二十七話
嫌な事というのは連鎖して起こるものらしい。
その日の夜、会社から電話があった。私はその時自宅で寛ぎの時間を過ごしていた。よっぽど無視してやろうと思ったが、着信音はいつまでも鳴り止まなかった。私は根負けして仕方なく通話ボタンを押した。
「今日の社会科見学で来た子供の保護者が、うちにクレームを訴えてきました」
挨拶もなしに本題が始まった。電話の相手はオーナーだった。
「クレーム?」
「子供が過激で物騒な事を口走る、一体どんな事を吹き込んだんだ、と激怒しています。担任の先生が謝罪に行きましたが、収まらず。その張本人を連れて来いと怒鳴られて、先生からうちに連絡が回ってきました」
とても嫌な予感がする。今の話では、私が名指しされているようなものだ。
「す、すみません」
とりあえず謝ったが、オーナーは聞きはしなかった。
「明日はスーツ着て来て。そのお宅まで謝罪に行ってもらうから」
「はぁ」
用件を伝え終えると、オーナーはさっさと電話を切ってしまった。私は、まるで現実を受け入れられていなかった。通話の切れた携帯電話を持ったまま、私はしばらく呆然としていた。頭がぐるぐると回っている。
あの子供が、あの悪ノリを家庭内でも発揮してしまったのだろう。しかし、それでわざわざ学校や会社にまでクレームをつけるものか? 子供を厳しく注意すればいいだけの話だ。それが正しい躾けだと思う。それをしないというのは……。モンスターペアレントというやつなのだろうか。
私が撃墜した機体の運転手は死んでいた。
運転席を開けると、半身を失くした人間が居る。大量の血流れ、グロテスクな傷の断面図を見てしまう。
私は何故か救急隊員と一緒に、運転手の救助活動に当たっている。救助といっても、もう死んでいるのだから、とりあえず運転席から運び出す以外にやる事はない。
左右から運転手を抱えて持ち上げると、何かの加減で、運転手の口が開いた。そしてそこから体内に溜まっていた空気が漏れる。
その空気の音が、段々と声を成し、意味を成していく。
「ヒトゴロシ」
その人は、何故かこちらに顔を向けていた。
恐ろしい夢だったが、不快な夢ではなかった。何故だろう。今日これから起こる現実の方が、遥かに不快だからだろうか。
私はオーナーに言われた通りスーツ姿で出社し、まずマネージャーに挨拶がてら謝罪した。
「私じゃなくて、親御さんに謝ってきて。これ住所」
メモ用紙を渡された。
私は再度頭を下げて、格納庫を後にした。後ろからマネージャーが、粗相のないようにね。と念を押してきた。
向かっている途中、何か菓子折りの1つでも持っていくべきか。と思い立った。とはいえ、この辺りに店らしい店など無い。どうしたものかと悩んでいると、道の先にコンビニが見えてきた。藁にもすがる思いで入ってみると、なんと、レジの奥に包装された菓子折りの箱が三種類並んでいた。こんな物を常備しておいて、買う人間が居るのだろうかと不思議に思ったが、今正に私自身がそれを買い求めているのだから、ある程度需要のある商品なのだろう。
とにかくこれで訪問する体が整った。菓子折り代三千円は、もちろん自腹で支払った。
メモに記されていた住所は集合住宅地、所謂、団地だった。同じデザインの建物が等間隔に整列している。その六号棟の五階の一室が、件の家のはずだ。
近くでよく見て見ると、建物はお世辞にも綺麗とは言い難い外観だった。壁にはひび割れと、それを隠す為に後から塗りたくられたセメントの跡が目立つ。建築からかなりの時間が経過していることが伺える。恐らく二十年以上は経っているだろう。
エレベーターも無いので、狭く薄暗い階段を息を切らせて昇った。
メモに書かれている氏名と、扉の横の表札を見比べる。同じ苗字だ。この部屋に間違いない。
私は階段の踊り場で荒れた呼吸を整えた。
平常が戻った頃、意を決して呼び鈴のボタンを押した。
平和な音が鳴った。
しかし三十秒以上経っても、何の音沙汰もない。もう一度呼び鈴を押すと、今度は五秒もしない内に扉が開いた。
「どちら様ですか」
出てきたのは四十手前位の主婦だった。私の事を不審者を見る目で訝しげに観察している。その顔には、日々の慢性的な疲れのようなものが、べっとりと貼りついていた。
「あの、私、有限会社ハーモニーの者です。先日、大変ご迷惑をおかけしてしまったようで、その……。謝罪に参りました」
私の素性と目的を明かしても、主婦の表情は変わらなかった。
「あぁ、あなたが」
主婦は開いた扉に寄りかかった。部屋の中で話をする気はないらしい。
「あの、これせめてものお詫びの気持ちです」
先程買ったばかりの菓子折りを差し出すと、主婦はそれをひったくるように受け取った。あら悪いわね。等と言ってはいるが、敵意のある表情は依然変わらない。
「それで、あなたがうちの子に変な事吹き込んだわけ?」
「へ、変な事とは?」
「人を倒すのは楽しいし、かっこいい。……倒すじゃなくて、殺すだったかしら」
「そんなことは、私は、一言も言ってはいません」
やや強い口調で反論してしまった。
「そう? でもうちの子はすっかりその気になっちゃっててね。昨日帰ってきてから、そればっかり言うのよ。おまけに、将来僕も防衛団に入って敵を殺しまくるんだ……。なんて」
口調こそ穏やかだったが、主婦の怒りは相当なもののようだった。
話を聞く限り、事実はかなり歪曲され伝わってしまっている。私の所為だとは認めたくはなかったのだが、ここで事実を語って自己弁論をしたところで、結局主婦の怒りに油を注ぐだけだろう。
