三十五話
どうして、こんなに部屋が汚れているのだろう。と仕事から帰宅して思った。
昨日あんなにも徹底して掃除をしたのに、何故、小さなゴミがそこここに落ちているのだろう。汚れやカビ、埃は全部撲滅したはずなのに、どこからまた現れたのだろう。
あの冷たくも爽やかな空気は、一体、どこに行ってしまったのだろう。今この部屋を満たす、微かな悪臭を孕んだ淀んだ空気は、何処からやってきたのだろう。
……なんだか疲れている。私は何もせずに、すぐ寝ることにした。
布団もシーツも、湿っぽく汚れていたのは、どうしてだろう。
格納庫を覗いてみると、アルバイト達はシミュレーション訓練をやってくれていて、私は胸をほっと撫で下ろした。
丁度渡辺さんが機体から降りてきたので、今回の訓練強化についての経緯を説明した。それは業務連絡ノートに書いてあることであり、前日に佐藤君に語った内容でもあった。
渡辺さんは、佐藤君のように私の言葉尻をとらえるようなことはしなかったが、見事なまでのしかめっ面を披露してくれた。
それでも、ちゃんと指示通りにやってくれているのだからいいじゃないかと、私は自分に言い聞かせた。
B、Bマイナス、Dプラス。その日の終わり、私が作った簡易な表にはそのように記されていた。一日経っても、アルバイト達の腕は上達しなかったようだ。『たったの一日では』や『一日しか経っていないのだから』等と表現するべきだろうか。
私は本を忘れずに図書館に返却し、そして新たに適当な本を三冊借りた。
家に帰ると寝るまでずっと本を読んだ。食欲はなかったし、風呂は朝に入るルールに変更した。見たいテレビ番組もなかった。
翌日出勤すると事務所ではなく、まず格納庫に向かった。アルバイト達だけに訓練を課すのは悪いと思い、始業時間までの三十分間を使って、私もシミュレーション訓練をこなすことにしたのだ。
福地SVが言っていた「アルバイト達って、見てないと思っても隊長のこと見てるからね」という言葉が頭の片隅にあったが故の行動だ。
前回と同条件でやってみると、今度はAプラスだった。簡単すぎて訓練にならないと感じ、同時に出現する敵の数を三機に変更した。少し手こずったけれど、評価はAマイナスだった。根本的に敵の動きが単調すぎるのだ。
今度は難易度を「難」に変更。画面の敵機は、漸くまともな動きをするようになったけれど、古河市や栗橋町と戦った時のような緊張感は皆無だった。
シミュレーション中に気付いた事があったので、出勤してきた渡辺さんに聞いてみる。
「ねえ。特人車って、誰がどの機体の担当なの?」
「別に決まっていませんよ」
「え? そうなの。じゃあ全部同じように調整されているの?」
「そうですけど」
「それはあまり良くないんじゃないかな。個人ごとの癖に合わせた調整をした方がいいと思わない?」
「思わないです」
即答する渡辺さんの顔は当然の如く、不機嫌なものだった。この人はこういう表情しか作れないのだろうか。ハーモニーのマネージャーと共通するものを感じる。
「そうかぁ……」
しかし私はめげなかった。間違ったことは言っていない。他の防衛団ではどこでもやっている常識的なことだったからだ。
「それじゃあ、私だけは自分の機体を持たせてもらうよ。一号機はこれから私専用にする。いいよね? 隊長特権!」
年代的に、このくらい軽いノリでいた方がアルバイト達は接しやすいと思って、あえておちゃらけた物言いをしてみると、渡辺さんは何とも言えない顔をした。
それでも機体の件については強引に決めてしまい、早速そのことを業務連絡ノートにも書いた。
「今後、一号機は梅沢の専用機とさせていただきます」
それを読むやいなや、佐藤君は再び私に詰め寄ってきた。
「どうして梅沢さんは専用機を持つんですか」
「個人用に設定を調整した方が、動きが良くなるからだよ」
「なんで梅沢さんだけなんですか」
「できれば皆にも担当の機体を割り振りたいんだけど、渡辺さんにはいらないと言われちゃったからね。佐藤君は欲しい?」
「別にいらないです。それより、なんで調整すると動きが良くなるんですか」
「動きの癖とかそういうのがあるだろ。それに合わせるんだよ」
「合わせたら良くなるんですか」
「一般的にはそう言われてるよ」
「なんで良くしたいんですか」
あぁもう……! 頭が痛くなってきた。
佐藤君の好奇心には、悪い意味で脱帽だった。無尽蔵に下らない質問を繰り出してくる。
私はその後、二時間かけてなんとか佐藤君を宥めすかした。しかし、その表情を見るに佐藤君は少しも納得していない様子だった。
Bマイナス、Bマイナス、D。何故か昨日よりアルバイト達の評価は落ちていた。
月末になると、隊長としてやるべき業務は急に増えた。
総労働時間の確定、一か月分の活動報告の提出、ガソリン代等の諸経費の集計、等々……。その中でも特に手間取って頭を悩ませたのが、来月分のシフト作成だった。
幸か不幸か、アルバイト達は全員、土日以外毎日休みなく働きたい。という勤務希望を出してくれている。おかげで人手不足に泣くことはない。しかしそれ故に、毎日いずれか二人のシフトを、削らねばならなかった。
荻野さんは佐藤君を優遇し、藤野さんを冷遇しろと言っていた。けれど、私にはその二人に、明確な能力の差(人間性含む)があるようには見えなかった。ならばシフト上でどちらかを優遇冷遇するというのは、不公平ではなかろうか。
