地底国の橘透
爆発は、一瞬だった。
その時、自分の身に何が起こったのか、葵には理解できなかった。
自分自身の目で、最後に見たのは、父親の悲痛な表情だった。
理解できないうちに、気がつけば、とても遠い場所にいた。
そして、自分の腕も足も、自分のものではなくなっていた。
暗闇の中で、葵はそのまま意識を失った。
地底国の朝は、ごごごごご、という、まるで地底国全体がうなりをあげているような重低音の響きから始まる。それは、地底国を暖めるための大型の暖房装置が稼働を始める際の音だ。日の光が全く入らない地底国の朝の冷え込みは厳しい。
人々が生きていくためには、巨大な暖房装置が必要だ。しかし、その燃料費は莫大なため、夜間の間は、地底世界にいくつもある暖房機のすべてが停止する。地底の人々は、そうして静まり返った厳しい夜を、厚い毛布にくるまって、じっと耐え過ごさなければならない。その長い夜の沈黙を破るのが、午前四時に一斉に動き出す暖房装置の稼働音で、その音を聞き、人々は、ようやく長い夜が明けたことを知る。いわば、厳しい環境の中で生きる地底の人々に、今日も一日、命を長らえた、と告げる音である。
午前七時、ベッドの中で、透は目を覚ます。そのまま、三、二、一、とカウントすると、階下の母の毬恵が透の部屋のドアを開けて入ってくる。透の起床時間は毎日驚くほど正確だ。瞬時に透は目を閉じて、寝たふりをする。
「ほら、朝よ!いつまで寝ているの?」
そう言って母は、透の部屋のブルーのカーテンを勢いよく開ける。目が覚めたのなら、母が入ってくる前に起きたらいいのに、と自分でも思うのだが、なぜか透は、毎朝、布団の中で寝たふりまでして母が自分を起しにくるのを待ってしまう。こうして母の声で起こされるとき、平和な一日が、再び始まった、という気がするからだ。
透は生まれてから一度も、この暖かな家庭を離れて暮らしたことがない。朝のまどろみから抜け出して、食卓ですする母特製のクリームシチューは格別の味がする。橘家の朝食はいつも豪華で、メレンゲを混ぜて焼いたフカフカのパンケーキや、庭で育てたラズベリーのジャム、ハムやチーズに、母特製のビクルスも並ぶ。ミルク瓶にはたっぷりのミルク。透はいつもそれに蜂蜜を加えて飲む。とびきり優しい味がする。
「早く食べないと、また遅刻するわよ。」
そう口を尖らせつつも、母の毬恵はわが子の食べっぷりに満足げだ。透が朝食を堪能している間に、地底国を照らす大型の照明は徐々に明るさを強め、気温も上がり始める。ここでは、太陽ですら人工のものだ。
朝食を食べ終えると、透は大学へと向かう。兄の一樹は、先日、夏のボーナスで飛行バイクを買ったが、透は飛行バイクを持っていない。一樹の飛行バイクは「飛天」と名付けられ、彼の手で、着々と彼好みの改造を施されているようだ。それをうらやむ気持ちがないと言えば嘘になるが、自分の愛車もなかなかだ、と透は、今日も愛用の自転車で、丘の上にある大学を目指す。現在、透は地底国立大学の工学部機械科の一年生だ。
地底国に、四季は存在しない。年間を通して、地上でいう秋のような気候を保つような環境設定になっている。その管理方法に落ち着くまで、地底国の議会では、様々な議論がかわされた。燃料費をかけてでも、地上の生活に近い四季を再現すべきだ、という意見も主張されたが、現実的な費用の面で、最終的には、現在の管理方法に落ち着いた。
朝晩の厳しい冷え込みを除けば、変動のない地底の気候は過ごしやすく、透は現在の地底国の環境に、おおむね満足している。と言っても、それ以外の環境を知らないというだけかもしれないが。そう、自分は文字通り、温室育ち、なのかもしれない、などと考えて、透はひとり苦笑する。
