初めて踏みしめた大地
葵と分かれた後、透は一人で、煙の充満する通気孔を、一人で進んでいた。
地底国で大量の火災があったせいで、地下通路には煙が充満していた。
五分ほど走っただけで、すでに息が切れ始めている。
灯りは自身が持つ非常灯のLEDだけで、その灯りは、まるで神の掲示のように、煙に邪魔されながらも、透が進むべき方向を懸命に照らそうとしている。
透の耳に聞こえる音は、自分の呼吸音とやたらに反響する足音だけだ。
(出口まで、あとどのくらいだろう?)
透は、酸素不足で朦朧としつつある頭で考えた。
葵と飛んだ時間はどれくらいだったろう。それほど長い時間ではなかった気がするが、はっきりとはわからない。あのまま葵のスピードで飛んでいたら、今頃とっくに出口に着いていただろう。それにくらべ、自分の歩みの遅さといったら、どうだ。
これから、どうなるんだろう。煙に時々むせながら、それでも透は走っては立ち止まり、また走っては立ち止まりながら、出口を目指している。
生まれてからの二十年あまり、ずっと地底国で暮らしてきた。外の世界には、海や空があるという。透は、それらを写真や映像でしか知らない。ついこの間まで、地上の世界に出ることを望んですらいたではないか。なのに、ここに来て、突然のことに気持ちがついていかない。
地上に出るのが恐い?自分はすでに十八の立派な大人だというのに、それではまるで、幼い子どものようではないか。いや、すでに大人だからこそ、恐いのかもしれない。
(そんなこと、考えている場合か?今は、逃げるんだ。)
透が、そう気持ちを切り替えようとした次の瞬間、パァンという音と同時に、足元に衝撃があった。普段であれば立ち止まって後ろを振り返るところだが、透はそのまま駆け抜ける。パァン、パァンと続けて銃声が響く。透はひたすら走り続ける。
煙のせいで照準が定まらないのか、銃弾は透になかなか当たらない。撃ってきたのは、間違いなく、透を追ってきた連邦の兵士だろう。どうやら、追いつかれてしまったらしい。彼らがさらに自分への距離をつめてきていることが、銃声に加えて彼らの乗り物の機械音が聞こえ始めたことでわかった。
このままじゃ確実に打たれる。
威嚇なのか、それとも弾が当たっても構わないと思われているのか。そのどちらなのかは解りかねたが、相手が打ってくる以上、こちらも打つしかない、と透は思う。生き延びるためには。
透は、先ほど一樹から渡されたエアガンを探した。上着の内ポケットに入れていたそれを取りだし、右手に持つ。
「こんなもの、打ったことないぞ・・・。」
(そうだ、映画なんかだと・・・壁に隠れて、背をむけたまま打ったりするんだよな)。
こんなことなら、一樹にこっそり習っておけば良かった、と透は苦笑する。暇があれば、エアガンで的を狙って遊んでいた兄の後ろ姿が思い出される。
一樹は、いつかこんな日がくることを想定していたのか?
そんなことをぼんやり考えながら、透は前方のがれきに身を隠し、後方の姿も見えない相手に発砲する。しかし、相手からの銃声の音が止む気配はない。再び発砲するが、全く当たる様子がない。
このままではまずい、他に方法はないか、透は懸命に考える。
額から汗が伝うが、拭っている余裕はない。ふと、ズボンのポケットに、遊びで作ったピアノ線のリールが当たる。スパイ映画などで、ヒーローが敵の足にひっかけてつかったり、自分が高い場所に登ったりする際に使うものだ。これは、使えるかもしれない。
今、辺りは煙にまかれている。相手から自分の姿は見えない。機械音と銃声の間隔から察するに、追ってきているのは一人だ。透はリールの発射ボタンを押し、向かいの壁の斜め上に糸の先を固定する。
相手は飛行しているから、本当はもう少しリールの数が多いほうがいいのだが、残念ながら、今、手元にあるのは単純なリールが一つだけだから仕方がない。リールに引っかかるだけではちょっとした足止めにしかならない。
そうだ、いいものがある。
透は鞄の中をさぐる。指先に、ひやりとした金属の手触りがある。それは触れると爆発する小型の爆弾だった。理学部の友人に、爆竹よりちょっとすごいやつ、とリクエストして、特別に作らせたものだ。
リールを張った後、数か所に、その小型爆弾を設置していく。追手がかかれば、音と光で知らせるはずだ。透は急いで仕掛けを終えると、壁の陰に隠れて追っ手が来るのを待った。しばらくして、飛行バイクがちかずいてくるのがわかった。
おそらく、あと五秒、四秒、三秒・・・
「パァン!」
かかった。煙の中で、白い閃光が上がる。透は、すかさずその点に向けて、立て続けに発砲する。ギャア、という悲鳴が上がり、人がどさりと倒れる音がした。
だいぶ威力は強めてあるとは言っていたが、所詮はエアガン、死ぬはずはない、と思いながらも、透は、相手の姿を見ることなく、そのまま走る。
しばらくそのまま走っていると、後ろから、飛行バイクのライトに照らされた。また追いつかれたか?眩しさに目を細めてみると、葵を後ろに乗せた一樹の姿だった。
「お前ね、あんな仕掛けをして、危なく俺が引っかかるところだったぞ。葵がスコープで確認してくれたから大丈夫だったものの・・。」
一樹の小言を聞いて、これほど安心したのは、始めてだった。
その後数十分ほど三人で飛ぶと、地上へ続いていると見られる縦穴にぶつかった。その真下に立つと、白い光が差し込んでいて、暖かかった。
「もしかして、あれが太陽?」
透は、後ろにいた葵に向かって尋ねる。
「ええ、そうよ。」
葵は透に教える。
「さ、あなたが先に行って。」
葵はそう透に促した。透は、梯子に手をかけ、一段一段、ゆっくりとした動作で、梯子を登っていった。
冷たい空気が頬を撫でる。それはまさしく外気だった。地底国を流れていた空気よりも、だいぶ冷たい。まるで、冷蔵庫を開けたときみたいだ、と透は思った。透は息を切らしながら、その空気を胸いっぱいに吸い込む。
梯子を登り切り、踏みしめた足元は砂地で、それは地底国にいた頃も経験した感触であったはずなのに、そこには地底の砂地にはない不安定さと不確定さのようなものが感じられた。
圧倒的な開放感だった。ここでは、空間はどこまでも開けているのだと、全身の感覚が伝えていた。
頭上には、朝日に照らされつつある満点の星空があった。本でしか読んだことのない、北極星をすぐに見つけた。かつて先祖たちが不本意に追われた土地に、再び立っているのだと透は思った。やがて、日が登る。