変わっていく未来
(葵、きっと退屈しているだろうな。)
透はそんなことを考えながら、自宅までの道のりを急ぐ。いや、彼女のことだから、一日中、文献を読んだり、照明を解いたりして、退屈などしないかもしれない。葵の外見は、ころりと可愛らしいロボットだが、その中身は、なにせ超天才の十六歳なのだ。退屈しているだろうと思って、急いで帰ってきた、などと言ったら、恐らく気分を害するだろう。
彼女はとてもプライドが高い。そして、ことあるごとに、その見た目から、透が彼女を子ども扱いしてしまうことに気がついているようで、最近は、よくその点について抗議される。
しかし、怒る際にも、可愛らしいサイズの手足を上げ下げしたり、睨みつけるように透を見たりと、その動作が可愛らしすぎて、どうも吹き出してしまう。葵が、透の部屋の本をあらかた読み尽くしてしまったと言っていたので、今日は、大学の図書館でめいっぱい本を借りてきた。とびきり難しそうなものを選んだから、きっと喜ぶだろう。
家に着き、はやる気持ちで、透が階段を登りきると、兄の一樹が、透の部屋のドアに背をもたれかけて立っていた。彼が気に入っているというビンテージのブルージーンズに、白地にブルーのストライプの入ったポロシャツを着ている。
「一樹。どうかしたの?」
「ひとつ、出来のよい兄から、出来の悪い弟へ、重要な質問がある。・・・透、お前、最近俺に隠していることはないか?」
一樹はじっと睨みつけるように透を見つめた。
「隠していることなんか、星の数ほどあるさ。・・星っていうものを見たことはないけどね。」
透はおどけた様子で答える。
「それもそうだな。では、質問を変えよう。俺に隠している星の数ほどの秘密のなかで、一番エキサイティングな秘密を教えろ。」
「言っている意味がさっぱりわかんない。」
「発想力のないやつだなあ。そうだな例えば・・うちの地下に秘密の地下道があって、地球の中心部につながっているとか、実は、俺の飛天にとんでもない細工をしたとか、あるいは・・・この間見つけた掃除用ロボットが、実は十六歳の女の子だとか?」
ある確信を持った瞳で、一樹は透をじっと見つめ、最後の言葉を発すると、にやりと笑った。透は、ごくり、と唾を飲んだ。一樹が言っているのは、言わずもがな、葵のことだ。
「・・・ますます、よくわからない。」
「そうか、ならば続けよう。俺は、昨夜、あるものを見た。」
「あるもの?」
「お前とあの掃除用ロボットが楽しそうに会話しているところだ。」
透は黙った。
「昨日、借りたい本があったから、お前の部屋に行ったんだ。けれど、何度ノックしても返事がない。ふと聞き耳を立てると、女の子の声がするから、驚いて部屋を覗いたんだ。そうしたら、お前がロボットと話してた。」
全く、この兄には隠し事が出来ない。・・・というより、自分が迂闊すぎるのだろうか。透はため息をついた。
「少し、相談させてほしい。」
透はそう言うと、そのままくるりと背を向け、自室に戻る。部屋に入ると、葵がクッションの上ですっかり寛いでいるところだった。透の部屋にあった専門書を読んでいる。透が入ってきたのに気がつくと、頭だけをこちらに向けて、足をパタパタと動かした。まるで子どもだ。透は、持っていた鞄を床の上におろすと、あぐらをかいて座り、神妙な顔つきで、葵を見つめた。
「葵、はじめに謝っておくよ。どうやら、君のことが、一樹にバレてしまったみたい。」
葵はそれを聞いて、一瞬動きを止めると、読んでいた本を床に置いて、寝転んでいた体を起こし、考えこむように腕組みした。
「まあ、予想どおりの展開ね。透にバレてしまった時点で、あなたのお兄さんには、いずれバレてしまうだろうとは思っていたわ。」
「兄さんは恐ろしく勘がいいんだ。」
「知ってるわ。」
葵はそう言うと、体を起こし、トコトコとドアの前まで行って、自らドアを開けた。そして、ドアの前に立っていた一樹に陽気に挨拶する。
「どうも、居候の敷島葵よ。はじめまして。」
そう言って、握手のために、手を差し出す。さすがの一樹も、面食らっている様子だ。葵って、なんかずれてるよなあ、と、透はぽかんと口を開けて、二人の様子を見つめている。
これで、葵の秘密を知る人間は二人になった。初めはまずいと思ったけれど、兄の一樹は頭もキレるし、判断力がある。葵が地上に出るための大きな助けになるだろう。
その後、透の部屋で三人で話しながら、一樹は、手持ちのハンディPCで、連邦のデータベースにアクセスし、敷島葵についての情報を集めた。敷島葵のデータは膨大にあり、彼女の書いた論文にいたっては二百以上にのぼった。主に数学と物理学に関する論文で、そのうちの多くが、フィールズ賞をはじめとする数々の権威ある賞を総なめにしていた。
「やたらぶっ飛んだお嬢さんだな。」
一樹が言う。おまけに今や、彼女は機械の体だ。
