渡されたのがかの土人形とそれが来ていた小さく赤い着物だった。気味が悪くなった男性はその日のうちに宿を去ってしまい、その代の女将さんもどうしたものかと頭を悩ませたそうだ。そして一時期、その部屋―――「椿の間」は、使用禁止となっていた。

しかし一年後、例の男性が豪奢な出で立ちで現れたことにより、状況は一変する。

「まだ両親が生きていた頃は夏になると連れてこられて―――実家なんです、ここ。よく、親戚の女の子と『座敷童』を探してました。あの頃だって会えなかった」

 長いこと思い出そうとしなかった昔の出来事が、ふと脳裏に浮かんだ。けれどそれは悲しい過去だとかそういうものでもなくて、ただ懐かしくて愛おしいだけの記憶だった。優しい母と大らかな父。それから、浴衣の良く似合う女の子。現状に不満を抱いている分、赤茶けたモノクロのアルバムが欲しくてたまらなくなった。

 陶酔に浸ると同時に、違和感も覚えた。

なぜ、こんなことまで話してしまったのだろう。孫に昔話を語る老人でもあるまいし。

そんな不思議な感触に、ひとり首を傾げる。

 それを知ってか知らずか、道祖尾さんは

「はーぁ、なるほど」

 と、間の抜けながらもどこか思わせぶりにも聞こえないことはない呟きを残して、再び姿を消した。そして晩御飯の時間になっても、戻って来ることはなかった。


                   *


 少女が産声を上げたのは、文月の初めの頃だった。

 若妻にとって彼女は初産だったため、お産は非常に手惑うものとなった。加えて下の村では疫病が蔓延しており、たくさんの赤子が生まれて間もなく命を落としていた。 

しかし、彼らの待望は一族の懸命な働きにより、母子ともに問題の無い状態で全てが済んだ。

そして、柄にも無く豪雨に見舞われ、夜もすがら霹靂の轟いたその晩。

閂だけで閉ざしたなけなしの引き戸に向こうに、一家は数えきれないほどの足音を聞いた。


                  *


翌朝、いつものように廊下の掃除をしていると、不意に肩を叩かれた。

 ああ、また道祖尾さんか、と、うんざりしつつも、どこか憎めない彼の投げやりな口調を待ち構える。そして振り返って見ると、眼前には浴衣姿の女性が居た。どこの誰だと思い出すより早く、彼女はまくしたてるように言った。

「アンタ、ここの人ー?ウチらの部屋マジヤバいんだけど、カナちゃん泣いちゃってるし、どうしてくれんの?」

 支離滅裂だった。カナちゃんとやらが泣いているのはともかくとして、彼女がその原因の一端に部屋を引き合いに出してくるのが解せない。状況が掴めずに呆けていると、「ちょっと来て!」と吠えながら、僕を引っ張って行く。連行されるうちに、その方向と女性の外見から、この女性が例の女子大生グループの一人だったことを思い出した。

間も無く「椿の間」へと到着すると、五人の女子大生たちがこぞって廊下に出て来ていた。

独りだけうずくまっているのが居て、恐らくそれがカナちゃんとかいう人なのだろう、傍らには茶髪で耳に穴の開いた女性が付き添っていた。他の三人は青ざめながらも姦しく、自分たちの共有したなんらかの出来事について喚き合っている。

「あの、他のお客様に迷惑なので…」

 僕が遠慮がちにそう言うと、女性の一人が

「えー、ここ泊ってるの、ウチらとあのおっさんだけっしょー?別に問題なくない?それで黙ってろとか意味わかんないんですけど」

 と、えらくフランクな口ぶりで返してきた。

 言意味わかんないと言っている意味が解らなかったのだが、被害をこうむるのが道祖尾さんだけだと知ったら、幾分か気持ちが軽くなった。

僕は彼女らに事の次第を尋ねた。するとカナちゃんとやら以外の五人が一斉に喚きたて、周囲の音をかき乱した。落ち着くように言ってから、中でもまともに見えるポニーテールの女性に説明を促すと、彼女は躊躇いがちにこう言った。

「変な話なんですけど…あの、床の間のあの人形が夜中――――喋ったんです」

「・・・というと?」

「昨日の夜、布団に入りながらみんなでお喋りをしていたら突然、誰もいない隣の部屋から床の間あたりの壁を叩く音が聞こえてきたんです。みんなで座敷童かなって話してたんですけど、気になって近づいたら甲高い女の人の笑い声が聞こえて、同時にあの人形がカタカタ動いて―――」

 そこまで聴き終えると、背後から再び肩を叩かれた。今度は誰かと思い振り返ると、もじゃもじゃ頭が目に入った。

「面白そうだな。座敷童でも出たか?」

「・・・道祖尾さん」

「ちょっと失礼するぞ」

 彼は当然のように、彼女たちの部屋に入って行った。二人ほどが「勝手に入んないでくんない!キモ!」と叫んでいたが、まったくもってお構いなしだった。そして、続いて僕も「椿の間」へと足を踏み入れる。

 部屋の中は衣類やらゴミやらが散乱して酷い有様だった。よくもまあたった一日でここまで汚せるもんだと思った。ズボラそうな道祖尾さんも顔をしかめていた。

 床の間には、変わらずあの土人形があった。

「多田君、あの女の子たちに、もう一度話を聞いてきてくんない?俺はこっちを調べとくからさ」

 僕に振り返りながら、彼はそんなことを言った。

「嫌ですよ、下着とか盗むんでしょ」

「なんか俺の評価下がってない?」

 苦笑いを浮かべる道祖尾さんに、思わず口角が緩む。

「大丈夫だって、そんな野暮なことしないさ。こっから先は俺の範疇だ。専門家に任せときなさい」

「専門家?」

「そう、専門家。不思議なことの専門家なんだよ、俺は」

 にやつきながら、彼は誇らしげにそう言った。

 そして結局僕は、その笑顔に誇り以外の何かが混じっているのに気付くことはなかった。


                  *


 彼らは、一種被差別階級という立場にあった。

 というのも半世紀近く前、横暴な統治をする殿さまの重臣であった彼らの先祖が、ある不思議な芸を得意とする少年に対して主が採った行動に非常に憤り、目前で刀を抜いてしまうということがあったのだ。

 その白刃が振り降ろされることは周りの人間が必死に止めたものの、猛烈に怒りの色を示した殿さまは、重臣であった彼を切腹どころか打ち首に処し、あろうことかその家族を非人として扱うこと、そして一族には転居を命じたのだった。

 しかし実際は初めのうち、あの殿さまに一矢報いてくれたとその転居先で熱烈な歓迎を受け、何不自由なく暮らすことができていた。ただ、半年が過ぎたころに、事態は一変する。

