三十八話
夕方、私は事務所に戻ると、すぐに荻野さんへ電話した。コール音が鳴った回数は、今日一番少なかった。
「すいませんお忙しい中。今、電話しても大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ。どうしました」
礼儀としてのとりあえずの挨拶を済ますと、私は単刀直入に思っていた事を吐き出した。
「アルバイト達に、一体どういう教育してきたんですか」
「えぇ? 何かあったんですか?」
私は今日一日の出来事を順々に語った。
まず、渡辺さん、藤野さんの二人共が遅刻してきたこと。
「あぁ。あの子達、結構遅刻が多いんですよねぇ」
藤野さんは、朝からシフトに入る時は、必ず遅刻をすること。しかもそれを荻野さんが認めていたということ。
「そうですね。だから藤野さんは基本的に午後からのシフトにしか入れないようにしてました。たしかに面接の時そういう話はしましたけど、でもだからって遅刻をして良いとは言ってないですよ。バスだって一本前の奴に乗ればいいんですから。梅沢さんだってそうなんでしょ」
遅刻をする時に、その連絡をしなかったこと。
「私も結構言ってきたんですけどね。全然直らなかったんですよ」
遅刻をしてきたというのに、謝罪の言葉が無かったこと。
「そういう子達なんですよ。私も困ってました」
納品された荷物を運ぶのに、特人車を用いたこと。そしてそれを荻野さんもやっていたということ。
「毎回じゃないですよ。たまたま荷物が多い時に、そっちの方が早いからってやったことはありますけど……それを勧めたりはしてません」
銃の安全装置がかけられていなかったこと。あまつさえ、それに実弾が込められていたこと。
「そうだったんですか。それは知らなかったです」
最後に、佐藤君にその銃口を向けられたこと。
「あら~。随分嫌われちゃったみたいですね」
荻野さんのその態度は、私の神経を逆撫でした。
はたして、私の感情は荻野さんに正しく伝わっているのか。アルバイト達が今日行った数々の非常識な行為は、隊長として、上司として、責任者として、一社会人として、いや、一人の人間として、許せない所業ではないのか。
それとも、そう感じるのは世界で私一人だけで、荻野さん含めた全ての人間は、そんな事、気にもとめないとでもいうのか?
そんなはずはない。百歩譲って、遅刻の件には目を瞑ったとしても、特人車で荷物運びは絶対におかしい。福地SVから経費が高いと言われていた理由はコレだったのだ。
それに銃の取り扱いに関しても、議論の余地なく、間違いだ。マニュアルにも明記されている。安全の為、使用しない時には安全装置をかけましょう。むやみに人に向けるのはやめましょう。と。
アルバイト達が主張するように、これらは今に始まったことではなく、ずっと以前から行われていたのだろう。そしてそれが、間違っていること、悪いことだという認識もない。
何故か?
それは前の隊長、この荻野さんが容認、あるいは推奨していたからに他ならない。つまり、今日起こった出来事は、全て荻野さんへ責任が集約されると言っても過言ではないはずだ。
それなのに、電話口の荻野さんの声には罪悪感の欠片も感じられない。むしろ、アルバイト達と上手くやれていない私に対しての同情や、嘲笑すら感じられる。全く自分の所為だとは考えていない様子だった。
この人は、自分に自信がある人なのだ。それも過剰に。
自らの行いは全て正しい。仮に失敗しても、「ミスは誰にでもあるよね」と笑って流すタイプ。そして、自分が蒔いた種で他人が苦しんでも、我関せずの姿勢をとる。物事を、自分に都合のいいように言ったりしたりすること……我田引水。
自分に自信が持てない私とは正反対で、そして私が大嫌いな性格の持ち主だ。
荻野さんに愚痴ることで発散しようとしていた私の怒りは、逆に煽られ、より大きく燃え上がった。
「どうしてもあの子達と合わなくて、嫌ならクビにしちゃえばいいじゃないですか」
私が黙りこくったことで、相当思い悩んでいることを察ししたらしく、荻野さんは言った。おそらく、自分もその一端を担っているなどとは思っていないだろうが。
自分が三年間も面倒を見てきた人間を指して出た言葉とは思えない無責任で非情な発言だった。
「……福地SVに相談してみます」
私はそれだけ答えて電話を切った。そしてすぐに福地SVの電話番号を呼び出す。
「もしもし。福地です」
「お疲れ様です。梅沢です。朝はご迷惑おかけしました」
「いや、いいよ。また何かあった?」
「いえ。実は、今居るアルバイトさんが近々辞めるかもしれないと言ってきまして。今後、人手不足になってしまうかもしれないんですよ」
嘘を吐いた。先程荻野さんに語った、今日の出来事をもう一度話す気力は湧いてこなかった。それに、もしも福地SVまでが荻野さんと同じような反応を示した場合、私の感情がどれ程にまで高まってしまうのか、検討がつかず、自分でも恐ろしかったからだ。
「あぁ、そうなの。じゃあ募集かける?」
「はい。そうしていただけると助かります」
福地SVはとても話が早く、すぐに求人情報誌への掲載依頼をすると約束してくれた。
「それとさ、一応そっちでも張り紙で募集しといてよ」
「張り紙、ですか? 効果ありますかね」
「無いよりマシだろ。確か役場の掲示板にも、お願いすれば貼らせてもらえたと思うから、そっちにもお願いしてみて」
「解りました。それじゃあ明日役場へ頼みに行ってみます」
終業時刻になると、佐藤君と渡辺さんが退勤の打刻を押しに事務所へやって来た。
「お疲れ様です」
私は私情を殺して、なんとかその一言を搾り出した。
「っれしたー」
「お疲れ様です」
二人からの返答は驚くほど平常で、数時間前の事など忘れているかのようだった。謝罪の類の言葉も、当然なかった。
もしかしたら、あれは現実に起こった事ではなく、私の被害妄想、あるいは白昼夢だったのかと思わせるほど、説得力のある自然さだった。
もちろん、私がそんなものに騙される訳はない。私の中で渦巻いている怒りが、あれは実際の出来事だったと教えてくれている。
この二人も荻野さんに似た性格の持ち主だ。自信家、無責任、自分に甘く他人に厳しい……我田引水。だから荻野さんとは上手くやってこれたのだろう。そういえば、荻野さんにも、未来の目標があると言っていた……。
私の嫌いな人間は、皆それを持っている。
何故か? その共通項は……?