「君は、すごい世界にいたんだね。」
一樹のPCのディスプレイの情報を覗き込みながら、透はほう、とため息をつく。葵は透からそう言われて、それほど嬉しそうでもない。
「研究所と家しか知らない生活よ。そのせいなのか、私の記憶には色がないの。人の顔もね。一樹や透のほうが、ずっと素敵な育ち方をしてきたと思う。」
「そうかな。」
「お母様は、私が小さい頃に病気で亡くなった。父は研究者で、連日研究所に通いつめていた。その頃の記憶はないけれど、寂しかったのね。研究所の入室のためのパスワードを自力で解いたの。それで父が、ひどく驚いた顔をしたとき、なんだかとても得意な気持ちだった。オフィシャルに研究所に立ち入ることが出来るよう、父はたくさんの証明を私に解かせ、論文を書かせたわ。」
葵は、生まれてから一度も、暖かな家庭に触れて暮らしたことがない。いや、彼女の母が生きていれば、暖かな家庭で暮らせたのかもしれない。
母はとても綺麗な人で、けれども気性は荒く、幼い頃から完璧主義者だったという。母方の祖父は外交官で、母は、小学校卒業までを米国で過ごしたそうだ。勉強も運動も誰かに負けたことはなく、連邦で最難関と言われる大学の理学部に入学した。二年飛び級して卒業した後は、日本国の大学に留学、の修士課程に進み、そこで葵の父である大志と出会い、結婚した。その在学中、テレビで見た宇宙飛行士という仕事に興味を持ち、軽い気持ちで受けてみた試験で合格し、二十代の半ばには、半年間の宇宙コロニー生活を体験した。その数年後、葵を出産したが、彼女の悲劇はそこから始まった。
母は、葵を出産後、身体中が痛み出す難病である線維筋痛症を発病した。そのときの母の憔悴ぶりは相当なものだった、と親戚の話を盗み聞く中で葵は知った。母の病状の詳細を、葵に対して誰も公には話してくれなかった。子どもには残酷すぎる話だと思ったのだろう。それは、完璧主義者だった母が初めて味わった、最初にして最大の挫折だった。
母の症状は、多数いる患者の中でも特に重く、死ぬほどの苦しみを四六時中味わっていたという。それでも母は懸命に病気と闘ったが、葵が二歳のときに亡くなった。詳しい死因について、父や親戚は、葵に詳しく語らなかった。もしかすると、病を苦にした自殺だったのかもしれない。しかし、人々の話から伺える美しく強気な母が、自殺などしたはずがない、と葵は信じたい。
「私は、お母様の顔をほとんど覚えていないの。」
「なんだか、壮絶だな。」
一樹が言った。
「ごめんなさい。関係ない話をしたわね。せっかく一樹が、私が地上に出るための知恵を貸してくれるというのに。」
葵は首を振って打ち消した。
「そんなことないさ、もっと聞かせてくれよ。」
「もう、私の話はおしまい。早く聞かせて、一樹。」
一樹は不満げだったが、やがて自分の考えについて話し始めた。
「やはり、物資の搬入路から脱出するのが一番だと思う。」
葵の脱出経路について、一樹はそう提案した。
「僕もそう思う。人が出入りする正門ゲートは、チェックが厳しすぎる。葵は幸か不幸か、機械の体をしているし、一樹の研究所からの便で、研究に関する装置類に紛れて通過することはできないかな。」
透が言う。
「それはいいアイディアかもしれない。ちょうど、明日の朝、俺が送る便がある。検査には俺も立ち会うから、難なく通過できるだろう。」
三人の意見はそれで一致した。
翌朝は、葵を笑顔で送り出してやろう、そう決めて、透はその夜、眠りについた。まさかその夜の出来事が、その後の透の人生を大きく変えることになるとは思いもしなかった。
透と一樹の母、橘毬恵は、リビングに掃除機をかけ終え、昼食の支度を始めたところだ。休日の昼食はいつもと比べ物にならないほどの量を用意しなければならない。育ち盛りは過ぎたにせよ、一人前以上は食べる息子が二人、自宅で昼食をとるからだ。今日は、冷凍しておいた挽肉で、キーマカレーを作ろうと、毬恵は挽肉をレンジにかけながら、玉ねぎを刻み始める。一樹と透の二人は、今日はなにやら朝から、二人で部屋に引きこもっているようだ。一緒にゲームでもしているのだろうか。
一樹と透は、毬恵の自慢の息子だ。毬恵は地底国で生まれ、地底国で育った。夫の武治もそうだし、もちろん息子の一樹と透もそうだ。今では、地底国の人間の中で、地上での生活を経験したことのある者の数のほうがずっと少なく、地底国での暮らしが当たり前のようになっている。
けれども、毬恵の幼い頃は、地上へ移住するべき、と主張する者たちも周囲には多くいた。毬恵の祖父と祖母も、幼い頃に地上から移住してきた世代の人間で、地上での生活をよく知った者たちのうちの一人だった。
