六話
自宅アパートに帰ってきた私は、まず部屋に鞄を置き、代わりにバスタオルを取って風呂場へ行く。
シャワーを浴び、頭と顔と歯と体を洗う。
浴室から出て冷蔵庫を開ける。週末に作り置きしておいた料理が入ったタッパーを取り出して、それぞれをレンジで温める。
いつもと変わらない決まった手順。私しかいない家で、私が作ったルールだ。
毎日の変わらぬ平穏が守られると安心する。
温まったタッパーをレンジから取り出し、食卓へと運ぶ。
まずは冷えたウーロン茶を飲む。一口で済ますはずが、喉が欲するままに流し込んでいると、コップ一杯を飲みきってしまった。もう一度注いでまた飲む。自然に快感を伴った息が出た。
テレビをつけながら食事を摂る。まずまずの出来だった。また身体が求めるままに口へと運び続ける。
テレビでは、ちょうど番組が始まるところだった。
毎回様々なテーマを設定し、それについて討論をする番組だ。その道の専門家や大学教授、政治家も出演したりするが、タレントやお笑い芸人も居たりもする。バラエティ番組だ。
別にその番組を見たかった訳ではなかったけれど、他に見たい番組もなかったので、チャンネルはそのままにしておいた。
ナレーションが告げる。
「今回のテーマは『行政区画自由化法は是か非か』」
私は三杯目のウーロン茶を飲み込んだ。
次々とゲストが紹介されていく。
大学の准教授、元自衛隊員、野党の政治家、新聞の元編集長、毒舌で一時人気だった女性タレント、そして自称研究家。それに加えて、レギュラー司会者ののタレント三人がそれぞれ写された。
既に食事は食べ終えてしまった。空になったタッパー達をすぐに洗いたかったが、番組が気になった。司会者が始まりの挨拶をしている間に台所へ行き、タッパーに水を張って急いで戻った。
VTRが流れていた。
先月、某県某市で大規模な侵攻が行われた。それが成功し、これが成功。その市は、近隣では最大規模の面積となって、税収なども大幅にアップした。
しかし。
この際の戦闘で防衛団に所属していた人達に被害が出ており、死傷者数は合わせて三十名を超えた。また、突然の侵攻で新たな支配地域となった行政の混乱は大きく。一部公共施設が現在も利用できない事態が続いているという。
本当に今のままでいいのか。行政区画自由化法。
と、結ばれていた。
私は今まで、この手の話題には興味がなかった。この事件の事もほとんど知らない。自分から情報収集することはしないし、TVニュースでやっていたらすぐにチャンネルを切り変えた。世間の風聞からは一切距離を置こうと努めてきたのだ。
だから興味がないというよりも、あえて避けてきたと言う方が正しいか。こんな事は、自分には関係のないことだ。そう無意識のうちに拒絶していたからなのだと思う。
なのに私は今、この番組に見入っている。
先日の戦闘によって、私はこの事に無関係な人間ではなく、むしろ当事者なのだと気づかされてしまったのだ。
番組ではスタジオの出演者達が各々の主張を大声でがなりあっている。
向かって右側に席を設けられている元自衛隊員、新聞の元編集長、自称研究家は行政区画自由化法肯定派で、対する左側に位置する准教授、政治家、女性タレントは否定派の立場で話しているようだ。右翼左翼を表しているのだろう。
「自らの支配地域を広げるために、武力によって侵攻し侵略する。おまけに人死にまでだしてるんですよ。こんなものは戦争と何にも変わらない。国が国民同士で戦争させてるだけじゃないですか」
政治家が口角泡を飛ばす。元自衛隊が反論する。
「自分達の場所を自分達で守るのは当たり前のことでしょうが。攻めてくる方だって、財政難だとか人口減少とか、そういったやむにやまれぬ事情があって、しょうがなく攻めてきてんだ」
「やむにやまれぬ理由があれば、人を殺してもいいんですか」
「一般人には被害は出ていないでしょう。防衛団の人達は、そういう可能性は十分に理解していて、覚悟はできている。私も自衛隊にいたときはそうだった」
していない。私は死ぬ覚悟なんて、いや、戦う覚悟さえできていなかった。きっと芝田だってそうだ。エリート自衛隊員と同列にされても困る。
「それに死亡の可能性を極力減らすために、軍の武器の使用を禁止してるでしょうが」
それは違うと思った。
確かに軍の技術は使われていない為、大量破壊兵器や細菌兵器の類は使用されない。
しかし民間の技術で造られた武器でも、人は殺せる。銃弾一発で装甲を貫通し、中の人間を消し飛ばす威力は十分にあるのだ。
私は先日の、銃口を向けられてから発射されるまでの、引き伸ばされた時間で感じた恐怖を思い出した。
「決まりはどうあれ、この事件だけで現に三十人も死傷者が出てるわけですね。国民が死ぬということは、国力が減るという訳ですから。国がそれを推奨しているっていうのは、これはナンセンスですよね」
准教授は慇懃無礼な態度だった。
これには元編集長が答える。
「国は殺し合いを推奨なんかしていない。ただ、自分達の領土は自分達で決めなさいねと言ってるだけだ」
「でしたら武力での侵攻を認めないで、話し合いで」
「話し合いでやったらもっと酷い事が起こったから、適度にセーブされた武力を認めたんでしょうが。今の不満ばっかり見てないで、それが求められてできた成り立ちを知りなさいよ」
