三十話
その後、私のせきは七秒間止まらなかった。
「すいません」
ぜぇぜぇと肩で息をしながら私は言った。
「本当に大丈夫なんですですか」
「えぇ。ちょっとせきが出るだけです。引継ぎは三日間しかないんですから、早く始めましょう」
荻野さんは心配そうな顔と、不審そうな顔を合わせたような表情をした。そして、そうですね早めに終わらせましょう。と言った。
まず初日の今日は、この支店についての情報が説明された。
営業開始はおよそ三年前。開始当初から、この荻野さんが隊長として現在まで運営をしてきた。担当SVは福地さんという方で、今日の午後に来る予定だから、その時に紹介する。騎西町には他に防衛団は無い。役場の担当者は○○さん(聞き取れなかった)。アルバイトの人数は三人で、全員フリーター。あの在庫はそこにあって、この在庫はここにある。それぞれの物品を発注するタイミングと個数の目安は云々…………。
話は私の頭の中を通り過ぎていくだけだった。熱っぽいせいか、集中力というものが一切出ない。多分せきと一緒に体外に排出されてしまったのだ。
荻野さんはそんな私の状態を気にも留めず、あるいは気付く事もなく、話を続けた。
結構な時間が過ぎた頃、我々が居る事務所の扉が開かれた。
そこには、一枚の紙を手に持った二十代中盤くらいの女性が立っていた。
「あぁ~藤野さん。紹介するね。こちら次の隊長の梅沢さん」
唐突に紹介されて少し焦った。私は立ち上がり、その女性に挨拶した。
「梅沢です。これからよろしくお願いします」
「どうも、お願いします」
藤野さんと呼ばれた女性からの返事は、蚊の泣くような声という表現がぴたりと当てはまる程、小さかった。
「そういえば梅沢さんって、お住まい北川辺って聞いてますけど?」
荻野さんはその事に特に何かを思う様子もなかったので、きっと普段からこんな声量の人なのだろう。
「はい、そうですけど」
「実はこの藤野さんも、北川辺から通ってきてるんですよ」
「あ、そうなんですか!」
それは有難いことだった。人見知りの私にとって、初対面の人との会話は難易度の高いものだ。常に話題不足の悩みを抱えている。同じ町に住んでいるという共通項は、世間話の種としては、かなり有用だ。
「はい」
私が内心で喜んでいるのに対して、当の藤野さんの返答はその一言だけだった。
「たしか年も同じくらいだったよね」
荻野さんがそういうので、私は自分の年齢を言った。
「1つ違います。私が一個下です」
話はそれ以上広がらず、藤野さんは持っていた書類を荻野さんに渡して出ていってしまった。
最後まで彼女が自己紹介をすることはなかった。荻野さんが名前を出していたとはいえ、改めて自分から名乗るのが礼儀ではないだろうか。
私は一抹の不安を覚えた。
「彼女はいつもあんな感じなんですか?」
「そう、ですね。あんまり元気の良い子じゃないですね」
「話が全然盛り上がらなくって、ちょっとびっくりしましたよ」
「うちの子達は皆、人見知りなんですよ」
ごめんなさい。と荻野さんはほんのちょっとだけ頭を上下させた。
人見知り? あれではまるで嫌いな人間、関わりたくない人間と話す時のような態度だ。
私も人見知りの激しい性格だから解るのだが、人見知りの人間は、別に他人が嫌いだから積極的なコミュニケーションを取らないのではない。相手の考え方や嗜好が掴めてないから、下手な言動をとって相手を傷つけたり、不快にさせてしまったらどうしよう……。あるいは、それで相手が自分に攻撃を仕掛けてくるような人間だったらどうしよう……。そんな心配性的思考によって、行動する事を躊躇してしまうだけなのだ。
だから今回、その相手を知るきっかけがあったにも関わらず、関心を示さなかった藤野さんのことを人見知りという人物像で片付けるのには、違和感があった。
「じゃあ次にアルバイトのシフト作りについてですね。さっきも言いましたが、皆フリーターなのでお金がないんです。だから、できるだけたくさん働きたいと思っています。でも、基本一日に入れるのは二人分までで、人件費の予算は決まっていますから、心を鬼にしてバッサリ切っちゃうこともよくあります」
荻野さんは、十一月分シフト希望表と書かれた紙を取り出した。
「以前のものなんですけど、これを見てもらえると解りやすいと思います。その日入れる日には○、入れない日には×をつけてもらいます。シフトは月に一度提出です」
「すごい、ほぼ全部○で埋め尽くされてるじゃないですか」
「そうなんです。ここから偏り過ぎないように、均等にシフトに入れてあげなきゃいけないんです。でも、それはまぁ無理なんで。さっきの藤野さん。この中では一番新人のあの子に、午前中か午後だけ出てもらって、空いた時間帯に、残った二人のどちらかに出てもらう。そしてもう片方には一日フルで入ってもらう。その二人のローテーションでシフトは作っています」
「はぁ」
なんだか面倒臭い話だ。風邪のせいも手伝って倦怠感がずっしりと体にのしかかった。
「それと、あの子達はたくさん働きたいとか言ってるわりに、私用があるとすぐ休みます。先月の二十四、二十五のクリスマスなんか、全員休んでくれちゃいましたよ」
