四十話
目の前に、新井さんが居る。
そうだ。彼女はこんな顔をした人だったんだ。私は、あの一ヶ月にも満たない短い期間に彼女が見せた表情を、全て思い出していた。
顔に被さる前髪から覗く泣き顔も。私の若気の至り的な恥ずかしい宣言を「うれしい」と言ってくれた、赤く染まった照れ顔も。そして永遠に眺めていたいと思った、あの満開の笑顔も。つい今しがた見てきたもののように、はっきりと思い浮かべることができた。
その中には、悪夢で見た醜悪な嗤いの表情は無かった。当たり前だ。彼女がそんな醜い顔を見せる訳がないのだ。
そうだ。彼女は、誰かを陥れるような、悪い人間じゃ、ない……。
起きた時には、夢の中ではっきりと見えたはずの新井さんの顔は、既に朧なものに戻ってしまっていた。
こういう時は、悲しんで泣くべきなのだろうか。
格納庫では私、佐藤君、渡辺さんの三人がそれぞれの仕事に従事していた。
前日の出来事もあり、私と佐藤君の間には良くない空気が漂っている。しかし、確執はずっと以前から続いていたので、対外的には大した違いはないのかもしれない。ただ少し、私が佐藤君への監視の度合いを強めているだけのことだ。幸い、今のところは何の問題も起こしてはいない。
午前十一時二十分頃、格納庫の電話が鳴り響いた。丁度、私が一番近い位置に居た為、受話器を取った。
「はい。株式会社クリエイト、騎西町支店です」
電話の相手は、役場の加納さんだった。とても慌てた様子で、いつも以上に早口で喋ってくる。
私は、はい、はい、ええ、解りました。と、相槌だけを打ち、手早く電話を切った。
そして佐藤君が居る二号機と、渡辺さんが作業する三号機の真ん中に立ち、大声で二人に呼びかけた。
「今、役場から加須市が攻めてきたという連絡が入りました。我々は直ちに現場へ急行し、これを迎え撃たねばなりません。三分で出動します! 機体を起動してトレーラーに積み込んでください」
二人はしばらくぽかんと硬直していたが、私が「急げ!」と声をあげると、漸く体を動かした。
私も二人同様に出動準備をしつつ、携帯電話を片手に持ち、福地SVへ報告の電話をかけた。あいにく留守電になったので、「加須市が攻めてきたので、これから出動します」という短いメッセージを残して、携帯電話をしまった。
機体を立ち上げ、武器を装備する段になって、一応、二人に言っておいた。
「訓練用の弾と間違えないように! ちゃんと実弾であることを確認してください」
返事はなかったけれど、二機が自分の持った弾倉を見やる動作をしたので、良しとした。
準備を終えてトレーラーが格納庫を出たのは、加納さんの電話を受けてから五分五十秒経ってからのことだった。
戦場となるのは、やはり、あの潰れたホームセンター周辺だった。
我々はその手前でトレーラーを止め、機体に乗り換えて慎重に進軍を開始する。
「多分、時間的に考えて、あのホームセンターを中心に、どこかで待ち伏せされてる可能性が高いと思います。三機で適正な距離で固まって移動しましょう。私が前方、佐藤君が右側、渡辺さんが左側の索敵をしてください」
通信機からの応答はなかった。
「返事をしてください!」
私が怒鳴ると、二人は「はい」とだけ返した。
「いいですか? これは遊びじゃないんです。ヘタすれば、死にます。真面目にやってください」
戦闘開始数分前にする話ではない。こんな連中を従えて、私は生きて帰れるのだろうか。
ホームセンターの敷地内に入ると、我々は速度を緩め、より周囲への警戒を強めた。
進行方向右側には、件のホームセンター。三階建てで、三階部分は駐車場になっている。そこに登る為のスロープは、建物の左右と中央から一本ずつ伸びている。
店舗が入っていたであろう1階部分には、シャッターが降ろされている。しかし全ての場所がシャッターで閉ざされている訳ではなく、シャッターがない箇所や、半分程度しか降りていない箇所などが不規則に並んでいる。全てのシャッターには、スプレーで低俗な落書きがされているので、きっと珍走団の類が、いたずらで壊していったのだろう。
左側に見えるのは、ホームセンターの第二駐車場と二階建ての無人のビルくらいか。隠れるとしたら、あのビルの陰くらいだろうが、特人車の大きさを考えると、少し窮屈に思う。
前方には駐車場。と、その奥に広がる田圃。そこには一切身を隠せる場所が無いので、私は、右のホームセンターと、左の無人ビルの双方にも注意を払う。
じりじりと、ホームセンターを右から左に横切る。建物の五分の一ほど来たところで、突然佐藤機が歩く速度を速めた。
「おい、勝手に隊列乱すな! 危険だぞ」
「大丈夫っすよ。敵なんかいないじゃないっすか。きっと誤報だったんすよ」
通信機による声のやり取りだけで済むはずなのに、佐藤君は何故か機体をこちらへ向けて、機体の手や頭を動かしジェスチャーまでつけて応えた。
「油断するなって言ってんだ。遊びじゃないってさっきも言いましたよ!」
「梅沢さんビビリなんすね」
私の叱責を意にも介さず、佐藤君は逆にこちらを嘲笑してきた。やはり昨日のことを根に持っているのだろう。それは私だって同じことだ。しかし今は低レベルな口喧嘩をする場面ではない。佐藤君が死ぬのは一向に構わないが、私にまでその害が及ぶのは避けたい。
私は努めて冷静になり、無視を決め込んだ。
「それに、本当に敵が現れたって俺が一発でやっちゃいますよ。毎日シュミレーションばっかやらされたおかげで、俺、超強いんすから」
私が反応を示さなくなっても、佐藤君からの挑発は終わらなかった。皮肉を言い、機体にシャドーボクシングのような動きをさせ始めた。
私の左後方に居る渡辺さんは、この光景をどう見ているのだろう。いくらバイト仲間とはいえ、この態度にイライラしたりはしないのだろうか。
「梅沢さん」
そう考えていると、渡辺さんの方から通信が入った。
「はい」
「今、十一時四十五分くらいですけど、私、今日午前中で上がりなんです。それまでに終わりますか?」
そんな事知るか! と思った時、視界の右側に動くものが見えた。馬鹿なダンスを踊っている佐藤機の奥、半開きになったシャッターを潜った闇の中に、敵特人車の姿を見つけた。
数は一機。銃を構えて片方のひざを着き、既に射撃体勢は整っていた。
狙われるのは、恐らく……一番近い佐藤機!
