三十七話
バス到着からのおよそ三十分間をシミュレーション訓練に費やす。いつも通りの仕事の始まりだった。ただ、その日は少々変わったことが起きた。
午前九時。始業時間になっても、アルバイト達が姿を現さなかったのだ。シフト表を確認すると、この時間には渡辺さんと藤野さんの二人が居ることになっている。
……恐らく、遅刻だ。
私は痒くもない頭を掻き毟りながらため息を吐き、二人に電話をかけた。が、十数回のコールをしても、呼び出し中の画面が通話中へと切り替わることはなかった。
由々しき事態の予感がした。無いとは思うが、もしも今この時に、隣市が攻め込んできたら、私は一人で戦うハメになる。それはつまり……ほぼ確実な死を意味している。
何故、よりにもよって二人同時に遅刻なんてするのだと、一人で悪態をついた時、ある可能性が頭に浮かんだ。
もしかしたら二人は、定められてた時間に遅れる、所謂、遅刻ではなく。もうこの職場には来ないつもりの、退職……俗に言うバックレをしたのではないか? と。
信じられないけれど、考えられなくはない。二人の、仕事に対するやる気の無さは昨日の面談で把握していたし、そして不本意ながら、二人は私の事を、多分嫌っている。
元々少なかったこの職場で働く理由が、隊長が私に代わったことで、完全に無くなってしまったのかもしれない。そう……ひょっとすると、昨日の私との面談が、最終的なきっかけになってしまったのかも……。二人を不快にさせてしまったという自覚は、私の中にはない。しかし、あの連中の考えていることなど、私の想像の範疇外だ。どこかで地雷を踏んでしまったとしても不思議ではない。
私は全身に冷や汗をかき、焦燥感から軽いパニックを起こしそうになった。
もう本来の出勤時間から十分も過ぎている。私は藁にもすがる思いで福地SVに電話をかけた。しかしこちらも、コール音が規則的になるばかりで、いつまでも電話には出てくれなかった。
私は半狂乱になりつつ、渡辺さん、藤野さん、福地SVの順で電話をかけ続けた。三周目に入ろうとした時、窓の外に藤野さんがノロノロと歩く姿が見えた。
私は駆け出して事務所を飛び出た。
「藤野さん! あぁ……来てくれて良かった。どうしたんですか一体?」
私の、焦りから安堵への、大きな感情の起伏をまるで意にも介さず、藤野さんはいつも通りの無感情で言った。
「朝は、バスの時間のせいでこの時間になるんです」
「え? いや、まず遅刻するのなら、それが解った時点で連絡を入れてくださいよ」
「最初、雇ってもらう時、荻野さんとの面接でその事はちゃんと言ってます」
「嘘っ! その時、荻野さんは何て?」
「まぁいいんじゃないって」
私は唖然とした。荻野さんの、採用するにいたる基準は、一体どのようになっているのだろうか。
「じゃ、じゃあ。藤野さんが朝からシフトに入る時は、いつも遅刻してくるってこと?」
「そうですけど?」
藤野さんは事もなげに言った。悪びれた様子は一切無い。
「そう、解った……」
私はもう、論議する気力を失っていた。
藤野さんは、以前からずっとこうだったと言う。それがこの支店の、暗黙のルールだと言う。今までがそうだったのだから、今更同じ事をして藤野さんが罪悪感を感じるはずがない。ここでは、それは常識で、何ら間違ったことではないのだから……。
それから約十分後、渡辺さんから電話がかかってきた。どうやらこちらは純粋な寝坊による遅刻らしい。今から急いで行きますと言い、電話は切れた。
直後、福地SVからも着信があった。私が事情を説明すると、寝起きと思しき声で「良くある良くある」と軽く笑い飛ばされた。
どうしても納得することができず、憮然としていると、その渡辺さんがやってきた。四十八分の遅れだった。
渡辺さんは私と目が合うと、小さくぺこりと頭を下げて、後はいつも通りパソコンに出勤の打刻をし、すぐに出て行ってしまった。
遅刻したことに対しての謝罪の言葉はなかった。
私は、近くのあったゴミ箱を思い切り蹴り飛ばした。
散乱したゴミを片付けた後、私は格納庫へ向かった。当然、二人には無視されたが、私も二人を無視した。
目的の業務連絡ノートを開く。私が作った、シミュレーター訓練でのベスト評価を記す表は、相変わらず空欄ばかりで、たまに思い出したかのようにBだのCだののアルファベットが書き込まれていた。その事も、今の私の怒りを増幅させる一因になった。
「何かの急な理由があって遅刻、あるいは欠勤をする場合、そうなる事が解った時点で『必ず』連絡をください。早ければ早いほど良いです。直前になってしまうと、シフトにあいた穴を埋める手配が間にあいません。どうか、くれぐれもよろしくお願いします」
荒い字で一気に書き殴った。こんな社会常識にまで煩わされなければならないとは……。後で荻野さんに文句を言ってやろうと決心した。
時間が経ってもイライラは一向に収まりはしなかった。けれど、ずっとゴミ箱を蹴り続ける訳にもいかず、私は仕事をすることにした。
私の機体、一号機の調整作業だ。
これまで、格納庫でアルバイト達と顔を合わせるのが嫌で、先延ばしにしてきた作業だったが、先日の個別面談によって、その問題は緩和されたのだ。
……もちろんそれは嘘。強がりだ。アルバイト達と同じ空間に居るのは、今も嫌で嫌でたまらない。しかも、朝からあんな事があったので、場の空気は最悪だった。