 ある日、殿さまからその一族のうちの男だけが、城へと呼び出された。天守閣にまで連れてこられ、彼らは状況が呑み込めずに首を傾げる。すると、殿さまが外を指さし、こう言った。

「おお、なんということじゃ。ほれ、見てみい。あの村じゃ。村一つが火事になっておる」

 全てを察した男たちは城から駆け下り、村へと奔りぬけた。しかし、着いたときにはすでに遅く、彼らの目前には焼野原が広がっていた。

 村に残されていた一族の女性は一人を残して焼け死に、村人も半数が命を落とした。

 それからというもの彼らは、土地の者に激しく差別されることとなった。

 


                 *

だぁれもきづいてない。

 みんなみんなきづいてない。

 わたしはずっとここにいるのに。

なきむしおねえさんも、うるさいおねえさんたちも。

やさしいおにいさんも、だいきらいなおじさんも。

―――おばさんだけがしってる。しってるのに、きづかない。

あったのはしってるのに、あるのはしらない。

どうしてだろう?どうしてだろう?

わたしにはわからない。わたしはわからない。

だから、おしえてあげるの。きづかないなら、おしえてあげるの。

わたしがずっとここにいること。みつけてくれるのまってたこと。

でも、もうわたし、おなかがすいちゃった。

だから、かくれんぼももうおしまい。

おうちにかえるじかんだよ。

みんなでいっしょにかえろうよ。

おじいちゃんがまってるよ。おばあちゃんがまってるよ。

おかあさんもまってるし、おとうさんもまってくれてる。

きっとおねえちゃんも。

だから―――――ね?



みんなでかえろう?





「ちょっとー、マジありえないんですけど」

道祖尾さんが入室して以来、女子大生たちは平均してこんなことばかりぼやいていた。

僕自身、彼に専門家だなんだと言われて引き下がりはしたものの、別段取り立てて彼を信用しているなんてことは無く、いまさらになってある後悔をしつつある。それはつまり、この事件の原因が解明されたその後の話だ。クレームなんかが来たらことがことなのだ。自分から進んで怪奇を堪能しようとこの部屋を選んだにも関わらず、その実、体験してみてからそれに慄き、恐怖したという精神的外傷への賠償を要求する。これまでにも数度あって、決まってその度に、僕は女将さんに詰られた。宿泊予約受付の担当は、概ね僕の仕事なのである。

「申し訳ありません、今少しお待ちください」

 ただ平謝りを続けるのが、この瞬間の僕の仕事だった。

「――――均、これはどういうこと?」

 聴きなれた声が、背後で低く響いた。

 躊躇いがちに振り返ると、細く鋭い目が僕の視線を捕えた。

「叔母さん、これはわけがあって」

「言い訳の云々を訊きに来たんじゃないわ。なぜ、あの人をこのお客様方の部屋に入れたの」

 聞く耳など持とうとしないことくらい、当の昔から解りきっていることだった。

祖父母が他界した後で僕の母に委託された「玉椿」経営引継ぎという暗黙の義務は、僕の両親が事故死したことで、叔母さんである現女将さんへと権利の譲渡が発生した。それを快く思わなかったのは他の親族―――ではなく、他でも無い叔母さんだった。自由気ままに暮らしていた彼女が、通年忙殺される宿泊施設の業務へ強制移行。そこで産まれたストレスが巡り巡って僕へと発散され―――今のような、発言への否定にも繋がってくるわけである。

気に入らないことが起きた原因から生まれた者も気に入らない。差し詰めこういうことだろう。

「……すみません」

 僕が強要された無責任な謝罪を述べると同時に、女将さんの歯ぎしりと共に彼女の右手が大きく助走を付けた。

 歯を食いしばり、その一瞬を耐えようと目を瞑る。

「っ…く…?ん…?」

 しかし、いくら待っても僕の頬に衝撃が奔ることは無かった。

非常を感じ、薄目を開ける。

ぼやける視界の中で辛うじて把握できたのは彼女の青白い腕。

そして、それをがっちりと掴む日焼けしたたくましい男の腕だった。

「―――親は他人の前で子どもに手を挙げるべきじゃない」

 鮮明になっていく視界の中で、いつになく真剣な顔つきの道祖尾さんが女将さんを見下ろしていた。女将さんは道祖尾さんの手を振り払うと、彼をきっと睨みつける。

「私はこの子の母親じゃない。それに、あなたも勝手なことをしてもらったら困ります。いくら母と懇意にしていたからと言って、好き勝手していい理由にはなりません。これ以上は営業妨害として警察を呼びます」

「保護者である以上は、それに準ずる態度を示すべきだ。警察云々は好きにしてくれていいさ。ただ、口コミってのは馬鹿にしない方がいい。後味悪い思い出背負わせてこいつら帰らせてみろ。片田舎のしがない宿屋なんておじゃんだ」

「廃業になったところで、あなたにはなんの損もないでしょう。相手を慮ったようなことを言って、自分の意志を正当化しないでください」

「ここが廃墟になったら路頭に迷いかねない奴を知ってる。見るに忍びねーんだよ、そいつのそんな姿は。それだけで十分だろう。俺のお節介はそこまでだ」

 睨み合う二人。どちらの言も一理あって、互いに譲るつもりはない様子である。

 目の前で巻き起こる静かな抗争にたじろいでいたのは僕だけではなく、先刻までやかましく喚いていた女子大生たちもどこか申し訳なさそうな顔をしてそこにいた。

「ゔぅ…もう帰るぅ…」

 しばし間を置いて、この息の詰まる重苦しい空気を断ち切ったのは、うずくまって泣いていた例の女子大生だった。不意に立ち上がり、彼女は「もう家帰る」と言ってポニーテールの友人に泣きつき始めたのである。場の空気を察していた彼女はおろおろとその場の面々に視線を奔らせる。釣られて見渡すと、白けた様子で、女将さんと道祖尾さんは互いにそっぽを向いていた。少し安心した僕は、道祖尾さんを見上げる。

「何か―――何かわかったんですか?」

 眉間にしわを寄せていた彼は、片眉を上げてからほのかに微笑を称えた。

「ああ、わかったさ。全部わかった。余すことなく全てが」

 それはさすがに言い過ぎだ、と僕は思った。

 それに気付いた彼は決まりが悪そうに頭を掻くと、視線を女子大生たちに送った。

 先程はキモイだなんだと言っていた彼女たちだったが、道祖尾さんの視線を感じるや、そう広くない廊下に適当に散っていたのが一か所に集まって、それぞれが道祖尾さんを思い思いに見上げている。