多分、自分以外の存在を蔑ろにしている所為だと思う。自分が一番。自分のやることに間違いはない。世界は自分を中心に回っている。そんな自分勝手な言動に、私は拒否反応を起こしているのだ。
夢を持っているのが、そんなに偉いのか?
夢があれば、それだけで他人を見下していいのか?
夢は、万能な免罪符なのか?
ならば、夢を持たない私は、彼らに利用され、搾取され、踏みにじられるだけの存在だというのか?
そんな、そんなことが。そんな……。
怒りと劣等感、そしてどうしようもない無力感に苛まれつつ、私はその日の業務を終えた。
眠れない。
部屋は真っ暗で時計も見えないが、もう一時間以上は経っていると思う。
色々なことが頭を駆け巡ってくる。しかもそれはテレビや映画のように、ただ眺めるだけで終わるようなものではなく、1つ1つが私の感情を大きく揺さぶってくる。
何度も寝返りを打って、いい加減、背中や首が痛くなってきた。私は諦めて電気を点けた。
LEDの白い光が、部屋を覆っていた暗闇を吹き飛ばす。時計を見ると、私は二時間半も眠れずにいたらしい。
起きたとはいえ、この時間にやる事など何も無い。私はしばらく壁の一点を瞬きもせずに凝視した。それから図書館で借りていた本を読もうと思い立った。
結局、眠りに落ちたのは午前三時を過ぎた頃だった。読書に熱中した訳ではない。ただ単に睡魔が訪れなかったのだ。
翌日も、通常通りの仕事があるというのに、こんな寝不足で大丈夫だろうか。そんな心配をしながら、私はごく短い睡眠に入った。
懸念していた通り、次の日は酷い頭痛に悩まされた。体を動かすのはもちろん、視線を移すだけでも、脳が弾けるような強い痛みが走った。
当然、気分は最悪だった。前日の事もあり、アルバイト達へ無理に愛想を振りまくことはしなかった。必要最低限の職務をこなし、合間合間に、俯いて眼を瞑る小休止を挟んだ。
午後になると私は役場へと赴いた。体調故に気乗りはしなかったけれど、福地SVと約束を交わした手前、行かないわけにもいかなかった。
受付には、眼鏡をかけた中年女性が居た。良くも悪くもマイペースを貫く意志を思わせる穏やかな顔だった。以前対応してくれた中年男性は、奥のデスクに座り、パソコンを睨みながらマウスをカチカチとクリックしていた。はたしてキーボードを一切操作せずに、マウスだけで行う仕事があるのだろうか。あるとしたら、随分非効率な仕事だな。と思った。
「向かいのクリエイトの者ですけれど、この役場の掲示板に、うちの求人の張り紙を貼らせていただくことができると聞きまして、お願いしにきたのですが」
「掲示板利用ですね」
受付の女性は奥へ引っ込み、紙を一枚持ってきた。イライラするほどゆったりとした歩みだったが、待ち時間自体は、前回よりも短かった。
「その掲示する紙はお持ちですか?」
「はい。これです」
勤務地、連絡先、時給、勤務時間だけが記された簡素なアルバイト募集の張り紙を取り出した。恐らく、過去に使われたものであろう。事務所のパソコンの中にデータが残っていたので、それをそのまま拝借し、印刷してきたのだ。
「はい、結構です。ではこちらの用紙にご記入お願いします」
渡された紙には定型の住所、氏名の他、掲示する物の目的、内容を簡潔に記入する部分があった。私は『アルバイトの求人の為』と書いた。
「ありがとうございます。では今日から一ヶ月間、あちらにある掲示板に掲示する事ができます。どうぞ空いてるスペースに貼ってください」
「解りました。ありがとうございます」
貼り付ける作業まで自分でやらされるとは思っていなかった。本当に役場というのはサービスが悪い。
入り口脇に在る掲示板の所へ行き、印刷してきた紙を貼り付ける。白と黒の二色。フォントやレイアウトも弄っていないシンプルなデザイン。とても地味で、誰の目にも留まらないだろうという気がした。
ふと、時給の欄に目が行く。
『一千一百円』この近辺の一般的なアルバイトの時給としては、破格だと思う。
例えば、八時間勤務を十二日間。午前中の三時間勤務を八日間したとした場合、月の総労働時間が百二十時間になる。百二十かける一千一百は、『十三万二千円』だ。
正確ではないだろうが、恐らく佐藤君はこの位を毎月貰っているはずだ。私の月給と約四万円しか違わない金額を……。
もちろん私の場合、総支給額はもう少し多い。社会保険料などを引かれた手取りの額での話しだ。とはいえ、私が現実的に手にできるお金は十七万円前後でしかない。
佐藤君と私の間には、四万円程度の価値差分しかないのだろうか。しかも向こうは、働こうと思えば、あと五十時間分は加算することができる。そうなったら、手取り金額は完全に私が負けることになる。
給料とは、お金とはなんだろう。
仕事とは、働くとはなんだろう。
人間とは、夢とは、一体なんなんだろう。
なんでこんなことをしているのだろう