朝の清々しい空気を胸一杯に吸い込みながら、透は、パン屋の角をほとんどスピードを落とさずに曲がる。キキキー・・・、と自転車のタイヤがこすれる音がする。道路のレンガの欠けた部分にタイヤがつまずき、一瞬転びかけたが、なんとか持ち直す。再び透は、ペダルをこぎ出す。
地底国の人口は百万人ほどで、その居住面積は五千キロ平米ほどだ。地上の国で言うと、日本国の和歌山県という県と似たような人口数、広さだという。しかし、その日本国の和歌山県と地底国が異なる点は、地底国が独立の国家であるという点だろう。
歴史的な経緯により、地底国は現在、日本国の領土の地下にありながら、独立の主権をもった国として存在している。日本国は地底国の表層にあるもっとも近い隣人のような国家で、地底国と密接な関係のある国ではあるが、政治上の結びつきで言えば、地底世界と最も密接な関係にある地上の国家は、連邦だ。連邦は、世界第一位の経済大国で、広大な領土を持つ。連邦は、開設当初、いわゆる巨大サナトリウムだった地底国に主権を与えた国家で、その経緯から、現在も地底国は、連邦の強い影響力のもとにある。
大学前のきつい坂をなんとか登りきり、キャンパスに着いた透が、ふと腕時計に目をやると、一限目が始まる三分前だった。
「やっべぇ。」
透は乱暴に自転車を駐輪場に停め、慌てて教室に走る。一限目担当の教授は、時間に厳しく、始業時間のチャイムが鳴ると同時に教室のドアを施錠してしまうことで有名だった。
教室のドアの前にたどり着き、ドアノブを回す。ノブはなんなく回った。間に合った、と透は胸を撫で下ろす。ドアを開けると、施錠しようとドアの真ん前まで来ていた教授と目が合った。教授が驚いた表情で、透を見つめている。次の瞬間、透は教室中の笑いに包まれた。居心地の悪い思いで、一番端の席に座る。
「今後、この地底の世界はどうなっていくと思う?」
広い教室に教授の声が響く。教室は教壇を丸く取り囲むような形をしていて、二百人ほどの学生が、中央の教授に注目している。彼は、地底世界の環境維持システムについて一通り解説した後、そう学生たちに問いかけた。
(おいおい、頼むから、あてないでくれよ。)
透は、指名されることを恐れ、教授から目をそらした。
「そうだな・・・。それでは、時間ぎりぎりにやってきても、どうしても私の授業が受けたかった、橘透君。」
周囲からクスクスという笑い声が漏れた。
(なんで、僕の名前なんか覚えてるんだよ。)
透はげんなりするが、仕方なく席を立つ。これからの地底国がどうなっていくか。透には想像もつかない。地底国の人々は、地上で暮らしていく術を持たないし、地上には根強い差別がある。かといって、この地底国の暮らしを、劇的に変化させることも難しいだろう。それには莫大な資金が必要だ。しかし、地底国は現在、かなり難しい経済状態にある。
「どうなっていくと思うか・・と言われても・・・。」
「そうだな、では、少し質問を変えよう。君は、今の地底世界の環境に、満足しているかい?」
「まあ、おおむねは。」
「おおむねは、と言うと、少し不満なところがある?」
教授は、興味深げに、透を見つめている。自慢の白い顎鬚が、ふわりと優雅だ。
「そうですね・・・。夜の寒さが厳しいことや、農作物や米、小麦を自給できないこと、資源に乏しいこと、それから・・。」
「ははは、少しどころか、だいぶ不満があるようだな。」
教授は愉快そうに快活な声で笑った。それにつられ、教室にいた学生たちも皆、声を揃えて笑った。透は赤面した。
「いや、とてもいい、橘君。君の答えはすべて、現在の地底国の行き詰まりを、的確に言い表している。たしかに、地底国は、仮の住処という点では、めざましい発展を遂げてきた。しかし、人口が百万人を超えてきた今、多くの課題が明らかになりつつある。膨らんでいく環境維持費、人々が求める多様なニーズへの対応、増え続ける人口に対する住環境の確保、これらの問題に、見て見ぬふりを続けていくことは難しいことだろう。」
