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埼玉県北埼玉郡防衛団  作者: 日光樹
北川辺編
16/45

十六話

「すいません。えー……。敵は一機撃墜できました。あとの二機は、そいつを回収して引き上げています」

 慌てて通信機のスイッチを入れ、隊長へ現状を報告する。

 目の前にはまだ新井さんが居る。彼女は顔や髪をしきりに触ったりしていて落ち着かない様子だ。先程のキスに、あるいはその最中の隊長からの呼びかけに、動揺しているのだろう。私だって同じだ。

 私が隊長との要領の悪いやり取りをしている間に、新井さんはトレーラーへ戻ってしまった。

 それから間もなく隊長達も川原に姿を現し、実際に現状を確認した。敵機は既に三機とも対岸に辿り着いていたのだが、未だ帰還はせず、向こう岸の川原をうろうろしていた。

 我々ではなく、川を見ているようだった。もしかしたら、レールガンに貫かれ川底に沈んだ腕を捜しているのかもしれない。

 一応、彼らが姿を消すまで警戒待機していたが、午後になる頃には、彼らも諦めたようで、川原から去っていった。

 それを確認後、我々も全員支社へと帰還した。本社や役場に連絡を入れ、報告書を作る。午後の業務はこれらに終始することになった。

 新井さんは開発部へ電話をかけ、経緯を報告した。電話を終えると、新井さんはこう言った。

「今回の件と、そこで使われた武装腕のデータを直接報告する為に来週の月曜日は本社へ出勤します」

 私は手短に、わかりました。とだけ答えた。

 あんなことがあった後だったので、彼女の事は意識しないように意識した。気恥ずかしかったし、周りに知られるのも、なんとなく拙いと思ったからだ。

 皆で―といっても、ほとんど隊長と新井さんの二人だけだったが―分析してみたところ、やはりあの敵機は大利根町所属のものであったらしい。連日私達が行っていた射撃実験が、一種の示威行為だと隣町に受け取られてしまい、それへの対抗というのか、つまり、やられる前にやれ。が今回の侵攻の動機だったのだろうと推測された。

 作戦自体は単純なもので、射撃訓練に集中している私の背後に、気付かれないように忍び寄り、集中砲火で一気に撃破する。仮に気付かれたとしても、数の有利で押し通すつもりだったのだろう。隊長達は、そのような結論に至った。

 結局、就業時間を過ぎても、新井さんとは業務上の会話しかできなかった。

 

 帰り道、私は家とは反対方向のコンビニへ行き、普段は買わない少し高めの缶ビールを二本とチョコレートケーキを買った。

 家に帰って、いつもの手順でシャワーを浴び食事を摂ると、買ってきたものを取り出し、滅多にやらない晩酌をした。缶ビールに口をつける度に、あの熱烈なキスの感触が蘇ってきた。私はにやけながら、その記憶とケーキを肴に酒を飲んだ。

 

 翌日の土曜日、いつも通り買い物に出掛けた。帰ってきて早速、料理の下拵えをする。

 その時も当然、私は前日のことを思い出してにやけていたわけなのだが、時間が経過したことによって、元来のネガティブな性格が顔を出してきた。

 あんなことをやってしまってよかったのだろうか。

 最初に彼女がしたフレンチキスは、ただの喜びの表現としてのそれであって、異性が云々といった類のものではなかったのではないか。なのに私は一人で盛り上がってしまって、あんな強引なキスをしてしまった。彼女は本当は嫌がっていたのかもしれない。抵抗はしていたけれど、私が興奮しすぎていてそれに気付かなかっただけなのかもしれない。

 そんな風に考え出すと、それまでとは違い、不安で、胸がドキドキしてきた。

 しかしそんなことがあるだろうか、確かに私はかなり興奮していて我を忘れていたのかもしれないが、彼女の舌の感触、舌の挙動ははっきりと覚えている。あれは決して拒絶を示す動きではなく、私を受け入れ、互いの愛と欲動が合致していることを表していた。それは絶対に、勘違いではないと確信できる。

 ならば、こんな不安を感じる必要はないのだろうか。まず、キスをしてくるくらいなのだから、嫌われてはいないはずだ。嫌いじゃないから好き。という二極論にするつもりはないが、あんなに激しいキスを、好きでも嫌いでもない人間とするだろうか。私だったらできないし、彼女だってきっとそうだ。だったら。

 いや、しかし……。

 考えは堂々巡りに陥った。私はいつもこうなのだ。答えが出ない事を何度も何度もこねくり回して、それで結局答えが出ない。出るのはため息だけだ。意味がない。

 

 感情の浮き沈みを何度か繰り返していると、あっという間に夜になった。

 夕食を作り、中々の出来映えに舌鼓を打っていると、携帯電話にメールが届いた。誰からだろうと送り主を見ると、なんと新井さんからだった。

「大丈夫ですか?」

 タイトルはなく、本文もこの一行だけだった。

 このタイミングでこのメール。私は何か大丈夫でないことをしてしまったのだろうか。やはり、あのキスの事を言っているのだろうか。それにしては文脈がなさ過ぎる。普通、大丈夫ですか? の頭に何かしらの主語が付くものではなかろうか。

 色々考えた結果、これだけでは情報不足で、彼女の真意は判断不能と結論付けた。

 なにはともあれ、早く返信する必要があった。これは彼女からの初メールなのだ。できれば定期的なやり取りへと発展させたい。タイミングを逸して、互いにメールを送りづらい状況に陥るのは避けねばならない。