 道祖尾さんは大きく見回すと、皮肉めいた笑みを顔一杯に広げた。

「どれもこれもあれもそれも――――すべてがすべて、人為に依るもの。座敷童なんてここにはいない。ならば誰がやったか。

―――多田均。それはたぶんお前なんだろうよ」

 それはあまりにも簡潔で、予想外で、何より身に覚えのない答えだった。 

                  

                 *


 雨音と共に、彼らはその小屋へと雪崩れ込んだ。

 一族の者が驚嘆の声を上げるよりも早く、村人たちは彼らを棒きれやらなにやらで叩き伏せた。悲鳴を上げながら、彼らはそれでも、ある場所へ進もうと試みる。

 それに気付いた村人たちは、こぞってそこへ奔った。

 一枚の床板が、不自然に歪んでいる。村人たちはそれをめくりあげ、中に潜んでいた若い女性―――そのか細い腕に抱きかかえられていた生まれたばかりの子を取り上げた。

 取り乱し泣き叫ぶ女性たち。襲撃を敢行した者たちの中にも、女はいた。しかし彼女たちはなんの躊躇いもなく、進んでその赤子を手にかけようとした。

 どうして私たちの手に入らなかったものが、この女には。ましてやこの血の者たちに。

 そういったお門違いな憎悪でさえも、集団は容認してしまっていた。

 しかし――――結局彼女たちの振り上げた鎌が、幼児の肢体を切り刻むことは無かった。

 白刃が喉元に迫ろうかと言うとき、赤子が火がついたように泣き出したのである。

 それを見た彼女たちは、自分のしようとしていることの愚かさにようやっと気がついた。

 生まれて未だ数時間刻みの命であるにもかかわらず自らの生命の危機を感じとり、その恐怖と悲しみを、泣くことで周りへと伝えようという懸命に、学んだのである。

 手を出すことができず、彼女を取り巻いて見るしかなかった。

雨脚の弱まった夜明け前に村人たちは、そこを去って行った。

              

                 *


 衝撃的なその推理の根拠と云うのは、いたって普通の現物証拠が大半を占めていた。

 まず、隣の部屋の埃の上に残った足跡。足袋の形を成しており、それを履いているのは僕と女将さんだけであることから、隣の部屋から聞こえた怪音の正体が二人のうちどちらかであるとのこと。次に土人形の赤い着物の袂に隠されていた超小型の蓄音器。道祖尾さんがこの宿の部屋と言う部屋に一律で設置されているにエアコンのリモートコントローラーを操作すると、甲高い女性の笑い声が廊下に響いた。さらに、土人形の下部、平衡を保つための平面な部分には携帯電話においてバイブレーション機能を司る小さな装置、それが貼り付いていたのだという。そしてそれもまた、送風と冷房の切り替えによって容易に作動が実証できた。

「―――そんで、普段の二人の仕事内容を考えてみた」

 女将さんはいつも、玄関でのお客様のお出迎え、炊事洗濯、それから玄関付近の掃き掃除をしている。対して僕は料理の配膳などの各種サービス及び、宿内の清掃が平生の仕事である。

「この時点で、誰にも怪しまれずにあんたらの部屋に入れるのは多田君だけだな?」

 茫然とする僕を一顧だにしないまま、彼は続ける。問いかけられた女子大生たちは困惑の表情を浮かべつつ、僕を横目に見ながら小さく頷いた。それを確認した道祖尾さんは、さらにそこへ付け加えるように、トドメの序章を口にした。

「実は昨日の夕方、あまりにも退屈だったから宿の中をふらふらしていたらたまたま、この部屋の前に到着したんだよ」

 僕は気づいた。彼は昨日のあの時のことを話に出そうとしている、と。あの、鼠黐の名を問われたあの時のことを。そして同時に、疑問が浮かび上がった。なぜ、彼はあのあたりさわりのないひとときを証拠として挙げようとしているのだろう。あの間のどこに、疑わしい部分が―――――?

「そしたらよ、こいつ―――――さ」

 彼は強張った表情で、僕を指さす。生唾を呑む女子大生たち。女将さんは眉ひとつ動かさないでいる。しばらく間があって、道祖尾さんはゆっくりと口を開き―――とんでもない嘘を吐いた。

「―――あんたらの布団の中に、全裸で入って行ったんだよ」

「―――――はぁあああああああ!?」

 思わず叫ぶ僕。女子高生たちも道祖尾さんの言いだした主に僕の生理的ショックな暴露を受けて、侮蔑の眼差しいっぱいに、僕を睨みつつ金切り声を上げる。

「ど…どういうことですか?」

 さすがの女将さんも面食らったようで、目を皿のようにして道祖尾さんに尋ねる。

「これは推測の域を出ないんだが―――おそらく、性に目覚めるこの多感な時期に、長いこと女っ気がなかったのが問題だろうな。こじらせて変な方向に目覚めたか…あるいは」

「ちょ・・・ちょっと待ってください!」

 流石にこれ以上、彼に嘘を吐かせておくわけにはいかなかった。体面上の問題もある。ここで僕が道祖尾さんの言ったすべてを認めたとしたら、僕は其の後いったいどうすればいい?―――帰る場所なんて、どこにも無いというのに。

 そもそも、まず、なんの理由があって道祖尾さんはこんな大嘘をついているんだ?

「そんな…そんなのこじつけじゃないですか。だいたい、見ていたとしてもそれはあなた一人だ!証拠として何か具体的なものが…ここに居る全員が納得できるものが―――」

 ところどころ声を荒げて訴え続けて行く中、不意に僕の頬が何かに打たれた。

 思わず体勢を崩し、廊下に伏せる僕。しんと静まり返った空気の中、興奮と怒りの感情に揺す振られながら、視線を上げた。

「叔母さん…違うんです。僕は――」

「―――だまりなさい!」

 蚊の鳴くようにか細く響いた僕の声は、女将さんの怒声に呆気なく掻き消された。同時に、すぅっと体温が下がって行くのを感じた。

違うよ叔母さん。僕はやってない。何もしちゃいないんだ。この二年の間、僕はただあなたの言う通りにすべてをこなし、すべてを身につけてきた。怒られないように、怒らせないように、なるべくあなたにかかる負担を減らし、楽をしてもらえるように努力してきた。辛いことばかりだったけれど、それは僕の母さんと父さんが死んで自由を奪われた叔母さんに比べればわがままだって、ずっと言い聞かせてここまで来たんだ。

