十九話
翌日も梅雨の雨が鬱陶しく降っていた。
眺める雨は好きだけれど、雨の日に外出するのは嫌いだ。それなのに出掛けなければならないのだから、今日も憂鬱な気分になるのは当然だ。
精神と脳を切り離して体を動かす。歯を磨いて髭を剃り、顔を洗って寝癖を直す。一張羅のスーツを着込んで家を出る。あやうくいつも履いているスニーカーで出るところだったが、玄関を出た瞬間に気が付いて革靴に履き替えた。
ビニール傘を差して雨の農道を歩く。
これから向かう例の会社の所在地は、大利根町弥兵衛。北川辺からはごく近い住所で、家からも十分徒歩で行ける距離にある。
そう思っていたのだが、若干見通しが甘かったようだ。地図上では数センチの距離しかない道が、実際に歩いてみると驚くほど遠い。まず、この農道を真っ直ぐ行って、一つ目の信号を右折するのだが、その信号が遥か彼方だ。多分軽く二三キロはある。田舎はスケールが大きい。
雨は大降りである。しかも普段履きなれていない革靴によって歩きにくい。湿気が纏わりついて不快だ。家を出て数分で、私はホームシックに罹った。それでも行くしかなかった。
道を曲がると県道四十六号線となり、すぐに埼玉大橋を渡る道になる。
およそ一年前、新井さんと新装備のデータ取りをしていた時に見たあの橋だ。この橋を徒歩で渡るのは初めてのことだった。
通勤の時間帯の為か、車の交通量が多い。更に普通車に混ざって大型トラックも散見される。
橋の両端に設けられた歩道は、信じられないほど狭く細い。人間一人がようやく通れる幅しかなく、傘の端が車道側に少しはみ出してしまう。人とすれ違う時には難儀しそうだった。
埼玉大橋はアーチ状の長大な橋だ。当然まずは上り坂から始まる。先程以上の歩きにくさを感じた。
すぐ横の車道では、どの車も異常なほどスピードを出している。制限速度は五十キロと標識には掲げられていたが、それより二、三十キロは明らかに超過している。きっと彼らには全員、出産、危篤、事件、事故、そういった緊急の要件があるのだろう。そうでなければ、彼らがこうまで狂った速度で急ぐ理由がない。
車が通過する際の風に煽られ、傘が飛ばされそうになり、跳ね上げられた水しぶきは私の全身に降りかかった。
だから雨の日の外出は嫌いなんだ。
雨は降り続けてはいたが、先程に比べて小雨になっている。私は危険を冒すよりも雨に打たれることを選び、傘を畳んだ。
橋の高さ的に頂点となる中間地点に辿り着く頃には、全身くまなく濡れていた。
橋の欄干から下を見てみると、利根川が在った。
その巨大さ故、どれ程の距離が離れているのかは解らないが、岸に生える草木の大きさから察するに、とても高い。
ここから墜ちたら死ぬだろう。確実に。
そう思ったら怖くなった。恐怖が胸に浮かんだ。死にたくは、なかった。
また大型トラックが狂気のスピードで横を通り過ぎた。強風に押され、私はほんの少しだけバランスを崩した。慌てて手摺りにつかまる。
もしも傘を差したままだったらどうなっていただろう。きっと、風を効率よく吸収した傘は、それを持つ私と共に橋の外へと飛び出していただろう。
そして私は死んでいたのだろう。確実に。
自分に急ぎの用があれば、その過程で他人が死んでもいいのか。本当は急ぐ用だってないのだろう。だったら何をそんなに急ぐ。何故、そんなに余裕や優しさがないのだ。
私はとても怒った。それこそ、彼らを殺したいほどに。
手摺りに手をかけ、しっかりと足を踏ん張りながら、なんとか橋を渡りきった。私は再び傘を差す。全身が随分と濡れてしまったが、滴る程ではない。面接時にもぎりぎり許されるはずだ。
携帯電話を取り出し、会社までの案内地図を表示する。それと実際の風景を見比べながら、目的地へ向けて歩を進めた。
「えっ、これ? ここなの。本当に」
行き着いたそこは、平凡な二階建ての一軒家だった。庭はあるが乗用車が二台置いてあるだけで、もう余分なスペースはない。周囲を見回したが、同じような住宅が並んでいるばかりで、特人車が置けるような場所は見当たらなかった。それでも玄関前には『長塚』と書かれた表札と共に『有限会社ロングハーモニー』と書かれた表札も掲げられていたので、確かにここが目的地で間違いはないようだった。
九時四十分。少し早く着いてしまった。どこかで時間を潰そうかとも思ったが、ここから一番近いコンビニでも片道五分以上はかかる。それではただ往復するだけで終わってしまう。それに、雨が大粒になってきている。これ以上スーツが濡れてしまうのは避けたかった。
私は意を決して、呼び鈴を鳴らした。
扉を開けたのは汚い婆だった。
そう見えた。別にホームレスのような格好をしていた訳ではない。
着飾るでもなく、貧相でもない、まともで無難な服装をしているし、化粧もある程度している。多分美容院で定期的に髪を切り、毎日風呂に入ってきちんと髪も体も洗っているのだろう、と思う。
けれど、その労力を凌駕する程に、汚い醜い臭い。そういう嫌悪感がまず先に立った。
私は人を外見で判断する人間ではない。そう思っていたし、一応今もその考えは変わっていない。
しかし目の前のこの老婆の姿は酷いものだった。
エラが張って、角角とした輪郭。
途中から叩きつけられたかのように急な角度で垂れ下がった目のライン。
