二十話
「ら、来週からなら来れます」
今日は水曜日。もちろん週末まで一切の予定用事はなかったのだが、すぐに明日から働けます。などと言うほどのやる気はなかった。
「じゃあ来週の月曜日から来てね。その時通帳と印鑑も持ってきて」
「はい、わかりました」
「他に、梅沢君から何か質問はある?」
きた。就職面接定番の問題だ。
ここで何も聞かないと何故かそれだけで、仕事会社に対する意欲無しという評価が下されてしまう。とはいえ私には、もちろんそんな意欲は無いので、いつも答えには窮してしまう。
しかし、今回はおあつらえ向きな疑問が1つあった。
「あの、特人車はこの家の敷地内で管理されているんですか?」
「ここは私達の自宅兼事務所として使っていて、機体は別の場所に建物を借りてそこで保管してるの」
婆が答えた。汚い声だ。
他に聞きたいことも思い浮かばなかったので、そう伝えると、面接は終了した。
「どうもありがとうございました。来週からよろしくお願いします」
帰り際、私は二人に礼をした。
外に出てみると、雨脚は更に強まっていた。雨が叩きつけるような勢いだった。差した傘の端には小規模な滝ができた。
私は来たときに倍する時間をかけて、帰路を歩いた。埼玉大橋を渡る際には傘を両手で握り、足を開いて腰を入れ体勢を安定させた。幸い交通量は先程よりも減っていたので、命の危険を感じる事はなかった。
自宅に帰り着いた時、時計は十一時半を指していた。
スーツを脱ぎ、水気を軽くふき取ってハンガーにかけると、風呂場に向かった。
シャワーを浴びていると、ふと思い出した。
こんなに雨に打たれたのはあの日、十ヶ月前に渡良瀬遊水池へ行った時以来だ。
良くない記憶の蓋が開こうとしている。私はそれを必死に押さえつけた。
今日は再就職が決まった目出度い日であるはずだ。そんな暗い過去に気を落ち込ませるべきではない。そう訴えたが、実際今の私の中には嬉しいという気持ちは無かった。新卒の時同様、安堵はしていたのが、それ以上に大きな不安という感情があった。
理由は解っている。今日出会ったあの二人、面接官の爺と婆のせいだ。
きっと二人は夫婦なのだろう。
他業種よりも補助金額が大目にでるため、防衛団事業は少ない元手でも意外にすんなり始められるものらしい。大手企業のフランチャイズ化も盛んだ。資金を貯めた後に、脱サラして始める人が増えてきているのだという。多分あの夫婦も、そういう連中と同じ経緯で会社を立ち上げ、細々と運営をしているのだろう。自宅を事務所として使っているくらいだから、会社資産は少ないはずだ。浦和に自社ビルを持っていて、何十という支店を持ち、従業員数も数百人居た前職のユニバーサルとは、かなりの格差がある。
しかしそんなことは私にとって、問題ではない。
私はあの二人と同じ職場で働くことに不安を、いや不快を感じているのだ。
本当にあの会社に就職していいのだろうか。そうは思っても手持ちの現金は少ない。それに、またあの自己を否定され続ける、辛い就職活動に戻るのも気が引ける。
結局、私が選べる選択肢などというものは無いのだ。
採用前、採用後でも同じ事で思い悩んでいるのなら、きっとこの世には正解というものは無い。傾いて今にも倒れてしまいそうな間違いしか存在しないのだ。間違いと間違いが重なり支えあい、それが偶然のバランスで倒れずにいる。それが世界の真実の姿だ。世の中間違っている事が正しいのだ。
私は半分は自棄で、もう半分は本気で、そんなことを考えた。
あっという間に時は経ち、もう初出勤の日だ。信じられない速度で不正解の世界は過ぎる。
幸い、今日は雲が大目だが日は差している。
私は通帳と印鑑だけを入れた鞄を手に、家を出た。距離的には自転車を使うべきなのだが、埼玉大橋のあの急な坂で自転車を漕ぐのは辛いと考え徒歩で通うことにした。前回通った道と同じコースを歩く。当然足取りは重かった。
車の数は相変わらず多い。ほとんどの車は適正な車間距離をあけずに、狂ったスピードを出して走っている。その様は、正に間違いと間違いのバランスを解りやすく目に見える形で表していた。仮にこの中の一人が自分の間違いに気付き、突然制限速度まで速度を下げたとする。きっとたちまち大事故が起こるだろう。バランスが崩れ、不正解の群れは連鎖的に倒れてしまうのだ。更に悲惨なことに、多分その波紋は、間違いに気付いてしまったその人にまで及ぶ。全員死ぬ。死すべくして死ぬのだ。それがこの世界の正体。
前回よりも随分早く会社には着いた。
会社という呼び方に抵抗を覚えるほど、普通過ぎる一戸建てだ。この辺り一帯は住宅街になっており、同じような外観の家屋が並んでいる。もしも社名の書かれた表札を隠されたら、もう二度とこの家を探し当てることはできないのではないか。そう思わせるほどに、この家には特徴が無い。
呼び鈴を鳴らすと、前回と違いオーナーが出てきた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
「あぁ。お願いしますね。じゃあ格納庫に案内します」
そう言ってオーナーは家に鍵をかけ、敷地外へ歩いて行ってしまった。やはり今回も早く終わらせたい様子だ。私は早足でその後を追った。