 とはいえ、何の話ですか? などど内容を尋ねるメールで返した場合、もしも彼女が怒ってこのメールを出していたとしたら、火に油を注ぐ事になってしまう。やぶへびだ。

 更に色々考えて、結局無難な返答をすることにした。

「大丈夫ですよ」

 この返信が正しかったのかは解らない。答えは彼女からの返信で出るはずだ。そう思うことにして夕食に戻った。

 食事が終わり、洗い物も済ませ、本を読んで布団を敷き、眠る時になっても新井さんからの返信はなかった。そして当然のように翌日にも携帯電話は鳴らなかった。

 私の心には不安や期待に加え、不思議という気持ちが追加された。

 

 月曜日、普段と同じ時間に出勤すると、いつも通り隊長が席に居た。そしてその隣に珍しく支店長も居た。訝しみながらも挨拶を交わすと、支店長は私に話しかけてきた。

「梅沢君。先週はご苦労様でした。君のおかげで、うちには何の損害もでませんでした。前回の古河とのことで、うちは本当に今お金が無いからね。助かりましたよ」

「はぁ。いえ」

「ところで、今時間は空いてますか?」

「はい、大丈夫ですけど」

「あんまり愉快な話ではないですけど、我慢して聞いてくださいね。私だって、できればこんな話はしたくないんですよ」

 支店長は本当に嫌そうな顔をした。

「実は、うちの支社の女性社員から、セクハラ被害の報告が来ていましてね」

「は?」

「あー……。うちで女性なんて、今二人しかいませんけど、それでも一応プライバシーって事でその人の名前を出すことは出来ませんからね。まぁとにかくその人が、同僚からのセクハラ行為に激しくストレスを感じていると。そういう相談があったのですよ」

「はぁ。そうなんですか」

 支店長は上目遣いの嫌な視線で私を見た。

「言いづらいんですけどね、そのセクハラをしている同僚っていうのが、どうも君だって言ってるんだよ」

「えっ?」

「その人が言うには、君が家まで押しかけてきたり、無理矢理キスしてきたりと、そういう事をされたと言っています」

「……それって」

 新井さん……。

「あー、さっきも言った通り、名前は出せません。そういう事が実際にあったのか、心当たりはあるのか、その確認がしたいだけです。どうですか、思い当たるフシはありますか?」

 頭がクラクラしてきた。実際に体が左右に揺れている。

「それは、あります……けど、それは」

 言葉の続きは支店長に遮られた。

「いいですいいです。それ以上の説明は。私はね、梅沢君の事を信頼してますからね。きっと、何かしらの事情があっての事なんでしょう。でもね、セクハラっていうのは、普通のことであっても相手がそう感じたらセクハラになってしまうのですよ。それどころか、当事者でない周囲の人間がそう感じたただけでも、立派にセクハラとして成立してしまうんですよ。そしてね、そういう相談をされたら会社側としては、何らかの対処をしなければいけない。そうでないと今度は、その批判が会社に向けられてしまうんです。そういう世の中になってしまっているんですね今は。解ってくれますよね。解ってくれますか?」

 地面が歪む。平衡感覚が失われていく。

 何故新井さんが? 彼女が、何故……。

「とはいえね、さっきも言った通り、梅沢君に限ってそんな酷い事をするなんて、私は思ってないですよ。きっと何か誤解や勘違いがあったんだと思ってます。だから今回は厳重注意をしたということで、先方には伝えておきますから。梅沢君も今後、誤解されるような言動には気を付けてくださいね」

「は、い」

 そう答えるだけで精一杯だった。

 話を終えると、支店長はすぐに出掛けて行った。

 私は机に両肘をつき、頭を抱えた。

 現状が理解できない。今の話が理解できない。いや、理解はしている。意味は解っている、と思う。でも、どうしても受け入れることができない。別世界のお話だ。私の事ではない。

 麻酔をされたように五感が胡乱だ。椅子に座っているはずなのに落下しているような、そんな感覚がいつまでも続いている。

 無理だと思った。

「すみません隊長。具合が悪いので、今日休ませてもらえませんか」

 隊長は意外にすんなりと了承してくれた。

 

 自転車に乗ることはできなかった。今のこの状態ではまともな運転ができない。最悪事故を起こしてしまう。だから自転車は押して、徒歩で帰ることにした。

 歩調は遅く、歩幅は狭く、背中は猫背で、視線は真下を向いて歩いた。それ以上の前向きな姿勢がとれなかった。

 自転車では十分前後の道のりに、たっぷり一時間を費やして、アパートに辿り着いた。

 部屋に入るとすぐに布団を敷いて、そのまま寝込んだ。

 当然、すぐには寝付けなかった。頭の中では様々な想いが明確な形を失い、粘液のようなどろっとした姿へと変貌していく。それが混ぜ合わさり、もはや自分が何を考えているのか、自分でも把握できなくなっていた。ある意味では何も考えていなかったとも言えるのかもしれない。

 しかし、胸の痛みは確かなものだった。肺の辺りに異物を埋め込まれたようだ。肺を圧迫し、呼吸を阻害している。それは徐々に勢力を広げ、腹痛や吐き気まで引き起こした。

 

 痛い。苦しい。怖い。

 私は布団の中で赤子のように丸まり、その苦痛に耐えながら、震えることしかできなかった。

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