「丁度いい機会だわ、均。あなたももう十八になる」

 やめてくれ、どうしてそんなこと言うんだ。

「そろそろ本格的に就職が目指せるものね。まるで折り合いを付けたみたいだわ―――そう」

 彼女がその時、躊躇いを持ってして言葉をためたのかどうかというのは、僕には判断できなかった。

 口から出る言葉には悲愴感こそ籠っていた―――けれど、その表情からはどこか彼女の中で胸のすいたような快の様相があることを、見て取れたのだ。そこで僕は悟った。もうここに、僕の居場所はない―――と。

 そしてそれを強調するようにして、彼女は最後に、力強い口調で言った。

「―――出ていきなさい、均」

 僕はただ項垂れるだけだった。


                    *


 彼女が産声をあげてから十年が過ぎようとしていた。すっかり体も大きくなり、誂えられた、豪奢というほど派手でない一種落ち着きを持った奇異な赤い着物は、母親譲りで顔立ちの整った彼女によく似あうようになった。

物心つく歳になってきただけあり、自分たちの一族が村の人間から敬遠されているのはわかっていたが、それでもやはり差別について完全に理解していたわけでは無かった。そしてそれを完全に彼女が理解し、絶望に身をよじらせたのは、奇しくも彼女の享年、命日と同じ時であった。

 ある時、村人の子供が鞠をついて遊んでいた。楽しそうだと思った彼女は、近づいていって貸してくれるように頼んだ。嫌がる子供だったが、どうしても貸してほしいと頼まれ続けて、とうとう折れた。嬉しそうに鞠を受け取る少女。しかし、直後後頭部に鈍痛が奔る。

 彼女が目を覚ましたのは、広いどこかの屋敷の内だった。

 後頭部からは未だに疼痛が続き、さらになにやら下腹部が熱を持って異常に痛む。そこで彼女は、自分の着物が見当たらないことに気付く。服もなしに、彼女は猿轡をかまされ緊縛されていた。そして太腿には、妙に濃くどろりとした血液が一筋流れていた。

 わずかに見えたふすまの隙間、二人の男が何やらを話し合っているのが見えた。彼女は片方のことを知っていた。他でも無い、自分たちを隔離した村の村長だった。もう片方は見たことが無かった―――が、おおよその見当はついた。

「人買い」から逃れるために、彼女は緩んだ縄を解き、自分の目にした屋敷内の人数とは不釣り合いに並ぶ草履の海を蹴散らかして玄関を突き抜け、村の中を全力で走った。生憎夕方だったのと、今年の凶作に依って農夫が外に出ていなかったことで、彼女は一刻ほどで家に帰り着くことができた。

 彼女のその様子―――後頭部の打撲傷、縛られた痛々しい縄の跡、犯された純潔を見た一族の者は、憤怒の様相を露わにした。次々に床下から刀槍剣戟を取り出し、鍋を被る。

 そして一樽だけ残しておいた酒を全員で煽ると、着替えさせた娘の小さな頭を優しく撫でてやり、「待っていなさい。お前の着物を、返してもらってくるからね」と一言だけ告げて、杣小屋から出ていった。

 少女はそれから半刻経って家を出た。


                  *


「ねえ、あんたたち、さっきから何をしゃべってんの?」 

 女将さんの宣告の直後、何の遠慮もなしに号泣していた例のカナちゃんが割り込んできた。何事かと見遣ると、彼女は当惑しきった表情で、僕たちを見つめている。

「なにかあったのか?」

 道祖尾さんがそう尋ねると、彼女は震える声で呟くように言った。

「…さっきあなたが流した女の声…あったでしょ?」

「―――ああ」

「私が聞いたの―――――あの声じゃない」

 道祖尾さんの表情が硬直する―――そしてその直後だった。

「あはははははっはっはははっははっははあはっはっはははっははは―――!」

 甲高いとは明らかに違う、叫び続けた後のしわがれ壊れて狂ったような笑い声が、宿の中で跳梁跋扈した。

悲鳴を上げる女子大生たち。カナちゃんとやらは、気絶したのか仰向けにぶっ倒れていた。

女将さんはへたり込んで膝から崩れ落ち、道祖尾さんはぎょっとしたままで口角を歪ませ、真一文字に結んでいる。不気味で邪悪な、叫びに近い笑い声に毒されつつあった僕は、段々と意識が遠のいて来ていた。何かに連れていかれるような、妙に滑らかな陶酔―――いったいこれは…

「多田ァ!しっかりしろ!」

 胸部に強い痛みが響き、薄目を開けると道祖尾さんが必死の形相で僕を見つめていた。

 なぜか廊下は、薄暗闇に包まれていた。まるで逢魔が時のような。

 ふと、隣に居る女将さんを見遣ると、彼女は廊下の先――薄闇と真黒が混濁したあたりをじっと見つめていた。そしてすぐに、僕はそこで動く異形を確認した。

 ぎょろぎょろと動く白濁した、異常に寄った白い二つの目。皮膚はしわを寄せ、一見老婆のようにも見えるが、その小さな赤い着物と僅かに残る毛髪であしらえた髪型は、子どものものに違いなかった。前歯の四本を残して歯の抜け落ちた口は、何かを漏らしながら僅かに開いている。コケシのような、妙に頭の大きいシルエットから伸びた細く小さな二本の腕は、大事そうに一つの鞠を抱えていた。

 吐き気を催すような臭気を伴い、それは少しずつこちらへ近付いて来ていた。呆気にとられていると、道祖尾さんが僕の手を引っ張って、化物の来た方向と反対の廊下の端まで駆けていく。

「道祖尾さん、あれはいったい…?」

「知らねーよクソったれ!見てくれだけなら確かに「すじかぶろ」だが、あれは奈良の遊郭の伝承だ!知るもんかあんなの!」

 投げやりに返す道祖尾尾さん。専門家じゃなかったのか。

 とうとう突端まで辿り着くと、彼は携帯電話を取り出して誰かにコールをかけていた。暫く経ってから、スピーカーの奥から声が漏れ出た。瞬間、道祖尾さんが叫ぶ。

(かし)()!今すぐ来い!十分以内に来なかったら秘密全部ばらすからな!」

 あまりに乱暴な呼びかけに加え、あちらからの返答はまるで確認せずに、彼は通話終了を選択した。よくわからない怪異との邂逅と道祖尾さんの一連の行動にしばらく追いつけずにいた僕だったが、彼が目を瞑り腕組みをし、三度目の舌打ちをしたところで、彼に訊かなければならないことがあるのを思い出した。