格納庫とやらには五分程で着いた。その間、オーナーとの会話はなかった。
「ここが格納庫ね。明日からは、うちじゃなくてここに直接来て」
北川辺支社で使っていた倉庫より一回り小さめの、そしてより古びた建物だった。しかし何故か意外にも小奇麗に見えた。
オーナーが格納庫の扉を開けると、そこにはあの汚い婆が居た。
「梅沢君来たから」
「あら、また随分早いですね」
「すみません。今日からお願いします」
「はい。お願いします」
「じゃあ、後はマネージャーに聞いて」
そう言ってオーナーは来た道を帰ってしまった。本当に早い。
マネージャーと呼ばれた婆は、私に作業着を渡し、これに着替えるようにと渡し、代わりに私から通帳と印鑑を預かった。
服は新品ではなかった。よれて形が崩れており、着る前からだらしなさが感じられる。洗濯はしてあるのだろうが、所々に染みがあって汚らしい。
私は文句も言わずに、言われた通りその古着に着替えた。わざとらしいほど洗剤の臭いがした。着替え終えると通帳印鑑は直ぐに返された。
「サイズは合ってるみたいね。ごめんなさいね、それこの前辞めた子が使ってた物なの。いずれ新しいのを用意するから、しばらくは我慢して」
「はい」
「その子は、梅沢さんと同じくらいの年の子だったんだけど、ある日突然来なくなっちゃったのよ。だからここ何ヶ月かは、私とオーナーの二人だけになってて色々大変だったのよ」
「えっ。他に従業員いないんですか?」
「そうよ。余分に人雇う余裕なんて無いもの。貧乏暇無しよね」
信じられない。この会社には、この婆とあの爺の二人しか居ないというのだ。
法律では、一度の出動に出せる機体数は三機までと決まっている。当然、攻める入る方はその最大数を投じてくる。そうなると守る側としても同数を出さざるを得ない。数の有利を覆すことは、簡単な事ではないからだ。だから、稼動機体が三機以下の防衛団など、蝉の命以上に儚く、無意味な存在なのだ。しかも動かせる二機の運転手が腰の曲がった老人二人だなんて、冗談にもならない。
「よく今まで大利根は無事でしたね」
「うち以外にも同じくらいの防衛団がもう1つあったからね。そこのおかげ」
「ここの他にも防衛団が?」
勉強不足を咎められそうな発言をしてしまったことに、言った後で後悔した。
「そうそう。場所柄、うちは北川辺と羽生方面。向こうは栗橋と加須方面を見てるのよ。でもまぁ、今のうちみたいに色々と事情があったりすから、その時々で入れ替わったりもするのよ。臨機応変に」
「はぁ、そうだったんですか」
マネージャーは、私の無知を特に気にもしていない様子だった。
「だからね梅沢さん。せっかく入ってくれたんだから、梅沢さんには長く仕事を続けてほしいの。お願いね」
「はい。頑張ります」
内心はどうあれ、この場ではそれ以外の言葉を吐くことは許されないと思う。
「それじゃあ最初の仕事は、掃除をしてもらいましょうか」
「掃除、ですか……」
はい、これ。と言ってマネージャーは箒と塵取りを渡してきた。
「まずはこの格納庫の床の掃き掃除ね」
最悪だった。
梅雨特有の湿度の高い蒸し暑さのせいで、汗が際限なく垂れてくる。着替えた作業着は通気性が悪く、下に着込んだTシャツは既に汗でびしょびしょだ。
箒を振るう床にはゴミや埃よりも、虫の死骸の方が多い。中には干からびた雨蛙まで混ざっていた。とても不快だった。
それらを一ヶ所に集め塵取りに、そしてゴミ袋へと移す。
横には特人車が仰向けで寝かされている。
十ヶ月前レールガンのスコープ越しに見た時の印象と同じで、丸みが無く、全身が角ばっていた。そしてどうやら、かなりの年季が入った古い機体だった。
装甲表面は綺麗に磨かれており、目立った汚れや傷は無い。けれどなんというか、色が、いや存在自体がくすんで見える。機械も年を取って老いていくのだと思った。
しかし、三機並んだ中の、その内の一機には、不自然な新しさを感じた。
掃除しつつも近付いて観察してみると、その機体は体の左側半分だけが、明らかに他のパーツよりも明度も彩度が高かった。その部分だけが若いのだ。多分、これは近年に新しく取り付けられたもので、そして、そうなった理由はやはり、修理の為、なのだろう。
これが、私がレールガンで撃った機体か……。
マネージャーの話ではこれに乗っていた人は、あの日から数週間か数ヶ月経過してから退職したらしい。だから私は、あの一撃でその人を殺してはいなかったのだ。
純粋に、良かったと思った。
オーナーとマネージャーが各々の機体から乗り換えることがなければ、多分この機体には、私が乗ることになるのだろう。約一年前に、私が撃った機体に、今度は私が乗る。中々運命的なものを感じる。
掃き掃除が終わると、今度は外の草むしりを命じられた。
風がある分、外の方が屋内よりも涼しかったが、中よりも虫の数は多かった。至るところに気色の悪い多足生物が居る。耳元で羽音を立てられる、あるいはそのおぞましい姿を見せつけられるだけで、私の全身には鳥肌が立った。私は虫が大嫌いなのだ。
まったく、なんで防衛団でこんな草むしりなんてやらされてるんだ。
働き始めてからたった数時間だというのに、私の中には憤懣が溜まっていった。
あの機体に乗っていた、私の前任者が辞めた理由が少しだけ解ったような気がした。