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「ノワ?」
レネットが声をかけても、まったく反応する気配がない。
そうして少し待っていると、唸るような声でぼそりとノワが呟く。
「俺は、まだ諦めたわけじゃないからな」
そんな、定番の文句を言ってきて、レネットはなんだか無性に面白くて笑ってしまった。すぐにノワがむっと顔をしかめた事がわかる。
しぐさやちょっとした動作がわかってしまうのは、もう長い付き合いだからだろう。
「……笑うな」
不機嫌そうな声が聞こえても、レネットはつい口を緩めてしまう。
「うん……ありがとうね」
レネットはありがとうという言葉しか返せない。ノワの気持ちに返すものをレネットは持っていない。
ノワもそれをわかっているのか、ゆっくりと抱きしめる腕を開放して、一歩下がった。
離れた途端に、二人の間に冷たい風が通り抜けて、レネットはなんだか無性にシュクレに会いたくなった。
「なにか悩みとかあったらすぐに言え。あいつ殴りに行くから」
「うん、その時はお願いね」
レネットは笑顔を浮かべた。できるだけ、自然に、精一杯の想いを込めて。
ノワは顔を歪めてそれを受け止め、踵を返して図書館の中へ戻っていった。レネットはそんなノワの背中からなんだか目が離せなくて見えなくなるまで見続けた。
そうしてようやくノワの姿が見えなくなると小さく息を吐いてレネットも歩き出そうと振り返ると──何事かと興味津々な人々の目がたくさんこちらを向いていて、ここがどこで、今までなにをしていたのか理解した。
場所を途中から忘れてしまっていた。かあ、と一気に顔に熱が集まり、レネットは居ても立ってもいられず人通りを一気に駆け抜ける。
きっと明日には職場で噂が広まっているだろう。菓子職人の次は、またしても年下の男に、なんて言われているかもしれない。
でも、レネットは不思議と怖くはなかった。
足を動かして、慣れた道を走る。そうして着いたのは、オレンジの街路樹が爽やかな、ポームベール街。
そこの片隅にある小さな店を見つけ、荒い息を整えてドアノブをひねる。
「いらっしゃいませ……あ、レネットさん」
すぐに店内にいたシュクレが笑って出迎えてくれる。その笑顔は今日も砂糖菓子のように甘くて、つい立ちくらみがしてしまいそうになるが、しっかりと足を踏みしめてシュクレの元へ行く。
「珍しいね。今日若い子があんまりいない……」
いつもは十代の若い女の子達で溢れかえっている店内だが、今日は静かだ。奥にグルナードと話す婦人が数人見えるが、比較的暇な方だ。
「飽きたんじゃないですか? ほら、若い子って飽きっぽいですから」
つまり、恋人がいる男には用はないとばかりにこの店から離れてしまったということだろうか。
客足が遠のいたとなれば店としては手痛いだろうに、シュクレは笑っている。
「まあ大丈夫ですよ。ここの味が好きなお客さんはまた来てくれますし」
確かに、シュクレ目当ての女の子達はあまりお菓子には興味を示していなかった。それよりも、きちんとこのクラルテのお菓子が好きなお客さんはきっと離れてはいないはずだ。
現にレネットは、シュクレがたとえいなくてもここのお菓子が食べたくなる。
「心配する事ないですよ」
朗らかに笑ってみせるシュクレに、自然とレネットも笑顔になる。
「今日はメレンゲを買いにきたの。他におすすめはある?」
「今日は栗のジャムがありますよ」
「栗?」
この頃寒くなってきて、栗も出回りだしたようだ。レネットはおすすめされた栗のジャムが入った小さな瓶を手に取り、「じゃあジャムも」と注文に加える。
シュクレは会計をしながら周りに一度視線を向け、レネットに顔を寄せる。
「今日はこの後、用事はありますか?」
「え? いや別に……ないけど」
「じゃあ上で待っててください」
にこやかな笑顔と共に、買った商品の袋に紛れ込んでシュクレの家の鍵を渡される。
レネットに拒否する暇も与えずシュクレは「じゃあ後で」とだけ言い残してさっさと奥の厨房へ戻ってしまった。
レネットは呆気にとられながらも鍵をしっかり握りしめ、店を出た。クラルテの入っている建物の裏側へ曲がり、階段を登って二階にあるシュクレの部屋にたどり着く。
「シュクレの部屋……」
なんだか緊張してしまって、うまく呼吸が出来ないような気がする。
レネットは一度大きく深呼吸をして、鍵を差し込んで扉を開けた。中は当たり前だが誰もいなくて、静かで、部屋を空けてすぐの部屋にはシュクレの生活感を感じた。
雑に脱ぎ捨てられたシャツはソファにかかっていて、靴も何足か散らかっている。
なにかで使った本なのか、それも床に平積みにされていて、本のページにはしおりがたくさん挟まれている。
レネットは一気に緊張が抜けて、笑った。
その時、トントンと早いペースで階段を駆け上がる音が聞こえ、続いてガチャガチャと乱暴に扉が開けられた。




