十七話
気が付くと窓から入る光はなく、代わりに暗闇が部屋を満たしていた。
いつの間にか眠っていたようだ。とても嫌な夢を見た気がする。内容は覚えていないが寝汗が酷い。喉も痛いくらいに乾いていた。
私は起き上がるとシャワーを浴びた。髪も顔も歯も体も洗わなかった。汗の不快さがとれればそれでよかった。
体を拭きながら水を一杯飲んだ。空腹感を感じ、何か食べようかとも思ったが、同時に軽い吐き気も感じていた。冷蔵庫から昨日作った料理が入ったタッパーを取り出し、手掴みでそれを食べた。三回口に運んで、それ以上は体が受け付けない事を悟り、冷蔵庫に戻した。
私は台所に立ったまま、ずっと租借していた。飲み込むという動作を忘れてしまったかのようにずっとずっと……。それが異常な行為だということは解っていたのだが、何故だかやめる気にはなれない。
何分か何十分そうやっていたのかは解らないが、もう一杯水が飲みたくなって、コップに注いで飲んだ。口の中の食べ物は、新たに流し込まれた水の波に乗って、食道へと下っていってしまった。
口の中が空になっても、私はその場を動かなかった。台所の一点、フライパンの側面辺りを眺めながら、また無意義な時間を過ごした。
しばらくして更にもう一杯水を飲んでから、私はもう一度布団に入った。今回はすぐに眠りにつけた、のだと思う。気が付くと朝になっていた。
八時十三分。もう出勤の準備をしていなければならない時間だったが、私は布団の上から動くことはしなかった。
九時を過ぎて会社から電話がかかってきた。
「申し訳ありませんが、まだ体調が優れないので三日ほど休ませてください」
私は電話に向けてそう言うと、相手からの返答を待たずに電話を切った。三日という日数には何の根拠も無かった。
その三日間は、私にとって同じ日だった。
悪夢に起こされ、シャワーを浴びる。水を飲んで冷蔵庫にある食べ物をつまむ。そしてまた寝る。この行動を数時間か、十数時間毎に繰り返しただけだ。
違うのは夢の内容だけだった。
新井さんとのキスシーンが再現されている。夢なのに感覚はリアルだ。現実であった通り、舌を絡めようとすると、現実とは違い彼女の舌は逃げた。私の舌は追いかける。けれどいつまでたっても追いつけない。彼女の小さな口の中にしか逃げ場はない筈なのに。
やがて私は完全に彼女の舌を見失った、気配すら感じない。次の瞬間、彼女は嘔吐した。口と口が繋がっているので、当然吐瀉物は私の口の中にも入り込んでくる。私は驚いて目を開く、すると目の前の彼女は、嗤っていた。
現実では見たことがない悪意と嘲りに満ちた笑みを浮かべ、彼女は嘔吐し続けている。
どんどん体内に流れ込んでくる吐瀉物に不快感を感じながらも、私は何故か、彼女から唇を離すことができなかった。
彼女は笑い声まで出し始めた。嘔吐し続けているのに、その声は明確にその口から発せられていた。
私は誰かに助けを求めようと周りを見回した。するとそこには新井さんが、新井さん達が居た。彼女らは私の四方八方を取り囲み、同じ嗤い顔で同じ笑い声を出し、そして同じように私に向け嘔吐していた。
彼女達の吐瀉物が溢れ、それに私の顔面が沈んだとき、私はやっと目を覚ました。
それが三日間の休日の、最後に見た夢だった。
金曜日の朝、私は嫌々ながら出勤の支度をした。
もちろん回復はしていないし、その兆しすら見えない状態ではあったが、これ以上の欠勤は現実的に難しい。
風呂場で、久しぶりに全身を洗った。伸びすぎた髭は剃るときにチクチクと痛んだが、風呂上りにスッキリとした自分の顔を見て、ほんの少しだけ心が軽くなった、気がした。
準備は終わった。普段ならもう家を出る時間だったが、どうにも体が動かない。なんとか気力を振り絞って家を出たのは、いつもより十五分も遅れての事だった。
自転車のペダルを漕ぐ足にも力が入らない。結局、支社に着いたのは九時六分。完全に遅刻だった。更に扉の前でもさんざ迷った。何度も深呼吸し落ち着こうと試みたが、逆に、それをする度に心臓の鼓動が早まっていった。
意を決して扉を開けると、そこには支店長以外のいつものメンバーが揃っていた。そして全員が突然開いた扉の方、つまり私を見た。
おそらくそれまで和やかな雰囲気の中、皆で談笑していたのだろう、彼ら彼女らは、笑っていた。
私の頭に、今朝見た夢が蘇った。
今、私の前に居る四人の笑い顔が、嘔吐しながら嗤う、あの醜悪な顔の新井さんと重なる。もちろん四人の中には新井さん本人も居り、その表情は夢とは違い、柔和なものではあった。しかし私がその表情から受けた印象は、夢で見たそれに上書きされていた。そしてそれこそが、彼女が隠している本当の貌だと思った。
夢の新井さんと同じ嗤い顔で、同じ笑い声を出す四人を見て、私の恐怖は絶頂に達した。
すぐに扉を閉め、プレハブ小屋の側面へ移動し、嘔吐いた。胸の中、肺や腹に詰まっている異物を吐き出そうと何度も何度も嘔吐く。しかし吐くことはできなかった。ねばっとした唾液が出て、吐き出せないという新たな苦しみが加わっただけだった。
いつの間にか、すぐ隣に隊長が立っていた。
「梅沢君。大丈夫か?」
私はそれには答えなかった。
下を向いて、隊長の顔を、あの嗤い顔を見ないようにしながら、搾り出すように言葉を発した。
「すみません。私……。辞めさせて、ください」
それだけで隊長には伝わったようだ。
「解った。もう無理しないで、帰って大丈夫だから。必要な書類とかは郵便で送るから。今までお疲れ様」
その声は穏やかだった、と思う。
私は下を向いたまま頭を下げて、自転車を押して帰路についた。家に着くまで一度も顔は上げなかった。
それから三日間、私はまた寝るだけの生活を続けた。
月曜日、さすがに冷蔵庫の食料が尽きてしまったので買い物に出掛けた。
風景が変わっていた。私が眠っている間に、田圃の稲刈りが行われていたのだ。稲の緑と穂の黄金色は言葉通り跡形も無くなっており、今では枯れ草色の藁と、それを焼き焦がした黒の二色に入れ替わっている。空や空気の色もなんとなく彩度が落ちていた。そういえばもう九月なのだ。
その日の夜、新井さんからメールが来た。
「大丈夫ですか?
