十八話
あれから十ヶ月の月日が経った。
最近ではもうあの頃のような痛みに苦しむことはほとんどなくなっていた。当時思ったこととは裏腹に、私はあの出来事を徐々に忘れていってしまっている。
とはいえ、完全に記憶が消えてしまった訳ではない。ふとした瞬間、たとえばテレビドラマでキスシーンが映った時などには、体内の異物が存在を主張し始め、あの時と同じく、胸が、腹が、心が、苦しくなる。しかし同時に、まだこの痛みを覚えていれたことに安堵もしていた。
生活は変わった。決まった時間に寝て、決まった時間に起床する。まともな食事を摂るようになったし、毎日部屋の掃除をして、週に三回は洗濯機を回している。以前のような健康的で真っ当な生活に戻っていた。
ただ、1つだけ困った事がある。お金の問題だ。
あれ以来、私は労働とは縁遠い暮らしをしてきた。当然、貯金は減る一方だ。それでも、まだ後数ヶ月はこのままの生活を続けられる見通しだった。ところが、アパートの契約更新の時期がきてしまったのだ。すっかり失念していたのだが、二年毎にそういう事があるのだと、最初の契約の時に説明は受けていた。
その更新にかかった家賃二か月分超の費用が、私の計画を大いに狂わせた。
もちろん貯金はまだ残っていたが、今回のような予想外の突然の出費が二度三度と重なれば、すぐに失くなってしまいそうな、心許ない金額でしかない。
私は何日間か考えた末、観念して仕事を探す事にした。結局、この世の中はお金が無ければ何もできないのだ。
まず何個かの就活サイトに登録した。プロフィール欄は埋めていったが、自己PR欄は書くことが何も思い浮かばず、空欄のままだった。
サイト内にある求人情報を眺めてみたが、心魅かれる職業は1つもなかった。
大学時代は、新卒だから選り好みしなければ、就職自体は簡単にできる。そう思っていたし、実際にそうだった。しかし、今は状況が変わってしまっている。もう新卒ではない。中途採用を目指すのであれば、その業界での経験、あるいはプロ並みの知識、技能が必須条件になってくる。どこの会社も即戦力となる人材しか採る気はないのだ。その点でいくと、私は特別な知識も技能もない。凡人以上には覚えも早いし、手先も器用だとは思うが、やはりプロフェッショナルには敵うはずもない。
だからといって、興味を持てないのだから勉強なり訓練なりをするつもりもおきない。第一、何をやりたいのか、何をやるつもりなのかさえ決まっていないのだ、それ以前の問題である。
私を取り巻く状況は変わったけれど、私の中身、就活で悩む内容は大学生の頃と大差がなかった。それを思い知って私は自嘲の笑みを浮かべた。
それでも、求人の中には経験不問、必要資格なし、未経験者歓迎を条件にしたものがいくつか在り、そういう会社からいくつかスカウトメールも届いた。私はスカウトメールを送ってきた会社に、片っ端から応募した。
そういうところも、大学時代と変わっていない。確固たる自分の意志というものがないから受身の姿勢で待つしかなく、手を差し伸べられれば無計画にその手を掴んでしまうのだ。
けれど、あの頃と違って結果は芳しくなかった。求人情報は万人向けの条件だったはずなのに、面接官からは同業界での経験、あるいはそれに類することを求められた。当然私にはそんなものはないと答える以外の手はなかった。嘘をつくための知識すら持ち合わせていなかったのだ。
さらに、前職を個人的な都合で退職したことも響いていた。その辺りの事情を尋ねられると、もはや私は口ごもることしかできなかった。
応募した数だけ不採用の報せが届いた。
そんな事が一ヶ月続いて自信を喪失した私は、諦めて希望する条件欄に、防衛団業界を追加した。
ユニバーサルでの経験から、この業界が私に合っていないことは明らかだった。あの会社を辞めた直接の原因は、新井さんとの出来事があったからだが、多分それがなかったとしても、何年も何十年もあの仕事を続けられていたとは思えない。見回りの時に感じていたあの後悔と不満が、いつか耐え切れないまでに膨れ上がっていたに違いないのだ。そのことには確信があった。だから今までその求人を避けていたのだ。
とはいえ、背に腹はかえられない。日に日に貯金額は減っていき、このままでは生活を維持することができなくなってしまう。
じっくりと腰を据えて業界研究なりに打ち込めば、他業種への道も拓けるかもしれないが、貯金の残高や私の性質を考えるとそれは難しい。現実的に考えて、すぐに私が再就職できる可能性がある業界は、もう防衛団業界しか残されていないのだ。悲しい事に。
とにかく、防衛団業界を第一志望にして改めて求人情報を探ってみると、多くの求人が見つかった。慢性的な人手不足は今でも続いているらしい。こうなると、今度はこちらが企業を吟味する立場だ。少しでも条件の良いところ選ぶのは当然だ。
しかし待遇はどこも大差なかった。元々活動できる時間が法律で定められているので、就労時間や休日数に変化はなく、給与も前職でもらっていた金額を一二万円ほど上下する程度のものでしかなかった。
次は勤務地。長い通勤時間は無駄でしかない。希望勤務先を埼玉県北埼玉郡に指定すると、企業件数は一気に激減し、株式会社ユニバーサル北川辺町支店を含めても、六件ほどしかなかった。