大きな鷲鼻と、それとは対照的な小さな口。
生来の肌色がどこに残っているのかも解らないほど、無数に浮き出た染み。
そしてなんといっても、顔全体にできた妖怪的な皺。
これらを奇跡的に、最悪なバランスで組み合わせた貌を、この人はしているのである。
控えめに言っても、この人間とは関わりたくない。そう思わ『された』。
「どちら様ですか?」
婆が口を開いた。
婆と言っても、恐らく年齢は五十代位だろう。イメージが、実年齢より老けて見せる。
「あ、あの。十時に面接の約束をしています、梅沢です」
吃ってしまったが、嫌悪感は表には出さない。
「あぁ。随分早いですね」
「すみません。思ったよりも早く着いてしまいまして」
「いえ、まぁいいですよ」
どうぞ。と言って家の中へと招かれた。
私は靴を脱ぐ時、靴下が濡れていない事を確認して、家の中へあがった。
通された部屋にはソファーが二つ向かい合わせで並んでおり、その片方に、今度は白髪の爺が座っていた。
「オーナー。面接の方が来ました」
「んー。じゃあそこに座って」
オーナーと呼ばれた爺は時間の事など気にしていないようだった。もしかしたら忘れていたのかもしれない。
「お忙しい中、わざわざ時間を割いて頂いてありがとうございます。どうぞよろしくお願いします」
私はセオリー通りの挨拶をして、勧められたソファーに腰を下ろした。そして鞄から履歴書を取り出し、老人に差し出した。これも濡れていなくて安心した。
「えー……。梅沢君ね」
老人は、苦しそうに目を細め、不自然なほど顔と紙との距離を開けて、履歴書を見ている。きっと老眼なのだろう。
年齢や住所、学歴などを書かれている通りに音読され、その後ろに若いねや近いね等の短い感想が付け加えられた。
「前職は、株式会社ユニバーサル。ここは何をしている会社なの?」
履歴書の後半、自己PRや志望動機できっちりと説明されている事を、そこに読み至る前に質問された。
「こちらと同じ防衛団業界でした。その経験を活かせると思い、志望させていただきました」
「あ、経験者だったんだ。ふーん……。で、どこの地域に居たの?」
「そ、それは、あの。そこの会社は埼玉県全域に支社を持っていまして、それでその……」
この業界では、私と同じように同業他社への転職が多い。やはり他業種に移れるスキルを持つ者は少ないのだ。
そしてそういった実務経験のある者との面接の際には、面接をする側、受ける側、双方に、触れてはならない暗黙のルールが存在する。
その1つが、どこの地域の防衛団に勤務していたのか、ということである。
これを尋かれてしまうと、例えば、敵対地域にある防衛団への再就職が難しくなってしまう。もちろん守秘義務に絡む部分も多々出てくる。だから基本的に、この手の質問はご法度のはずなのだ。少なくとも、就活サイトにはそのように書かれていた。
「……北川辺の支社に居ました」
けれど尋かれてしまった以上、答えない訳にも、嘘を吐く訳にもいかない。なんと言おうと面接では、する側の方が圧倒的に立場が上なのだ。
「北川辺……」
婆が反応した。
まずい。
可能性は高いと思っていた、けれどそれが発覚することはないだろうと高を括っていた懸案事項が現出されようとしていた。
「うちはこの前、北川辺と交戦した事があるのよ」
やはりだ。不安は的中してしまった。
「確か、去年の八月でしたっけ、オーナー。町長から、ちょっと北川辺にちょっかい出してこいなんて、軽く依頼されたんですよね。あの時は、すぐ社員の子がやられちゃて。あ、その子はちょっと前に辞めちゃったんだけどね。だからもう私達なんか交戦する間もなく、行って帰ってくるだけだったのよね。結局、その子が壊した機体の修理費がすんごいかかって、うちは大損しただけだったのよ」
「はぁ」
冷や汗が出る。当然ながら北川辺の防衛団に良い印象は持っていないようだ。
「なんか向こうは新装備のテスト中みたいだったんだけど、それがすんごい威力だったのよ。あの子は一発でやられちゃったの」
婆は履歴書の職歴欄に書かれている年月日を確認した。
「梅沢さんはその時、北川辺の防衛団に居たってことですね?」
「い、居ましたが、あの一群がこちらのものだったとは知りませんでした。それに、私はあの時別の仕事をしていたので、実際にその現場を見てはいません。その新装備というのも、私には解りません」
嘘を吐いた。この状況で、私があなた達を撃ちました。などと言える訳がない。
「そうですか。ふーん……」
嫌な言い方だった。私の嘘を、この婆は頭から信じていないらしい。確かに嘘なのだから、その判断は正しいのだが……。
「特人車の操縦免許は持っているんだね」
オーナーと呼ばれていた老人が話を切り替えた。私は、はい。と答えた。
「じゃあいつから来れる?」
私は、はい? と答えた。
「前に居た子が辞めちゃって、うちは今人員が足りてないんです。君は経験もあって、うちで求めているような人物だったので、採用します」
今までで一番長く老人は喋った。
「ほ、本当ですか?」
「はい。それでいつから来れますか?」
私の驚きを察する気配もなく、老人は同じ質問を繰り返した。
昨日の電話と同じだ。こんな事は早く終わらせたいのだろう。