三十一話
その日、私は十八時十五分発の最終バスで家路についた。
今日出会った五人の内、今でも名前を覚えているのは、引継ぎをしてくれている荻野さん一人だけだった。アルバイト三人はもちろん、SVでさえ思い出せない。どんな顔をしていたのかも曖昧だ。
しかし、彼らと接した時に私の内で産まれた感情はよく覚えている。それは、あまり良いものとは言い難いものだった。
バスの中に乗り込む乗客はいなかった。社内は暗闇で、運賃を入れるプラスチックの箱さえ、よく見えなかった。
北川辺に住んでいるというあのアルバイトの女性は、いつの間にか居なくなっていた。多分、午前中だけ出るシフトだったのだろう。
私の病状は悪化していた。際限なくせきが出る。乗客は居なくても、運転手に迷惑がかかると思い、私は朝と同じようにマスクの端を押さえつけた。
窓の外は、車内より幾分か明るかった。所々に建った街灯、行き交う車のライト、家、あるいは店の灯り、そういった光を放つもの達が夜の闇を局地的に緩和している。けれど、逆に言えば見えるのはそれくらいだった。
埼玉大橋を渡る時に見た利根川は、ここから闇を生み出しているのではないかと錯覚するほど、深く暗く黒かった。
最寄の停留所でバスを降りると、朝にマスクを購入したコンビニに再度立ち寄った。そこで夕食用にカルビ焼肉弁当を買った。私は風邪を引いていても食欲は失くならないタチなのだ。会計時、レジ横のショーケースにあったからあげ棒も一本購入した。
からあげ棒は店の入り口前で食べて、棒は店のゴミ箱に捨てた。残念ながら当たりとは書かれていなかった。
そこから十五分ほど歩いて自宅に着くと、普段よりお湯の温度を一度あげて、四十三度にしたシャワーを浴びた。風呂上り、念入りに体を拭いていると、食欲が失せていることに気が付いた。先程のからあげ棒のせいだろうか。せっかく買ったカルビ焼肉弁当を冷蔵庫にしまった。
未だにせきは止まらない。風邪薬を飲みたかったが、うちには常備している薬など無い。絆創膏さえ無いのだ。男の一人暮らしとはそういうものだ。
体を冷やさないように、私は布団にくるまった。とはいえ、悪寒を感じる症状は今のところ出ていなかったので、それはただ暑苦しいだけだった。
翌朝、咳き込んで目が覚めた。風邪は治っておらず、むしろ悪寒を感じられるまでに成長していた。
カルビ焼肉弁当をレンジで温め食べたが、脂っこいばかりで少しも美味しくはなかった。
私は昨日と同じ時刻の同じバスに乗った。乗客は、昨日とは別人の老人が一人居るだけだった。途中の停留所で新たに乗ってくることもなかった。バスは待っている者の居ない停留所を律儀に回り、大きく遠回りをして終点の騎西総合支所に到着した。
私はまた、寒空の中で三十分近くの時間を過ごした。
荻野さんが、騎西町を回って地理を説明する。と言い出した。
出発前に、格納庫に立ち寄りアルバイト達に声をかけた。
「梅沢さんに見回りコース案内してくるから、何かあったら携帯鳴らしてね」
その場に居たアルバイトは無愛想に頷くだけだった。私はこの人の名前はなんだったか、と考えていた。
驚いたことに、ここには見回り用の自動車が用意されていた。車体の白い、ごく一般的な軽自動車だった。車種名は解らない。
荻野さんが運転席に、私は助手席に乗り込み車は発進した。
私は事前に渡されていた騎西町の地図と、実際の景色とを見比べた。
「うちの支店は、町のほぼ中央にありますね。隣接地域は、北に加須市、西に行田市、南に鴻巣市、東に久喜市があります」
「全部『市』じゃないですか」
「そうですよ。もしも周りが本気を出してきたら、まず太刀打ちできないでしょうね」
何故か荻野さんは笑った。
「まずは南から行ってみましょうかね」
荻野さんの運転は荒かった。制限速度を超えたスピードを出し、前方の信号が赤になっていても直前まで加速を続けた。大型トラックの五メートル後ろにぴたりと貼りつき、煽るように走った。カーブではレーサーのように激しくハンドルを回して右折をし、ウィンカーは曲がっている最中に出した。
私は恐怖で、せきをすることさえ忘れた。
暴走したように走る車は県道三十八号線を南下していった。
小さな川を渡る時、暴走した運転手が言った。
「ここから先が鴻巣市です」
周辺は、この辺の地域では珍しくないありきたりな田園風景だった。平坦で遮蔽物も無く、戦闘で利用できるそうなものが見当たらない。私には有利に戦う方法は思いつかなかった。
「鴻巣市は今まで攻めてきたことないですね」
「そうですか。……仮に攻めてこられた場合、どのように戦えばいいのでしょうか」
「それはやっぱり、味方との連携ですよ」
荻野さんは自信満々に即答した。
けれど連携するのは大前提のことだ、と私は思った。三機チームなのだから、当然、協力はするだろう。敵だって同じ条件なのだから、もちろんそれをやってくる。ならば少しも有利にはなっていないではないか。それを常識として踏まえた上で、私は質問をしたのだが……。
それとも荻野さんとあのアルバイト達には、他とは一線を画すチームワークがあるのだろうか。彼らの、曖昧な、顔を順番に思い浮かべてみても、その可能性は低いように思うのだが。
車は来た道をUターンし、県道三一三、三〇八、一四八と道を変え、町の西部にやってきた。