教授はそう続けた。透は思わず、その言葉に質問を重ねる。
「教授は、それらの問題を解決する方法はあるとお思いですか。」
その問いかけに、三メートルほどある教壇の上を行ったり来たりしていた足を止め、教授は、ゆっくりとした動作で、透のほうを振り向いた。
「そうだね・・・。技術的には、それらを解決することは可能だろう。資金さえ確保できればね。しかし、それ以前に、我々は、そういったマイナスを受け入れてまで、本当に地底国で暮らし続けていくべきなのかどうか、その点を真剣に議論する必要がある。これまでの、やむを得ず地底での生活を強いられてきた歴史は終わりを迎えようとしている。地上には、我々が莫大な資金をかけて作らなければいけない環境が、自然のままに存在する。人口太陽とも言える大型の照明は必要ないし、昼になれば自然と気温は上がる。物資の調達も容易だ。これからは、我々の意志で、どんな環境での暮らしを望んでいくのかを、考える必要があるだろう。」
教授が言い終わると同時に、終業のチャイムが鳴る。学生たちは、口々にお喋りをしながら席を立ち、教室を出ていく。
一日の講義が終わり、透は、家に向かって、愛車のペダルをこぎ出す。地底国の照明は日中よりも薄暗くなっていて、時刻は夕方だと伝えている。地底国に本物の太陽はもちろんないが、人間の体内時計を正確に保つために、そういった工夫が必要なのだそうだ。当然のことながら、本物の太陽、というものを、透は見たことがない。同様に、海や山、空や星、についてもそうだ。
(ああ、今日は講義であてられたし、ついてない一日だった)。
透は、ふう、とため息をつく。しかし、そうだ、今日は、ヤングサタデーの発売日だった、と気がつき、一転、陽気になる。ヤングサタデーは、透が毎週購読している漫画雑誌で、欠かさず読むのが「ブラッディ・ブレンディ」だ。ブレンディという主人公が、毎話、思いもよらない方法で事件を解決していく様子が面白い。透は、近所の西村書店の前に自転車を停めると、書店へと駆け込んだ。顔見知りの店主が、透に向かってほほ笑む。
「ヤングサタデー、届いているよ。」
「サンキュー。」
透は、五百円玉を店主に渡した。
家に着くと、母が夕食の支度をしているところだった。父と兄はまだ帰宅していない。兄の帰りが遅いのはいつものことだが、父は、以前は早い時間に帰宅することもあった。しかしここ数カ月は、日が変わる頃の帰宅が続いている。透は、どさりと食卓の椅子に腰を下ろすと、先ほど買ったばかりのヤングサタデーを広げ、今週のブラッディ・ブレンディを読む。
「父さん、最近、帰りが遅いね。」
「最近は、連邦のお役人とのやり取りが多いらしいわ。」
母が、スープの鍋に火を入れながら台所の奥から答える。透の父である橘武治は、地底国の首相を務めている。透は、漫画雑誌を読みふけりながら、頭の片隅で、今日の教授の言葉をふと思い返していた。本当に地底での暮らしを続けていくのか、我々の意志で、決める必要がある、と教授は説いた。やむを得ず地底での生活を強いられてきた歴史は終わりを迎えようとしている、とも彼は言った。
たしかに、地底国の起源は、決して輝かしいものではない。いわば、ウイルステロによる感染者の隔離施設があまりに巨大になり、長い年月の間で地上との融合が困難になったために、国家として独立させざるを得なくなったに過ぎない。やむを得ず、地底での生活を強いられてきた、という教授の表現は正しいだろう。
地底国の始まりは、今から百年ほど前に遡る。その頃、地上の各地では、紛争が絶えなかった。その多くは、経済大国の資本主義諸国と発展途上国との対立によるものだった。そして、西暦二○八四年の十一月三日、発展途上国の過激派が、歴史に残る大規模なテロ事件を起こした。彼らが開発した新種のウイルスが、世界中の複数個所で同時にばらまかれたのだ。
