三十九話
あれから半年もの月日が流れた。
私を取り巻く環境は、季節以外、何も変わってはいない。
勤め先は騎西町の役場前に在り、アルバイト達は無愛想で非常識、担当SVは小さい事を気にしない体育会系で、前任の荻野さんは無責任。自分自身驚いているのだが、よくもこんな状況で辞めずに続けられたものだ。隊長という役職の責任感が、軽はずみに投げ出す行為を抑えてくれたのだと思う。それと、荻野さんにできて、私にはできない。という評価を受ける屈辱を味わいたくなかった。私にだってプライド位はある。
ハーモニーの頃とは違い、仕事をサボって時間を潰すことはできなかったので、やるべき事はやった。しかし、アルバイト達との接触は可能な限り(不自然な程に)避けた。この半年、我々は必要最低限以下のやり取りしか取っていない。もはや、コミュニケーション云々の次元を超えて、あの三人との関係を改善するのは、不可能だと考え至ったのだ。それになにより、私自身も、三人を拒否するようになっていた。したがって、相互の協力が必要なコミュニケーションなどという行為は、利根川の水を飲みきるよりも無理な話だった。
それでも想像できない珍事は起きたし、その度に私は怒りに震え頭を悩ませた。
例えば、ある日の深夜一時過ぎに私の携帯電話に藤野さんからのメールが届いた。
「明日急に学校の授業が入ったので休みます」
私がそのメールを開いたのは、夜が明けて目覚めた午前七時半頃だった。私はその後、三分間に渡って枕や布団を殴打した。そして藤野さんへ電話をかけたが、朝の所為か出なかった。仕方がないので、メールで「急にそんな勝手なことを言われても困る」という旨の文章を送った。
そしてすぐさま、その日、半日だけシフトに入っていた渡辺さんに連絡し、事情を説明してシフト時間の延長をお願いしてみた。渡辺さんは寝ぼけた声を出していたが、幸いなことにそれを承諾してくれた。
ほっと一息ついて「渡辺さんが替わりに出てくれたので、今日は休んでもいいですよ」というメールを藤野さんに送って、その件は片付いた。はずだった。
後日、渡辺さんから聞かされたところによると、藤野さんはその事で大泣きをしたらしい。嗚咽交じりで喋った為、渡辺さんにも詳しい事情はよく解らなかったそうだが、どうやら、私が送ったメール内容に対して不満を述べていたらしい。曰く、「学校の予定が急に入ったのは、私の所為じゃないのに、すごい厳しくて怖いことをメールで言われた」と。
そんな馬鹿なと思った。理由や経緯はどうあれ、この場合の被害者は私で、加害者は藤野さんだ。間違いはないだろう。なのに何故、私が悪者であるかのように扱われなければならないのだ。そんな理不尽な話があるか? 泣きたいのはこっちだ。
しかも、追い討ちをかけるように、同じ被害者であるはずの渡辺さんも、その藤野さんの言葉に賛同の意を表したのだ。つまり、私に否があると。
「送ったメールに、絵文字とかつけましたか?」
そんなことを言われた。私には意味が解らなかった。
「ただの文字だけだと印象が怖いですよ」
そう続けられても、謎は益々深まるばかりだった。曲がりなりにも仕事のメールで、しかも叱責の意図も少なからず入ったものだ。何故私が、コミカルにぷんぷんと怒った顔文字や、音符マークなどの絵文字で文章をデコレーションしなければならないのか。
その疑問を、率直に渡辺さんに尋ねてみた。
「女の子だからですよ」
その返答で、私は理解することを諦めた。
これはほんの一例で、私の精神を蝕む出来事は他にも数多く起きた。
そういったストレスのおかげで、私は不眠症になった。平日はもちろん、休日も満足に眠ることができず、一日の睡眠時間は三時間にも満たなかった。
当然、唯一の憩いの場であるはずの家でも変化が起きた。
まず、自炊をほとんどやらなくなった。コンビニ弁当、カップ麺を食べるのはまだ良い方で、お菓子しか口にしない日や、(意図せず)断食する日さえあった。
掃除の一切も放棄した。ゴミや埃は、一定量を超えてしまうと、それ以上は増えているようには見えない。というのは一種の発見だった。カビの住み処と化した風呂場では、熱い湯を浴びても、疲れを和らげてはくれなくなった。
私の体重は落ち、顔色は土気色、目の下には濃いクマ。目の焦点を失っている時が度々あって、その自覚もあった。
不健康を絵に描いたような有様だった。
ユニバーサルを辞めた時以来の、酷い生活だった。その代わり、有り余った時間で本だけは沢山読んだ。
北海道に羊を探しに行く話。魑魅魍魎妖怪の話。千年後の話。夫婦が離婚し、復縁に至るまでの話。サイコパス殺人鬼の話。偏屈な名探偵が難事件を解決する話。戦国時代の軍配者の話。厭な話。他にも沢山……。
今までの人生の中で、一番の読書量だったと思う。本の世界に入り込んでいる間は、現実を、つまりアルバイト達のことを、忘れることができた。たとえほんの一時だったとしても、その時間だけが唯一、私の気が休まる時間だったのだと思う。
そして九月になった。数日前に雨が降って以来、気温はぐっと過ごしやすい温度にまで下がっている。
その日のシフトは、朝に渡辺さんと藤野さん。午後から藤野さんと交代で佐藤君。だった。
もちろん、お決まり通り藤野さんは遅刻してきた。私は何も思わないように努力した。自分が監督する立場にありながら、それを見ない振りをするという行為は、私にはとても難しいものだった。