田舎らしい古い家屋が立ち並ぶ中、比較的新しい住宅が立ち並ぶ一角があった。同じデザインの家が、狭い区画内で等間隔に並んでいる。違うのは屋根と壁の色くらいだった。庭はそれぞれに住む家人の趣味を反映しているようだったが、誤差のようなものだった。
あそこに住む者達は、何を思ってあの家を購入したのだろうか。駅もなく、コンビニさえ近隣にないこの土地を。
「この先が行田市です」
「えっ! でも民家がたくさん在りますけど」
「ほらあっちの方、田圃ばかりの一画があるでしょ。戦闘可能区域はあそこだけなんです」
荻野さんは進行方向左側を指差した。ただでさえ危険な運転は、さらに不安定に揺れた。
「ず、ずいぶん狭い場所ですね」
「えぇ。あそこでバンバン撃ち合って、もしもどっかの家に流れ弾が飛んでっちゃったりしたら、どんでもない額の賠償金払わされますから注意してください。でも、行田市さんもそれを嫌ってるから、攻めてこないですけどね」
「そ、そうですか」
私は空返事をした。そんなことよりも、早く両手でハンドルを握ってほしかったのだ。
あわや大惨事、という強引なUターンをして、今度は町の東側へ進路を変えた。
町の東西を走る国道百二十二号線は、片側二車線の大き目の道で、さすが国道だけあって車の通りも激しい。しかしその割には立ち並ぶ店の数は少ない。ガソリンスタンド、車のディーラー、あとはファミレスやラーメン屋が数軒あるだけの、面白みのない道だった。
長い直線の広い道。荻野さんはここぞとばかりにアクセルを踏み込んだ。ジェットコースター並みのスピードに、たまらず私は忠告した。
「ちょ、ちょっとスピード出しすぎじゃないですか」
「え、そうですか?」
荻野さんはアクセルの踏み込みを弱め、やや速度を落とした。それでも十分、法廷速度は超過している。
荻野さんの反応を見る限り、スピード狂や走り屋という訳ではないようだ。きっと、単純に運転が下手なのだ。
赤信号で車は止まり(もちろん急ブレーキで)左のウィンカーを点滅させた。
「この道まっすぐで久喜市です。でもここもさっきと同じ理由で、攻めて来ることはないですね。ほら、右手に工場群があるでしょう。で、左手側奥には民家が点在してると。その真ん中が戦闘区域になってるんです。工場に被害を出しちゃったら悲惨ですよ~。個人よりも法人の方が、賠償額高いですからね」
信号が青になると、車はおおいに遠心力の作用を受けつつ左折し、県道百四十九号線に入った。
「さぁ、ここからが重要ですよ。こっからは加須市ですからね。この辺は目立った建物がほとんど無いから戦闘可能区域が広いんですよ。あ、ほら。建物といえばあそこにある潰れたホームセンターくらいですよ」
そこは田舎らしく、かなり大きな敷地の大半が駐車場にあてがわれている。閉店したのはごく最近と見えて、建物自体はまだ汚れが目立っていない。
重要と言っていたにも関わらず、その地形をじっくり観察する時間は与えられなかった。荻野さんはスピードを緩めることなく、車はそこを素通りしていった。途中踏切を渡る際にも、もちろん一時停止はされなかった。
左折を二回繰り返し、支店に帰る県道三十八号線に戻った。この道は通勤で使うバスで通った道だったのだが、景色の流れが速すぎて最初は気付けなかった。
無事支店に到着するまで、生きた心地はしなかった。車を降りると安心感からか、激しく咳き込んだ。頭がボーっとする。熱まで出てきたようだった。
そんなことは気にもされずに、今度は向かいの町役場まで連れて行かれた。
小さいところで、窓口は1つしかなかった。
荻野さんは近くに居た職員に声をかけた。
「すいません。向かいの、クリエイトの者ですけど、今度、責任者が変わることになりまして、その手続きにきました」
言われた職員は曖昧な返事をした後、ひどく緩慢な動きで奥へ引っ込み、別の職員と何やら話し合った。ゆっくりとした歩みで窓口に戻ってきた時、手には書類を持っていた。
「こちらとこちらにご記入お願いします。それと、責任者免許証はお持ちですか?」
私は頷いて、特殊人型車両運転免許と委託防衛団責任者免許を職員に渡した」
「ありがとうございます。こちらのコピーを取らせていただきますね」
そう言って職員はまた奥に消えた。
私は二枚の書類に氏名、住所、電話番号、勤務先をそれぞれ記入した。そして、戻ってきた職員に返却された免許証を見ながら、その免許証番号なども書き写した。
途中、横から禿げた中年男性が出てきて荻野さんに声をかけた。
「何? どうしたの今日は」
「どうも~。私、今度異動することになりまして、責任者の登録を変更しに来たんです。あ、こちらが新しい隊長の梅沢さんです。梅沢さん、この方が役場で私達の窓口をしてくれている加納さん」
互いに紹介された私達は挨拶をし合った。
「荻野ちゃん異動しちゃうんだ。聞いてないよぉそんなの。大丈夫なの。どこに行くの?」
禿げた中年はその後ずっと荻野さんと話していた。滑舌が悪く、くぐもった声で、さらに早口だったので何を喋っていたのかは解らなかった。ただ、荻野さんに対する中年特有の粘着質な好意だけは感じとれた。
書類を書き終わって手続きも全て完了した。会話に入れず所在無げに突っ立っている私の存在は、二人には見えていないようだった。
この日も、名前を覚えることができた人物は一人も居なかった。