「―――そういえばアンタ、さっきなんであんなとんでもない嘘ついたんだよ!」

 びくっと体を震わせ、「うぐ」と呻くもじゃもじゃ頭。首筋に冷や汗を垂らし、口元が微かに痙攣している。それを好機と見た僕は、まくしたてるようにして続けた。

「だいたい、あんたのあの証拠だってよく考えてみたらおかしいじゃないか!」

 まず、隣の部屋の足跡の件。確かに僕と女将さんは足袋を履いて仕事していて、完全予約制のこの宿に於いて使用していない部屋は二日に一度の清掃で良かったから、埃が溜まっていて、そこに足跡を見出すのはわかる。けど――――

「アンタ、一度だって隣の部屋を見に行ったりしてないだろう!?」

「…」

 次にエアコンのリモコンと連動して動いた蓄音器及びバイブレーション装置。

「僕は給料もらってないし、うちにはインターネットも整備されてない。この辺りは車で二時間かかる場所にしか商店は無いし、そもそもあそこは駄菓子屋です。あんなもの買う場所なんてないし、それをあのリモコンで作動させる技術なんて僕には無い!」

 最早、彼の虚構は明らかだった。僕はふつふつと湧き上がってきた怒りにまかせて、彼の胸ぐらを鷲掴みにする。そして気まずそうにしている男を睨みつける。

「僕は―――僕は、居場所を失うところだったんだ!言っただろ?両親はもう死んだって…ここしか帰る場所が無いんだ」

 僕は帰属意識が強い人間だ。弱くて小さくて、とても一人じゃ生きられない。誰かの構成した輪の中に居て、中心ではないにしろ端の方で笑っている――それが僕のあるべき姿。

「あなたは、僕をまた薄暗いところへ放り出すのか…!」

「…ちげーよ」

 詰り始めて以来、彼はここで初めて言葉を発した。

 けれどそれが見え透いた否定であったのが、僕の怒りを助長した。無意識に拳を振り上げていた。

 やってしまったと思い、怪我をしていないか心配になって彼を見る。しかし彼はけろっとしていて、取り立てて何もなかったような顔で天井を見つめていた。それもそのはず、僕のひ弱なフックは彼の左手で容易に受け止められていたからだった。

「――何から話せば良いんだろうな」

 ばつが悪そうな顔をして、彼はそう呟いた。


                  *


 少女がかの屋敷に着いたころ、すでにそこは血の海となっていた。

 一族が来るのを見越していた村長は牢人を多数動員し、彼らの到来を待った。

 考えもなく侵入し、広大な部屋へと辿り着いた彼らは、人殺しの達人と言っても良い人間たち相手に敵うはずもなく、一人一人惨殺されていった。男性は四肢をもがれた後、下半身から輪切りにされた。女性は凌辱の限りを受けてから、首を絞められた。

 茫然自失の少女を、薄汚い男たちが取り囲む。

どうやって殺してくれようか―――そんな目の野獣たちに囲まれた彼女は、おもむろに目の前に転がった大刀で、自分の喉首を掻き切った。

そして一筋の涙を流し、「帰ろう」と呟いてから、静かに息を引き取った。

父が取り返してくれた、紅い着物を抱きしめながら。


                *


「―――と、まあ、こういう伝承というか、悲劇譚がこのあたりには残ってんだよ」

 長々と、彼は昔話を語った。とても笑えた話では無い。差別と言う問題を深く内奥で孕んだ、本来は薄暗い中で自然消滅していくはずの物語だった。

「でも、その話と僕に何の関係が」

「お前、今の話の「女の子」に何か覚えがないか?」

 唐突に尋ねられ、口をつぐむ。そしてしばらく考えてから、別段思い当たる人もいないことを彼に告げた。彼は眉を顰め、怪訝そうな顔をしてから首を傾げた。

「何年か前まで、ここにお似合いな餓鬼がいたろ?赤い着物着た奴だ」

「あ…」

 まだ祖母が生きていたころ、座敷童を一緒に探した少女―――浴衣の似合う女の子。まだ着物と浴衣の判別も付かなかったあのころの僕。彼女の着ていた和風な服装を、祭りでよく見かける浴衣だと思い込んでいたのか。

 しかし、それはたかだか十年ほど前の出来事であって、今のお話の女の子のように殿さまが存在している時代とはかけ離れている。

「勘のはたらかねえ奴だなあ。その餓鬼が「座敷童」だって言ってんの」

「は…?いや、座敷童はこの旅館の名物でして、ただの商業効果を狙った作り話だって叔母さんが」

「存在非存在を認識するのはお前の勝手だから突っ込むつもりはねえよ。ただ、変わったことが起きてたってのは、客から聞いてただろ?」

 頷くよりほかはなかったが、やはり疑わしいものがあった。

 というのも僕がここで働き始めた一年目、かなり頻繁に「座敷童」へのお礼の電話があったのは事実で、しかし僕が「椿の間」へと通し、対応した客についてそういった話を未だ聞かないのもまた事実なのである。

「それはなぁ…まあ、俺も絡んでくるんだが…細かいことはいずれ説明する。ただ簡潔に言うとすれば―――俺は二年前、この宿に居る「座敷童」を連れだした」

 困ったような表情で、彼はそう言った。どうやら不本意にしたことのようである。

「俺とこの宿の因縁はどっちかっていうと婆さんとなんだ。だけどな、その座敷童との因縁は、お前の方にあるんだぜ?」

 彼は、そんなことを言った。

 あまりに唐突なことに反応できずに首を傾げる―――と、音も無く、目の前に一つの球体が転がってきた。鞠だった。ぎょっと体を強張らせた二人は反射的に、虚のごとき通路を見遣る。

「―――もう来たのか」

道祖尾さんが暗く染まった廊下の先を睨みつけた。

「あれは一体、なんなんですか?」

 震えを歯ぎしりで押し込みながら、道祖尾さんに尋ねる。彼は先刻との同じように「わからない」と言うだけだった。

 やがて、背中の格子戸から差し込む光が曖昧に創り上げた境界線に、異形がその姿を浮かばせた。相変わらず、混濁した瞳は何を見つめるのかわからない。ぼそぼそと何かを呟きながら、異様に大きな頭を左右に揺らして近づいてくる。