アルバイト故の無責任さという奴か、と私は思った。体はまた重くなった。
「そういう時ってどうするんです?」
「他店舗から人を借りるか、それが駄目だったら……もうその日は何も起こらないように祈るしかないですね」
荻野さんは冗談めかして言った。
この人も責任というものを理解していないだろうか。
椅子に座っているのも辛いほど、風邪の具合が悪くなってきた。
再び入り口の扉が開いた。
今度は三十過ぎのスーツ姿の中年男性だった。
「さっき話した福地SVです」
荻野さんが私に囁いた。
SVとは、スーパーバイザーの略で、複数の支店を巡回して管理、監督し、各支店の責任者、つまり隊長を本部の方針にのっとりながら指導、教育して成果を上げさせる管理職のことである。
簡単に言えば、私の上司ということだ。
SVから受けた指摘は改善しなければならないし、私が何らかの行動を起こす時には、SVへ報告連絡相談する必要がある。
「っはよーっす!」
SVはとんでもなく大きな声で挨拶をした。頭が割れそうなくらいに痛んだ。
荻野さんは、騒音とも言えるその声に特に反応することもなく私を紹介し、紹介された私はこめかみを押さえながら挨拶と自己紹介をした。
「はいはい梅沢君ね。俺、福地。よろしくね。何? 風邪引いてんの。駄目だよぉ体調管理はしっかりしなきゃ」
そう言って福地SVは私の右腕を、強くバシバシ叩いた。彼には病人をいたわるという気持ちがないらしい。スキンシップのつもりだろうが、私は彼に好感とは真逆の感情を抱いた。
福地SVと荻野さんは引継ぎ作業についての話をしていた。どこぞの部分を重点的に、事細かに伝えるよう指示をだしていたようだったが、私の意識はその時朦朧としていたので、何の事だか解らなかった。
その後、二三連絡事項のやり取りをして、福地SVは帰っていった。
「これからよろしく頼むよ」
去り際にそう言って、今度は左肩を強く叩かれた。
「それじゃ、福地さんも言っていたことだし、アルバイトに会いに行きましょうか。さっき藤野さんは紹介したから、今居るのは佐藤君だけですけど」
我々は事務所を出て、裏手の建物に移動した。やはりここが格納庫だった。
中に入ると、すぐ近くに男性が居た。
年齢は私と大差ないように見える。緩いパーマの髪は茶色に染められ、肌は日焼けしていて浅黒い。彼は、こちらに気付くと笑みを浮かべながら近寄ってきたが、その姿はどことなく軽薄なものに見えた。容姿と相まって遊び人を連想させる男だった。
「佐藤君。こちらが例の、梅沢さん」
「どうも佐藤です。よろしくお願いします」
佐藤君は愉快そうに、手を差し出してきた。
とても嫌だったのだが、私はその握手に応じた。
荻野さんが佐藤君の説明を始めた。彼はここのオープン当初から居る古参で、大抵の仕事はできる。アルバイトのリーダーだから、面倒な仕事はどんどん任せていい。といったような事だ。
荻野さんが何かしらを言う度に、佐藤君は横から茶々を入れた。荻野さんもそれに乗って冗談を言い合ったりしたので、話は本筋から大きく離れていき、情報は全く私の頭に入らなかった。
我々三人がそのように長い時間話している間、格納庫の奥の方では先程事務所にやってきた女性が(名前はもう忘れてしまった)黙々と何かの作業をしていた。荻野さんと佐藤君が大きな笑い声をあげても、私がそれに負けないくらい大きなせきをしても、彼女はこちらを見もしなかった。
まるで聞こえないかのように、まるで見えないかのように、彼女は無関心で無反応だった。
荻野さんが、佐藤君の良いところを賞賛する作業を終えると、我々は事務所に戻った。
戻りながら荻野さんは私にこう耳打ちした。
「あいつは単純で馬鹿だから、おだててこき使ってやってください」
先程まで佐藤君のことを褒めちぎっていたその口で、今度は佐藤君を見下した言葉を吐いたのだ。
荻野さんは一見無邪気な、しかしその奥には邪気のある笑顔をしていた。その極端な二面性は、ハーモニーのマネージャーを私に思い出させた。
私は荻野さんに苦手意識を、そして佐藤君に同情の念を抱いた。
事務所に戻って引継ぎ作業の続きをしていると、荻野さんの携帯電話が鳴った。荻野さんは、ちょっとすいません。と言って電話に出ながら事務所を出て行った。
残された私が暇を持て余していると、すぐにまた入り口の扉が開いた。荻野さんではなく、見たことのない人物が入ってきた。
色褪せた茶髪のセミロング、目は細めで、やや頬骨が張っている。年齢はやはり私と同年代のように見える。恐らく、三人居るというアルバイトの、未だ紹介されていない最後の一人だろうと推測した。
「……荻野さん居ないですか?」
その女性はぶしつけに聞いてきた。
「今ちょっと、電話しています」
私がそう答えると、女性はそうですかと言ってそのまま出て行こうとした。私は慌てて引き止めた。
「ひょっとして、ここの従業員さんですか?」
「そうですけど」
「あ、やっぱり。私、今日からここの支店に配属になりました梅沢です。よろしくお願いします」
精一杯の笑顔を作ってみた。けれどその大半はマスクで隠れている事に気が付いた。
女性は「はい」とだけ返事をして、そのまま出て行ってしまった。
私は、彼女の名前すら知ることができなかった。