元編集長の発言を受け、追加VTRが流された。
なんでも、昔は武力による侵攻が認められておらず、話し合いで双方が合意した時にのみ、合併という形で領土の変更がなされていたらしい。ところがある日、話し合いがもつれにもつれ、激怒した町の職員数名が相手方の町役場を襲撃。その場にいた人間数十人を皆殺しにするという凄惨な事件が起こった。
その後も、規模は小さいが似たような事件が多発したため、政府はあえて武力侵攻を認めることで、国民のガス抜きを狙ったとされる。ということらしい。
「な、ならば、都道府県、市町村に権限を与えるのをやめて、全部国が統制すればいいんです」
准教授は分かりやすく狼狽している。
「それも同じだ。一番最初にそれをやろうとしたら、国の負担が大きくなりすぎて、地方の問題なんかにかまけてられなかったから。それを解決するために、各行政へ権限を渡したのがそもそもの成り立ちだろう」
准教授は何か反論しようと手を挙げたが、発言は認められず、今度は自称研究家が喋りだした。
「えー、先程からそちらの皆さんは、戦うのは絶対に駄目だと仰っていますが、まぁそれについての是非は一旦置いとくとしてですね。防衛団が産み出すものについても眼を向けてほしいんですよ。例えば、過疎化が進んでいる地方では、防衛団っていうのは貴重な存在なんですよ。どこの地域でも最低1つか二つくらいはありますからね。そこに雇用が生まれるわけです。そうすると人口流出にもある程度歯止めがかかる訳です」
私は正にその恩恵を受けている立場だ。
「防衛団自体でなくても、それの物資を製造している工場や、それを運ぶ運送業があります。そりゃあ莫大な市場になりますよね。それが、いきなり全部無くなるってなったら、工場は倒産するだろうし大量のリストラが起きるでしょう。経済は破綻して、それこそこの国は滅びますよ」
さすが研究家を名乗るだけあって、業界の仕組みを理解している。この番組中、一番納得の行く主張に私は感心してしまった。
私の中で、右翼側の勝利が確定しつつある中、左翼の女性タレントが手を挙げた。
「それも解りますけど、あの、さっきの話に戻っちゃいますけど。例えば隣の町が攻めてきたとしますよね。で、自分の町の防衛団が戦って、なんとかやっつけれた。けど、味方が一人死んでしまった」
「遺族へはお見舞金がでますよ」
元編集長の言葉には耳を貸さず、タレントは続けた。
「それでしばらくしたらまた、隣の町が攻めてきた。撃退してまた味方が死んだ。それが何度も何度も繰り返されて。これって、いつになったら終わりがくるんですか?」
元自衛隊が怒りの声を出す。
「あんたらの町を守るために命かけて戦ってんだ。敵が来たら守るために戦うのは当然じゃないか」
「だから、戦ってまで守る意味があるんですか」
「あんたには郷土愛はないのか。自分の町がなくなるんだぞ」
元自衛隊はさらに怒気を強めて、もはや絶叫している。
他の連中も何事かを大声で主張しているが、感情論を言い合うばかりで、もはや討論の体をなしていなかった。
一気に興味が失せてしまって、私はテレビを消し台所へ行った。
タッパーとコップを洗い、リビングに戻ると、今日はもう寝る事にした。
布団を敷いて、電気を消す。
枕に頭を乗せ眠りが訪れるのを待った。
なかなか寝付けない。
頭の中で記憶や妄想が無選別に列挙される。
新しく来た新井さん。特別手当二万円。厚顔無恥なタレント。昔虐殺された町役場。レールガン。轢かれた牛蛙。
差し出される順にそれらを見ていると、その中に私の顔があった。
今日見た写真。笑うのをかみ殺した厭らしい表情の写真。
その顔が、写真から伸びてきた。
写真自体は平面のままで、顔の部分だけが立体的に引き伸ばされていく。
それが目指しているものは、写真を見ている私だった。
顔はどんどん近づいてきて、それに比例して拡大されていく。圧迫感も強まりとても不快だ。
気づくと、既に目の前にそれはあった。鼻の頭が触れてしまいそうなほど近い。
私の視界には、写真の私の両目があった。
その眼は……嗤っていた。
思った時には、その顔は私の顔に触れていた。眼は眼に、鼻は鼻に、口は口に、寸分違わず貼りついていく。
剥がそうと掻き毟るが、取れない。完全に皮膚と一体化している。
手に持っていたはずの写真は、既に消えている。
どうやっても取れないので剥がすのを諦めた。顔を上げると、私の顔はあの顔になっていた。
写真と同じ顔。笑うでもなく、引き締まってもいない中途半端で醜悪な貌だ。
いつの間にか、私は都会の交差点の真ん中に居た。
人波と呼ぶに相応しい多くの人々が、交差点を縦横に歩いている。
その人々が、全員こちらを見ていた。前も後ろも左右も。全員が私を見ている。
そして、嗤っていた。
「やめろ。これは私じゃない。見るな。嗤うな……」
叫んだ時に目が覚めて、悪夢は終わった。
カーテンの隙間から朝日が差しているのが見えた。
しかし私は怖かった。私しかいないこの部屋で、誰かに見られて嗤われている。
夢の感触が今も残っていた。
誰にも見られないように、布団を頭まで被った。体を丸めそして震えた。
しばらくして、目覚まし時計の音が鳴り響いた。