私は事実や論理や自己を、一時放棄して謝罪だけに徹した。
「申し訳ありません。私の不用意な言動で、お子さんの誤解を招いてしまいました」
私は深く、深く頭を下げた。
「別に、あなたが今更謝ったって、もう遅いのよ。あの子は、誤解かもしれないけど、変な事を覚えてきちゃったんだもの。そりゃあね、あの子頭は良くないから、一流大学入って一流企業に就職なんて期待はしてなかったけどね」
主婦はそこで大きくため息を吐いた。
「でも……防衛団は無いわよ。給料安いし危ないし。イメージ悪すぎるもの」
その防衛団に勤める私を前にして、主婦は言った。
「それに万が一、あの子が大人になって、いえ、なる前でもいいけど。今回の事の影響で、本当に人を殺したくなっちゃったらどうするの。殺人者、犯罪者、異常者よ」
「はい、すみません」
「あなた達はいいわよね。結局ただの他人ですもんね。そうやって謝っているだけで済ませちゃうんだから。でもね、こっちは身内なの、子供なの。子供がやった事の責任は親に回ってくるものなのよ。あなた子供居ないでしょ。結婚は?」
「居ません。してません」
「だから解らないでしょうね。親は子供の教育に神経尖らせてるの。ちょっとしたことで人生おじゃんになっちゃうんだからね。あなた、学歴は? 中卒?」
「いえ、一応大学出ています」
「どこの大学?」
何故私のプライベートな情報を聞かれているのか解らなかったが、私は質問に答えた。
「ふーん。結構いいとこ出てるじゃない。どうして防衛団なんかに入っちゃったの」
「それは……」
私はしばらく考えたが、本当の事を言った。
「特に理由はありません」
「よっぽど成績悪かったのかしら」
主婦は勝手な解釈をしたので、私は、そんなところです。と返した。
「そう、それは残念ね。うちの子にはそんな風にはなってほしくないわ。あなたも、難しいかもしれないけど、防衛団なんて辞めて、どっか別の仕事見つけた方がいいわよ」
「はぁ」
「じゃあもう帰っていいわよ。それともう来なくていいから。許すわけじゃないけど、何度も来られたって迷惑なだけだから」
そういい終わると主婦は勢いよく扉を閉めた。私はその扉に、もう一度頭を下げてから、そこを立ち去った。
足取りが重い。体が重い。体を取り巻く空気が重い。私の心身はとても疲労していた。
帰り道、小さな公園が在った。ベンチとブランコが1つずつしかない、ささやかな設備だった。遊んでいる者、寛いでいる者の姿はなかった。
私はベンチではなく、ブランコの方に座った。漕いで遊ぶでもなく、過去を懐かしむでもなく、ただ、座った。
いつの間にか、私は歌を唄っていた。
十代の頃から好きだったバンドの曲だ。彼ら自体は今でも根強い人気を保っているのだが、この歌は初期の頃のアルバムに収録されたっきりで知名度は低い。中高生等の若いファンは、きっと知らないだろう。曲調こそ明るめだが、絶対的に音が足りておらず、その歌詞とも相まって、とても寂しい印象の歌だ。
二番のサビに入った頃、公園の入り口に自転車に乗った警察官の姿を見つけた。こちらの様子を窺っている。
私は唄うのを止めた。けれど警察官は、それをきっかけにしたように、私の方へ近づいてきた。
「なにしてるんですか」
高圧的で棘のある声だった。この警察官も、先程の主婦同様、私の事を不審者だと思っているようだ。
「別に。ブランコに乗ってるだけです」
私も同じくらい棘のある声で、ぶっきらぼうに答えた。
「なんでブランコなんかに乗ってるんです」
「ブランコには乗る以外の使い方があるんですか」
面倒くさい事を言ってしまったという自覚はあった。警察官の方も、面倒くさい奴に話しかけてしまったという後悔の浮かんだ顔をした。
「この辺に住んでるんですか」
「この辺に住んでます」
「今日は仕事は休みですか」
「今、仕事中です」
受け答えする度に、警察官の目は不審の色を深めていく。
これ以上の問答は、より面倒くさい事態を引き起こす事になりそうだと思い、私は腰を上げて立ち去ろうとした。
「あぁ、ちょっと待ってください。名前と住所を一応控えさせてください。あと出来れば手荷物も見せてください」
どうやら私はこの警察官に、犯罪者、あるいはその予備軍という評価を下されたらしい。
言われた通り住所氏名を教えた。ほとんど何も入っていない鞄を覗かれた時、何故か急に激しい怒りが沸いてきた。
私が何か悪い事をしたのか。何故この警察官は私を疑っている。お前が、今この大利根で警察官をしていられるのは、私のおかげなのだぞ。七月の戦いでの私の活躍がなければ、きっとあの戦いは敗れていた。今頃ここの住所は栗橋町になっていたはずだ。そうなれば、お前は大利根町の警察官ではなく、栗橋町の警察官になっていたのかもしれないのだぞ。私はお前の、お前達の、この町の恩人なのだ。と思った。
でも……彼や、彼らにとっては、住所や勤務先の名前が変わったからと言って、それは大した事態ではないのだろう。日常が大きく変化する訳ではない。子供は学校に通うし、主婦は家事や子育てに忙しい。警察官は職務を全うするだけ。変わらない。何にも変わらないのだ。私は、彼らに感謝されるような事は、何一つやってはいないのだ……。
警察官は私の検分を終えると、ご協力ありがとうございます。と形だけの礼を言って去っていった。
私の心は、虚しさで満たされていた。