「ちょ…道祖尾さん、あんた専門家なんでしょ!あれくらい、いなしてくださいよ!」

 最早頼る者が隣の怪しい男しかいなかったのは不幸だった。

「ばっかじゃねえのお前、漫画の読みすぎだ!俺ができんのは精々塩撒いたりするくらいだわ!」

 期待を裏切らず、彼は情けないことを叫ぶ。そのうち押し合いへし合いへと発展した。

「そもそもあれが出てきたのは、あんたが僕を陥れようとしたからじゃないんですか!?罰が当たったんですよ罰が!道祖尾さんが先に犠牲になってください!」

「ふざっけんなクソガキ!俺はまだやりたいことあんだよ!帰る場所無くなりそうならその前に自宅でくたばれ!」

 神様仏様が見たら溜息を吐きそうな醜態を晒す僕と道祖尾さん。流石に体格の問題があり、結局競り負けた僕は廊下に背を打ち付けた。

 痛みに顔をゆがめ、瞼を閉じそうになる―――と、ひどく乾燥した何かが僕の頬を触った。

 仰向けになった僕の顔を覗くように見下ろす化物。硬直し、頸椎に悪寒が奔った。

「か…ろう、も…じか…やさし…さん、ど…こ、おね…ちゃ」

 延々とそれは何かを呟いていた。聞き取れない言葉―――それが日本語であるのかすらわからない。恐怖で薄れゆく意識に身を任せ、できることならこのまま気を失ってしまいたいと思いながら、僕は瞼を閉じようとした。

「ね…ろう。かくれ…まい。ど…て、ね…ろう。…かえろう?」

 ――――「かえろう」…?


「悪かったな『妹』よ―――迎えに来たぞ」


 聴きなれないがどこか懐かしい声が響いた。

同時に、化物の動きが止まる。

距離をおこうと、僕は腕を機動力として背中を擦りながら少し移動し、上半身を起こした。

飛び込んでくる、あまりに眩い陽の光。それをバックにして、弛緩しきった表情の道祖尾さんと、紅い着物の良く似合う懐かしい女の子の姿があった。

「遅ぇぞ『お玉』」

 溜息を吐くように、道祖尾さんは語りかける。少女は、

「愚痴なら火車(かしゃ)の奴に言え。私は鉄の猪の運転などできん」

 と吐き捨てるように言うと、僕に向き直ってはにかみながら、

「―――久しぶり、お兄さん」

 と、懐かしい声で言ったのだった。


「おい、ありゃなんだ一体?」

「専門家の台詞じゃないな。しっかりしてくれ」

 沈黙を続ける化物を前に、奇妙な二人組は呑気な会話をしている。

 辟易した顔つきのまま、彼女はさらりと言った。

「あれは、私の『妹』だ――――もっとも、血縁的な話では無いけどな」

「というと?」

「二年前にお前が私をここから連れ去ったろう?あの時の私と、今の私で違うところを思い当たらないか?」

「……老けたか」

「言い方を考えろ―――なまじっか間違いでないのが気に障るしな」

 赤い着物の少女は、語りを続ける。

「あの時、私はこの宿に残っている因縁と決別するためにお前を頼った。寧々とは一悶着あったにしろ、私自身は全て丸く収まったものだと思っていた―――が、そう上手くは行かなかったようだ」

 お玉は自嘲気味にそう言った。ちなみに、寧々とは、僕の祖母の名前である。ほんの少し前まで、ここの主だった人だ。

 考えを整理しているのだろうか、お玉が語りを止めている間、道祖尾さんは「あー、そういうことか」と勝手に納得していた。

それに反応を示した彼女と僕は、視線で道祖尾さんを促す。

 年下相手に色々と指図されるのが気に食わないのか、彼は不機嫌そうな顔つきになってから、石のようになった化物を指さし、言った。

「ありゃあ、お前の「精神部分」だな、お玉」

「ご名答」

 彼女が再び語りを始めた。

「あの『妹』は、私がここを離れる際、私が無意識に切り捨てた私の「幼い」部分だ。あれがまともな言語を話すことができず、同じことを延々と言い続けているのはそこに原因がある。鞠を抱えていたのも―――思い出したくないが、私が差別を意識し始めたあの事件の発端の幼い記憶…それが精神に刻みつけられているからだろう。見てくれが恐ろしく不完全なのは、身体の大部分を私が持って行ってしまったからだ」

 まるであらかじめ用意していたかのように、彼女は滔々と語った。その姿に以前の無邪気な少女の面影はなく、僕よりずっと大人びていた。

「可愛げが無くなったと思ったら道理で」

 僅かに口角を上げながら、道祖尾さんが軽口を叩く。お玉は鼻で笑う。

「やかましい。お主にふりまく愛嬌など、初めから持ち合わせておらんわ」

「あれぇー?二年前に顔ぐしゃぐしゃにして泣きついてきたのはどこのどいつだっけぇ?」

 茶化す道祖尾さんに、耳まで真っ赤にしたお玉が何度も蹴りを浴びせる。道祖尾さんはにやにやと憎たらしい笑みを浮かべながら、それを片手間に捌く。

 肩をいからせ息を荒げてムキになる彼女の様子が微笑ましく、図らずも僕は顔を綻ばせていた。それに気付いた彼女は咳払いを一つすると、乱れた着衣を直す。そしておもむろに、例の化物へと歩み寄って行った。

 化物はそれを感知したように、おもむろにその顔を上げる―――と、その顔つきは少し前とは打って変わって、くりくりと黒目の大きな、丸みを帯びた顔立ちの可愛らしい少女だった。さらに肌も体つきも髪も生気を帯び、その姿はお玉と瓜二つだった―――もっとも、どちらもお玉であることに違いはないのだが。

「中途半端同士の再会だな」

 いつのまにやら煙草を取り出して吸い始めていた道祖尾さんは、腕を組んで彼女たちを眺めていた。

「全館禁煙ですよ、ここ」

「知ってるか?煙草の煙や松脂ってのはな、怪異を退ける力があるんだぜ」                       

「そうなんですか、へー。わかったんで、いますぐ喫煙をやめてください」

「なんか怒ってない?多田君」

 彼は渋々長ズボンのポケットから携帯灰皿を取り出すと、まだ六割ほど残っている煙草をその中へと押し込んだ。そして腕組みをすると、僕を見下ろした。なんだ一体、と、不快に思い、それとなく睨みつける。飄々として気にしない彼は、視線をお玉のいる正面に向ける。

 釣られて正面に向き直った途端、淡い光が辺りを包んだ。

 幾千もの青白い蛍が群れを為し優しく照らすかのような―――この世とは思えない妖艶且つ神秘的な光景。思わず息を呑み、感歎の呻きが漏れる。

「なんですか…これ」

「知らん。知らんけど、よく見る。月並みな表現だがまあ、綺麗だよな」

 こいつほんとに専門家なのか。

 感想だけ見たら僕と大して変わらんじゃないか。

「――――わー、おねえちゃんだー」

 不意に、あどけない響きが鼓膜を伝わった。

 見ると、少し前まで化物だったもう一人のお玉が、目の前の自分へと両手を伸ばしつつあった。姉の方は、口元に微笑を浮かべている。何でもない、それは単に仲の良い姉妹が戯れている光景だった。