でも、元々あの二人は普段からそういう態度を取っているのだし。無言なのも、良く言えば、私語をせずに黙々と仕事をしていると、表現できなくもない。と、プラス要素を見い出そうとした。解ったのは、心にも無いことを思っても、心には作用しないということだった。
午後になり佐藤君がやってきて、入れ替わりで藤野さんが帰っていった。帰り際にも、もちろん謝罪の言葉は聞けなかった。
しばらくして運送業者がやってきて、中型コンテナを1つ置いていった。きっと、以前私が発注しておいた弾丸二ケースだろう。
私はその時、自分専用機の運転席で、右ペダルの固さを調節していて手が離せなかった。丁度近場に佐藤君が居たので「ごめん、荷物届いたみたいだからお願いしていい?」と声をかけた。佐藤君は「いいっすよぉ」と、快く引き受けてくれた。
安心してペダルのねじを締めたり緩めたりしていると、大きなエンジン音と駆動音、そして大重量の物体が動く振動が伝わってきた。
え? と思って運転席から顔を出すと、佐藤君が乗っているであろう三号機が、コンテナを抱えて格納庫内を右から左へ闊歩していた。
私は慌てて作業を一時中断した。
「ちょっと、ちょっと! 何してんだよ!」
エンジン音に負けないよう、大声を張り上げる。三号機は立ち止まり、こちらへ頭部のカメラを向け、外部スピーカーで返答した。
「届いた荷物を片付けてるんですけど?」
若干のエコーがかかったその声の主は、やはり佐藤君だった。他の二人のアルバイトがそうであったように、彼にも、その行為に対する悪びれた気配はない。
「なんで機体を使っているのかって言ってんの!」
「なんでって……なんでですか?」
私の質問は、不明瞭な質問で逆に返された。
「それくらいの荷物なら、フォークリフトでも使えばいいだろう。むやみに機体を起動させるなよ!」
「こっちの方が早いし、簡単じゃないですか。なんで使っちゃいけないんですか?」
まただ。また幼稚園児の質問が始まる……。
「あのね。特人車っていうのは、ほんのちょっと動かすだけでも相当なお金がかかるの。一々、荷物を運ぶだけで起動していたら、赤字もいいとこなんだよ!」
「でも今までずっとこうやってきましたけど?」
佐藤君は、全く予想外の事を言った。いや、今朝の出来事から鑑みて、ある程度の予測はできていてもおかしくはなかったのかもしれない。
「ずっとって……。荻野さんが居た時から?」
「そうですよ」
私は軽い目眩に襲われた。
「と、とにかく。今回はもう動かしてしまったからそれでいいけど、今後は戦闘や一部例外を除いて、機体を動かす事は一切禁止ね!」
私にしては珍しく、強い口調が出てしまった。当然、佐藤君はごちゃごちゃと訳の解らない理屈を並べ立ててきた。しかし私は、「決定です! 早く終わらす!」と聞く耳を持たなかった。
渋々といった動きで三号機は移動し、所定の場所へコンテナを降ろす。そして元の場所に戻ろうと再び私の前を通過した時、その腰部に下がる銃に目がいった。
「佐藤君! 銃の安全装置かかっていないよ」
「いつもかけてませんけど」
マイク越しでも、不貞腐れているのが解る声だった。
「かけてない? えっ、だって弾倉ついてるよ。訓練用のペイント弾?」
「いや。普通に実弾ですけど……」
よほど怒鳴りつけてやろうかと思った。何故、平素から実弾を装備している? 何の為の安全装置だ! 暴発したらどうなると思っている! と。
しかし、ぐっと我慢した。怒りを喉の奥で食い止めた。
「あ、危ないから。安全装置はかけましょうね。それと普段から実弾を装備するのも、やめましょう」
押し殺して、抑えこんで、蓋をして。どうにかこうにか、そう言った。さすがに声は震えていたと思う。
「なんでですか?」
佐藤君にとっては、その言葉を吐くのが、ある種礼儀なのかもしれない。
が、私の怒りは爆発した。ほんの少しだけ。
「なんでですかって、本当に解らないのか!」
それを受けて、佐藤君も怒った。私と同様、ストレスが蓄積していたのだろう。ただ、彼の場合、その怒りを言葉で表現するのではなく、態度で表した。
件の実弾が装填され、安全装置のかかっていない銃を機体の手に取り、その銃口を私に向けたのだ。
私の中で、時が止まった。
これまでの人生の中で、特人車の銃を向けられたことは数度あるし、実際に発砲されたことも、その都度ある。けれど、その時は私自身も特人車に乗っていた。銃弾を回避する機動力があったし、例え被弾しても、当たり所が良ければ死なずにすむ装甲もあった。
しかし、今の私は生身の体をさらけ出している。銃口との距離も十メートル程度しかない。もし弾丸が発射されれば、助かる見込みは、皆無だ。
黒光りする銃身。私を真っ直ぐに捉える銃口の奥は、夜の利根川よりも暗く黒く深い。その暗黒は、死後の世界に見えた。
私は瞬きも、呼吸も、唾を飲み込む事も、震えることすらできず、体が硬直してしまっていた。
恐怖。
その言葉だけが、その状況の全てだった。
「あ~あ。すいません。機体の操作を間違えちゃいました」
しばらく経った後(時間にしては一瞬なのかもしれないが)、わざとらしい口調で佐藤君はそう言い、銃に安全装置をかけ、弾倉を抜いた。
私はその場にへたり込むことすらできず、ただただ立ち尽くすだけだった。
かなりの時間を要し正気を取り戻すと、すぐに残る二機の銃にも安全装置をかけ、弾倉も取り外しておいた。