一瞬のうちに、多数の死者と、数十万人規模の感染者が生み出された。そのウイルスは、エボラ出血熱に似た症状を引き起こすウイルスで、感染した者は、身体中に青い斑点のような痣が現れることから、ブルーラウンド感染症と名付けられた。そのウイルスの感染力は非常に強く、感染者は、強制的に地下の大規模サナトリウムに隔離された。
その後、数十年の間に、治療法が確立され、現在では完治が可能な病となっているが、ブルーラウンド感染症特有の斑点状の痣は、完治の後も残るため、感染者への差別は根強かった。地底から、地上の生活に戻ろうとした人々もいたが、差別のために満足に職も得られない状況で、大半の者は、また地底での生活に戻らざるを得なかった。そんな状況下で、やむを得ず、地底の世界は発展を続けていくことになった。
連邦は、やがて、多種多様な人種が集まり、百万人を超える共同体となった地底国を、一つの主権国家として認めることとし、地底国は、日本国との協議の結果、その国土の地下に、国家としての地位を築くことになった。現在では、新たに地底国で出生する子どもたちにブルーラウンド症の症状は見られず、地底国に留まる理由はないのだが、地底国と異なる地上の環境に適応出来ない者は多く、また依然として残る差別の問題で、地上に出ていこうという者はほとんどいないのが、現状だ。
「あら、お米が切れているわ。最近、地上からの搬入が少ないでしょう。値上がりしちゃって、もう大変よ。」
母が、透に向かって愚痴をこぼす。地底国で育てられる植物や動物には、量・質ともに限界があるため、食物や素材、原料などは高値で地上から輸入せざるを得ない。資源の乏しい地底国家が維持されていくためには、高い技術を輸出していくことが極めて重要である、と地底国の歴代の首相たちは述べてきた。
そのため、地底国では、文系の仕事は直接パンを生み出さない仕事とされ、重要視されない。地底国に大学は三つあるが、そこで教えられ、研究されるのは、医学や薬学、農学や工学といった実学といえる理系科目で、文系の科目は法学や経済学等ほんの一部が必要最低限の内容で取り扱われるだけだ。
小学校や中学校での履修内容も、地上とは大きく異なる。数学や物理学、化学の教育に力が入れられ、地底国の子どもたちは皆、小学校高学年で微分積分や確率等を学ぶ。一方で、音楽や美術といった科目は最小限の時間に抑えられている。そんな地底国の人々の生活を、戦時中のようだ、と地上の人々は笑っていると透は聞いたことがある。
地底国では、生活を支えることが最も重要視され、芸術や文化といった生存には直接関わりのないことがらは重要視されない。それが地底国で大多数とされる価値観だった。この過酷な地底の環境では、そうならざるを得ない、と透は十分承知しているつもりだが、そういった価値観に、時折、息苦しさを感じることがある。
「ただいま。」
地底国の照明がすっかり落ちた午後七時頃、兄の一樹が帰宅した。ヘルメットを外しながら、ダイニングに入ってくる。
「あら、早いじゃないの。」
ちょうど夕食の支度が出来、食卓に食器を並べ始めていた母が驚いたように言った。兄の一樹は、普段は、九時や十時に帰宅することが多い。
「たまには、優等生しようかと思ってさ。透君を見習ってね。」
一樹はそう言いながら、どさりとダイニングの椅子に腰を下ろすと、行儀悪く足を組んだ。
「なーに言ってるんだ。たまたま居残りがなかっただけだろ。」
