十一話
まだ彼女は静かに泣いている。
そして酒を飲んでいる。今来たジョッキで、もうビールは十二杯目だ。
「ちょっと飲みすぎじゃないですか?」
「いつもこれくらい飲んでます」
遣るかたない。
情けなくも、私にはこの状況を好転させる手段が思いつかない。
新井さんの境遇に理解を示した上で、一通りの慰めの言葉をかけた。会ったこともない彼女の上司への誹謗中傷も散々言った。別の話題は明日の天気に至るまで無数に振った。
でも駄目だった。
彼女の雨はやまなかった。
昔見たテレビではこんな時、女性の肩を優しく抱くかもしくは、男の胸で気が済むまで泣かせてやる。それがもてる男の作法などと言っていた。
しかし、そのどちらの案も、彼女に近づく必要がある。今、私達は差し向かいに座っている。テーブルをはさんだその距離は、絶対的なまでに隔たっていて別世界のように遠かった。
結局、ほんの少し浮かした私の手は、すぐに引っ込められた。
私は、いや、私も悲しかった。
新井さんの悲壮が伝播し共感した悲しさもあったが、それ以上に、『私』が『彼女』のことを、解ってあげられてなかったことが何より悲しかった。
もちろん事情を知らなかったとか、付き合いがまだ短いから。そういう言い訳もできる。でも、それは互いに同じ条件だったはずだ。
それなのに、『彼女』は『私』のことを一部とはいえ、解ってくれたのだ。
してもらったことがしてあげられない。しかも好きな人が相手なのに。
それがとても、悲しかった。
私は、彼女に出会って救われた。
それまでの生活が不幸だった訳ではない。
もちろん仕事関係を筆頭に、様々な事柄にストレスを感じてはいた。それでも衣住食はなんとかなっていたし、なにより生きていられた。不幸というのは死が根底にあり、心身に大きな悪影響を及ぼす、差し迫った状況の事を指すのだと、そう思っていた。
今だから解る。それは間違っていた。
不幸というものは、幸せに出会えていないことを指すのだ。肉体的な生死は二次的なもので、大した問題ではない。そう気付いた。
私は不幸だったのだ。
一見健康に見えた私の体の内部は、自分でも気付かない内に、いつの間にか屍体になっていて、腐った瞳からは、輪郭がぼやけ色彩に欠ける無感動な世界しか見えず。原型を留めない液状化した脳髄に考える力は無くなり、その不幸の世を怨むことしかできなかった。そしてそのことに、そんな自分の状態に、気が付くことさえできなかった。
それが今までの私だ。
なんと哀れだろう。
そんな衰亡した世界で、奇跡が起きた。
それが新井さんとの出会いだ。
彼女に恋した瞬間、私は生き返ったのだ。
新鮮な血液が循環し始め、新陳代謝がされるようになった。腐った臓器は再生され、全身の細胞が生まれ変わった。私はまともな人間として復活したのだ。そして、ありのままの現実の世界を見ることができた。
世界は輝いていて美しかった。
おそらく新井さんも今、汚濁の世界で、徐々に腐敗していく自らに、絶望を感じているのだろう。
彼女を救いたいと思った。
願いや祈りではない。そんな受動的他力本願な想いではない。
そうこれは、『夢』だ。
自分の内から怒涛の如く溢れ出る純粋な欲求。どんな障害があろうと、躊躇することなく実現に向けて猪突猛進する、人生の目標。
これが『夢』だ。誰かに言われて無理やり捻り出した考えではない。私が初めて持った。私のオリジナルの『夢』だ。
新井さんは十三杯目をおかわりした。
私は、その彼女へ強い視線を送る。覚悟のこもった視線だ。
突っ伏していた彼女は、それに気付いてくれたのか、久しぶりに私のことを見てくれた。
「新井さん」
自然と声にも力が入る。
「新井さんの境遇は、そりゃ私には解らないかもしれない。だけど、少なくとも私は、新井さんの味方です。周りは認めてくれてないかもしれませんが、私は貴女のことを尊敬しています。もしも万が一、貴女が間違っていたとしても、それでもそんなことは関係なく、私は貴女に付いていきます」
なんだかまとまっていない。想いを言葉にするのは苦手だ。
新井さんは「そう」とだけ言ってまた酒を飲んだ。涙は止まっているように見えた。
そこから彼女は愚痴を言わなくなり、ただ無言でビールを飲み続けた。私はそんな彼女から片時も視線を外さなかった。
しばらくすると店員がやってきて、飲み放題の時間が終わることを告げた。私達は店を出た。
ノロノロと歩いて駅に戻ると、電光掲示板が、次の電車は七分後に来ることを報せていた。三十分に一本しかこない赤字路線にしては良いタイミングだった。二人はホームのベンチに座った。互いに口を開かなかった。
私は空を見上げて星を見ていた。覆い隠す雲のない綺麗な星空だった。
電車は時間通りにやってきた。
たったの二駅。時間にして十分の移動だ。車窓のガラス越しには、闇しか見えなかった。
「テキスト、取りにくるんですよね」