とはいえ、いきなり大幅に削ったり増やしたりするのも、無駄な波紋を呼びそうだった。主に佐藤君辺りから突き上げがきそうだ。
そういった事情に苦悩しつつ、私はパソコンと、シフト希望表の二つと、数時間交互に睨み合った。漸く完成した来月分のシフトは、佐藤、渡辺、藤野が四対三対三で入っている概ね平等なものに仕上がった。初めて作成したにしては、良い出来だと自画自賛した。
それを印刷して、格納庫にあるシフト表とラベリングされたファイルに綴じれば、作業は完了。なのだが……格納庫へ行く気になれなかった。アルバイト達に会いたくなかった。私はしばらく考えた末、明日でいいや。と心の中で結論を出した。
借りてきた本に登場する主人公達は、どれも立派な人達ばかりだった。彼らはどんなに辛い境遇にも涙を流さず、くじけもせずに自らに課せられた責任を果たしていた。稀に弱音や愚痴を言うこともあったが、その言葉はユーモアのセンスに富んでいて、周りには(少なくとも読者である私には)冗談の一種として扱われた。
羨ましいと思うと同時に嘘くさいとも思った。
そういえば、今日は朝食に菓子パンを1つ食べたきりだったと寝る寸前になって気がついた。
八時二十三分。格納庫の鍵を開けて中に入る。内部は陽のあたらないせいか、外よりも寒い。
まずは昨日作ったシフト表をファイルに綴じる。そして同じ場所にある業務連絡ノートを取り、例の簡易な表をチェックした。
昨日の日付の一行は空欄になっていて、そこにあるべきSからDまでのアルファベットの文字は、何一つ書かれていなかった。
私は「三日坊主!」と叫んでノートを机に叩きつけた。
その後のシミュレーション訓練では不必要に弾を撃ち過ぎて、評価をCプラスにまで落としてしまった。
数日間は比較的平和な日々を過ごせた。意外にも、佐藤君達はシフトに関して何も言ってこなかった。おかげで私は残りの月末業務を滞りなく進めることができた。
月末最終日。最後の月末業務である棚卸しを行った。現在この支店にある備品を数えるだけの作業なのだが、なにせその種類と数が多い。朝から晩まで一日がかりの大仕事だった。
その際、弾丸の在庫が少ないことに気が付いた。私は数え終えた棚卸しのデータを入力した後、発注画面に切り替えて、弾丸を二ケース発注しておいた。
月末が忙しかった分、月初めは特にやることもなく暇だった。
とは言っても、格納庫に行ってアルバイト達と顔を合わせるのも嫌だな、と考えていたところに福地SVがやってきた。
「おーぅいっさ」
相変わらずの大声で、多分「おいっす」と言って、挨拶してきた。私はキチンと、おはようございます。と言った。
「ちゃんと月末業務できた?」
「はい。多分大丈夫だと思います」
「そりゃ良かった。解んないことは、何でもすぐ誰かに聞けよ」
「はい……」
この人の態度は苦手だ。軽々と人の間合いに入ってきて、きついとも受け取れるようなことを平気でズバズバ言ってくる。人見知りにとっては、天敵のような性格だ。
「ところで、前言っていたアルバイト達との件は上手くいった?」
「それがあんまり……」
「なんだよぉ~。ちゃんと話したの?」
「はぁ。でもやっぱり、こっちの話を聞いてんだか聞いてないんだかって感じで」
「ふぅん……あれかな。アルバイト達が働いている最中に声かけてない?」
「まぁ、そうですね」
勤務時間外まで、あんな連中と話したいとは思わない。
「それがあんまり良くないのかもね。ちょっと一人三十分くらい時間とってさ、ここに呼んで、二人だけでじっくりと話してみたら? そしたら向こうも、キチンと話をする場面なんだって認識してくれるかもよ」
「……そういうもんですか?」
「そういうもんだって。あんま深く考えすぎない方がいいよ。アルバイトなんて図体のでかい幼稚園児だと思えばいいんだよ」
「幼稚園児」
私はクスッと笑ってしまった。確かに佐藤君との舌戦は、幼児とのそれに似ている。
「そうそう。子供なんだから言う事聞かないのは当たり前。目くじら立てたって意味ないよ。梅沢君は大人なんだからさ、奴らの言い分なんて軽く聞き流して、上手く操る方法だけ考えてればいいんだよ」
酷い言い様だったが、一理あった。馬鹿に付き合うのは疲れるのだ。
「なるほど、そうかもしれませんね」
「そうだろそうだろう」
福地SVは何が楽しいのか、笑いながら私の肩を叩いた。痛くて不快だった。この福地SV自身にも、いくらか問題があると感じた。
「まぁさ、梅沢君はまだ始めたばっかだからそういう事で色々悩まされると思うよ。これからも。それは隊長になった人、誰もが通る道だから」
「誰でも、ですか」
「そうだよ。それを乗り越えて、隊長自身が成長したり、チームとしての団結が生まれるんだよ」
「福地さんもこういう事あったんですか?」
「あったよぉ。俺なんてもう生意気な奴とは取っ組み合いの喧嘩だよね。喧嘩」
「喧嘩……」
私は表情を引きつらせた。けれど福地SVはまだ上機嫌に笑っている。
「あぁでも、梅沢君に喧嘩しろって言ってるんじゃないからね。平和的にお話で解決できれば、それで何も問題ないでしょ」
「そうですね……」
福地SVを見送った後、私は格納庫へ向かった。気分が重くて足も重い。すぐ裏手にある建物が何キロも先にあるように思えた。
入り口の近くには、よりにもよって佐藤君が居た。
できれば最初は佐藤君以外がいいと思っていたのに……。
それでも私は意を決し、勇気を振り絞り、己を鼓舞して、佐藤君に話しかけた。
「佐藤君、ちょっと今から話をしない?」