二十六話
九月になった。
通勤途中に見る田圃は昨年同様に稲刈りを終えている。そう言えば今年は緑の稲を見ていない気がする。ほぼ毎日この道を通っているのだから、目に入っていない訳はないのだが、記憶にない。思い出せない。
機体の修理は粗方終わった。予備もなく、自分ではどうにもできないような部品は、ホームセンターから似たような部品を買ってきて代用した。もちろんその代金は私が自腹を切った。
修理が終わったと言っても、例の如く機体の電源を入れての調整作業はさせてもらえない。確認ができないのでまともに動く保障はない。動いたとしても金属が擦れる嫌な音は、きっと前以上に大きく不快なものになることだろう。
私はまた虫と雑草に囲まれる仕事に戻った。
八月分の給料は、五万円を切っていた。
「今日は小学校の社会科見学が来るから」
朝、突然マネージャーが言い出した。
「毎年の恒例行事で、子供達が何人か来るから私達皆で相手するのよ」
「私は何かするんですか」
「説明は基本、私とオーナーがするから、梅沢さんは特に何もしなくていいわ。後半になったら三班に分かれて、一斑に一機ずつ機体をあてがって、じっくり見てもらう予定だから、その時には子供の質問に答えてあげて」
「わかりました」
七月の給料日以来、私は抵抗することをやめていた。経営者二人から話かけられた場合は手短に返事をし、絶対に拒否や渋る態度を見せなかった。
格納庫内の虫の死骸を掃除し終えた頃、午前十三時に、その集団はやってきた。
男子三人、女子三人、そして引率の教師が一人の計七人が、大きな声でこんにちわと言って入ってきた。
オーナーとマネージャーも同じようにこんにちわ、と似合わない笑顔で返した。私は口だけこんにちわの形に動かして、声は出さなかった。
「今日はよろしくお願いします」
引率の教師が頭を下げて、さぁ皆も。と言うと、子供達も声を合わせて、お願いします。と礼をした。
二人の老人は防衛団の仕事について、どんな事をするのか、どんな意義があるのか、どんな事が大変で面白いのかを子供達に語った。それを聞く子供達は、手元のプリントに目を落とし、一様に下を向いていた。多分、今語られている内容と同じ事が、そのプリントにも記されているのだろう。
男子の一人が大きな欠伸をした。私もそれに釣られそうになる。二人の話はとても退屈なのだ。言葉もつっかえつっかえだし、滑舌も悪い。ぼそぼそと喋るから、何を言っているのかまるで聞き取れない。それに聞く気も起きない。
それにしても、こんな所を見学させるだなんて、学校側にはどういう意図があるのだろうか。ここには見て学ぶべきものなど何一つ無いというのに。いや、逆説的に『こんな酷い職場もあるんですよ。皆はこんな所でしか働けないほど落ちぶれないように、今からしっかり勉強して立派な仕事に就きましょうね』という説教に用いるのかもしれない。だとしたらこの会社は、正に打ってつけの職場だ。
子供が将来の仕事に夢を抱くのは大事だけれど、良い面だけを見せて育てられても、実際働き始めた時に理想と現実のギャップに苦しめられることになるだろう。だから、仕事の悪い面を敢て見せつけることで反面教師としての役割を果たし、子供達に現実的な職業選択を促す。なるほど、そう考えると中々有意義な授業に思える。
夢がない人生は辛いけれど、月収五万円では暮らしていけないのだから。
先程の男子がまた大きな欠伸をした。引率の教師が小声で注意する。別の男子はプリントに何やら書き込んでいる。目を凝らして見てみると、ババア話長い。と書かれていた。
オーナーとマネージャーはその後、たっぷり二時間喋り続けた。何をそんなに語る事があったのか不思議だった。
男子は全員、夢と現実の狭間の世界に居た。女子は偉いもので、来た時と何ら変わらぬ様子だった。
「それじゃあ三組に分かれて、ロボットを見せてもらいましょう」
教師は目覚ましの役割も兼ねて、大声で生徒達に指示をした。
元々組み分けは決まっていたらしく、スムーズに男女一人ずつのペアが三組出来上がった。
私の機体にあてがわれたのは、先程マネージャーに対する愚痴を書いていた男子と、眼鏡をかけた体の小さい女子だった。
「じゃあ機体の説明をします。こいつは、正式名称はTMT―Jrと言って、なんと現在使われている機種の中で、一番古いお爺さんの、いやひい爺さんくらいの機体です」
私は以前見学に来たあの男性からの受け売りを、そのまま子供達に伝えた。中々反応が良い。へぇ、とか、すげぇ、と言った感嘆の声が返ってくる。私が少なからず彼らと年齢が近く、ある程度砕けた態度で接しているせいもあってか、彼らは欠伸もせずに、私の話を興味深そうに聞いてくれた。女子の方は話の内容をプリントにメモしている。多分、後で感想文を書く為の覚え書きだろう。
説明を終えた後、機体の細部や内部構造を見せてあげた。下手糞な修理のせいで酷い状態ではあったのだが、子供の彼らにはそんな事は解らいようだった。実際に運転席にも座らせてあげた。やはり男子は大はしゃぎで、壊れそうなくらい力強く操縦桿を前後させていた。
降りた男子が、興奮冷めやらぬ状態で聞いてきた。
「ねぇねぇ。このロボットで敵を殺した事あんの?」
子供特有の無邪気で怖い質問だ。私は空いた運転席に、女子を座らせてあげてから答えた。