前触れなく新井さんが言った。なんとなく不安定な声音だった。
「え?」
「テキスト。仕様書とか」
「あぁ。そうでしたね。でもいいんですか?もう時間も遅いですし、別に今度でも」
「私は全然構いませんから」
「じゃあ。はい、わかりました」
駅に到着し、それぞれの自転車を回収する。
一見変わりないように見えたが、あれだけビールを飲んだ後なので、安全の為、自転車を押して歩くことにした。
何度か道を曲がると、ここです。と言って彼女は停まった。
平凡な二階建てのアパートだった。築年数は古そうだったが、暗闇のせいで大きく汚れているところは見えない。
二階の一番奥の角部屋が彼女の部屋らしい。彼女は扉の鍵を開け、部屋の奥へと入っていった。私は玄関の前で待つことにした。
アパート二階の廊下から外を見ると、住宅地の中で明かりが灯る窓は数える程度しかなかった。ほとんどの家は、夜に同化するように暗く、静かだった。時刻は二十三時二十分になろうとしている。
「お待たせしました」
戻ってきた新井さんは、手に一冊の分厚い本を抱えていた。
「重いんで、今日はとりあえずこれだけでいいですよね」
「ありがとうございます」
受け取ると確かに重い。
これで用件は果たされたはずだ。すぐに帰るべきなのだろう。だが、最後に何かを言っておかなければならない気がした。
「あの、大丈夫ですか」
「大丈夫ですよ。ちょっと飲みすぎて酔っ払っちゃってますけど」
私は心の容態を尋ね、彼女は体の具合を話した。多少の噛み合わなさに、私はもう一度口を開いた。
「新井さん。さっきも言いましたけど、私は貴女の味方のつもりです。貴女を助けたいと思っています。その、私ができることなんてほとんど無いかもしれませんが、何かあれば必ず力になりますから」
直上から電灯の光を浴びる彼女の顔には影が差しており、表情は読み取れない。なんとなく寂しげな気配だけは感じた。
彼女は頷き、ありがとうね。と言った。
「もう夜遅いですから、うちに泊まっていきます?」
「いえ、大丈夫です。うちもここから十分くらいの所ですから」
一瞬、不自然な間が空いた。
「そうでしたね。やっぱ私酔ってるみたいです」
そう言って今度は彼女は照れ笑いをした。
それじゃあまた月曜日に。と言って私達は別れた。アパートの階段を二段下った時に、後ろから扉の閉まる音が聞こえた。
帰り道、長い道をひたすら直進する。
例によって周囲には田圃ばかりだ。
昼間と違って視界が悪いので奥の景色は見通せない。しかしそのことが逆に、あたかもこの田圃がどこまでも永続的に続いているかのような誤想をさせる。
頭の中では、栗橋の居酒屋から先程別れるまでの出来事が、時系列を考慮されず断片的に再生されていた。
二段目の階段で聞いた音。半分のこされた十四杯目のビール。親父臭い一気飲み。電車の外の暗闇。彼女の泣き顔。重い本。電灯の下の見えない表情。
はたと気が付いた。
彼女は最後に、泊まっていかないかと言った。それはもしかして、誘っていたってことではないのか。もしそうだとすれば、一般的な認識としてそれは、肉体関係に至る為の暗黙の了承。いや、もっと能動的に『求めていた』と言えるのではないだろうか。
自分が失態を犯した事に気付いたショックで、私はペダルを漕ぐことを忘れた。
自転車が止まると、周りの黒の濃度がより深まった気がした。私が動くことをやめると、世界もまた動きを止める。それがただの錯覚だと気付かせてくれたのは、何とはつかない虫達の鳴き声だった。
大きく深い息を三回ついて、改めてペダルを漕ぎ始めた。
彼女は私に抱かれたかったのだろうか。
仮にそうだとしても、それはきっと、私への好意からくるものではないだろう。短期間で他人に好印象を与えられるほど、私は愛想が良くはない。
多分、深く傷ついた人間は、手近に居る適当な他人に擦り寄るというアレなのだろう。それは他人を用いての自慰行為であり、その際の他人には、人格性格は求めない。あくまでも道具として扱いなのだ。
彼女が私をそのように扱おうとしたことには、特に思うことはない。彼女はそれほどに傷ついていたということだ。
しかしもう一方で思う。私は?
私は彼女と寝たいのだろうか?
答えはYESでもあり、NOでもある。
もちろん私にだって性欲はあるし、彼女に性的魅力も感じている。けれど、こちらの想いだけが一方通行で、彼女からのリターンがない。そんな肉欲だけに支配されてしまよう関係を、私は望んでいない。心の交流。互いに互いを愛し合っている状態でないのなら、そんなことをわざわざやる必要はないのだ。そんな風に私は考えている。
よく言えばプラトニックで、悪く言えば青臭い考えだ。
距離以上に長く感じた帰り道を往き、漸くアパートに辿り着いた。
今日はとても疲れた。
私はスーツを脱いで部屋着に着替えると、シャワーも浴びずに布団入った。
私が決めたルールを、私は自分で破った。