「お玉!」

 打ち付けに、隣の道祖尾さんが険しい形相で怒鳴った。これまでの間抜けな様子とは打って変わって、その顔つきは鬼気迫った様相を呈していた。対して、返事でもするように少し振り返った少女は、微笑みを称えたまま、何も言わなかった。

「二年も離れた肉体と精神が一つになるとして―――俺は、お前がこの二年間のお前でいつづけられることを保証できない。残念なんだか幸いなんだか、こんな事例は、後にも先にもお前くらいだからな」

「―――もっと早い段階で…下手すりゃここからお前を連れだしたときにはもう気付いてたんだろ?自分の片割れをここに置いてきたことに」

 強い語調で、詰るように言う道祖尾さん。しかしそれは怒っているというよりは、目の前で失いつつあるものを悔やみ、受け入れきれないと駄々をこねているようにも見えた。

 僕には図りかねる彼の本心に気付いたのか、振り返っていた彼女はよほど驚いた様子でしばらく目を丸くしてから―――心底嬉しそうに目を細め、頬を薄い桃色に染めた。

 慮られたことに気付いたのであろう、道祖尾さんは照れくさそうに視線をそらし、口元を歪めて含羞の色を示す。そして、吐き捨てるように言った。

「――――じゃーな」

 少女が頷き、小さな手が彼女の頬に振れる―――途端に廊下が強い光に包まれ、僕は反射的に歯を食いしばる。真っ白な空間のなか、全てが浄で包まれる。

「―――――帰ろう―――――」

 そんな声が、聞こえたような気がした。

                  

                  *

「やあ、初めまして。(かし)()です」

 数えるほどしかない私物をまとめて宿から出ると、ごく普通の軽トラが停まっていて、荷台に座った糸目の男性が控えめに手を振っていた。どこかで聞いた名前だと思い、首を傾げる。釣られたように樫谷さんとかいう人も、首を傾げる。

「何やってんだお前ら」

 背の方から呆れの感情むき出しな声がかかる。振り返ると、木箱を背負った道祖尾さんが権高に立っていた。

「なんですか、それ」

 変なところを見られた意趣返しに、特に意味の無い質問を投げかける。鬱陶しく思ったのか、彼は「仕事道具だよ」と簡潔に返すと、軽トラに歩み寄って行く。そしてその木箱をひょいと荷台に載せ、にこにこしている樫谷さんを意味も無く、左腕のラリアットで鉄の床に鎮めた。

僕は少し経って起き上がってきた樫谷さんに荷物を渡す。

そして―――古巣を振り返る。

 あの騒動の後、廊下で気を失って倒れていた女子大生と女将さんを介抱した僕と道祖尾さん。すぐに意識を取り戻した彼女たちは、なんと幸運なことに事件前後の記憶がすべて消えていた――――なんてことはなくばっちり覚えており、見に覚えのない諸々の罪を罵倒と侮蔑で身に沁み込まされた挙句の果て、翌日の今日、宣告通りに宿から追い出されることとなった。女子大生たちは女将さんの気遣いもとい口封じによる三日間無料接待を受けることとなったようで、今朝の荷造りにはほくほく顔で見送ってくれた。女将さんとは、一度顔を合わせ、「いままでありがとうございました」と、一言だけありきたりな感謝を伝えた。

彼女は何も言わなかった。

 あまりにもあっけなく奇妙な割れ方をした、僕を縛っていた鎖。

 なんだか両親が他界したあの日のような、現実味のない感覚が世界を覆っている。

「おーい、多田くん。そろそろ出るよー」

 柔和な声が、僕を誘った。

               

 苔むし草の生えた直方体の石。

 ドクダミやエノコログサに囲まれて、一つだけ淋しく、そこに佇んでいた。

 樫谷さんの運転する軽トラに揺られて連れてこられたのは、「玉椿」からたかだか数百メートル程度離れた山の中。少し木々の開けた所で、小さな小屋一件を建てるくらいなら丁度いいような土地だった。

「……これは墓石…ですかね?」

「ああ、そうだ」

 隣で道祖尾さんが頷く。

 風化と苔によって解読が至難になった刻字を見る。ちっとも読めずに苦心していると、もじゃもじゃの専門家はおもむろに口を開いた。

「『穢玉賤女』―――差別戒名だ」

 差別戒名そのものは知らなかったが、その言葉の響きから良くないものであることはわかった。「穢れ」・「賤しい」という名を、死の国にまで背負うこととなる―――かれらは天に召されても一般になることができなかったということがわかるものだった。

「それはお玉の墓でな。あいつが自殺してから、土地の坊さんがここに葬ったらしい。戒名は正常なものに変えるたびに、誰かによって書き換えられたって話が残ってる。そもそもこのお玉って名前も、由来はこのあたりでいうところの玉椿―――ようは、鼠黐が発祥なんじゃないかってな。戒名に「鼠」という畜生が隠れている、凝った悪意だよ」

「…そうなんですか」                                                                                                

 森の静かなざわめきと低いトーンの彼の声が相まって、空間は静まり返っている。

 深い悲しみの物語と、継がれ続けた怨恨と憎しみの終着点―――何故彼がここに僕を連れてきたのか、僕には解らなかった。

 そんな疑問と裏腹に、不意に道祖尾さんは、僕の中にあったもう一つの腑に落ちない疑問の答えを口に出す。

「――――あれは、「お玉」に頼まれたことだ」

「…え?」

「お前を陥れてあの宿からお前を解放すること―――それが、あの座敷童が俺に依頼したことなんだよ」

「それはいったいどういう…?」

「俺も初め、そんな頼まれごとは御免だと言ったんだがな。どうしてもというから引き受けた。理由はわからずじまいだった。それらしいことも言っていたんだが、あくまではっきりとしたことはな…が、昨日の騒動でピンと来たんだ。

―――おそらく『お玉』があの宿に執着したのも、その結果分離体が出現したのも、お前のことがずっと気がかりだったのさ。その証拠に、女将がお前に「出ていけ」と言って間も無く、お玉の精神から生まれたあの化物は現れた…ここに因果関係が無いと考える方がおかしい」

「――――それにしても、回り諄い女だった」

彼はかつての友人を懐かしむような表情で、彼女のことを語り終えた。

―――いや、あるいは、彼にとってあの少女は、本当の友人だったのかもしれない。平生は憎まれ口を叩きあい、二度と訪れることのなくなった去り際の一瞬を惜しみ合う。人と化物というあまりにもかけ離れた種の深い淵が目の前に横たわっているだけで、手を伸ばせばきっと触れられるほどの幅だったのだろう。そして残酷にも、片方の大地はたった数分の出来事で崩壊した。そうなることをあらかじめ知っていた者と、直前で知ることとなった者。