祖父や祖母は、普段は明るく元気だったが、時折、地上への思いを幼い毬恵に聞かせたものだ。離ればなれになった友人や親戚、よく遊んだ海や山、広大な田畑、朝日や夕日の美しい記憶、死ぬまでにもう一度だけでいい、故郷に帰りたい、もう一度地上の土を踏みたい、祖父や祖母はことあるごとにそうこぼし、時には涙した。
毬恵と武治は幼なじみで、小学校からの同級生だった。お互いがそばにいるのが当たり前の生活の中で、気がつけばともに家庭を築いていた。武治の家は、武治の祖父が、サナトリウム時代の地底国の取りまとめ役として、長年連邦との折衝を行ってきた関係で、代々地底国の政治家を生み出してきた家系だ。
武治の祖父は、テロの被害に遭い、感染症を患う前は、日本国の首都東京で、弁護士の職についていたという。その血を引きついで、武治も今では地底国の首相にまでなってしまった。家では、仕事の話はほとんどしないが、最近では連邦や日本国とのやり取りが多いようだ。
武治の仕事は多忙で、時には寂しい思いをすることもあったが、一樹と透という二人の男の子にも恵まれ、毬恵は今の生活をとても幸せだと感じている。
長男の一樹はなにかと要領がよい。口が達者で、時々はっとするような鋭い意見を述べる。人の中にいると、いつのまにかリーダーの立ち位置に立っていることが多く、何事にも物怖じすることがない。そんなところは、若い頃の武治にそっくりだ。鋭角的な瞳が、その意志の強さを表していると毬恵は思う。
次男の透は、少し不器用なところがあるが努力家で、学校の成績は、数学と理科が、ずば抜けている。高校生の頃から、理系科目に関しては、全国模試の一位を誰にも譲ったことがない。お喋りは苦手なようだが、昔から老人や子供に親切で、思いやりのある子だ。容貌は、色が白く、ぱっちりとした二重瞼の目はどこまでも穏やかそうで、小さい頃はよく女の子に間違われた。
二人を見ていると、時折、二人はこの先どのように自分の人生を生き、老いていくのだろう、と考えることがある。自分や武治と同じように、地底の世界の中で、家庭を持ち、子どもを育てるだろう。一樹には、数人のガールフレンドがいるようだが(母親として、少しは諌めるべきだろうか)、透はどうなのだろう。親のひいきめを差し引いても、外見はなかなかハンサムだと思うし、決してモテないタイプではないだろうと思うのだが、一樹に比べてシャイな透のことだから、気になる子にも、なかなか声をかけられないのかもしれない。
そんなふうに思いを巡らせながら、毬恵はクスクスと笑う。こんなとき、息子を持つ母親は、なんて楽しいのだろう、と思う。けれどもいつか、その2人の息子も、外の世界を見たい、と言ってこの家を離れる日が来るのだろうか。けれど、もう少し。もう少しこのまま、家族四人で暮らせたらいい。
しかし、そんな平穏な日々を脅かす夜は、ある時、突然、やってきた。
その晩、透は夢を見ていた。長い黒髪の女の子が、机に座って熱心に本を読んでいる。顔立ちは、派手ではないが、ひとつひとつのパーツが整っていて、繊細な美しさを作り出している。
髪と肌の美しさははっと息を呑むほどで、その肌は透き通るように白く、頬は昨日染めたばかりというように紅い。唇は薄く、ぐっと閉じられた形がチャーミングだが生意気そうで、小ぶりだが形のよい瞳は、長いまつげに縁取られ、熱心に目の前の分厚い本に注がれている。
ダークグレーの大きな机に、上等な皮でできたモスグリーンの椅子にちょこんと腰かけている。明らかに大人用で少女の体のサイズにはまるで合っていない。その違和感が、彼女をまるで人形のように見せている。長い髪は机の上に垂れ、彼女がページをめくるたびに、その柔らかさを、透に見せつけるようにしなやかな動きを見せる。年頃は、七つか八つだろうか。
葵だ、と透は思った。本当の葵には、まだ会ったことがなく、写真さえも見たことがないというのに、その少女が、幼い頃の葵であると、透はなぜか確信していた。透は彼女の椅子の隣に立つと、優しく話しかけた。
「何を読んでいるの?」
突然話しかけられたはずなのに、少女は特に驚いた様子も見せず、本から目を離すと、透の顔を見上げた。その瞳は、愛くるしいと同時に利発そうに見開かれている。少女は答えた。
「未来を読んでいるの。」
「未来を?」
透が聞き返すと、少女は得意げに深くうなずいた。
「誰の未来が書いてあるの?」
「一樹と透の未来に決まっているじゃない。」
少女はさも可笑しそうにくすくすと笑った。
「どんなことが書いてあるの?」
透に尋ねられ、少女はご機嫌の様子で鼻歌まじりに本のページをめくった。大変古びた本で、どのページもすっかり日に焼けてしまっている。
「二人はね、海を渡るの。透は、初めて星や月や、朝日や夕日や、海や川を見るの。そして、とても大きな変化を目にするわ。」
そう言って、少女はにこりと笑った。なぜだか、透はその答えを聞いて、とても恐ろしくなった。背中が汗でぐっしょりと濡れていた。