「私達は敵を倒すのが目的じゃないんだ。この大利根町という存在を守る事こそが、一番大事な仕事なんだよ」
大人特有の胡散臭い答えだった。そう思って、私は言いながら自嘲した。
「でもこの前戦ったんでしょ。その時は殺したの?」
七月にあった栗橋との戦いの事だろう。
「いやぁ。敵さんも強かったからね。やっつけることはできなかったよ」
「なんだよぉ弱っちぃな。ねぇ、今まで一回も殺した事ないの?」
男子は同じ事を言い続けた。
殺した事ないの。殺した事ないの。
段々と声は大きくなっていく。声を出しているだけで、一人で勝手に楽しくなってしまっているようだ。引率の教師に聞かれるのはまずいと思い、私は慌てて止めた。
「しっ静かに。解ったよ。言うよ」
「殺した事あんの」
男子の目はキラキラしている。この子の将来が心配だ。
「この機体でではないけど、昔、敵を一機やっつけたことはあるよ」
私の初陣での事だ。
話すと、男子は今まで以上の大きな声をあげた。
「すっげぇー。殺した事あんだー。すげぇかっこいい」
「いやいや、相手が死んだかどうかは解んないよ」
私の補足説明に、もはや男子は聞く耳持たなかった。
俺も人殺してみてぇー。などと、警察に通報されてもおかしくない、不穏当なことをのたまっている。子供に付き物の、度を越した悪ノリだ。
騒ぎを聞きつけ引率の先生が寄ってきた。事情を説明して理解してもらうことはできたが、先生からの叱責の声にも男子のテンションが下がることはなかった。
数分経つとさすがに疲れたのか大声を出すことはなくなったが、未だに同じような言葉を繰り返している。終いには、私のことを、英雄でも呼ぶかのように『人殺し』と読んだ。
その後も、涙目になっている女子を宥めたり、他の男子にも感染した狂乱を制したり、それに怒った女子と男子との仲裁をしたりと、慌しい状況だった。やがて堪忍袋の緒が切れた教師が怒声で一喝すると、騒ぎは静まった。
何とも重苦しい、嫌な空気を残しつつ、彼らは形式だけの礼を言って帰っていった。
当然私にはマネージャーからのお小言が待っていた。
相変わらず、いや以前にも増して、汚く醜くなった顔を更に不機嫌に歪めたその顔は、もはや人間の顔の範疇を越えていた。
しかし私は、その顔とも呼べない貌を見ても不快を感じることはなかったし、語彙が乏しく、何度も同じ言葉を繰り返す暴言にさらされても、憤怒の念に駆られることはなかった。あの七月の給料日以来、心を閉ざしていたからだ。
驚いた事に、本気で心を閉じると耳は聴こえなくなり、目は観えなくなった。もちろん実際には聞こえているし見えてもいる。けれど、それらの情報は決して心にまで到達することはない。鉄よりも固く分厚い扉が跳ね返してくれるのだ。
あの出来事があって尚、一ヶ月もの間この会社に通うことができたのは、この技術があったればこそだ。
とはいえ、今回の件に関しては私も少なからず責任を感じている。あんな子供の戯言など無視してしまえば良かったのだ。そうすれば、いずれ飽きて大人しくなっていただろう。なにせ相手は、自我や考える脳も未だ無い幼子なのだ。自分が何をしたいのか、何をしているのか、何を求めていたのかさえ、きっとすぐに忘れてしまったことだろう。
それを私は、幼いとはいえ彼もれっきとした一個の人間だと思い込んでしまった。互いに対等な人間として、真摯な態度で臨むべきだ。心のどこかでそんな風に思ってしまったのが間違いだったのだ。
彼らはまだ人間ではない。
同じ言葉を喋ってはいても、会話が出来ない。意志の疎通がはかれない。そんな存在は、人間という分類からは別けて扱うべきなのだ。
人間が現在、地球上の生物の頂点に君臨しているのは、知恵があったからだ。その中でも、他の生物にはなく人間だけが独自に発達させてきたもの、それが言葉、言語だ。人間は言葉を用いて他人とコミュニケーションを取り、意見を交換し合うことで、より多くの知恵を身につけていった。それが他の生物を人間が出し抜くことができた要因だったと、私は考える。つまり人間の根源は言葉。人間を人間たらしめているものは言語なのだ。
マネージャーの説教は未だ続いている。
思えばこの人にも、私の言葉は通じていない。こんなに年老いているというのに、この人は未だ人間になれていないのだ。大嫌いな存在ではあるけれど、その点に関しては哀れだと同情する。産まれた時から変わらずこうなのか、それとも老化による影響なのだろうか。前者であれば救いようがないが、後者だった場合はますます可哀想だと思う。自分が人間でなくなっていくというのは、どういうものなのだろうか。けれど多分、この人本人には、変わっていっているという自覚さえないのだろう。それは少し恐ろしいことだった。
「……だから気をつけてね!」
マネージャーの言葉が結ばれた。どうやら長い話は終わったようだ。私は一応、謝罪の言葉を述べて頭を下げた。文字通り心のこもらない動作。
もしかしたらと考える。
この人達との会話を諦め拒否している私は、ある一面で見れば、言葉の通じない者として映る。
では、私も人間ではないのかもしれない……と。
私は心の中で笑う。
そんな訳がない。
私は彼らとは違う。私はまともな人間だ。それは絶対に間違いのない、確かな事だ。