とはいえ、以前荻野さんにアドバイスされたように、簡単にアルバイト達をクビにすることはできなくなっていた。あの後、求人広告誌には二ヶ月間、我が騎西町支店の求人広告が載った。しかし、応募の電話がかかってくることはなかった。役場の掲示板に貼った紙も、いつの間にか剥がされていた。
現状改善の手段を講じたというのに、応募者がゼロではどうすることもできない。嫌々ながら、あの三人を使い続けていくしかないのだ。
その事実が、私をより追い詰める。クビにするという逃げ道がなくなってしまったのだから。
私は、三人に断崖絶壁の崖に追い立てられた。逃げ道は全て塞がれており、背後には、荒波の海。落ちれば命は無い。私には事態を打開する道具やアイディアはもう無い。そんな私にトドメを刺そうと、三人がじりじりとにじり寄ってくる。
今はそんな状況だった。つまり、私はいつ崖下に落ちてもおかしくないという事だ。
肉体的にも、精神的にも……。
ある日の十時頃、午後からシフトに入るはずの佐藤君が格納庫に姿を見せた。ずいぶんと早い出勤時間に、私は嫌な予感がした。
ただ、互いとの接触を極力避けている我々は、何の言葉を交わすこともなく、相手の存在を無いものとした。私の着任当時からアルバイト達がやっていたこの技を、私自身も会得したのだ。
佐藤君は、二人のアルバイト達と二三言、言葉を交わすと、色々な工具を抱えて三号機の方へと歩いていった。
私が居る一号機からは二号機が死角になっていて、佐藤君が何をしているのかを窺い知ることはできない。しかし、時折、何かの金属音が聞こえる。次にクレーンの稼動音。そして大小の部品が床に置かれた音を聞くに至り、私は漸く気がついて運転席から飛び出し、三号機側へと走った。
「何やってんだよ!」
問うてはみたものの、答えは解っている。見れば一目で解る。予想した通りだ。
そこには、三号機の右足首を取り外している佐藤君の姿があった。私の剣幕に、ややたじろいだ様子だ。
「今日の分の整備をしようと……」
「それはしばらくやらないって、随分前に言ったよなぁ!」
佐藤君の言い分を途中で制して、私は怒鳴った。
この半年間で、私の言葉遣いは少し乱暴になっていた。それに、すぐイライラするようになり、怒声をあげてしまうことも多々あった。昔の私だったら考えられない事だ。粗野で野蛮と軽蔑していた行為。そういう認識は今でも持っている。しかし、どうしても抑えが利かない。怒りの許容量が、減少しているのだ。
「だからこうして俺が働く時間より早く来て、個人的にやってるんですよ。時給も発生しないし、業務に支障でないから別にいいでしょう」
「君のその仕事に対する意欲みたいなものには感服しますがね。なんでそれを、隊長の私に言わないんですか」
「それは……梅沢さん絶対反対すると思ったし」
「何で、反対すると思ったんですか?」
確かに私は百パーセント反対していたであろうが、いつもの仕返しとばかりに、私は矢継ぎ早な質問を繰り出した。
しかし、ここで佐藤君は若干、開き直った態度に変わった。
「だって、梅沢さんって、マニュアル人間じゃないですか」
マニュアル人間……?
私はその言葉で、何故か激しい怒りに見舞われた。
マニュアルに沿って適正なことを行う人間。という意味合いであれば、それは確かに私のことだ。
しかしこの場合、佐藤君は蔑称としてこの言葉を用いている。つまり、融通が利かない。どうでもいい細かいことに煩い。マニュアルに載っていないことは絶対にやらない。そういったネガティブなイメージを盛り沢山にした。一言で言えば『仕事で使えない奴』ということだ。
こいつは、私をそんな目で見ていたのか。まともにマニュアルを読んだこともない、こいつが……。
「さっき君は、業務に支障は出ないと言いましたね」
「はい。他の皆は普段通りの業務ができるんだから、問題ないでしょ」
私は、わざと大きな溜め息を吐いてみせた。
「じゃあ例えば、今、突然加須市あたりが攻め込んできたらどうなりますか? 全機緊急出動しなければならないのに、この三号機は足首が外れているから動かすことができませんよね。こういう話も、以前したと思うんですけど?」
私は限界まで胸の怒りを抑えて、丁寧な言葉を選んで話をした。それが逆に、皮肉っぽい響きを与えていた。
「でもそう言っといて、加須市なんて攻めて来なかったじゃないですか」
「今はまだね。でもね、もしかしたら来るかもしれないでしょう。今日来ないにしても、明日来るかもしれない。それは我々には計りきれない事だよ。折角、警戒して準備してきたっていうのに、いざという時、動かせないんじゃあ、それこそ馬鹿みたいでしょう」
無意識の内に、『馬鹿』の部分に強いアクセントを置いていた。
佐藤君は、こういう会話の時にいつもする不貞腐れた表情をしている。しかし、不意にその口元が笑った。
「来ないですよ」
「は?」
「どこも攻めてなんかきませんよ。今日も来ないし、もちろん明日も来やしません」
「それはどうして? 言い切れる根拠はあるの?」
「無いですけど、俺には解るんですよ」
佐藤君は自信満々に答えた。多分、本当に根拠は無いのだろう。きっと勘が鋭いとか、第六感がどうとかといった、スピリチュアルな理由で言っている。
私はまた大きな溜め息を吐いた。今度はわざとではなく、自然に出たものだ。
「あのさぁ、それって本気で言ってんの?」
心の底から佐藤君を馬鹿にした。けれど、佐藤君は厚顔無恥にもその質問に「はい」と答えた。
結局、ストレスを産み出す記憶が1つ増えただけの、この支店ではごく日常的な出来事だった。
しかしこの時の会話が、まさか現実のものになるとは、私自身思ってはいなかった。