親の前では、毎日遊び回っているような口を叩いているが、一樹の帰りが遅いのは、勤め先の研究所で、度々居残りさせられているからだ、と透は知っている。生来、面倒臭がりの一樹は、実験の手順の中のあまり重要でない部分をやたらと省こうとするので、よく上司から大目玉をくらっているという。しかし、その一方で、その発想力は飛びぬけていて、自身の研究が行き詰まると、多くの先輩や上司が、こっそり一樹のもとを訪れるという。
一樹が、相談者の思いもよらなかった方向からのアプローチで提案すると、大抵の場合、それらの問題は、スムーズに解決してしまうのだそうだ。果たしてこの兄が、飛びぬけて優秀なのか、はたまたとんでもなく適当なだけなのか、上司が判断に迷う様子が目に浮かぶようで、透は彼の上司に同情してしまう。
「わかってないねえ。上司から引き止められるのを、優しいママや可愛い弟の顔を見たくて帰ってきたの。わかる?」
本当に、いつものことながら、わが兄の発言の適当さには呆れる。やれやれ、と透はため息をつく。
「お、ヤングサタデー、買ってあるじゃん。ブレンディ、どうだった?」
そう言って、一樹は、透の傍らに置かれていたヤングサタデーに手を伸ばす。
週末、透は地底国立第一図書館に出かけた。現在制作中の自作ペットロボットを完成させるためだ。透は、昔から機械いじりが好きで、小学生の頃から、ラジオや自動食洗機など、様々なものを作ってきた。今は、センサで人や音を認識し、様々な動きをするペット用ロボットを作っている。地上で、犬型のペットロボットが流行っているのを知り、作ってみたくなった。
三カ月ほどかけて、基本的な構造はおおむね出来たが、タッチセンサの部分がまるで手つかずの状態だ。役に立ちそうな文献を、透は、第一図書館で探すことにした。第一図書館は、蔵書数一千万冊を誇る、地底最大の図書館だ。
図書館に入ると、ロビーで、同じ工学部機械科の澤田浩介に会った。
「よう、透、久しぶり。」
浩介は、課題のレポートについての資料を集めにきたと言った。レポートの課題は、地底の空調機械の改良について、だそうだ。浩介は、空調機械の小型化について検討しているが、なかなか思い通りにいかないらしい。透が、自作ロボットのセンサについての本を探していると言うと、
「なんだなんだ、休みの日に、しけたペットロボなんか作ってんのか。そんなクソの役にも立たないもの作ってる暇があるならさ、もうちょっと役にたつものを作ったらどうだ。掃除を楽にするロボットとかさ、生ゴミ処理器や美顔器とかね。お袋さん、きっと喜ぶぞ。」
「お前は、いい旦那さんになると思うよ。」
浩介にそう言い残して、透は目当ての書架を探し始めた。
「おいおい、つれないな。なあなあ、美穂とさ、週末にデートなんだけど、どこかいいところないかなあ。最近公園を散歩するばかりだから、あいつ、すっかり機嫌が悪くてさ。」
「そんなの僕に聞いたって、わかるわけないだろう。」
「なんだあ、しょうがないな。透、モテるくせに、彼女とか作らないのかよ。」
「彼女ねえ・・・、時々遊ぶ子なら、たくさんいるよ。」
「・・・お前って、ほんとムカつくな。」
浩介はそんな話をしながら、透が目当ての本を見つけ、机で読み始めてからも、なかなか透のそばを離れようとしなかった。美穂と言うのは、浩介が最近付き合い始めた彼女で、同じ大学の薬学部に所属している一つ下の後輩だった。一緒にいるところをちらりと見たことがあるが、小柄で可愛いらしい子だった。
自分で言うのもなんだが、昔から女の子にはよくモテた。しかし、これまで一度も透は、恋人というものをもったことがない。告白されれば、いい子だなあ、とは思うのだが、恋人どうしになって深く関わることが、どうも面倒くさく思えて、いつも断ってしまう。
(要するに、やる気がないんだ。・・・変な意味じゃなくて。)
調べ物に集中していて、ふと気がつくと、館内に閉館のメロディーが流れ始めていた。時刻は午後五時、閉館のメロディーは、サティのジムノペディだ。とある友人は、その旋律を、気が滅入るようだ、と批判したが、人を迷宮に誘うようなそのメロディーが、透は気に入っている。