満足のまま別れを迎えた者と、伝えたいことも伝えられないまま、消えゆく(えにし)を握り締めることとなった者。

 彼は―――道祖尾さんはきっと、僕にこれを見せるためと言うよりも、最後にもう一度、離れがたい友人に一目会いたかったのではないだろうか。

 そんな勝手な妄想を抱いて背の方を見遣ると、少し離れた所で根を張った大木に、いい歳こいた二人の大人が群がり、歓声を上げながらクワガタムシを捕まえていた。

 拍子抜けや辟易とともに妙な滑稽さを感じた。

僕は薄く笑みを浮かべてから、目前の墓石を見つめる。そしてその無機質な物体に彼女の面影を浸し、手を伸ばす。

風で揺れる名前も知らない自生した草が、掌を優しく(くすぐ)る。

その柔らかな髪のような感触を感じながら、僕は彼女の生きた証に触れた。

ざらざらとした質感と冷ややかな応答が指先を伝って、第一関節の辺りで消えていった。




長い長い緩やかな坂道。急な山道を越え、裾野にさしかかっている。

心地よい揺らぎに身を任せ、僕と道祖尾さんは荷台に居た。

全てが終わり、疑問も片付き、僕はこれからのことを悩む段階に入っていた。

勢い成り行きで出てきてしまったものの、勿論宛ては無い。

そしてやりたいことも無ければ、できることというのも限られてくる。

加えて中卒であることはあまりも大きい事実で、白紙の履歴書は社会での敗北を意味していた。

「どうしようかなぁ…」

どこか他人めいた台詞を吐く。すると隣の道祖尾さんが、右手にピースを作って僕の視線を誘った。茶化されているものだと思って睨むと、彼は煙草を咥えたまま苦笑する。

「そう怖い顔をするもんじゃねえよ」

「僕は忙しいんです」

 辟易を全力で顔に浮かべ、僕は彼の取り付く島を失くすように試みた。

 それでもへこたれない彼は、余裕の表情で

「人生の先輩として、お前に道を提示してやろう」

 と、提案する。不覚にもそれに興味を示してしまった僕を見て、彼は人の悪そうな笑みを浮かべた。

 そして彼は、どこか楽しそうに言う。

「一つは温く浸されたコンクリートの世界の中である程度の安息を保証されて、順当に行けば嫁も貰えるばかりか、最期にゃ孫に囲まれて大往生できる道」

 これまで来る日も来る日も変わりなく働き、ある種安心しきった生活を繰り返してきた僕にとって、この提案はひどく魅力的だった。平穏に日々を暮せて、宿のことやお玉のこと――たまには女将さんのことも思い出し、生きていくのは御似合いだ。

 けれど―――

「――それで僕は、幸せになれるんでしょうか」

 まったくもって自己中心的な、そして身勝手な質問だった。

 僕には幸せというものの基準がわからない。叔母さんに愛されたことなど無かったし、両親の愛を感じるにはすこしばかり、彼らが早く逝きすぎてしまった。だから他人を見ている限り、彼の言ったことには幸せの香りがするのだけれど、それが僕にとってそうであるのかは少しも判別がつかなかった。

 道祖尾さんは俯く僕をしばらく見つめると、荷台の囲いを枕にしながら、だらだらと言う。

「知らねーなぁ・・・けどまあ、なれるんじゃねーの?俺の知り合いに嫁さんこさえたやつぁ何人かいるし、どいつもこいつもホクホク顔だったぜ―――もっとも、俺にも嫁さんがいるには居るんだがな…幸せかと言われるとそうでも無い気もするしなあ」

 答えにもなってない返答だったが、それよりなにより彼に配偶者が居るのは驚きだった。化物に迫られたとき、か弱い僕を突き飛ばして逃れようとした甲斐性の無さは、もしかして他では見せていないのだろうか。そんなのとんだ詐欺である。

「…それにな」

 訝しむ僕の視線は、この瞬間だけ、彼の瞳に哀愁が混ざったのを捉えていた。

「ある小生意気な餓鬼が言ってたぜ―――『人の幸福を理解すること、人に幸福を授けることなんて、たとえ福の神や座敷童であろうとも不可能だ。それが自分の存在しているうえの義務だったとしても。ただし、他人のしあわせを祈るのは間違ったことでは無い。ましてや、その主体が同じ種でなければならないという理由も無い。幸福というのはその当事者にしかわからないずっと複雑なものを孕んで形作られる。人から与えられた幸福は、上滑りの幸福でしかない。最大多数の幸福は画一化した幸福―――それも氷山の一角でしかない。自分のしあわせは、自分で選んで初めて幸福足り得る。』ってな。理屈っぽくて嫌だ嫌だ」

 さよならをした友人に対して未練たらたらな道祖尾さんは、あの少女の台詞に思われる長々としたアドバイスを口ずさんだ。

 自分で選んで初めて―――か。

「――――道祖尾さん」

「どうしたー?」

「―――もう一つの道を、教えてくれませんか?」

 初めの案に乗らなかったのがよほど意外だったのか、彼は目を丸くしてこちらを見る。

 どこか恥ずかしくなって視線を外すと、忍び笑いが聞こえてから、彼が口を開いた。

「―――よくわからんことばかりで、おっかなくて、死にそうな目にも遭うし他人の嫌なところばかり見ることになって、ほじくりかえすと怒られる部分まで手を出さなくちゃならなくなるし、人には恨まれるし――――だけどまあ、愉快な所さ」

 誇るべき彼の居場所であるのだろう、どこか嬉しそうにそう言った。

 僕は辺りを見回す。

 時速五十キロで流れていく山の景色。髪を乱す温く蒸した風。緑の薫風は鼻を掠めて、降ってきた道を駆け上がって行く。滑らかに穏やかに流れていく澄んだ川の底に、川魚の影が見える。傍らの低木から川面を眺める翡翠(かわせみ)が、目を細めたように見えた。

 視界の端で、小さなものが動いていた。右手を差し出すと、それは人差し指の先から小さな赤い体をゆすって這い上がってくる。僕が指を天に立てると、それは翻して再びもと来た道を戻って行った。そして何度か足踏みをすると、指先から風にもまれるようにして空高く飛んで行った。

しばらくの間、僕は空を眺めていた。というのも、なんだかあのテントウムシに先を越されたような気がしたからである。

こうしちゃいられないな。

僕は心の中でそう呟いて、呑気に煙草を吹かす男を見た。

軽トラは快調に走り続けている。














                          

 


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