私は明日付けで本社へ帰ることになりました。
梅沢さんのおかげで開発部でも、少しは武装腕のことが見直されそうな雰囲気になりました。ありがとうございます。
短い期間でしたけど、お世話になりました」
私は携帯電話を投げ捨てた。
携帯電話は壁に当たり、いくつかの破片を辺りに撒き散らした。
彼女がどういうつもりなのか、真意が解らない。
私に好意を持っているはずだった。
二人だけの時間で色々な話をした。それはとても楽しかったし、彼女だって楽しかったはずだ。成功を喜び、他意のない笑顔を向けてくれていた。そしてキスをした。きっかけは彼女が作ったし、その後、抵抗や拒絶の態度は見せなかった。あの時、あの瞬間、私達は確実に互いが互いを愛し合っていた。それは確かだった。確かなはずだったのに……。
体の異物感は大きくなっていた。
翌日は曇天だった。空はいつ雨が降ってもおかしくないような厚く黒い雲に覆われていた。
昼頃、服だけ着替えて外に出掛けた。
寝起きのままで身だしなみは整えていない。寝癖は酷いし歯も磨いていない、そして数日分の無精髭が生えたその姿は、およそ平日の昼間に出歩いていいような格好ではなかったが、そんなことを気にかける頭は、今の私には無かった。
自転車は使わず歩いた。
何十分か何時間かかけて、渡良瀬遊水池に着いた。
以前来た時は、晴天で風も涼しく、波も穏やかだった。そして、隣には新井さんが居た。
今は、雲が光を遮り薄暗く、風は吹いていないが波は強い。視界が悪く、対岸の姿はまるで見えない。水面は、ドブのように濁っていた。
考えてみれば、あれは高々数週間前の出来事だったのだ。一月も経っていない。
私はあの日に彼女に恋をして、それから全てが変わって……。色々な事があったような気がする。けれど、実際思い出そうとすると、出てくるのは彼女の笑顔と激しいキスの記憶だけだった。
顔に雨粒が当たった。
まだ残暑が残っていてもいい時期なのに、少し肌寒い。一月も経たないうちに悲しいまでに世界は変わってしまった。
いや、多分変わったのは私の方なのだ。新井さんと出会って、少し世界の見え方が変わった気になっていただけで、それが今は元々の見え方に戻った。それだけのことなのだ。
波打ち際に目をやると、白い物が見えた。近寄ってみると、それは魚の死骸だった。
肉と内臓がこそぎ落とされているにも関わらず、魚の形を保っている。そのまま骨格標本に使えそうな、見事な骨だった。
酷い臭いがした。自然の水の臭い。生物の腐った臭い。死の臭い。
雨は段々強くなってきた。水面に間断なく波紋が浮かぶ。
私は傘を持ってきていなかったので、なす術もなく雨に打たれた。打たれながら空を見上げた。特に何がある訳でもない。雲とそこから降る雨しか見えない。けれど私は、しばらくその姿勢のまま動かなかった。
雨が目に入るせいで度々視界がぼやける。
雨は本降りになっていった。激しく叩きつける大粒の雨で、数メートル先さえよく見えない。私はかまわずそのまま立っていた。
しばらくして、遊水池の職員と思しき人が近くを通りかかった時、私の姿を見て「わっ」と大きな驚きの声を上げられた。それをきっかけに、私は家に帰ることにした。
靴の中までぐっしょりと濡れていて、歩くたびに不快な感触がした。衣服も水を吸っていて体が重かった。
雨は通り雨だったらしく、アパートに着くころには止んでいて、雲の間から太陽の光さえ差していた。
自分の部屋まで続く廊下を歩くと、その軌跡は足跡としてアパートの廊下に残った。
部屋に入るとすぐに風呂場に入った。
服を脱いでいるときに鏡を見ると、私の目は赤く充血していた。そういえば先程から瞬きの度に軽い痛みを感じている。
シャワーを浴びる。同じ水なのに、温度が違うだけで受ける印象がずいぶん違う。
風呂場を出ると、敷きっぱなしの布団に直行した。
明日は何をすればいいのだろう。
これからどうなるのだろう。
いや、今は考えるまい。
幸い貯金は少しはある。
それが尽きるまではこの生活を続けよう。
その頃に、この心の傷が治っているとは思えないが……。
忘れることなど有り得ない。多分一生、この傷が癒えることはないだろう。
夢を失った代償。
夢。新井さん……。
夢がない世界で、私はどうやって生きていけばいいのだろう。これまではどうやって生きていたのだろう。どうして生きていれたのだろう。
そんな事を考えながら、私は眠った。
第一部 北川辺町編 終