次の週末、透は、兄の一樹に無理やり彼の飛行バイク「飛天」の改造を手伝わされるはめになった。なんでも、最高速度までの加速にかかる時間をもう少し短くしたいのだと言う。バイト代は払う、と一樹は言うのだが、これまでの経験から言って、十中八九、踏み倒されるに決まっている。
「全く、週末に予定もないなんて、いい若者が、それじゃいかんぞ。デートする女の一人くらいいないのか、え?」
透がエアバイクのエンジン部をいじっている間、一樹はマシン側面のボードを磨きながら、透に向かってそう言った。やれやれ、どいつもこいつも、言うことは同じだ、と透はため息をつき、もはや反論することもしない。
「なんだなんだ、返事もなしか。」
「デートには飽きた。」
透の言葉に、一樹は急に神妙な様子になって言った。
「そんなこと言ったってお前、この地底で、他にどんな人生を生きたいって言うんだ。まっとうな結婚をして、人の生活の役に立つ仕事をして、年をとる、それが地底国で生きられる人生のすべてだ。」
「兄さんは、本当にそう思ってる?」
透の問いかけに、一樹は面食らった顔をした。
「・・・まあ、軽い冗談だ。俺はまっさらごめんだな。」
「だろう。本当にさ、ここで一生を終えていいのかな?地上に出ようと思えば、いつだって出られる。そこには、ものすごくたくさんの人がいて、たくさんの風景や歴史や知識があって、そこで自由に生きられる。そう考えたことはない?」
「お前、地上に出たいのか?」
一樹の問いかけに、透は目をふせた。
「さあ、どうだろう。面白いかもしれないけれど。正直、あまり自信はない。」
「たしかに、地上では、もっとでっかい面白いことがやれるかもしんないなあ。」
一樹は、飛天の側面パネルの磨きあげを終え、ハンドルのねじの緩みを確認し始めた。
「だけどな、透、地上で生きるっていうのはな、そんなに簡単なことじゃないぜ。地上に出たら、きっとつらい思いもたくさんする。じいさんや、父さんの代の人たちが、皆そうだった。」
一樹は、地上に移住したものの、地上の環境への不慣れや差別などで満足な職にもつけず、貧困に苦しんだ先祖たちのことを言っているのだと、透は思った。
「だけど、時代は変わっていくさ。誰かが出ていかなければ、ここはいつまでも閉鎖された社会のままだ。」
透は、勢いに任せそう反論したが、本当にそんな強い思いを持って、地上への移住を望んでいるのかどうか、自分でもわからなかった。一樹は、それきり口をつぐんだ。
沈黙が気まずくなって、ふと視線を外に向けると、倉庫の片隅の、旧式の掃除用ロボットにふと目がいった。
大きさは、人間の十歳児程度で、てっぺんについた丸い金属部が、かろうじてその機械を人型に見せている。その下は、円柱型の胴体の下にモップやスポンジがついた極めて簡単な作りだ。周りに置かれているドラム缶や工具類の箱の間に、目立たない様子で置かれている。
「あんな掃除用のロボット、うちにあったかな?」
透が尋ねると、一樹は後ろを振り向いて、ロボットをじっと見つめた。
「そういやそうだな、あんなもの、使っていた記憶はないけれど・・・。」
そう言いながら、一樹は倉庫の片隅のそのロボットに近づいて、その機械の隅々を調べ始めた。
「お、後ろにスイッチがあるぜ。」
一樹はそう言って、その主電源と思われるスイッチをオンにした。ロボットは、ピーという電子音とともに動きだし、勝手に倉庫を掃除し始めた。
「おいおい、こんな砂だらけのところ掃除してどうするんだよ。」
一樹は呆れたようにそう言って、慌てて電源を切った。
「かなり埃をかぶっているけど、見た目ほどは古くなさそうだな。下の部分にはセンサもついているようだし、案外使えるのかも。」