私は咄嗟に佐藤機の肩を掴み、全力で後ろに引き倒した。反動で私の機体は敵の射線に躍り出た。
敵機から放たれた弾丸が、私の機体を貫いた。
しかし、それは左ひじから下を破壊しただけで済んだ。幸運にも、機体中枢へのダメージは軽微だった。
私は被弾の衝撃でゴロゴロと転がりながらも、残った右腕で銃を抜いた。
立ち上がってすぐに敵へ向けて発砲する。しかし、既に敵機の姿はそこにはなかった。シャッターという遮蔽物を利用し、何処かへと姿をくらましていた。
「佐藤君、早く起きろ! 渡辺さん、敵はどこへ行った?」
「解りません」
「くっ。他に敵の姿は見たか?」
「見てません」
とても不味い状況だ。私は自覚できるくらいに焦っている。適当な回避移動を繰り返しながら辺りを見回すと、未だに佐藤機は倒れたままで、渡辺機は棒立ちでオロオロとしているだけだった。
「何してんだ! 早く戦闘態勢を取れ。佐藤はいつまで寝てんだ」
言われて渡辺機は思い出したように銃を取り出した。しかし佐藤機は反応がなく、微動だにしない。
「佐藤、おい! 佐藤?」
いくら呼びかけても返事が返ってこない。この緊迫した状況で、嫌がらせ的な無視をするとは、考えにくい。
「気絶してるのか? こいつ」
私は闇雲に、閉じたシャッターへ弾丸を撃ち込みつつ、渡辺さんに命じた。
「渡辺さん! こいつを引っ張って後退して」
「でも……」
「早く!」
でも……。の次にどんな言葉を吐くつもりだったか知らないが、きっとこの窮地を好転できる名案ではあるまい。だったら、役立たずが消えてくれた方が、まだ幾分かマシだ。
渡辺さんは命令通りに動いてくれた。しかしその動きは、役場の職員のようにノロノロと遅かった。私は再び怒鳴りつけたくなる衝動に襲われたが、今はそれどころではない。
盲滅法に弾を乱射しつつ、私は徐々にシャッターへと近づいていった。機体の頭部だけをシャッター内に入れて見るも、薄暗くて敵の姿は見つけられない。
後ろの二機は、まだ百メートル程度しか移動していなかった。周囲に他の敵機の姿がないことを改めて確認し、私は意を決してシャッターを潜り抜け暗闇の戦場へと足を踏み入れた。
建物の、ほとんど右端の位置から侵入したので、左側へ向かって歩を進めた。途中、動くものが見えると、考える間もなく発砲した。だがそれは、大抵、恐怖心からくる見間違いであり、風に飛ばされてきたゴミだったりした。
進軍速度はとてもゆっくりとしていた。多分、人間が徒歩で歩いた方が余程早かっただろう。それだけ私はその薄闇に潜む敵機に怯えていたのだ。
たっぷり十分は費やして、私は建物の左端のシャッターにまで辿り着いた。敵と遭遇することはなかった。
「渡辺さん、こちらは敵を発見できず。そっちはもう後退終わりましたか?」
状況確認の為、渡辺さんへ通信を送った。
「もう少しで敷地を出れそうです。敵ならさっき田圃を突っ切って三機、走っていくのが見えましたよ」
今さらな報告に、私は頭にカッと血が昇った。
「何でそれをすぐ言わないんだ!」
私はこの数分間、無用な緊張とストレスを感じていたのだ。渡辺さんは何も返事を返さなかったけれど、通信機からはムッとした空気が伝わってきた。きっとこの上なく不機嫌な顔をしているのだろう。私はそれ以上に不機嫌だというのに……。
佐藤機の運転席を開けてみると、佐藤君が額から一筋の細い血を流して気を失っていた。その時、丁度、留守電を聞いた福地SVからの着信があったので、私は状況を説明し指示を仰いだ。福地SVからはすぐに救急車を呼ぶように言われたので、私はその通りにした。
五分も待たずに救急車は到着した。救急隊員に指摘されて初めて気が付いたのだが、私も怪我をしていた。被弾した際に運転席内のモニターガラスが割れて、それで切ってしまったのだろう。左腕に小さな切り傷、それと左耳の下からも血が出ていた。一応念の為、私も救急車で病院へと運ばれた。
救急車に乗ったのは生まれて初めてのことだった。生きた状態で乗れて良かったと、感想はただそれだけだった。