四十五話
私は窓際のベッドに身を沈めている。
シーツの色も、壁紙も、医者や看護婦が着ている服の色も、おまけに空の色までもが、薄汚れた灰色で統一されていた。ただ、私を始め入院患者達が着る病衣だけは、薄い水色をしている。
病室には全部で八つのベッドがあり、そのうち四つだけが使用された状態にあった。四十代、五十代、六十代のいずれかと思しき、中年から初老にかけての男性達が、それぞれのベッドの上でそれぞれの時間を過ごしている。彼らは何事かをぶつぶつと虚空に向けて呟いていたり、唸り声とも鳴き声ともつかない奇声をあげたりしている。その表情は十人十色で同じものがなかった。不幸よりも幸福を感じさせる、そんな顔に見えた。もしかしたら、彼らには私の顔もそのように映っているのかもしれない。
全員が己の世界に篭もり、互いに会話を交わすこともなく、テレビもラジオもパソコンも無いこの世界では、聞こえるのは自らが発した音以外にない。ドアの向こう側からは様々な雑音が微かに鳴っているようだったが、それは私とは断絶された別世界の事象だ。
寝疲れて肩や背中が痛くなった私は、ベッドから起き上がり病室を出た。
階段を降りて一階のロビーへ行ってみると、待合席の席は外来の順番待ちをしている患者で一杯だった。多いのは年寄りで、その中に一人二人、私と同年代の若い人間が混ざっている。
待合席の前に置かれた大画面のテレビでは、NHKの料理番組が流れていた。
私はふと、外来受付の横にある掲示板の前で足を止めた。
医師の出勤日。月の初めには保険証を提示してください。処方箋の有効期限は四日以内です。そんなことが書かれてた紙が貼られている。
その中の一枚に、加須市合併のお知らせというものがあった。
『二千十年三月より、騎西町、大利根町、北川辺町の三町は、行政区画自由化法に依り、加須市へと新設合併されることになりました。保険証などの住所変更を…………』
テレビの音と、その前に座る人達の話し声が聞こえる。けれど、それが何を言っているのかは理解できない。言葉ではなく、ただの音としてしか認識ができない。
倦怠感を促す音の塊が私を包む。
……そうだ。こんな所で時間を潰してる場合じゃない。やる事があるんだった。
私は小走りで病院の出口へと向かおうとしたが、途中で看護婦に呼び止められた。
「梅沢さんどうしたんですか?」
私は表情だけで返答した。なんでもないですよと。そのまま軽く流して出て行こうとした。
すると看護婦に腕を掴まれた。
「駄目ですよぉ。病室に戻りましょうねぇ」
優しげな声色とは裏腹に、掴まれた腕は強い力で握られている。
私はその手を振りほどこうと、腕を振り回した。看護婦は慌てながらも、しかしその手を離さない。
仕方がないので、私はその看護婦の顔を空いてる方の手で殴りつけた。それでやっと拘束がとけた。
「きゃーーーー!」
同時に看護婦は叫び声をあげた。恐怖や痛みに対して本能から自然にでた叫びではない。まるで、事前にリハーサルを行っていたかのような、台本に叫ぶと書かれていたから叫んだ。そんな白々しさのある叫び方だった。
まぁいい、障害は取り除けた。これで私は外に出られる。目的が果たせる。
自動ドアが開いて私の為の道を拓いてくれた。外は、今にも雨が降り出しそうな灰色の曇り空だった。
病院の駐車場を抜け、公道に出る。
さて、どっちの方向だろうかと思案した時、背後から強い衝撃を受けた。
白衣の男性が、私に体当たりをしてきたのだ。私は倒れ、男性はそのまま私の手足を取り押さえようとしてきた。私はあらん限りの力で抵抗した。手足をバタつかせ、体を捻った。そうやって、しばらくは一進一退の攻防を続けられたが、病院内から更に二人の中年男性が増援で駆けつけてきたことで、決着がついてしまった。
私は三人に両手足を掴まれ、持ち上げられた。浮遊感と拘束による不快感の中で、私はなおも暴れ続けた。
離せ! 離せ! なんなんだよお前達は!
なんで邪魔をするんだ。
私はただ、佐藤達を殺しに行くだけなんだ!
お前達には関係ないだろう。殺し終えたら、ちゃんとここに戻ってくる!。
行かせてくれ! 頼むから。
殺させてくれよ!
殺さなきゃいけないんだ!
殺さなきゃ…………。
他に……何も無いんだから、私には……。
お願いだよ。行かせてくれよ……。殺させてくれよ……。
私の中では明確な形を成しているはずのその想いは、口から出た時には何故か変容してしまっている。
私は、唸り声とも鳴き声ともつかない奇声をあげていただけだったのだ。
「う~~! ん~~! む~~!」と……。
やがて担がれながら病院の敷地内に戻された。
入り口には『東武丸山病院 診療科目 精神科 神経科 心療内科』と書かれた看板が立っていた。
空からは大粒の雨が降り始めた。
埼玉県北埼玉郡防衛団 完