「ふうん。」
一樹と透はその後しばらく、興味深げにそのロボットをあれこれ調べていたが、一樹が先に飽きて、家に戻るといって行ってしまい、透は一人、倉庫に残された。ふと、透は、これは今作っているペットロボに使えるかもしれない、とひらめいた。このロボットについている、ゴミ感知のセンサを、ペットロボの感知センサに利用できないだろうか。幸い、この掃除用のロボットを、母が使っているのは見たことがないし、自分や一樹も存在すら知らなかったぐらいだから、自分が密かに解体してしまったところで、特に問題はないだろう、と透は勝手に決めてしまう。
そうと決めると、透は早速、その掃除用ロボットを二階の自室に運びこんだ。実際持ってみると、そのロボットは思ったよりも重く、二十キロほどはあるように思えた。やっとの思いで自室に運ぶと、部屋の中央の広い部分に、工具やオイル、ウェスなどを並べ、準備を整えると、透は解体作業を始めた。
まずはお目当てのセンサの制御部分を調べたい。頭部の丸い金属製のカバーを外してみよう、と透は考えた。
留め具のネジを一つ一つ丁寧に回すと、そのカバーは簡単に外れた。カバーの下には、様々な回路がところ狭しと並べられ、銀色の鈍い光を放っている。この部分に、センサやスピードの調整などの制御部が集められているはずだ。透は、全体を見渡したあと、一つ一つの細かい部品について見ていく。
これまで見たことがある部品もあれば、そうでないものもあった。参考書を片手に回路を見ていくが、透は首を傾げる。
単なる掃除用のロボットにしては、どうも構造が複雑すぎる気がする。メモリがやけに大きいような気がするし、明らかに用途のわからない回路が多くある。そして、カバーがかけられている時には気がつかなかったが、ちょうどロボットの前方部に二カ所、レンズのようなものが装備されていた。これではまるで、人間でいう目のようではないか。
「掃除用のエリアを把握するためのものかな?だけどこのタイプのものは普通、床と接する部分にセンサがついているはずだけど・・。」
透は不思議に思いながらも、メモリの内容を読み込むため、自作の読み出し機につながるケーブルを、その不自然に大きなメモリ部分に取り付けようとした。次の瞬間、指先に熱さを感じ、透は慌てて手を引っ込める。
「熱っ。」
人差し指の先を見ると、真っ赤にただれている。透は慌てて、洗面所へ降りる。水道をひねり、勢いのよい水の流れにしばらくのあいだ指を浸した。しかし、どうして火傷をしたのだろう。掃除ロボットのバッテリーは外してからしばらく経っていたし、部品の中で熱を帯びる種類のものはなさそうに思えた。第一、ケーブルを取り付けようとしたとき、透はどのパーツにも指をふれていなかったはずだ。
人差し指の痛みが収まってくると、狐に化かされたような気持ちで、透は再び二階の自室に戻り、解体を続けようとし、再度同じ位置に腰をおろした。洗面所に降りる前と何一つ変わらない、ように思えた。透は思わず自身の目を疑った。掃除ロボが頭部のカバーを再び被せられた状態で、部屋の隅に移動していた。先ほど自分は、カバーなど戻す余裕もなく、階下に降りて行ったはずだ。それなのになぜ、外したはずのカバーが、再び被せられているんだ?
「兄さんか、母さんが片づけたのかな・・?」
そんな時間はなかったはずだ、と思いながらも、透はそうつぶやき、再び頭部のカバーを外そうとする。が、今度は外れない。先ほどはネジを外したら簡単に外れたカバーが、今度は全く外れる気配がない。ネジをすべて外し、透が渾身の力を込めて引っ張ってもびくともしなかった。まるで、強い意志を持って、透の侵入を拒否しているようで、不気味ですらあった。
「・・・なんなんだよ、一体。」
透は奇妙な気分に包まれていた。