その残った五件の会社の募集要項、自社の紹介、ホームページなどを見比べる。
まず『この仕事で成長したい方大募集』と大きく見だしに書かれたところはすぐに除外した。仕事と自分の成長。その二つに共通項が見出せなかったし、私は別に成長する気もなかったからだ。それではきっと採用されないだろうし、企業側からしても迷惑だろう。
それから会社自体が大規模で、大所帯をアピールしているところも避けた。人が多ければその分人間関係がややこしくなる。前職での反省という訳ではなく、単純に私の人見知りが激しいというのが、その理由だった。
そうしていって最終的に残ったのは、大利根町にある『有限会社ハーモニー』というところだった。
しかしそこは、私の希望に合致したのではなく、どういう会社なのか不透明だったから残されただけだ。最低限の、給与、休日、勤務地などの他には何の説明も載っておらず、検索してもホームページは出てこない。私が得られる情報が少なすぎるのだ。有限会社だから、他の株式会社より小規模だろう。という予測しかできない。
社名が意味する『調和』という言葉が、どうにも胡散臭い。この血生臭い業界とは相反する名前のように感じられる。
私は悩んだ。あからさまに怪しい。
その求人に行き当たって三時間悩んだ。そして漸く、とりあえず応募だけはしてみよう、後の事はその時考える。という消極的な結論に至った。
けれど困ったことに、その求人サイトから直接その会社へ応募することは出来なかった。応募フォームへ行くためのリンクがないのだ。備考欄には、電話でご応募くださいと書かれている。今時メールでの応募を受け付けていないというアナログさに、私の柔らかな決意は崩れそうになった。
時刻は十七時半を過ぎている。
業務時間内だから、電話は通じるだろうが、もうすぐ今日の営業が終わろうというこの時間に、御社で働かせてください。などという面倒な話をされたら、向こうの人も困るだろう。そんな言い訳を自分にして、応募は翌日に先送りにすることにした。
明くる日、外では雨が降っていた。
午前九時半。私は有限会社ハーモニーに電話をかけた。昨日のように決意が鈍ってしまう前に行動をおこしたのだ。
コール音は七回以上鳴った。忙しいのか、あるいは留守かと思って、電話を切ろうとした時、電話は繋がった。
「はい。ハーモニーです」
素人みたいな電話の出方だと思った。
「お忙しいところ申し訳ありません。求人サイトで、そちらが社員を募集しているというのを見ましてお電話させていただきました。担当の方はいらっしゃいますか?」
こういう時、どのように言えばいいのか、言葉遣いは間違えていないか、いつも不安になる。
「あぁ、応募ですか。えー、お名前は?」
どうやら電話の相手が担当者だったようだ。向こうには、自らの言葉遣いを振り返るつもりはないらしい。
私は自分の氏名を告げた。
「じゃあ、いつ面接に来れますか?」
あまりの単刀直入ぶりに私は面食らった。確かに応募の電話で聞かれる事は、大抵後の面接の時にも聞かれる事ではあるのだが、それにしたって、こちらの名前しか聞かないのもどうかと思う。
「今日は来れますか」
「今日ですか?」
電話の相手は更に畳み掛けてきた。ある意味、この対応の早さは銀行員や公務員に見習ってほしい。
「いや、今日はちょっと、この後予定が……」
もちろん予定などなかった。ただ、面接に持参するべき履歴書の志望動機が空欄のままだ。ここを埋める為に今日の一日を費やす。そういう見通しだったのだ。
「じゃあ明日ならどうですか?」
「あ、明日なら。時間はいつでも大丈夫です」
「じゃあ明日の午前十時に来て下さい」
「わ、わかりました」
相手は余程早く電話を終わらせたいらしい。
急かされているようで、私はやる気を失くしかけていたが、押し切られてしまった。
私はありがとうございますと言って電話を切った。
後悔した。何があったという訳ではない。無駄に時間を引き延ばされるよりは、早く終わった方が良い。それはそうなのだが……。言葉では表現し辛いけれど、この会社は違うと思った。私が働くべき場所ではないと思った。
それでも、自分で応募した会社の面接だ。真っ当な社会人として、明日は行かなければならない。私は履歴書に向き合った。
自己PRについては問題ない。同業種であれば前職の経験が活きる。現場で必要な資格は一通り取得しているし、実戦の経験もある。特に重視すべきは、累計で敵機を二機も撃墜していること。これは大きなアドバンテージになるはずだ。これらの事に関しては何も嘘はないので自信満々で答えることができるだろう。
問題はやはり、志望動機だ。
働きたいと思う理由。単純に金を稼ぐためと書くわけにもいくまい。となると、ここに書き連ねる言葉は、どんなことでも嘘になってしまう。働きたくない訳ではないけれど、働く意義がない。働けるけれど、やりたい事がない……。
私は夕方まで悩んだ末、『前職の経験が活かせる』『家から近い』この二つを妙に回りくどい長文にして、志望動機欄に書き付けた。
とても幼稚で馬鹿らしい文章だったけれど、書き終えた時には不思議と達成感があった。